二章 赤根凛空 その2
《六月二十六日水曜日》
今日も俺は走っていた。
風の音、息の音、アスファルトを跳ねる靴音。運動公園が近づき、そこにフルートの音が微かに交じって来る。
どうやら今日も彼女は来ているらしい。
運動公園に入ると、コンクリートの表彰台に立って彼女が演奏していた。
曲名はわからない。
今日も制服姿の彼女はフルートの上を走るように指を動かす。
他人が演奏する姿などまじまじと見たことはなかったが、とても美しく思えた。
表彰台の方へ近づくと、俺に気付いたのか彼女は演奏を止めた。
「こんにちは」
「その声は、昨日の方ですね」
「今日は君の方が早かったみたいだな、ここでトレーニングしてもいいかな?」
「少しうるさいかもしれませんが」
「全然構わないよ、僕の場所じゃないからね」
どうやら冗談が通じたらしく、彼女は少し頬を緩ませて笑った。
媚びるようじゃない、自然な表情にどこかホッとする。
フルートの音をバックサウンドにしてのトレーニングは新鮮だった。
一時間ほど集中して、トレーニングを終わらせ表彰台の方へと向かう。
彼女もちょうど練習が一段落したようで、座って水を飲んでいた。
足音で俺が近づいて来るのに気付いたのか、彼女はこちら側へと軽く向き直る。
「トレーニングが終わったからそろそろ失礼するよ」
「あっお疲れ様です、うるさくなかったですか?」
「全然、むしろ素敵な演奏でいつもより集中できたくらいだよ」
「ありがとうございます、お世辞でも嬉しいです」
本心から嬉しそうに彼女は小さくはにかんだ。
「音楽は詳しくないけどお世辞じゃないって」
「そう、ですか?」
さらに嬉しそうに彼女は両手でフルートを握る。どこまでも自然な反応に先週から張り続けていた神経が緩むような気がした。
「曲って覚えてるのか?」
「ええ、演奏中に見ることはできませんから、暗譜してるんです」
「そうか、凄いな」
「普通ですよ」
誇張でもなく、それは彼女にとっての普通なのだろう。特別であることが俺の普通であるのと同じように。
「それでも凄いよ」
だからこそ自分にとっての普通を行うことの、それに必要な努力を俺は知っている。
「演奏するのが好きですから」
「だから、あんなに綺麗な音になるんだな」
「そう聞こえたのなら嬉しいです」
彼女は愛おしそうにフルートを撫でた。
「君は、まだ帰らないのか?」
「はい、もう少し練習してから」
「そうか、気をつけて」
「あなたも」
《六月二十九日土曜日》
部活が週末だけになった影響で、身体を慣らすところから野球部の練習は始まった。
普段から自主トレをしていれば必要ない行程だが、時には凡人に合わせることも必要だ。
充実したとは言い難い練習は昼過ぎに終わり、部室を出ると案の定、白川希美と栗田萌愛が待ち構えていた。
「ねえ、赤根君、この後遊び行かない?」
「最近赤根君直ぐ帰っちゃって、全然話できてないしさ」
何故俺が直ぐに学校を出るのかを全く理解できていない様子に、頭が痛くなる。
「殺人犯がいるかもしれないのに?」
「そしたら、赤根君が守ってくれるでしょ」
こんな不毛なやり取りを断ることができるなら、どれだけいいだろう。
しかしここで断れば流石に心証が良くない。これも俺が特別であるために必要なことだと自分に言い聞かせた。
「ああ、守ってやるよ」
赤根凛空として生きるのは楽じゃない。
「なかなか、疲れた顔をしているね」
夜、ガキが今週もクジを引かせにやってきた。
「このくらいたいしたことじゃない」
白川希美と栗田萌愛との時間は不毛の一言で、表面上楽しげに振る舞ったが、あてのないウィンドウショッピングも、使うことのないプリクラも、何一つ建設的な言葉の出ないカフェも酷く退屈だった。
「まぁ、君の事情などどうでもいいが、ほらクジ引きの時間だよ、残り十一人、十一分の二、まぁまぁな確率だな、今週は当たるといいね」
ガキが箱を取り出す。
異能者同士の戦いで、それを決めるのがこんな原始的なクジ引きってのはどうだろう。
俺の引いた紙には今週もなにも書かれてはいなかった。
「残念、また来週までお預けだね」
言うと同時にガキは消える。
外れクジに少しだけ安堵している自分がいた。
少なくとも、来週の月曜日が俺に確実にやってくる。
白川希美、栗田萌愛と過ごした不毛な時間に俺が考えていたのは名前も知らないフルートの女子のことで、俺が唯一赤根凛空として振る舞わなくていい時間のことだった。
特別である自分を特別としない人間を求めている。我ながら都合がいい。
《七月一日月曜日》
六月が終わったが、月摘が学校に来る気配はなかった。一応、メールで連絡は取っているが反応は芳しくない。
それほどまでに、彼女にとってサコの存在は大きかったのだろう。
彼女としてもサコのいない学校に来る意味はないと思っているのかもしれない。
俺にとっても今の学校はあまり居心地のいい場所ではないから、その気持ちもわかる。
友人を失った赤根凛空を励まそうと、節操のない女子たちはいよいよ教室でも俺を囲むようになってきていた。
サコのポジションをめぐる男子たちのささやかな争いも起こっている。
どちらも俺にとっては激しくどうでもよく、同時に不快だった。
学校が終わって、直ぐに俺は逃げ出すようにランニングへ向かう。
いや、目的はランニングではなくその後なのかもしれない。
運動公園へとたどり着き、表彰台の方に近づくと彼女は演奏を止めた。
「こんにちは」
彼女から先に声をかけられたのは初めてだ。
「俺が来るのがわかったのか?」
「足音でわかりますよ」
「俺の足音で?」
「人によって結構違うものですよ、体格とかもある程度わかったりしますし」
彼女は髪を揺らしながら、楽しげに話す。
目が見えない分、聴力が高くなるという話は聞いたことがあるが、そういう類いなのだろう。
「そうなのか、俺の体格を当てられるか?」
「声が上からですから背は高いですよね、歩幅は大きめでしっかりと地面を踏みしめる歩き方で、でも音は重くないので、身体を鍛えているけれど体重はそこまで重くないと思います、合ってますか?」
「本当は見えてるんじゃないかと思うくらい正解だ」
「見えてたら真後ろでフルートを鳴らしたりはしませんよ」
「それもそうだ」
「今日もトレーニングですか?」
「ああ、君も練習だろ?」
「はい」
「それじゃ、お互い頑張ろう」
こう、他愛のない話をしていると改めてこの時間が俺にとって救いだとわかる。
互いに名前さえ知らない。いや、知らないからこそこの気楽な関係なのだろう。
先に俺のトレーニングが終わり、彼女の演奏が終わるのを待つ。
汗を流しながら、フルートを懸命に吹く彼女は自分ではその姿を見ることは叶わないだろうが、とても美しく尊いものに思えた。
「今日も素敵な演奏だったよ」
「ありがとうございます」
やはり嬉しそうに彼女はフルートを握りしめる。
俺が毎回褒めるので、彼女は謙遜を止めたらしい。
汗を拭って、腰を下ろした彼女の隣に俺も腰掛ける。
「あの、毎日トレーニングに来られていますけど、なにかスポーツを?」
水で喉を潤した彼女は俺の方向に軽く頭を向けて首を傾けた。
純粋な好奇心だと知っていても、俺はその質問が彼女から来ることを恐れていた。
「野球をやってるよ」
それは切っ掛けに過ぎないだろうが、そこから更に俺を知れば、やがて俺が赤根凛空であることに気付く。
そうなればこの時間も終わるだろう。
「あっラジオでやってるのを聞いたことがありますよ、有名なスポーツなんですよね」
だが、彼女の返答は俺の想定していたものとは少し違っていた。
「もしかして、野球を知らないのか」
「スポーツには疎くて、すみません」
「いや、そうだよな、目が見えないと野球はわからないよな」
俺は胸をなで下ろす。失礼かもしれないが、彼女が盲目であることに感謝すらしていた。
彼女なら俺が赤根凛空であっても変わらずに振る舞ってくれるかもしれない。
「あっでも、野球する人もいますよ、健常者の方がするものと少し違うらしいですけど」
「目が見えないのに野球を?」
「はい、色々と工夫すればできるらしいですよ」
「それは凄いな」
「健常者の方が思うよりも私たちは自由ですから」
「そうだな、君の演奏が見事なのを棚に上げるところだった」
「もう、隙あらば褒めますね」
恥ずかしそうに彼女は頬を膨らました。
「事実だから仕方ない、それじゃそろそろ帰るよ」
「はい、また明日」
「ああ、また明日」