かくりよ神獣紀 糸森 環
『
空がいつもどんよりとしていて重苦しいからか、なんだか気分がぱっとしない。
もやもやするのは八重ばかりではないようだ。地を
遠方へ視線を向ければ、密生する木々の向こうに、こんもりとした
(あそこに湧いている雲、早く遠くへ流れていかないかなあ。なんでなのか、風が吹いてもあの場所から去ってくれないんだよね)
八重は、むむと
こういった、空全体が沈んでいるような天候のときは
住み
「なんでさっきからそんな
こちらの
「うーん、そうだね。別の場所に行ったほうがよかったかも」
八重たちは今、山中に分け入り、
ついでにドライフルーツ用の
(杏子がないから深刻な顔をしていたわけじゃないけど——それはともかく、この辺って妙に地面が
あまり実りのない山菜採りの途中、この一帯の守り神と
もっとたっぷり山菜が採れますように。……杏子も、できたらたくさん。
「なあ八重、本当は杏子以外にも気がかりなことがあるんだろ」
お供え後、亜雷が再び八重をじっと見つめる。
「笑ってごまかそうとすんな。悪い
彼は、八重に
「あのなあ、とって食いやしねえからそこまで
……などと、
このもさもさした
そして前世は、本人の
こちらの世界には、前世持ちの者がよく生まれる。
その多くは成長するにつれ前世の
「こーら。はよ言え。その
亜雷は黒地の
八重は先ほどよりも深い皺を眉間に作り、ぶんぶんと頭を動かして亜雷の手を振り落とした。八重の長い
「……最近ずっと曇りの日が続いているでしょ? ほら、あっちの住処に近い側とか。ああも重たげな灰色の雲が木々の上にいつまでも居座っていると、なんだか気が
あん? と亜雷は
「ああ、そりゃ、
その説明に、八重は目を丸くしたあと、少し笑った。
亜雷のような、見た目も
(あ、ひょっとして元神仏的な存在だったから気象関連にも自然と敬意を払ってしまう、っていうような理由があるのかもしれない)
歩きながら横目で亜雷をうかがうと、こちらの視線に気づいた彼がちょっと意地悪な顔をして笑った。
「なんだ、こら。俺に曇天さんを
「言わない言わない。って、基本の考え方が
八重はおののいた。この男、天候に対しても殺意高いな。
「斬れなくもねえが、ああいうのはあんまり斬るもんじゃねえと思うぞ」
「えっ斬れるの!? ……いや待って。普通は斬らない。斬ろうと思わない」
亜雷は
彼が帯刀している
「おまえが本気で斬れって
亜雷が軽い
「命じない」
じとっと八重が亜雷を見上げると、彼は完全にいじめっ子の笑顔を作った。
(なんて悪い表情をするんだ……、でもやっぱり、顔がいい……!)
八重は自分でもよくわからない
「ならいつまでも眉間に皺を作んな」
「皺が勝手に私の眉間に生まれたがってるんです」
「なんだそれ」
八重の軽口に、亜雷は
(だから、顔がいいと何度言えば……!)
こんなに
「おまえが曇った顔をしてるから、曇天さんも仲間意識を持って去りがたくなってんじゃねえの? 笑えば、晴天さんも来る」
そう言って亜雷は、八重の眉間やこめかみを指先でつつく。
「おら、笑えや」
「顔中つつかれて笑ったりしたら、私マゾすぎない!? ……だいたい、さっきは『笑ってごまかすな』って言ったのに今度は笑えとか、注文多いよ!」
「俺に対して作り笑いはすんなってことだ」
「人間、生きていれば作り笑いのひとつや二つ……」
「く、ち、ご、た、え! すんなや。おらおらおら」
「あっ、ちょっ、わっ」
ちょっとしたじゃれ合いにすぎないはずだったが——いかんせんタイミングが悪かった。
それと、亜雷は自分が脳筋系神仏男子であることをもっと自覚すべきだった。
会話中、八重は、立ち並ぶ木々の太い根が地表に突き出ているような、足場の悪い場所を歩いていた。そういう不安定な体勢のとき、強めにこめかみをつつかれたため、大きくよろめいてしまった。
さらにこのとき、目の前を大きな
よろめいた八重を支えようとしたのだろう、亜雷がこちらに手を伸ばす。だがそれを、八重は片腕でぱっと払ってしまった。正確には、目の前に
手を振り払われて驚いた顔をする亜雷と目が合った。
視線を
「いったーい……!」
八重は
(
予想外の痛みに、じわっと目に涙が浮かぶ。
「おい……」
わずかに
突然、太い木の根がうねる地表から、ぶわっと灰色の
(なにこれ!?)
目を
「うわっ……!」
亜雷に助けを求める余裕もなかった。灰色の煙は形を変え、
灰色の煙の鬼は、勢いよく駆け出した。
「やめて、とまって……!」
叫ん《さけ》でも、煙の鬼はとまってくれない。
地を駆る
八重はその速度に目を回した。
——そしてどうやら少しのあいだ、気を失っていたらしい。
はっと
しかし、そこにいたのは八重だけではなかった。
すぐ横に、ぼろぼろの
「……だれ?」
八重は身を起こし、
ここがどこなのか、さっぱりわからないが、先ほどの場所からそんなに離れているとは思えない。
亜雷は助けに来てくれるだろうか。
というより、地から湧き出てきたあの灰色の煙は何?
なぜ八重を
この少年は灰色の煙と関係がある?
次々と浮かび上がる疑問に八重が混乱し始めたとき、その不気味な少年が
「俺に名を問うのか」
少年は背を丸めるようにして座っており、なおかつ笠を深くかぶっていたため、顔の造作がわからない。正確な
「名は、もう忘れてしまった。呼ぶ者がいないからな」
少年がどこかぎこちなく答える。
八重は、少年の様子をうかがいながら考え込んだ。
もしかして彼は、名を忘れ、本質を見失って化け物に成り
「あんた、よかったな」
と、少年は
「よかったって、なにが?」
戸惑う八重に、少年は答えた。
「一緒にいたあの男に
八重はしばらくぽかんとした。それから急いで少年の言葉を
どうやら亜雷にからかわれていた場面を、少年は
「ずっとここにいればいいよ」
「え、いや、あの。……私、帰らないと」
「なんでだ。あんたはあの男に突き飛ばされていたじゃないか」
「違う違う。
「誤解なものか。あんたは痛がって、泣いていただろ」
八重は口ごもった。
肩甲骨を打った痛みで涙目になっただけだ。亜雷に
「俺は知っている。人はつらいと泣くんだ。苦しいと泣くんだ。——前は、助けられなかった。だから今度こそは助けるんだ。そうだ、俺はうまくあんたを助けてやっただろ……」
少年の、切実な
(私と、
八重は
「前は助けられなかった、ってことは……。私以外にも、あなたのそばで、なにかの事情で泣いていた人がいたの?」
先ほどの口ぶりからして少年は、たぶんその人を救えなかったのだろう。そういう無念さを、
「——気の弱い
少年は、枯れ木を揺する風のような、
「だれそれに
八重は少し首を
「俺が
「涙を?」
「そうだよ。俺は弱くも優しい娘が大好きだったから。悲しがるときも飲んだ、苦しがるときも飲んだ。なんだか心が晴れぬと
「……それで、どうなったの?」
「
「えっ」
「娘はそのとき、こう言ったそうだ。自分のせいで俺が封じられた、そして二度と会えぬのに、一滴も泣けぬこの身がつらいと」
「え……」
なにそれ、切ない。
八重は無意識に、ぐっと
「その後、地を
「待ってつらい、すれ違いつらい」
八重は両手で顔を
少年は、
「俺は、泣かなくなれば娘は笑えるようになると思ったんだ。でも娘は最後まで笑わなかった。どうしてだろう? 俺はなにかを間違ったんだろうか?」
「んんん~!」
八重は返事に困った。
間違っている……のだが、そうと
「あんたも、ああ、娘と同じような顔をする。どうしてだ、俺は小さくても大きくても役に立たないのか」
「あっ、あの、き、気持ちは
と、八重がわたわたしながら
「——ごたごたぐちぐちうるせえ! 俺の八重を攫っときながら、なにを
そんな空気を読まない
「ひっ!?」
八重は驚き、飛び上がりそうになった。
こちら側に突き出てきた黒い刃が、薄布でも
八重は
「八重もなあ、おのれを攫った
「そんな無茶な!」
助けに来てくれた、っていう感動が吹き飛ぶ!
「そこのおまえ、混同すんな、八重はその娘とやらじゃねえわ! 他の女が身代わりになるものかよ。八重を攫う
「ほんと無茶を言うね!?」
なんてことを言うんだと八重が
亜雷が洞に
思わず目を
亜雷の
「ねえ、あの——!」
と、顔を上げようとしたら、「うるせえ、おとなしくしとけ」とでもいうようにさらにきつく抱え込まれる。それと同時に、洞の壁ががらがらと
だから八重は、亜雷の
「ええと、白! もしかしたらあなたの名前、白っていうんじゃないかな!? いや、身体が小さかったなら、小雪、白玉とかかも!! あなたはそういう名前の子犬だったんじゃない!?」
少年は、娘をからかう者たちに対して唸ったり鳴いたりしたという。でも身体が小さかったので蹴り飛ばされたという。——普通、人間の子どもを蹴り飛ばすだろうか。それに「鳴く」という表現も不自然だ。
なら少年の正体は人間ではなく、娘に
「ああそうだ、シロだ。私のかわいいシロ。娘は俺をそう呼んでいたっけ……」
わん、と鳴く犬の声が洞の崩壊音に重なった。
☆
——で、ばっと顔を上げれば、八重たちは元の場所に戻っていた。
だが八重は、まだ怪異が
「おまえなあ……、
と、説教を始める亜雷に視線を向けて、八重はやはりしばらく呆然としたが、とあることに思い
「亜雷! 助けに来てくれてありがとう! ——倒れる前に手を振り払ったの、
「あ、ああ」
少しは気にしていたのか、亜雷は驚いたように目を丸くしながらもこくんと
「それで私、さっき見たお地蔵さんもどきのところまでちょっと行ってくる!」
「は? はあっ!? おい!」
八重は早口でそう説明し、木の根が突き出ているでこぼこした地面を走った。何度も
金虎は、八重の足に
(乗せてくれるのはありがたいけど、できればもっと優しくして……!)
金虎はそれこそ飛ぶような速さで八重を、あの地蔵もどきのもとに運んだ。
不気味な少年に攫われる直前、八重が「たっぷり山菜が採れますように」と
八重は、金虎の背から下りると、
「……これって、身代わり地蔵みたいなものじゃないかな」
八重は、人の姿に戻った亜雷の視線を意識しながらつぶやいた。
あの不気味な少年——かつては白い犬であったモノが土地の者に封じられたのち、日照りが続いたという。
この石像は、シロの封印を
八重は少しのあいだ石像を見つめたあと、自分の
(いや、だって私、泣こうと思って素直に泣けるタイプじゃないんだわ……)
痛みでじわっと
「これが、涙の
ここは転生が当たり前に存在する世界だ。
だからまた、彼らも
八重は立ち上がると、困った顔をしている亜雷をびしっと指さした。
「この人、元神仏の類いだから! ご
「……おまえのほうが無茶言ってるぞ」
亜雷のぼやきを無視して、八重はとりあえず祈っておいた。亜雷にぬるい目で見つめられてしまった。
「そら、もういいだろ。行くぞ」
亜雷に引っ張られて、八重は地蔵もどきのもとを離れた。
そのとき、わん、という鳴き声が背後から聞こえ、八重は振り向いた。
白い子犬が地蔵もどきのほうへ走っていった気もするけれど、見間違いかもしれない。
☆
「それにしても、急に晴れたねえ」
なんだかむっとしている亜雷のご機嫌うかがいも
「八重を取り戻すために曇天さんを斬ったんだ。晴れて当然だろ」
「……ん?」
八重は、亜雷の顔と、もくもくとした灰色の雲が湧いていたはずの木々のほうを
(……。あー。あー!! そういうことね。あのシロが怪異そのものと化して、憂いの『曇天さん』になっていたわけね!)
天候を生き物のように表現するなんてかわいいな、と
「……あの野郎、なんで何日もしつこく俺たちのそばにいるのかと不思議だったが、俺がおまえを
「あー……! そっかー!」
もしかすると、シロが大好きだったという泣き虫の娘と八重は、年頃が同じだったのかもしれない。それで似たような立場に見えた八重を心配し、そばにいたと。曇天さんたるシロの影響で空もずっと曇っていたらしい。それは晴れも来ないはずだ。
で、今、ようやく晴れたということは、亜雷に対する曇天さんの疑いも晴れた……?
「やっ、待って待って。斬ったらまずかったんじゃない!?」
八重は青ざめた。シロの
「……神仏ぱわーでなんとかなる。たぶん」
「……天に届け、神仏パワー!」
シロも生まれ変われますように。ほんとお願いします。
八重は
「あれ、待って。曇天さんが存在するってことは……『晴天さん』もいるってこと?」
八重はふと気づいて、
亜雷は
「……もう余計なことは考えず、とにかくおまえは俺の手が届く
「う、うん」
「それでも変事に巻きこまれたときは、真っ先に俺の名を
「うん」
「俺に見失わせるな」
「……うん」
「もうおまえの身体はおまえだけのものじゃねえ。半分は俺のだ」
「うん。……うん!?」
「それと怪異の人生相談をして憂いの気も取り
「——うん」
そうだった。
八重はこの世界のお医者さんとして生きるのだ。憂いの空を晴天に変えるように。
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角川ビーンズ文庫
『かくりよ神獣紀 異世界で、神様のお医者さんはじめます。』
2020年5月1日発売!
【あらすじ】
異世界に転生したら、神様(怪異)の医者でした。世直し和風ファンタジー!
異世界に転生した八重は、化け物に襲われ、かつて神だったという金虎・亜雷を解き放つ。
俺様な彼に振り回され弟捜しを手伝うが、見つけた弟・
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