墓穴の恋(書き下ろしオリジナル短編) 守野伊音
『墓穴の恋』
ここには何でもある。
ここには何でもあるの。
楽しい本。難しい本。
ここには何でもあるの。何でもあるの。
だから、
だから、ここには何もない。
何もないの。
一枚で民が一年で
山と積まれる菓子を見る
ここは大陸の南方に位置する王国の一つ。名を、ロナール王国という。
ロナール王国には、美しい姫がいる。愛らしく美しい姫は、王と
今日も今日とてすることがなく、ふっと息を
「せめてノックしてって言ってるのに」
毎度のことなのでもう
ベッドにごろりと寝転がった少年は、指先をくるくる動かす。すると、チョコレートを山と積んでいたお皿が
「カレル、お
「だーれも見てないだろ」
「私が見てるわ」
「それ命令?」
いつものように、
「……命令では、ないけれど」
「じゃあいいじゃん。お前も寝転がってごろごろしてるだろ」
「私の部屋だもの」
「部屋ねぇ」
宝石のように
カレルは日差しが入ることのない壁をぐるりと見回し、扉で止めた。
「王女の私室が地下にあるって、笑える」
「窓がなくても、人は生きていけるもの」
お父様が、お母様と私がいなくても生きていけるように。
ロナール王国には、美しい姫がいる。愛らしく美しい姫は、王と王妃、そして国民の宝だ。
それは、先代王妃が
正妃であった先代王妃と王の子である第一王女は、正妃の死後、一度も
らしい。らしい。らしい。
直接外の様子を見たわけではないのでこの言い方になるが、
その結果、第一王女である私は、
父にとって私達
窓もないここに太陽はなく、風もない。魔術のおかげで空気が
物だけ与えられ、放り込まれた地下室。第二王女だけを
どれだけ泣き
「ほら、そんな怒るなよ、お姫様。これやるからさ」
さっきまでチョコレートを
私は、肩を
あれから五年。物言わぬ使用人が、部屋を整え、食物を運ぶ為だけに現れるここにいる、私以外の存在カレル。魔術師である彼が私の部屋に飛び込んできたのは、私がこの部屋に閉じ込められて一年目のことだった。
魔術師は、このロナールにおいて立場が
それが、ロナールにおける魔術師だった。大陸内のどこかでは、魔術師も人として当たり前に暮らしていける国もあるそうだが、この辺りではそんな暮らしは見込めないだろう。
四年前、カレルは私の部屋に飛び込んできた。外に出してと泣き叫ぶことも、
ただのお菓子
一つ一つの動作は
「あ」
「げ」
それが、私とカレル、初めての会話である。
夢でも見たかと思った。
それが、城の人間に笑いながら石を投げられ、私の部屋に意識
それ以降、カレルは度々私の部屋にやってきては、お菓子を食べて帰っていった。カレルは
最初は
それはともかくとして、それだけ警戒していたにもかかわらず、カレルが私の元に
「もう春なのね」
小さな花に顔を寄せ、濃く甘い香りを吸い込む。こんなに小さいのに、香りが強い花だ。私の部屋に花はない。初めの頃はあったように思うが、重い
望みなど、
カレルにもらった花は、彼が帰るときに持って帰ってもらう。そうでなければ、誰も出入りしていないはずの部屋に物が増えていてはおかしいからだ。だから、それまでのお楽しみである。
花を楽しむ私の横で、カレルはまだチョコレートを食べていた。
「あんまり食べると、また鼻血出すよ?」
「腹減ってるの」
「お肉もあるのに」
溜息を
「あんた、また食ってないの?」
「一日中動かないのに、どうやってお腹を
日の光を
いつものやりとりをさっさと打ち切った私に、カレルは
「あんたさ、自分が食ってないのに、よく人が食ってる姿見て笑えるよな」
「お腹が空いたって感覚、もう忘れちゃったの。だから、美味しそうに食べてる人見たら、何だか嬉しいの」
「そんなもんかねぇ」
お肉を細かく切り分けるどころか、
「……俺さ、ここに来るまで、何もしないでも食うに困らないって、幸せなことだと思ってたよ」
「そうね。きっと私は、恵まれているわ。死なないことが救いだという前提ならば」
「お貴族様は、飢える苦しみなんて知らないんだろうって思ってたよ。無意味に
「そうね。私は幸せね」
彼は、この部屋でたくさんの本を読んだ。最初は字も読めなかった彼が、今では学者が読むような本を読めるようになった。時間だけはあった私は、彼の為に
綺麗にお皿を空にしたカレルは、フォークを放り投げ、またベッドへ倒れ込んだ。
「だけどさ、俺は、目の前にうまい食い物が並んでるのに、まったく食う気が起こらないつらさなんて分からないよ」
「分からなくていいわ、そんなもの。それより、ねえ、外のこと教えて」
花を持ち直し、カレルの横に寝転がる。
「今日は雨? 風は強い? 春の嵐はもう済んだ? 中庭の桃色の花はもう咲いたのかしら。まさか、もう散ってしまった?」
「
「だって、あなたここに来るの、五日ぶりなんだもの」
その間に、朝昼夜×5。どれだけの食事が
「俺も
「暇じゃなくても、ここには食事に来ているんでしょう? 駄目よ、食事を抜いたりしたら」
「あーんーたーが、言うな!」
「きゃぁー!」
飛び起きたカレルが
私は運動不足、彼は栄養不足であった。
荒い息を落ち着けていると、ぽつりと、しんしんと降る雪より静かな声が降った。
「あんた、ちょっとだけでも外連れていってって、言わねぇんだな」
「だって、出来ないんでしょう?」
「……そりゃ、ここに飛んでくるの、一人が限界だけどさ、俺そんなの言ったことないだろ」
「出来るなら、あなたはきっと、もう連れていってくれたと思うもの」
はっと、
「
「そうね。私の手を
「……あんた、性格悪いって言われねぇ?」
「お母様は、優しい、いい子と、いつも
「
「あなたも、優しい、いい子だわ」
「節穴なんだよなぁ……」
私はともかくお母様は節穴ではないし、そんなお母様が自信を持って褒めてくれた私の判断力も節穴ではないと思うのだ。
「今日のお菓子なに?」
「ケーキよ」
「すげぇ。丸のままだ」
「私、これを一人で平らげてると思われているのよね。最近、使用人が私をじっと見ていくの」
「あんたが太るか見てるんだろ。笑える。それ絶対
「はい、葉っぱ」
「わ、ありがとう!」
「葉っぱ喜ぶお姫様とか、俺、初めて見たんだけど。お姫様自体初めて見たけど」
「だって、この時期の葉っぱって、とっても緑が綺麗なんだもの。新緑って言うのよ」
「ふーん」
「お
「きゃぁあああ!? 何!?」
「夏によくいる虫ー。一番でけぇやつ!」
「つ、
「あっはっはっはっは!」
「
「外側を楽しんだっていいじゃない。だって、見て。海の
「中身は固いのとどろどろだから、陸の勝ちー」
「あなたの勝敗基準、固さなの?」
「いや、うまさ」
「じゃあ、海のほうは食べたことないから分からないじゃない」
「あんたは?」
「昔、お父様とお母様が食べていたのを見たことはあるけれど、子どもの口には合わないからと私にはなかったから、私も知らないわ」
「じゃあ、食うことあったら勝負つけといて」
「何だよ、せっかく一年待った雪持ってきたやったのに、全然喜ばねぇ」
「だって……雪が降ったら、あなた寒いんでしょう? ほら、
「うわ、いいって! 俺、汚れてるから!」
「何よ。今まで散々私のベッドに寝転がっていたくせに、
「だーきーつーくーなー!」
「あなたが逃げるからよ。ほら、いい子にしてちょうだい。ね? 温かいでしょう?」
そうして、何も変わることなく私とカレルの日々は過ぎていった。
カレルが
何も変わらぬまま、私達は十三になっていた。カレルは相変わらず小さくて、いつまで経っても私の身長を超えることはない。そんなところでさえ変わらない毎日の中、変化があるとすれば、カレルが私の部屋を訪れる回数が次第に減っていったことくらいだ。
ベッドに座ったまま、今日も現れなかったカレルに溜息を吐く。食べずに置いていた夕食からほんの少し摘まみ、ベッドに潜り込む。
お母様が死んだばかりの頃のように、ぎゅうっと縮こまる。身体を縮め、隙間を無くす。身の内に、
カレルが来ないと、今日が春なのか秋なのかも分からない。カレルが来ないと、一日の終わりも分からない。カレルがいないと、私は生きて存在しているかも、分からない。
カレルが来ないのだ。今日も、カレルが来ないのだ。
カレルが来ない理由が、彼が外の世界で何か楽しいことを見つけたのなら、まだいい。こんな
だけど、違うのだ。それが、悲しい。
カレルがまだ今よりはもう少し多く来られていた頃、聞いた。魔術師の扱いが、また、一段と酷くなったのだと。魔力が
「カレル……」
小さく呟いた視界の端で、扉がたわんだ。
布団を撥ね除け、飛び上がる。魔術灯が消えた室内で、黒い影がゆらりと
元より
「…………お別れを、言いに来てくれたの?」
私の手を握っている彼の手が、ぴくりと動く。自由な手を伸ばし、フードの下にある
「……どうして」
「だってあなた、荷物を持っているもの」
いつもは痩せ細った
「行くあてはあるの?」
「……北を、目指す」
「それは……」
思わず、息を
「
ベッドから
「
カレルはまだ、ベッドを向いたままだ。
「どこか、具合でも悪いの? そんな体調で旅なんて……ああ、でも、ここにいたって悪くなってしまうだけよね……どうしましょう。薬、薬は、そうよ、熱冷ましくらいならここにもあるわ。薬箱ごと全部持っ」
「あんたはっ!」
心配で、怒鳴られることを
「そんなに力を入れたら血が出てしまうわよ。どうしたの? どこか痛いの? 苦しいの?」
「……して」
「え?」
「どうして、ずるいって、言ってくれないんだ」
閉じ込められるなら、こんな場所じゃなくてこの瞳がいいと、思った。この人と同じ景色を見られたなら、それはどれほどの幸せだろうと、叶わぬからこそ願える夢を、見た。
「どうして、なんで一緒に連れていってくれないんだって、言わないんだよ!」
「あなたが私を連れてここから出られるのだとしても、そんなこと、絶対に言わないわ」
「何でだよ!」
「だって、追っ手が増えたらどうするの」
私は仮にも王女だ。
外套の上から、彼の細い両腕を掴む。今にも折れてしまいそうな、か細い腕だ。これから幸せになる為に、旅立つための腕だった。
「あなたは行くの。幸せになりに行くの。足手纏いも、
頬を張られた子どもだってこんな顔をしないと思えるほど、痛々しい顔をしたカレルに、私は
「いいこと? 決して振り向いてはいけないわ。ここには何もないの。この国には、何もないのよ。それを誰より分かっているのはあなたでしょう? 親
いつもみたいに憎たらしいことを言って、にんまり笑えばいいのに。そうしたら私は、元気でねって、笑って見送ってあげたのに。
「振り向かないで、カレル。ロナールにある全ては、あなたの人生にとって無駄な存在よ。……カレル! しっかりしなさい! あなたは何も残してなんてないわ! だって、ここには何もないの! 何もないのよ!」
その背をぐいぐい押し、扉側へと追いやる。ついでに、今日つけていた宝石の髪飾りを彼のポケットに詰め込んでやる。薬も、適当に
そして、何かを言おうと振り向きかけた背中に、
「しゃんと立って。あなたの生はこれからよ。堂々と、胸を張って、自由に生きるの。カレル、あなたは自由よ。自由なの。何だって出来るし、何だって決められる。あなたの幸いはこれからよ。この先に、あなたの
背を、押す。押されるがまま、カレルの足が進む。
「元気でね、カレル」
「……アーシャ」
「さようなら」
外套越しに触れていた、骨の浮く薄い背が
押していた勢いのまま、その場で
ぱたぱたと、熱くて痛い
アンスリーシャ。
私を呼ぶ優しい声は、とうの昔に失われた。
アーシャ。
私を呼ぶ柔らかい声も、いま、失われた。
それが最善だ。だから私は笑った。笑ったはずだ。だって、私が彼を失うことが、彼が生を繋げる
彼の幸いそのものなのだから。
冷たいベッドの中で一人、悪夢ばかりを見る、浅い眠りを繰り返す。
また痩せていないだろうか。大きな怪我をしていないだろうか。
心配で、寂しくて。駆け出していけない自分が
夢の中で、カレルが死んだ。夢の中で、カレルが死んだ。夢の中で、カレルが、死んだのだ。
それが夢かどうかなんて確かめようもないくせに、私の夢は何度もカレルを殺すのだ。
神様。
神様。
――お母様。
いつの間にか、祈っていた。お母様と一緒に死んだ私の未来を受け入れた日から忘れていた祈りが、勝手に胸の内から湧き上がる。
カレルが幸せでありますように。カレルがお腹いっぱい食べられますように。カレルが怪我なんてしませんように。カレルの心が傷つきませんように。カレルの
天に近い場所で祈ったって、母は死んでしまった。だから、こんな地の底から祈っても誰にも届かないかもしれない。それでも、どうか。
カレルの明日が、
カレルの未来が、
カレルのいつかが、ずっと、ずっと、優しいものでありますように。
いつも、いつだって、それだけを祈るから、どうか。
カレルの生に、幸いを。
されど時が止まるはずもなく。どうやら私は十六になったようだと、どういう風の吹き回しか、父親の名義で
箱の中身は、中央に
ベッドの上に箱ごと放り投げ、隣に寝転ぶ。どういう風の吹き回しも何も、私を利用する算段がついただけのことだろう。そうでなければ、こんな物、一体どこにつけていくというのだ。今の今まで贈り物どころか手紙一つ、顔を見せることも言葉を届けることもなかった人物が、ただ贈りたかったからという理由で何かを
両腕で視界を
そう定まったというのに、あの男は今更私を墓穴から
墓穴として押し込められた地下室から、十年ぶりに外へ出た。弱った足で上がった階段の先は、薄暗い。長い間太陽光を知らない瞳を痛めないよう、その程度の
どうやら季節は夏を迎えようとしているらしく、雨をまとった少し生暖かい風が、
けれど、何も思うことはない。何も感じない。彼が持ってきてくれた物ならば、葉っぱ一枚でもあんなに心
でもそんなのは当たり前だ。私がいようがいまいがただ当たり前として
十年ぶりに会う国王の姿は、記憶にある物よりずっと小さくて、
座った三人を前に、私は一人立っている。後ろには私を連れて来た十名の中で兵士が四名残っているが、彼らは数に数えない。だから私は一人だ。
「久しいな、我が
「無駄なお話は結構です、国王
「そう
「どのような用命であれ、私に
国王が蓄えた口ひげをもごもごと動かしている間に、現王妃が
「まあ、
「今更無礼を恐れたところで、一体何が
現王妃の
「余も、お前の母を失い失意の日々を過ごした。その間、お前を支えてやることが出来ずすまなかった。余は
そうですね以外の返答は無いのだが、言う価値も見つけられないので黙って聞く。
「だが、これからは案ずることはない。お前を
「ええ、ええそうよ。とても
機嫌良く
「
にたりと
「少し年が離れているかもしれないけれど、あの国は宝石がたくさん取れる国ですもの。きっと素敵な人生が送れるわ。ロナールにも、たくさんくださったの。ねえ、素敵でしょう?」
第二王女の首元を飾る首飾り、現王妃の指を飾る指輪、国王も首飾りはしているようだ。
「少し、ねえ、少し愛人がいらっしゃるようだけれど、構わないわよね? だってわたくし達は王族ですもの。国の為なら、どんな結婚だって受け入れられるはずだもの。ねえ、お姉様」
昔、思っていた。この人達と対面したら、私は何を思うのだろうと。この身を
何も、思わない。全く何も感じない。目の前の存在が人であるとさえ思えない。揺れた枝が頬を打っても怒りは湧かない。小石に
「一応申し上げておきますが、お断りします」
「式は十日後よ、お姉様! ああ、楽しみね。真っ白なお姉様には、ウエディングドレスがよく似合うと思うわ! ねえ、お父様、お母様!」
日に当たっていない私の肌は真っ白なのではなく青白いのだが、どうでもいいのだろう。
ああ、ああ、そうだとも、そうですとも。第二王女へ同意を繰り返す二人の男女の声を聞きながら、背を向ける。私の言葉はなかったことになるようなので、私の存在もなかったことになっているだろう。だから退室の挨拶はいらないようだ。
そのまま部屋を出た私を、またもや十人の人間が囲む。帰りも行きと同じ空を見上げる。先程より濃さを増した
無と穏やかは違う。今はただ、何も感じない。感情が動いてしまえば、寂しさが
何も思うことなく再び戻された墓穴の中で、私は静かに時を過ごした。
十日は、あっという間に訪れた。元々、彼が訪れる日を今か今かと待っていた以外は、何も待ち望まない時間を十年過ごしてきたのだ。何かを待っていなければ、時など勝手に過ぎ去っていく。待ち望んでいるときは
その日は朝から
首からぶら下がるあの首飾りは、重たいだけの首輪だ。家畜にかけるのと同じだなと思う。
私を勝手に
久しぶりに新調したドレスは、真っ白なレースがふんだんに使われたウェディングドレス。何の
現在、私がいるのは
なんとはなしに窓に触れてみたが、固く打ち付けられていて開きそうになかった。
そういえば、夫となるらしい相手の名前も、嫁ぐらしい国の名前も聞いていない。聞いたのは、年齢と、愛人の
一度、私よりも着飾った第二王女が様子を見に来た。高い塔の上だから、あの階段を
どうやら私が泣き崩れ、失意の底に沈んでいる様を見たかったらしく、息を切らし、肩を激しく上下させながら、手に取るようにがっかりしていた。
そこまで苦労して上ってきた結果、望むものをお目にかけられず申し訳ないが、私はもう何も感じないのだ。私の生は、とっくの昔に墓穴へ埋められてしまった。
残ったものは、大切な彼の人が得るであろう幸いへの希望だけだ。
願いがあるから、望みがあるから、祈りがあるから、私は生きていける。この先の生が、他者から苦行だと思われるようなものであっても、どれほどの痛みを
私の幸いは、全て過去に置いてきた。
母と、カレル。それだけ。たったそれだけ。されど、その二つの出会いが、二人と過ごした時間が、私の一生の幸いだ。それだけで、私は一生幸福でいられる。
私は幸いを知っている。私は
だから、だからね。
「カレル」
もしどこかで私の話を聞いても、心配しないでね。
「私、あなたがとっても好きだったわ」
「へぇ、そりゃ光栄だ」
誰に聞かれることなく溶けて消えるはずだった言葉が受け取られた事実に、
弾かれたように振り向いた
ひょいっと
黒髪の中に、光を纏った赤がきらめく。私の光は、白い海の中に入ってきてしまった。そうして閉ざされたヴェールの中は、まるで世界の全てが閉ざされたように外部を
「だけど、今いち気に入らない」
「な、に――……あなた、どうしてっ!」
「俺は今でも好きなんだけど、あんたはもう好きじゃないって?」
笑っているようでいて
それなのに。
「どう、して」
がりがりで不健康だった肌つやはよくなり、骨が浮き出ていた身体には適度に肉がついている。そうはいってもやはり
大きくなった。元気になった。目に、光を
「あなた、どう、して」
「あー、あー、そんな泣くなよ。あんたが泣くの、初めて見た」
「カレル」
カレルの指が私の涙を
「俺はいま、ユグーシャ国王立魔術宮に
「ユグーシャ……北の、大国」
「そ。ちゃーんと
それは
けれど簡単だったと言い張るのだから、私はそれを受け入れた。
「綺麗な、服、着てる」
全体的に黒い服は昔のままだが、生地が全く違う。季節に合わせてか通気性がよく、けれど薄く安っぽく見えないほどほどの厚みにしなやかな
綺麗な
こんなに嬉しいことがあるだろうか。
「
「凄い……凄いわ。あなた、本当に凄い魔術師だったのね」
「当然だろ。そうでなきゃ、あんたの部屋に飛んだりできない」
「それもそうね……」
私達を外界と隔てているヴェールが、柔らかな風に煽られて水面のように
「異国出身の身寄りがない子どもだって馬鹿にする連中は無視して、
「だ、駄目よ」
「どうして?」
「だって……追っ手がかかったら、危ないもの」
「史上最年少天才魔術師に何だって?」
平然と言うものだから、
不安がなくなるわけでは、ないけれど。
「俺があんた連れてユグーシャに帰れるか心配?」
「……ええ」
「俺は
ぽんっと放り出された言葉に、目を丸くしてしまう。
「というわけで」
他の男の為に用意されたヴェールの中で、カレルは口元を片方だけひん曲げた。
「九年越しの駆け落ち、受けてくれる?」
断られるだなんて
肉がついたとはいえまだまだ華奢な身体に思いっきり抱きついてやれば、うわっと慌てた声を上げてたたらを
やがて体勢を立て直したカレルは、徐々に私を抱く力を強めていく。痛みすら覚えるほど強くなった頃、私の肩に顔を
「あー……俺いま、生まれてから一番幸せだ」
「…………お手軽ね」
「一国の王女かっ
「あら。あなた、凄い魔術師なんでしょう?」
くすくす笑いながらからかってやれば、ちょっと拗ねた顔をしたあと、にんまり笑う。何だか嫌な予感がして少し離れようとしたのに、ヴェールを押さえられては動きようがない。
「あんたに食わしてもらった分、一生
「一生分なんてあげてないわ。それより、近いのだけど」
「あれで俺を生かしたんだから、一生だろ? それと」
近づいてんだよ。
言葉と同時に、大きな口を開けたカレルに思わず引き
そう気付いたけれど、もう遅い。
とりあえず、口紅は綺麗に平らげてしまっても人体に影響はないはずだから、その点だけは心配しないでおこうと思う。
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角川ビーンズ文庫
『西方守護伯付き魔女の初陣』
2020年5月1日発売!
【あらすじ】
WEB掲載作品を大幅加筆修正! 落ちこぼれ魔女は恋を知って最強に!?
魔法がうまく使えず引きこもっていた王女ミルレオは、母に呪いをかけられ男の姿に!
しかも西方守護軍で少年魔女(!?)として働け、自力で呪いが解けなきゃ即結婚って……お母様、いくらなんでもあんまりです!?
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