プロローグ お隣さんとお兄さん 2
今日もいつも通り、ベランダからお兄さんの部屋に忍び込む。
『お兄さん』とは私の住むアパートの隣人である
お兄さんが帰ってくるのはいつも夕方六時頃だ。それまでに学校から帰ってお風呂を済ましておく。
お兄さんが帰ってきた時、一緒にご飯を食べるために。
「どうやって入った」
お兄さんが帰ってきた。私に気付いて不機嫌な声をかける。
不機嫌なくせに絶対に無理矢理追い返すことはしないのが、お兄さんの優しいところ。
「にっしし~。内緒っ」
言うとお兄さんは溜息をついて、スーパーで買い物してきた荷物を片し始めた。
「手伝うよ~」
袋から出した物を冷蔵庫にしまう作業を手伝う。こうしているとまるで夫婦のように思う。だってお兄さんが買ってくる食材はいつも、
――二人分の食材だから。
「ほれ、プリン。昨日食べたがってたろ」
「おっ! お兄さんやるじゃん! ありがとねっ」
昨日お兄さんと見たテレビに美味しそうなプリンが映っていて、それを見てプリンが食べたいと言った。まさか覚えてくれているとは思っていなかったけれど。
「お兄さんの分は?」
「俺はいいよ。丸ごと一個食ったら胸焼けするんだ」
「じゃあ半分こしよっ!」
「……おう、さんきゅー」
お礼を言いたいのは私なのに、お兄さんは本当にお人好しだ。
お兄さんからすれば見知らぬ女子高生が突然家に上がり込んできて迷惑してるだろうに……。
それからお兄さんと私は、一緒にご飯を作った。って言っても私はお米を研いだだけなんだけど。
「肉じゃが美味しいね~。お兄さん料理スキルにポイント振りすぎじゃない?」
お世辞抜きでお兄さんの作るご飯はいつも美味しかった。
でも、ただ一つ文句を言うなら私の器に人参が入っていることだ。
「人参もちゃんと食えよ……」
私がお兄さんの器に人参を放り込んでいると、お兄さんは困ったように私を見る。
この困った顔が好きだ。もっといじめたくなってしまう。
「人参って凄い健康に良いんだよ? いつもご飯食べさせてもらってるし、お兄さんに私の分の健康を分けてあげてるんだよ」
「屁理屈はいいから食え」
お兄さんの器に入れた人参が全部戻ってきた。勘弁してほしい。
お兄さんは自分が口をつけたお箸で、私の器に人参を移す。この人はこういうところ、天然なんだよな~。
「何笑ってんだ」
「お兄さん、大胆だね~」
お兄さんは、私が何を言っているのかわからない。と、言いたげな表情だ。
この鈍感男め。ちょっと
「それ、お兄さんが使ったお箸でしょ? 間接キスじゃん」
「ばっ、馬鹿ちげぇよ! 無意識だ! 誤解だ!」
そうそうこの反応が凄く可愛いんだよね~。
だからいつも
「にっしし~。華のJKになんてことしてくれんだよ~。仕方ないな~、この美味しい肉じゃがに免じて許してやろう!」
そう言って私は、お兄さんが入れた人参をパクッと口に放り込んだ。
「うん、やっぱり人参は不味いね」
「人参農家の方たちに謝れ」
私は、お兄さんと過ごす何気ないこの時間が大好きだった。
だからいつも学校が終われば寄り道せずに忍び込むし、休みの日だって忍び込む。
ご飯も勝手に食べるし、一緒にテレビも見る。お兄さんはいつも怒るけど、結局は私の分のご飯も用意してくれる。呆れるくらいお人好しだ。
――ピロリンッ
私のスマホが鳴った。画面を見ると、クラスの友達からだった。
普段から友達からLINEが来ることはよくあるけれど、お兄さんと喋ってる時は極力触らないようにしている。
お兄さんと喋ってる時間の方が楽しいからだ。
『なのはー! オジ恋って知ってる? 今めっちゃ流行ってる爆笑恋愛ドラマなんだけど!』
オジ恋。全く知らなかった。
話を合わせるためにネットで調べてみると、一人暮らしのオジさんの隣の部屋に女子大生が引っ越してきて、援交目的に近づいたら優しくされて恋に落ちてしまう。という物語らしい。
画像検索にすると、主役のオジさんが思った以上にオジさんだった。
テカテカだ……。
これを見て、私は一つ思いついた。
「ん、ねぇねぇお兄さん」
「なんだ」
お兄さんが毎週楽しみに見ているバラエティ番組。
さっきから無表情で見ているが、本当に好きなんだろうか。
一切笑わないくせにこれだけは絶対に逃さず見ている。
「チャンネル変えるね」
言ってからリモコンでオジ恋の映るチャンネルを指定した。
「自分ちで見りゃいいだろうが」
本当は一緒にいたいくせに~。とか思いながら肉じゃがに手を伸ばした。
「もー始まっちゃうし肉じゃが食べてるもん」
すると、お兄さんは諦めたのか箸を進めながらテレビに目を向けた。
「なんだ、これ」
オープニングが流れ始めて、オジ恋のタイトル画面が表示される。どうやら今週が最終回らしく、内容は初っ端からさっぱりわからない。
「オジ恋。今超流行ってて、めっちゃキュンキュンするんだ」
本当はキュンキュンなどしないらしい。友達曰く、どうしても主役の俳優がオジさんすぎてキュンキュンできないらしい。
不思議に思ったのか、お兄さんは慣れない手つきで調べ始めた。
「え、なに調べてんの? もしかして知らなかったの? 時代遅れすぎない? オジさんなの?」
本当は私も知らなかった。
友達曰く、超笑えるドラマとして流行っているらしい。
でもお兄さんを
「うるせぇ、俺はまだ二十四だぞ。見たらとっとと帰れよ」
口ではキツイことばっかり言うのに、お兄さんは凄く優しい。
今も無くなりかけていた私のコップのお茶を注ぎ足してくれた。
「ありがと。もしかして優しくして私を惚れさせようとしてる?」
「アホか」
お兄さんは鈍感で優しい。
きっとモテるんだろうな。きっとお兄さんを好きな人はいっぱいいるんだろうな。でも、お兄さんはそのことに気付いてなさそうだ。
お兄さんは先に食べ終わり、食器を片付け始めた。
洗い物が二人分一緒にしてしまえるように、私も急いで口の中にかきこんだ。
洗い物が終わったお兄さんはお風呂に入る。いつも通りだ。
私がいるっていうのに平気でお風呂に入ってしまうのは、私を恋愛対象として見ていない証拠にも思える。
同時に、他人なのに信頼されているという少しの優越感もあった。
「目悪くなるぞ。ちょっと離れろ」
お風呂から上がったお兄さんが私に言った。無意識のうちにオジ恋に夢中になっていたらしい。
流石にキュンキュンはしないが、それなりに面白かった。
「うーん。お兄さんも見なよ、今から告白のシーンっぽいよ」
「告白ねぇ……」
興味なさそうに私の隣に座る。
この座椅子もそうだ。私が忍び込むようになってから、お兄さんが追加で買ってきてくれた。
嫌がってるのか歓迎しているのかわからない。
『私、貴方が好き! 歳の差なんて関係ない! 周りの声なんて関係ない! 私は貴方じゃなきゃダメなの!』
テレビの中で、女子大生役の女優さんが熱演している。
このオジさんのどこがいいんだろうか。
話を見ている感じなんの魅力も感じないというのに。
『ダメだよ、僕らは結ばれちゃいけないんだ。だって二十も歳が離れてるだろ? 僕らが良くても、社会が許してくれないよ……』
二十歳も離れているんだ……。このドラマの作者一体何考えてんだろう。
『貴方が私を選んでくれないなら……私……死ぬっ!』
う、うわぁ。絵に描いたようなメンヘラさんだ……。
『わ、わかった! わかったから! 僕も君が好きだ! 愛している!』
このドラマほんとなんで人気なんだろうか。キュンキュンするわけでもなく、笑うこともなかった。
なのにどうしてか見てしまう。今度一話から見てみよう。
「ねぇお兄さん」
「ん」
ドラマのせいだろうか、お兄さんの返事はいつも以上に冷めていて、感情が感じられなかった。
「この二人、まるで私たちみたいだね?」
「はいはい」
素っ気ない返事でやり過ごそうとするお兄さんに、少しでもドキドキしてもらいたかった。
「私たちも……恋、しちゃう?」
「えっ……!」
私はお兄さんを押し倒して、襲う前に予め緩めておいた制服の襟の中をちらつかせた。
「ねぇ、お兄さん。いい……よ?」
何がいいのか、そんなこと、この体勢と雰囲気でわからないなんてことはない。いくらお兄さんが鈍感でも、私の色気でイチコロにしてやる。
「ちょ、ちょっとまて、ちょ、おまっ、ちょまてよ!」
このまま本当に襲ってしまおうかと思った。
いつもお兄さんは私を大切にしてくれるから、どんなに私が誘惑しても、お兄さんが私に何かしたりはしない。
だからこそ、私自身が行動しなくては、お兄さんはいつまで経っても……。
――私の気持ちに気付かない。
「ぷっ」
「……!?」
突然吹き出した私に、戸惑いと緊張のような表情で様子をうかがうお兄さん。
「あはははははっ! 照れた? 今照れたよね? ちょまてよってチムタクじゃん!」
「て、てめぇ……」
またやってしまった。私はいつもこうしてお兄さんを
本当は『好きだ』と伝えたいのに、いざとなったらこうやって誤魔化してしまう。
口が悪い時もあるけど、本当は凄く優しい人。
今は好きな人がいないみたいだけど、いつ彼が好きになる女性が現れるかもわからない。
だから私は変わりたい。ちゃんと好きだと伝えたいのに――。
「お前は本当、何がしたいんだよ……」
「お兄さんを
鈍感な彼は、私の気持ちには気付かない。