第二章 魔眼 その1
モニカが失踪した。
誰にも、何も言い残さずに、いなくなってしまった。ターコイズ王国からヴァーミリオン王国へ帰国する道中、誰にも知られずに姿を消したというのだ。
いったい何が起きたのか?
モニカはどこへ行ってしまったのだろうか?
捜索隊は編制されたが、発見には至らず、時間だけが過ぎていき、やがて、国の上層部はモニカの捜索を諦めた。
しかし、シオンは諦めなかった。諦めるという選択肢はシオンにはなかった。誓ったのだ。結婚して、絶対にモニカを幸せにすると。
死んだと決まったわけではないのなら、探すしかない。簡単に諦めたら、きっとモニカに怒られる。
だから、シオンは城の外に広がる世界へ目を向けるようになった。そして、今まで以上に努力することにした。
第一王子の立場では自由に城の外へ出ることはできないけれど、ただ腐るよりは遥かにマシだと思ったから。
でも、周囲はそれを許そうとしなかった。シオンはモニカの代わりに、モニカの妹であるエステルと婚約させられることになる。
エステルはモニカを通じて親しくなった仲で、シオンの数少ない友人の一人だ。エステルもシオンの気持ちは知っていてくれたから、無理しないでくださいと言ってくれた。
けど、国同士が決めた話だから、当事者であっても拒絶はできず、表向きは婚約者として振る舞うことになる。
そうしてさらに時は流れ、モニカの失踪から二年が経ち……。
シオンは十三歳になった。
◇ ◇ ◇
ある朝、ターコイズ王国の第一王子の寝室で。
シオンがおもむろに目を開けて――、
「またこの夢か……」
ぽつりと、苦々しく呟いた。
シオンは十三歳になってからここしばらく、頻繁に同じ夢を見るようになっていた。モニカに出会うまではよく見ていた夢だ。モニカに出会ってからは、あまり見ないようになってしまった夢でもある。
いや、夢自体は見ていたのかもしれないが、モニカのことに夢中でさして気にとめていなかったのかもしれない。当時はモニカに相応しい相手になろうと、目を覚ますと毎日のように早朝訓練に励んでいたから。
まあ、早朝訓練は今でも行ってはいるのだが……。
何度も何度も同じ夢を見ているからだろうか。
当時は朧気に夢を見ていた程度のことしか思い出せなかったけど、昔よりは夢の内容を覚えている気がする。
それはやはりここではない違う世界で、生きている夢だ。
だが、辛い夢だ。プレッシャーばかりで、嫌なことだらけで、楽しいことなんて何もない人生を過ごす夢だ。
頑張っても褒められることなんてなかった。辛いことばかりの人生だった。たった一つ、楽しみにしていることもあったが、それも奪われた。
だから、最後は……、最後は……。
「また思い出せない」
まるで靄がかかっているように夢の記憶が急速に薄れてしまう。
シオンはもどかしそうに顔を曇らせた。
自分の中に誰か、知らない誰かがいる。
いや、いるかもしれない。
その答えは自分にもわからない。思い出せない。
だから、思い出したい。思い出して、自分が何者なのか、自分が誰なのか、それを知りたい。そんなことを、ふとした拍子にいつも思う。
「……こんな夢ばかり見るのは、俺が俺以外の誰かになりたいからなんだろうか?」
モニカの失踪から二年。
いまだ生還の知らせは届いていない。国の上層部もとっくに忘れ去っているように振る舞っている。
けど、きっとモニカはこの世界のどこかで生きている。シオンはそう信じている。だから、外の世界に出ていって、失踪したモニカを探しにいきたい。
けど、第一王子の立場ではそれができない。そんな現状がもどかしかった。外の世界に出られるのなら、別人にだってなりたい。
自分以外の誰かとして生きる夢ばかり見るのは、そんな自分の願望が発露した結果なのかもしれない。
「…………」
シオンは自虐的な笑みを覗かせると、視界に入ったサイドテーブルに置いていた小説を手に取った。
表紙には「英雄ノアの大冒険」と書かれている。それはモニカが好きな小説のタイトルで、シオンも子供の頃から憧れて読んでいた小説だ。
何度も読み込んだ本である。お気に入りのシーンならそらんじることもできる。この本の感想を一日中語り合ったこともあったし、いつか二人で一緒に冒険者になって、冒険に行こうと約束したこともある。二人の立場で外の世界で冒険をすることがどれほど難しいのか、よく知りもしないまま……。
「…………さて、訓練だ」
シオンはサイドテーブルに本を置き直すと、朝の日課をこなすため、城内の演習場へと向かうことにした。
どこか、つまらなそうな様子で……。
◇ ◇ ◇
この世界は概ね、無駄に平和だ。
ターコイズ王国とヴァーミリオン王国を含む近隣諸国では、この数百年間、ただの一度も大規模な戦争が起きたことはない。国にとって大きな変革が起きたこともない。
各国が共通に崇める『グリゴリ』という天使達が定めた聖典によって、国同士の大きな争いが禁じられているのだ。
しかし、それでも万が一に備えて他国への抑止力は必要だ。治安維持のための実力も必要だし、危険な生物も蔓延っている。
だから、国は一定の費用を投じて軍を編制し続けている。世界が平和でも力をつけることは無意味じゃない。理不尽な火種は至るところにあるのだから。
けど……。
自分が日課としてやっているこの訓練に意味はあるのだろうか?
モニカを探すために外の世界に出たいのなら、他にもっとすべき努力があるのではないだろうか?
シオンは最近、そんなふうに思う時がある。
二年が経った。モニカが失踪してから、二年が経ったのだ。だというのに、シオンはいっこうに外の世界に出られない。
外の世界に出て自由に動き回るために、城から脱走するという手段を除いておよそ考え得るあらゆる手段を模索して努力してきたが、どんなに努力をしても報われない。
自分の努力は無駄なんだろうか?
と、シオンはそんなことを思って、今日も演習場の敷地に入る。既に日が昇っているのか、目映い日差しが演習場を照らしていた。
「眩しい」
シオンは演習場の入り口で目映そうに眼を細め、無駄に平和な空を見上げた。
本当に、うんざりするほどに平和だった。
続けて日差しから逃げるように視線を下げると、演習場内には高級そうなクロースアーマーにその身を包み、模擬剣を携えた一人の剣士が立っていて――、
「……おー、おはよう。クリフォード」
シオンは幼馴染の友人に声をかけた。クリフォード・ヴァーミリオン。ヴァーミリオン王国の第一王子であり、モニカとエステルの兄である。
年齢はシオンの二つ上で十五歳。
まだ成長途中で身体は出来上がっていないが、その剣技は既に最強の頂を射程に入れている、剣の天才だ。
そんな隣国王子のクリフォードがどうしてターコイズ王国の演習場にいるのか。それは昨日からクリフォードがターコイズ王国へ遊びに来ているからで――、
「おはよう、シオン。待っていたよ」
クリフォードは嬉しそうに顔をほころばせ、シオンに語りかけてきた。
「うん。俺はなんだか無性に引き返したくなってきた」
シオンは億劫そうに溜息をついて応じる。
「数ヶ月ぶりの再会なんだ。互いの腕前がどれだけ上がっているのか、手合わせといこうじゃないか」
「いや、昨日の晩餐で再会してたっぷり話をしたじゃないか。それに、剣術で戦ったら俺がお前に敵うわけがないだろう」
「細かいことはいいんだ。確かに剣術だけで戦ったら十回中十回俺が勝つ。けど、シオンはそこいらの剣士よりも動ける。そして、シオンの本領は魔法にある」
つまりは、剣と魔法を組み合わせて戦えば、シオンはクリフォードにも迫るということだ。
「せっかく休暇を利用して隣国から来ているんだから、今日くらい休めばいいのに」
「つれないことを言わないでくれ。俺はシオンと遊ぶためにエステルと一緒にターコイズまで足を運んだんだから」
「だったら違う遊びをしよう。ボードゲームとか」
「それはそれで面白そうだけど、朝の手合わせもやろう。どうせ二人ともこの場で訓練をするんだから」
「朝からしんどいなあ」
「しんどいのが嫌な奴は毎朝、早朝から訓練なんてしないさ」
クリフォードはずばり断言する。
「ははっ。俺はそれでもしんどいのは嫌だよ」
シオンが疲れたように笑って言う。
「……頑張りすぎなんだよ、シオンは」
クリフォードがぽつりと呟く。
「ん?」
シオンは少し眠そうな顔で首を傾げる。
「いや、なんでもない。直にエステルも来るはずだ。俺の次に相手をしてやってくれ」
「ええ~? 朝からヴァーミリオンの戦兄妹と連戦とか、余計にしんどい……」
「そう言うな。エステルもお前と手合わせするのを楽しみにやってきたんだから。こないだ会った時にシオンに近距離戦で後れを取ったのが悔しかったみたいだ。今日は絶対に勝ってみせると息巻いていたぞ」
「あー、そうか……。なら、仕方がないか」
エステルの名前が出ると、シオンは存外あっさりと受け容れた。姉のモニカを好いているにもかかわらず、妹のエステルと婚約関係にある。その事実が後ろ暗いのだ。
だから、ほんの少しだけ、後ろめたそうな陰を覗かせた。クリフォードにも気づかれないくらいに……。
「おいおい、俺との対戦は嫌がったくせに、エステルとの対戦はすんなり承諾するんだな」
クリフォードが少し戯けて指摘する。
「エステルは婚約者だからな。いつもイリナの相手もしてもらっているし。あいつ、エステルのことを実の姉みたいに慕っているから。そのお礼だよ」
シオンはふふんと笑って今の婚約者であるエステルのことを語り、先ほど一瞬だけ覗かせた後ろめたそうな陰を完全に消し去った。
「なるほどな。つまりシオンはシスコンってことだ」
クリフォードはニヤリと笑って言う。
「……それはお互い様だろう、お兄様?」
シオンはふふんと頬を緩めて言い返す。
「お兄様は止めてくれ。ゾワリとする」
途端に苦笑いするクリフォード。
もしも将来シオンとエステルが婚姻を結べば、クリフォードはシオンの義兄になるのだが、時折シオンはこうやってクリフォードをからかう時がある。
「冗談はこのくらいにして、始めるか?」
シオンが嘆息し、クリフォードに水を向けた。
「ああ。もっと奥へ行こう」
そうして、二人は演習場の入り口付近から奥へと移動する。ある程度動き回って派手に戦っても周囲に物的被害が出ないくらいの位置へ来ると――、
「ここら辺でいいか」
シオンが呼びかけた。
「ああ。いつでもかかってきていいぞ」
クリフォードが向き直り、余裕のある表情で告げる。驕っているわけではなく、油断しているわけでもない。現にクリフォードには微塵も隙がなく、訓練用の模擬剣を手にしている。
「ふーん……、じゃあ!」
シオンはノーモーションで駆け出し、勢いよくクリフォードに模擬剣を振るった。
「おいおい、魔法は使わなくていいのか?」
クリフォードは自分の模擬剣で難なくシオンの一撃を受け止め、ふふんと笑って真正面から問いかける。
「剣だけでどこまでクリフォードと戦えるようになったのか確かめたいんだ」
「なるほどな。じゃあ、シオンが魔法を使うまで、俺も闘気は使わないでやろう」