第一章 その8
「春斗。最近なんか、機嫌よくね?」
高校入学から一週間近くが経過したとある月曜日。放課後の廊下を歩いていると勇樹からそんな風に言われた。
「そうか?」
「最初は高校入って浮かれてんのかと思ったけど。なんか違うんだよな」
「そんなことねーよ」
まあ、義姉さんたちとの旅行が決まってからこっち、テンション高めなのはあるけど。でも、それでご機嫌なんて、子どもっぽい理由をこいつに聞かせるのは癪だ。
「まあ、あれだけ美人な義姉が出来れば浮かれもするか」
「そんなことないって。大変なんだぞ、色々と」
これまでずっと男所帯、それもほとんどがひとり暮らしみたいな環境で生活してきたんだ。そんなところに複数の女性が入ってきたともなれば、まあ、色々とある。先日の冬華姉さんとのトイレ事件然り。
「その『色々』が俺らからすれば羨ましいんだよ。あの志木先生と志木先輩との共同生活なんて、全校男子の夢だろ」
「羨ましいか?」
「代われるものなら代わりたいって思うぐらいにはな」
「まあ、そりゃそうか」
俺だって勇樹の立場なら同じように思っただろうしな。
「うわー、ムカつくな今の」
「はっはっは。せいぜい羨んでくれ」
「うぜー」
とかなんとか。軽口を叩き合えるからコイツとの関係は楽でいい。これが優美なら変に心配されたりするから、こっちも気を遣うんだ。
「そういや湊は? ここ一週間、放課後はいつも一緒だったろ?」
「部活に行ったよ。今日から仮入部期間が始まったし、高校は部活を頑張るって入学前から息巻いてたしな」
「へえ。湊ってそんなに部活に燃えてる奴だったっけ?」
「中学の時は、なんか楽しそうにはしてたな」
ちなみに、優美の部活はバドミントン。中学の頃は部員同士で仲良さそうにしてたのは覚えてる。みんなでお揃いのリストバンドしたりしてたし。
「ただまあ、高校に入ったら本気でやってみたいって思ったとは言ってたな」
「誰の影響なんだろうな」
「知るか」
絶対からかってくると思った。くそ、そのニヤニヤした笑いをやめろっての。
「俺からすればすげぇと思うけどな。春斗も湊も、よく部活なんてやる気になるな」
「俺に付き合ってるお前が言うか?」
俺たちが今向かってるのも、部活というか、同好会だぞ?
「俺はただの暇潰しだ。後は興味本位。春斗が本気になったものを見てみてえってだけ。それに、部活にしろ同好会にしろ在籍してれば、なんかの時親への言い訳になるだろ」
「幽霊部員になる気満々じゃねぇか」
「そんなにやりたいってわけでもないしな。だから羨ましいよ、お前や湊が」
そう言われると何だか無性に照れ臭いんだが……。誘わない方がよかったか? でも、それだとぼっちになる可能性もあるからな。まあ、まだ仮入部期間だし、いいだろ。
「しっかし、すげぇよな。その“アニメーション同好会”って。俺もアニメは見るけど、作ろうとは思わないぞ」
「まあな」
俺もそう思っていたからこそ、去年の文化祭での上映会を見て感動したんだ。
アニメを見る物じゃなく、作る物として取り組んだ人たちがいたから。しかも、高校生で。
「ていうか、ヤバいな。よくよく考えたら今からあの神作を作った人たちと会うのか」
「……何を今更言ってんだよ」
勇樹がアホかって視線を向けてくる。
でも、仕方ないだろ!? そういうテンションになるだろ、普通! だってこれから会うのは、“あのアニメ”を作り上げた神だぞ、神!!
「あー、ヤッベぇ。めちゃくちゃ緊張してきた」
「まだアニメーション同好会の部室に着いてすらいないぞ」
「勇樹。お前にはこの興奮がわかんないのか!?」
「わかんねぇって。俺、その作品見てないし」
「それ、マジで人生損してるから。絶対見た方がいいから」
「はいはい。機会があればな」
くそー、動画がネットに上がってれば見せれたのに。どれだけ探しても見つからなかったからな。俺だってもう一回見たいのに!!
「でも、高校生が作ったんだろ? だったら出来もそこそこなんじゃねぇの?」
「勇樹。お前、ケンカ売ってんのか?」
「ガチな眼差しやめろ」
「だったら、お前も変な事言うんじゃねぇよ」
危うく手が出そうになったじゃないか。
「はあ、悪かったよ。っとに、オタクってメンドクセーな」
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ったんだよ」
なんて呆れるように言われても、しょうがない。俺にとってあの作品は紛れもなく“神”だったのだから。
キャラクター。
設定。
世界観。
作品の基本となる3つの要素はとても魅力に溢れていた。
ストーリー。
演出。
音楽。
作品を彩るそれらは基本となる3つの魅力をふんだんに活かしきっていた。
だからこそ、その作品を通して伝えたいテーマが、ものすごい説得力を持って見ている俺には伝わってきた。
なんだったら、今期でやっているどのアニメよりも『すごい』と思えてしまうぐらいに。
「着いたぞ」
そうこうするうちに、俺と勇樹はとある扉の前で立ち止まっていた。
校舎の端っこ。文科系部室や他の同好会、空き教室なんかが並ぶその一角に、その部屋はあった。扉は他の教室なんかと変わり映えはしない極々普通のもの。
ただ、その扉の上。下手くそな字で書かれた“アニメーション同好会”という表札は、他のどの部屋のそれよりも、輝いて見えた。
「春斗……?」
「あ、ああ」
「緊張してんのか?」
「べ、別にそんなんじゃねぇし」
そんなことはない。めちゃくちゃ緊張している。
この扉の向こうにあの神作を作り上げた神がいるのかと思うと、もうどうしようもないほどに緊張している。
手汗やばいし、めっちゃのど乾いてるし。何なら受験当日より緊張してるまである。
「よし、行くぞ」
「いいから、早くしろって」
急かす勇樹を若干疎ましく思いながらも、意を決して、コンコン、と扉をノックする。
「…………」
「…………」
無言のまま、勇樹と一緒に返事を待つ。
10秒、20秒、30秒……。
いくら待っても返事のない扉を、もう一度ノックをする。
「…………」
「…………」
しかし、返事はない。
「これ、中に人いるのか?」
「わからない」
勇樹の問いに答えながら扉の取っ手に手をかける。グッと横に引き、開いた扉から一歩中へと踏み込むとそこには、
「春斗。この同好会、本当に活動してるのか?」
「……わからない」
返す言葉は同じでも、そこに込もった感情は先ほどの比ではない。困惑が大きく、はっきり言って途方に暮れている。
「何にもないな」
勇樹の言葉通り。“アニメーション同好会”と表札が出ていた部屋の中は、パイプ椅子と長机がいくつか置かれているだけで、他には何も、それこそ筆記用具のひとつすらも存在しなかった。まるで、ただの空き教室のように。
「え、マジで……?」
思わずそう呟かずにはいられない。その響きに、自分がどれだけ“アニメーション同好会”での活動を楽しみにしていたのかを思い知る。
そして、その期待が大きかった分だけ、空虚が失望となって胸にこみ上げてくる。
「なあ、春斗。ここ、もう活動してないんじゃないか?」
教室の中を見て回っていた勇樹がそう口にする。目の前の光景が、どうしようもない真実味をその言葉に与えている。
「どうするよ?」
「どうするたって、どうしよう……」
どうしようもない。だって、この部室には人の気配がしないのだから。
「とりあえず帰るか?」
「いや! いやいやいや、それは待てって!」
「でもよ、春斗。他にどうしようもなくないか?」
わかる。勇樹の言う事もわかる。だけど、でも、それはちょっと待ってくれよ。
「職員室! 職員室に行こう!! 先生なら誰か、アニメーション同好会について知ってるかもしれないし!」
「……わかったよ」
無駄かもしれない。この部室を見る限り、アニメーション同好会が活動してないのなんて、一目瞭然だ。
それでも俺は諦めきれない。
だって、アニメーション同好会に入るためにこの高校に入学したんだぜ? そんな簡単に諦められるわけないだろ。
そんな思いで縋るように職員室へと足を運び、そして──。