プロローグ

なるくん、もっとギュッてしてもいいかな?」

 俺の腕に抱きついていたもりが、少しだけ首を傾げながら上目遣いで訊ねてきた。

 いつも通りの柔らかな笑顔。でも今は、そんな中に少しだけ期待のようなものが込められている気がして、俺は思わずドキリと胸を高鳴らせる。

「私達、今は恋人同士なんだから、別にいい、よね?」

 さらに、今度はそう言って期待を言葉にも含ませてきた。

 比奈森の持ち前の可愛さも相まって、正直そのおねだり風の言い方はかなりきいた。

「鳴瀬くん?」

 再度の呼びかけになんだか頭がクラクラしてきた俺は、もうただ黙って頷くしかない。

 こんな状況で『彼女』にこんなこと言われたら『彼氏』としてOKする以外の選択肢があるだろうか? いやない。反語ってこういう時に使うんだと、俺は知った。

「えへへ、温かいね。鳴瀬くんの体温を感じるよ」

 腕に抱きつく力を強めた比奈森は、そう言って今度は頭を俺の肩に預けてきた。

 しかも時折、うれしそうにはにかんだ笑顔を「えへへ」と見せつけてくる。

 ズルい。普段教室の中では絶対に見られないクラスメートのこんな表情が、しかもあまりにも可愛いすぎる表情が目の前にあったら、もうどうすることもできない。

 こんな比奈森の笑顔を見られるのは『彼氏』である俺だけだ――そんな優越感に浸る余裕さえ、今の俺にはなかった。

「鳴瀬くん」

 身動き一つせずにいると、やがて比奈森は真剣な顔でこちらを見つめてきた。

「鳴瀬くん」

 それはまるで、俺からの『何か』を待ちわびているような表情で。

「鳴瀬くん……」

 比奈森は何度も俺の名を繰り返す。だがそれでも何も応えない俺に対し、ついに比奈森はもう待ちきれないとばかりに、どこか意を決した様子でゆっくりと口を開いた。


「次、鳴瀬くんの台詞だよ?」


 ………………え?

「カットカットー! こらこら鳴瀬くん、なにボーッとしてるんだいきみー」

「……はっ!?」

 比奈森に続いて飛んできた所長の声でようやく我に返った俺は、慌てて座っていたベンチから立ち上がり、思わずきょろきょろと辺りを見回した。

 そこは正面に大きな鏡が設置され、いろんな種類の椅子が所せましと置かれた謎の部屋の真ん中だった。つまりここは間違いなく『きりしま芸能事務所』にあるレッスン用スペースで、俺はそこでレッスンの真っ最中であり、そしてまたまたやってしまったようだ。

「す、すいません! ついぼんやりしてしまって……! 比奈森もごめん!」

 俺が急いで頭を下げると、霧島所長はやれやれといった感じで首を振り、

「またかー。新人研修ももう三日目なのに、いい加減慣れてくれないと困るよきみー」

 そう言って、いつも通りのダラダラした仕草でパイプ椅子に座り直した。

 ……うう、返す言葉もない。

「あの、本当にごめんな比奈森。俺、やっぱりまだどうしても緊張が残ってて」

 続いて、迷惑をかけたパートナーである比奈森にも改めて謝る。

「ううん、大丈夫だよ。私は全然気にしてないから」

 だが比奈森は、いつも通りの柔らかな笑顔ですんなり許してくれた。

 ……わかってたことだけど、やっぱり比奈森はいいやつだよな……。

 本当ならアクターズスクールにも通ってた俺が比奈森をリードしてやらないといけないはずなのに、実際はまるでできてないんだから情けないにも程があるってレベルだ。

「こういうのってやっぱり緊張するから仕方ないよ。お互いさまだね」

 ……ありがとう比奈森。でもそうは言うけど、俺は比奈森が演技をミスったところなんて一度も見たことないんだよなあ……。凹む。

「マジ、すまん。次からはがんばるから……」

「そうしてもらいたいもんだねきみー。恋人同士でイチャつくのが派遣カップルの役目なんだから、今のままだと仕事にならないよー」

 今所長の口から『派遣カップル』とかいう聞き慣れないうえに意味不明な単語が出てきたが、これは別に所長の舌が足りなくて言い間違えたわけでもなければ、所長の頭が本格的におかしくなったわけでもなかった。

 派遣カップルとは、文字通り派遣された先でカップルとして振る舞う仕事のことだ。

 そんなものがあるのかと思うかもしれないが、不思議なことにこの世にはそういうわけのわからない仕事が本当にあるらしい。

 で、なんで俺達がそんな仕事をすることになかったというと――……まあ、一言ではなかなか説明しづらい。いろいろと事情があるんだ。

 とにかく、俺と比奈森はその派遣カップルとしてユニットを組んだパートナー同士で、今まさにここ霧島芸能事務所で新人研修の真っ最中というわけだった。

「やれやれ、比奈森くんの方はちゃんとできてるんだけどねー」

 所長のその言葉に振り向くと、比奈森は新人研修用のマニュアルに目を落としているところだった。一見いつも通りに思えるが、マニュアルの内容を読み込んでいる様子からはどこか熱心な気配がして、気がつくと俺はそんな比奈森に声をかけていた。

「うん? どうしたの鳴瀬くん?」

「いや、なんつーか……、やっぱり比奈森は動じないなって思ってさ。ただでさえ派遣カップルとか普通じゃないのに、なんでこんな演技を普通にできてるんだろうって」

「ううん、そんなことないよ。私もちゃんと動じてるから。……でも、もし普通にできてるように見えてるとしたら、こういうのに慣れてるっていうのはあるのかも」

「え? 慣れてるって、演劇とかは未経験だって話じゃ?」

「あ、そういうことじゃなくて……。とにかく、私も派遣カップルとかよくわからないけど、これも自分で決めたことだからがんばらなくちゃって思ってるだけだよ。だから私は大丈夫。心配してくれてありがとうね、鳴瀬くん」

 そう言ってニコリと笑う比奈森に、別に心配して言ったわけじゃないんだけど……と、お礼を言われて照れくさくなってしまう俺。

 それはともかく、比奈森の言う通りこれは俺達自身がやると決めたことだった。

 カップルの派遣とか、レッスンも含めておかしな部分しかないが、それでもこれは自分達が望んだ状況だ。となれば、確かにいつまでも緊張してる場合じゃない。

 ……まあ、その緊張の理由は相手が比奈森だっていうのも大きいんだけどな。

「さて、そろそろ練習を再開するよきみー。次は9ページの『公園におけるイチャイチャケース・ナンバー18』をやってみようかー」

 俺は、所長のその言葉で気持ちを切り替える。さっきの失敗を挽回するべく、次はマジで真剣に取り組まないといけない。これも役者になるって夢をかなえるため、演技力を磨くためだ――そう考えながら、俺はマニュアルの該当箇所に視線を落としたのだが、

「……あのー、なんか『彼女の肩を抱きながら、髪の毛をクンカクンカしてその香りを褒める』とか書いてるんですけど……?」

 次の瞬間、その内容のあんまりさに思わず声が引きつった。

「その通りだけどー? さあ、張り切ってやってみよー」

「張り切ってじゃないんですけど!? なんかいろいろ振り切ってるんですけど!? 肩を抱くだけならまだしも髪の毛の匂いって、これじゃまるっきり変態じゃないですか!」

「甘いなー。ジャンボ小倉パフェの練乳マシマシ白玉ミックスよりも甘いよきみー」

「……そんなのばっか食べてるから、脳が糖分過多でおかしくなったんでは……」

「いいかい鳴瀬くん、そんなシーンもラブラブなカップルがやれば、周囲の目には実に仲睦まじい様子に映るもんだよきみー」

「ま、マジですか……? けどさすがにこれは、比奈森も抵抗があるんじゃ……」

「うん、すごいシーンだよね。あ、でも大丈夫だよ鳴瀬くん。私、髪の毛のお手入れは毎日欠かしてないから、鳴瀬くんに迷惑はかけないと思うよ」

「そういう問題じゃない気がするんですが!?」

 とはいえ、やっぱり比奈森は平然としているように見えて、こんな変なシーンでも普通にやる気のようだった。いい人すぎるのも考えものなのかもしれない……。

 だが所長に早くやれと急かされ、俺は仕方なくベンチに座り直して比奈森の肩を抱く。

 そうしておそるおそる頭に顔を近づけると、さっき腕に抱きつかれていた時よりもさらに濃厚な『女の子の香り』がして、一瞬本当に気が遠くなりかけた。

 ……くそ、なんでこんないい香り――じゃなくて! こんな変態チックなことを……。

……しかも正面の鏡には俺の変態行動がバッチリ映ってるし……!

 だが比奈森が立派に彼女を演じている以上、俺も恥ずかしがってる場合じゃなかった。

「ひ、比奈森の髪は綺麗でいいにおいがするな。ずっとこうしていたいぜ……!」

 俺は自分にそう言い聞かせながら、なんとか彼氏としてのリアクションをする。

 ちなみに台詞はアドリブだ。我ながら今すぐ首を吊りたくなるくらい恥ずかしい。

「そう? うれしいな。私も鳴瀬くんのにおい、好きだよ。なんだかすごく安心する」

 だがそんな感じで俺が必死な思いをして放った台詞に対し、比奈森はさらに強烈な台詞を即座に返してきて、俺はまるでカウンターでも食らったかのような気分になる。

 当然それもアドリブのはずなのだが、そうは思えないくらい比奈森の演技は自然体で、まるで普段の比奈森がそんなことを言っているような錯覚に陥ってしまう。

「ほらほら鳴瀬くん、また演技に力が入り過ぎてるよー」

 そして再度所長からダメ出しが飛んでくる。力みすぎているのは自分でもわかっていたのだが、役を演じるとなるとどうしてもこうなってしまう。

 所長はマニュアルを眺めながら「もっと基礎シーンを何度もやるべきなのかなー」と呟いているが、俺はそれを見て自分の演技力の無さに肩を落とすのだった。

「大丈夫だよ鳴瀬くん、私もまだ全然だから。慣れるまで一緒にがんばっていこうよ」

 そんな俺を見て、比奈森は笑顔のまま優しく励ましの言葉をかけてきてくれる。

 その親切な気持ちは素直にうれしかったけど、比奈森が全然なら俺はなんなんだ……とやっぱり少し凹んでしまう。

「でも、鳴瀬くんって演技の経験があるんだよね? だったらこういう、ちょっと恥ずかしいシーンの演技とかも慣れてるのかなって思ってたけど」

「そりゃ相手が比奈森みたいな可愛い子ならこうなるのも――」

 俺はため息交じりにそう答えかけたが、すぐにハッと口をつぐんだ。

 ……や、ヤバい。流れで思わず本音を……。本人の目の前でなんつー恥ずかしいことを言おうとしてんだ俺は……。いや、比奈森が可愛いのはその通りだが。

「それって、私が『可愛い彼女役』をちゃんと演じられてるってことだよね? うれしいな。ありがとう鳴瀬くん」

 だけど人のいい比奈森はそれを俺が彼氏役視点で言ったものと勘違いしているようで、いつも通りの柔和な笑みを浮かべていた。

 気まずい雰囲気にならずに助かったけど、これはこれでどこか釈然としない。

「……いや、比奈森はいつも可愛いけどな」

 だからか、また自然とそんな言葉が俺の口から漏れる。

 まあどうせ、これもまた「あはは、ありがとう」って感じでスルーされるだろうけど。

「え?」

「え?」

 だがなぜか次の瞬間、比奈森が目を見開いてピタリと動きを止めた。

 ……な、なんだ? なんで今度はそんな反応? もしかして、あえてスルーしてたのに俺がさらに調子に乗ったから? だとしたら、やっちまったか……!?

「うーん、やっぱ何度も繰り返して慣れるしかないかなー。ほらほら二人とも、もう一回さっきと同じシーンやるよー」

「あ、はい。鳴瀬くん、もう一度だって」

 けどそう思ったのもつかの間、比奈森はすぐに元に戻った。

 これは気にしてないってことなのだろうか? よかった、危なかった……。

「さあ鳴瀬くん、思いっきり彼女の髪をクンカクンカして堪能するんだよきみー」

「言い方ですよ言い方!」

 それはともかく、またさっきと同じ恥ずかしいシーンを繰り返さないといけない羽目になってしまった。だが、これも役者になるという夢をかなえるための大切な一歩なのだから、とにかく無心でやるしかない。

 ……そう、勘違いされるかもしれないのでここらへんでハッキリ言っておくが、これは俺が夢をかなえるまでの過程を描いたサクセスストーリーだ。

 役者を志す少年が、一つ一つ試練を乗り越えて徐々に目標に近づいていく感動秘話。

 ドキュメンタリーで放送されれば絶対録画して、俺なら一万回は見返して涙するような物語――……のはずなんだけど、

「ほらほら、もっとウットリして彼女に陶酔するような表情になるんだよきみー。きみ達がイチャついてるのは、他人に見せるためだということを忘れちゃだめだからねー」

「カップルってこういうこともするんだね。私、全然知らなかったよ」

「それが終わったら次はイチャイチャケース・ナンバー19『見つめ合っていたら思わず鼻の頭がくっついちゃった』を、感情を込めながら演じるんだよきみー」

「カップルってそういうこともするんだね。私、全然知らなかったよ」

「やっぱり比奈森は動じないな!?」

 ……やってることを客観的に見るととてもそうは思えない気がするのは、きっと俺の気のせい、だと思いたい……。

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