Memory 2 学校とお昼ご飯とあたし その1
俺は幸せなのだろうか。
もちろん、幸せという言葉の意味は理解しているし、字義通りに受け取ればそうとしか言いようがない。
だが、実感を伴ってそのことをわかっているかといえば首をかしげてしまう。
異世界にいた七三六二日間、ずっと望み続けていた元の世界への帰還。
いや……元の世界に戻れなくてもよかった。
ただ桑折に感謝を──想いを伝えられさえすれば。
それなのに元の世界に戻れて。桑折にまた会えて。
直接言葉で想いを伝えることまでできて──
「先輩、おもしろすぎるから──付き合ってあげます」
望外の……特別な関係まで築けたのは、誇張なく異世界で起きたどんな驚くべき出来事より驚嘆すべきことで、『
だから。
「あ。せんぱーい、おはようございまーっす」
制服姿の桑折が、笑顔ですぐ近くまで寄ってきてくれても直視できなかった。
「あは、なんすかその顔~」
「…………眩しすぎる」
「んー? まぶしい? 今日そんな晴れてなくないっすか?」
そう言って目を細め、きょろきょろと周りを見てくれる桑折が目眩を覚えそうになるくらい遠い存在に感じる。
「あーわかった。先輩、またなんか変なコト考えてるでしょー?」
「変なこと……」
変なこと、なのだろうか。
これが変なことであるのか、俺には判断がつかない。
だから言葉にしてみた。
「幸せについて……考えていた」
「しあわ……ぷーっ、なにそれ、めっちゃ先輩らしくてウケる~!」
口を覆う桑折の、サラサラの髪。細く白い腕。眩しい太もも。
なにより──本当に楽しそうなその笑顔は、一生見ていられる。
ああ……そうだ。
そうだった。
俺はこの光景をずっと夢見ていたんだ……。
「アレですか? あたしと一緒にいられるのが幸せとか、そーゆうコトっすか?」
「ああ」
「え」
あまりにもその通りすぎて驚く。
桑折はやはり鋭い。
「桑折とまたこうして……一緒に歩くことができて、幸せだ」
言葉にしてしまえばどうということもない。
こんな簡単なことに確信が持てていなかったなんて、我ながら愚かすぎる。
「……? どうした急に屈み込んで」
「…………だから、もー……反則なんですって……」
「──! もしかして状態異常か!?」
状態異常の脅威は総じて時間経過にある。すなわち解除の早さこそがなによりも重要で
「だーっ、ストップ! 魔法使わなくていいですから! ダイジョブですから!!」
「だが、顔が……」
「顔の赤さのことはほっといてください……てか今見ないで」
「す、すまん……」
またやってしまった。
やはりこちらの世界の常識がいまいち掴めていない。
少し怒ったような顔をしているときの桑折もたまらなくて、ずっと眺めていたくなるのだが、桑折が嫌がることは絶対にしたくないのでこらえる。
歩きながら横目でその様子を窺うだけにしていると、桑折は「落ち着けあたし……落ち着け……」とつぶやいてからこちらを向いた。
「あー……ところで先輩、めっちゃ久しぶりですね、その制服姿」
「制服……」
そういえば二〇年前、桑折は中等部の制服を着ていたが今は同じ高等部のものになっている。
中等部の頃も可愛かったが、今はそれ以上に可愛い。
「……正直、久しぶりという感覚すらない」
「学校とかの記憶、ほぼないんですもんね……。まー二年……先輩の中では二〇年ぶりなんでしたっけ? ……うっわ、二〇年ぶりの学校て! パワーワードすぎる!」
大きな目を丸くする桑折が驚いた表情でため息を吐いたかと思えば、すぐに嬉しそうに笑う。
「あたしがまだ学校に残ってるあいだに戻ってこれてよかったっすね~。二こ上の先輩がタメになっちゃってるのはウケますけど」
「…………」
同じ中高一貫校の中等部二年だった桑折と高等部一年だった俺。
順調に学年を重ね、高等部に進んだ桑折と対照的に、こちらの世界で昏睡していた俺は休学の扱いになっており、高等部一年のままだ。
退学させられず籍が残っていただけでもありがたいのだが。
「ん、あれ? もしかして……気にしてました?」
「……ああ」
「え!」
「桑折と俺は同学年だ。先輩という呼称はおかしくないか?」
「──あ、ああ~、そっち? そっちか……びっくりした……」
「……? なにがだ?」
「いえいえ、なんでも!」
慌てたように手を振る桑折から爽やかな柑橘系の香りがする。いい匂いだと思う。
「確かに先輩と同学年ですけど……えーと、ほら、年の差は変わらないわけじゃないっすか。だから、先輩は人生の先輩ってコトですよ!」
「人生の……なるほど……確かに長く生きた者を敬う概念はどこの世界でも比較的普遍的だった」
「あはははっ、長く生きた者を敬う概念て! 言いかた~!」
お腹を抱えて笑う桑折の明るさに、ほんの数日前まで感じていた殺伐とした異世界の空気をすべて洗い流される気がする。
「とか言ってたら着いちゃいましたね~。しゃべってたらあっとゆーま……あ、職員室はそっちからですよ~。復学手続きとかあるんですよね?」
いつの間にか辿り着いていた学校がどうでもよくなるほど、桑折に魅入られていた。
「それじゃ先輩、またあとで!」
ピッと頭の横に手を当てるポーズもよく似合う桑折は、軽やかに踵を返していく。
「ナノナノ~、おっはー」
「おは~、あれ、前髪切った? かわいいじゃーん」
「えー、マジマジー? やったぜ~」
「ナノじゃーん、イェー!」
「イェー、なになになんかあったー? めっちゃゴキゲンっぽ~」
「わかるー? さすナノ~! ねね、昨日のドラマ見た? 新人リーマン役の子がさ──」
あっという間に友人たちに囲まれ、楽しそうに歩き去っていく桑折の姿。
幸福を体現した夢のようなその光景に、ただただ俺は満足して──
「ん? どうしたキミ。生徒の入り口は向こうだぞ」
見知らぬ男に声をかけられ、我に返る。
どうやら夢はまだ続くらしい──。
★☆
「てかさーナノー、さっきの人だれー?」
「え」
「一緒にきてなかった~? ナノすっごい笑顔で話してたし」
「……」
トモダチのツッコミにあたしはかたまる。
さっきの人ってゆーのが先輩なのは、振り返ってチラチラ見てるトモダチからもカクテイで、あたしの今の反応からでもわかっちゃったと思う。
たぶん、それでもごまかすことはできる。
そーゆうのはわりと得意だから。
でもそれは、先輩に対して失礼な気がした。
「えっと…………まあ、なんとゆーか……カレシ」
いざ言うってなるとやっぱり恥ずくて、フツーに小声になっちゃったんだけど。
「ふーん、カレシか~。なるなる…………は!? カレシ!?」
トモダチのリアクションにビビる。
「ちょ、声おっき……」
「ナノが!? カレシ!? マ!? マ!?_!?」
「なになにー? 今カレシとか言ってなかったー?」
「ナノにカレシできたって!!」
「──は!? ウッソ!! え、ちょ待って待って! マ!? ──大事件!! ナノにカレシできた!!」
「──マ!?」
ってカンジで。
なんかあっとゆー間に広まってって──教室に着いたらすごい数のトモダチとかクラスメイトに囲まれたり。
「ええ……? なにこれ」
みんなヒマなの?
「ナノってめっちゃモテるくせに今まで一回もカレシ作ったことなくなかった!?」
「いやいやモテるくせにて~言いかた言いかた……まーカレシできたことないのはホントだけど」
「だよね!?」
「てかこの前も他校のイケメンに告られてたじゃん! あれ拒否ったんしょっ?」
「あたし一緒いたとき大学生にもナンパされてたよ~」
「つーかガチでカレシ誰!?」
「おなクラじゃねーよな!?」
「えーと……」
なんでか言っていいのかちょっと悩んだ。
「うちのガッコの人ではあるけど……おなクラになるかはわかんない」
そーいえば先輩、ちゃんと手続きできたのかな?
「てかナノのカレシ、たぶんアタシ見た~」
「マ!? どんなんっ?」
「イケメン? イケメン?」
「んー一瞬だし、よくわかんなかった」
「いみなー! ウケるんですけど」
「でも、たぶんだけど──渡世戒理だったと思うー」
ピンポイントすぎて、声が出なくなった。
そーいえば先輩のお見舞い見られてたんだっけ……。
「ワタセカイリ……って、誰?」
「あ、もしかして二留してるとかゆーひとじゃね?」
「あたし知ってるー。なんか入院してた人でしょ?」
「入院って……ヤバイクスリとかやっちゃってたやつ?」
「ちが──」
「なにそれこわっ」
「え、桑折大丈夫なん!?」
「ナノ~いくら楽しいこと好きっていっても冒険しすぎだよー」
「…………んー……んん……」
これはちょっと……失敗したかなー。
こうなっちゃうとホントのコトを言ってもみんな聞き流しちゃう。
それでおもしろいコトだけを広めていっちゃうんだよな~。
うーん、しまったな。言わないほうがよかったかも……。
案の定、みんなあたしに聞かないで、先輩……架空の『渡世戒理』のことを話しはじめてる。
さーてどうしよ~と思ったとこで。
「あ、先輩」
ちょうど教室に入ってこようとしてる先輩を見つけた。
その瞬間、みんながピタリとおしゃべりをやめていっせいにそっちを向く。
そのままみんなで先輩ガン見。
おお~息ぴったり。
先輩は先輩でみんなに見つめられてるのに、フツーに見返してる。
変な沈黙のあと先輩が目をそらして、みんなヒソヒソモードになった。
「……あの人?」
「え、ぜんぜん怖くなくない?」
「ばっか、よく見ろよすっげえ冷たい目してんぞ……」
「……なんかこえー」
「や、ぜんぜんふつーだし! むしろそこがいいってゆーか……みんなどこ見てんの~っ?」
って言いそうになったけど、ギリギリで耐える。がんばれあたし。
そーしてるあいだに、先輩はゆっくり黒板の前まで移動すると、目を細めながら教室を見回してつぶやいた。
「…………なつかしい、気がするな」
うん……だよね……二〇年ぶりだもん……。
ってほっこりしたのはあたしだけで、みんなのヒソヒソ話がめっちゃ聞こえてくる。
「なんかネンショーから戻ってきたみたいなこと言ってんぞ……!?」
「え、少年院帰り……!?」
「入院ってそーゆうこと!?」
「こわいってマジで……!」
あ~……。
先輩聞こえて……ってよく見たら先輩が冷たい目でドアのほうに手をかざしてた。
──ヤバい。
「先輩ストーップ!」
いきなりあたしが叫んだからみんなびくってしたけど、先輩のほうがはやかった。
「『
教室のドアにいきなり穴が開いて、その向こうにいた先生が悲鳴をあげる。
……あちゃ~。
「…………敵……」
そのままそちらに歩いていこうとする先輩を今度こそあたしは全力で止めた。
「先輩先輩! それ担任のセンセーだから! 敵じゃないっす!」
「……担、任……? …………ああ」
そういえばそんなのもいた、ってカンジですぐわかってくれたのはよかったんだけど。
「──は!? え、なになに!? 今のなに!?」
「銃!? 銃っ!?」
だよね~……。
思わず顔を覆うと。
「大丈夫か桑折。気分が悪いようなら横になったほうがいい。……桑折さえよければ『
「あーいえいえ……ダイジョブです」
てかそこは気づかってくれるんだ……優しいかよ。
まあ先輩が原因なんだけどね。
チグハグとゆーか、なんとゆーか。
……なんかだんだんおもしろくなってきた。
「ふっ……ふふ、やー大変っすね学校生活も」
「……? いや、これより危機的な状況はいくらでもあった。命に関わらない時点でたいしたことはない」
「命に関わらないて!」
学校でのコトを危機的状況て!
「それに、似たようなことは異世界でも経験してる」
「え、マジですか? それ気になる……」
くわしく聞きたいとこだけど──その前に。
「センセーに弁解だけしときましょーか」
苦笑するあたしに先輩は首をかしげた。