第一章 負けヒロインは普通に家にいる その3

「ごちそうさま! お先に!」

「あ、待ちーや! うちが先やぞ」

 朝食を終えると、毎朝恒例の洗面台の奪い合いに突入した。狭い洗面台に我先にとなだれ込む。

「邪魔だよ、どけよ」

「あんたやろ、邪魔なんわ。レディファースト知らんのか」

「足出てるって! ここが真ん中だぞ。引っ込めろよ」

「そっちこそ肘入って来てんねん! どけー」

 蛇口を境界線にして押し合いへし合い罵り合う。

 これも僕らの日常だ。肩と肩、肘と肘、腰と腰をくっ付けてガチンコでぎゅーぎゅーと………ぎゅーぎゅーと…………ってあれ、の体ってこんなに華奢だったっけ? 

 なんか、全部が柔らかい。肩も肘も腰も腕も、触れ合う場所が全部柔らかくて、細くて小さくて…………って、ばか。何を意識してんだよ。ついさっきリセットしたばっかりだろ。ちゃんと日常に集中しろ。だってしっかり吹っ切れてるからこそこうして全力で押して来てくれてるわけであって、

「ふぅっ………んん………ふっ……ふぃぃ……」

 なんか変な声出してんなあ! やめろよ、顔真っ赤じゃん。こっちまで体が熱くなってくるわ。

「は、はい、終わり!」

 沸騰しそうな顔面をとにもかくにも洗い終え、二人同時に壁のタオルに手を伸ばした。これもいつものルーティンだ。男女を意識しないからこそ一歩も譲らない僕達は、一枚のタオルの端と端を引っつかんで競うように同時に顔を埋める。

 大丈夫、日常だから。

 一見するとありえないような絵面だけど、これはいつものことだから大丈夫。お互い同性同士の感覚だからこそ、何も気にせずこういうことができるのだ。

 たとえ耳と耳が触れ合っても気にしない。濡れた髪が頬をくすぐってきても気にならない。布を伝わって熱い息が混じりあっても気にならないし、肘がノーブラの胸にずぶずぶめり込んでも——。


「——って、これは無理っっ!」


 間に爆発でも起きたかのように、僕らはお互いに飛び退いた。

 やっぱり無理だ。こんなの意識しないなんて不可能だ。おい、何て顔してるんだよ、。もう取り繕うこともできていないじゃないか。汗だくで耳まで真っ赤で目がグルグルで、絵に描いたような動揺面。まるで鏡だ。きっと僕も同じような有様なんだろう。

「なに……これ? 僕達って毎朝こんなことしてたの?」

「うん、してた」

 慣れとは恐ろしい。あんな密着を無自覚に繰り返していたなんて。

「あ、あのさあ、僕がこんなこと聞くのもアレだけど、って、そのー、僕にアレだったわけだよな?」

「アレ? ああ、そうね………ずっとバリバリ、アレだったねえ」

「毎朝どんな気持ちで密着してたん?」

「どんなって、まあ………………………至福?」

 だめだ、こいつ。全然吹っ切れてねえわ。

「なっちゃん………顔真っ赤やで」

「お前もな」

「ドキドキしてくれてるん?」

「は?」

「……うちでドキドキしてくれてるん?」

 洗面所の扉に背を預けながら、は己の体を抱き締めるようにグッと組んだ肘を握り締めた。全てが小作りなの体で唯一平均を遥かに上回るボリューム、胸の肉付きが一段と強調される。肘に残る感触がボワリと生々しく熱を持った。

「なあ、もしかして、もしかしてやで? うちがもうちょっと早く告白してたら………」

 止めろ。何を言う気だ。

 わかってるのか。それ以上言ってしまったら、聞いてしまったら、もう二度と僕らの平和な日常は帰ってこないんだぞ。

 

「………なっちゃんはうちのこと、女として見てくれてた?」

 

 躊躇いもなくは日常を破壊した。

 いや、あるいはそんなものはもうとっくに壊れていたのかもしれない。砕け散った水槽を頼りないセロハンテープで繋ぎ合わせていただけなのかもしれない。だくだくと漏れる水から目を逸らして。

「なっちゃん、うち——」

 

 ——ピンポーン。


 は何を言おうとしたのだろう。何がしかの決意を伴って開かれた唇を止めたのは、無機質なインターホンのチャイムだった。

 僕らはしばし無言で見つめ合い、どちらからともなく洗面所を出た。

 平日の早朝、宅配やセールスのはずがない。心当たりはただ一人しかいなかった。朝はスマホを見る時間がないからインターホンを鳴らしてそのまま入って来てくれと伝えてある。

 ややあって、玄関の扉が遠慮がちにほんの少しだけ開き、


「あの、来た………」

 

 恐る恐るというふうに、細い指と弱々しい声だけが家の中に入ってきた。

「おう、ひめ……か? 姫乃だよな?」

「…………」

「もしもし?」

「…………まむ」 

 ああ、姫乃だ。姫乃が迎えに来てくれたんだ。

「ごめん、まだ準備できてないんだ。ちょっとだけ待ってくれるか?」

「………」

「それとも中で待つか?」

「………」

「外でいいのか。じゃあお地蔵さんとこで待ってて。秒で行くから」

「………」

「あ、待って」

 引っ込みそうな指の気配を感じとり、慌てて言葉を投げつけた。

「お前ほんとに姫乃なんだよな?」

「…………」

 閉じかけた扉が五センチの間隔を保って停止する。それから深呼吸一つの間を空けて、


「……わたし、です」


 一昨日からの僕の恋人、かめしま姫乃がひょっこりと顔を現した。

 長い髪の毛が重力に従ってサラリと流れ、朝日を浴びてキラキラと輝く。長い睫毛と伏し目がちな姿勢に幾分は削り取られているけれど、大きな瞳はそんな朝日よりもさらに輝いて見えた。緊張しているのだろうか、硬いものを何一つ齧ったことのないような細い顎を扉の陰に隠したまま、姫乃は形の良い唇を顕微鏡レベルで微かに動かすと、

「………まむ」

 謎の暗号を残して扉の向こうに引っ込んだ。外で待っていると言ったのだろう………多分。

 今日も今日とて姫乃のコミュ障は絶好調のようだ。

 誰もが二度見する面貌と極端に少ない口数、乏しい表情、転校生、様々な要素が相まって姫乃は驚異的な速度で『近寄りがたい女』という印象を学内に確立した。

 美人転校生と噂された一年生の頃が懐かしい。今となっては姫乃に親密な感情を抱く男は恐らく彼氏の僕一人。

 

「はぁぁぁぁ~~~。姫しゃま、可愛いぃぃぃ~~~~」

 

 ………あと女子だと

 何の因果だろう。可愛い女子が大好きでお姉ちゃん願望の強いの庇護欲に、つんけんした姫乃の態度がまんまとブッ刺さるらしく、は姫乃の顔を見る度にずぶずぶと床にへたり込んでしまう。

「はばばばぁぁ~~~。抱っこしたひ~~。よひよひひはぁ~~ひ」

 あと、無限に涎を吐き出してしまう。

「おい、。しっかりしろ。ヨダレヨダレ! マーライオンみたいになってんぞ」

「姫ちゃま~~~べろべろべ~~~」

って!」

「ぶぇ? …………うわ、汚っ! ひぃぃ、またやってもうだー」

 二度名前を呼ばれてようやく自分の有様に気づく、口元を拭いながらバタバタと洗面所に駆け込んで行った。

「なっちゃん!」

 なんだよ、うるさいな。駆け込んでろよ、そのまま。

 今しがた飛び込んだ洗面所から首だけズボッと帰ってくるは、真っ赤な顔に目玉をぐるんぐるんに回しながら、


「テッテレー♪ さ、さっきのはドッキリでしたー! 洗面所でのドキドキする? みたいなやりとりはもう全部ドッキリでしたー! うちはもう完全に吹っ切れてるんやもーん。や、やーい、騙されたー。ばーかばーか」

 

 ……えー。

 聞いてるこっちが恥ずかしくなるような言い訳を大声でまくしたてて、また引っ込んだ。

 ややあって、

「あほか、うちー! 頭冷やせー。忘れるって決めたやろ! 応援するって決めたやろ! 煩悩をー、洗い流せー! 未練をー、洗い流せー! これでもかー! これでもかー!」

 滝行に挑む行者のような、激しい洗顔の音が聞こえて来る。

 ……なんだろう、やっぱり僕達は世界線を飛んでしまったのかもしれない。

 一昨日の夜、阿修羅像の前で。平和な日常が永遠に失われた世界へと。

 

 とりあえず、明日からは絶対に洗顔は別々にしようと固く心に誓った。

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