ヒュドラ

その8

 勇者とは種族を守るために生み出される、人間側の防衛反応だ。


 その対存在は、『火の王様』と『闇の王様』だけだった。たとえ『伝説級』の幻獣であっても、ヒュドラは比較対象にすらならない。故に―――永遠の炎を手に入れた―――世界を滅ぼす者と世界を救う者の前では、不死の蛇もただの獣のようなものだった。


『闇の王様』と勇者の共闘の威力は、それだけ圧倒的だった。


 クーシュナは毒液を防ぐ盾を造り、勇者は的確に剣を振るった。二人の防御と攻撃の分担は、打ち合わせをしたわけでもないのに完璧だった。燃える刃で首を切り落とされ、傷口を焼かれる度、ヒュドラは再生能力を失った。頭を失った胴は情けなく地に倒れた。


 最終的に、不死の首は地中深く埋められ、岩で封じられた。

 丁度、ヒュドラが王都を目指していた途中の森での出来事だ。


『闇の王様』と勇者の戦いは、誰にも目撃されなかった。

 こうして、実に密やかに偉業は成し遂げられたのだ。


「………終わった、のね」


 ヒュドラの首を封じる巨石を眺め、フェリはそう囁いた。


 大地は毒液に侵され、世界は深く傷つけられた。多くの動物と人間と幻獣が死んだ。だが、伝説級の獣害は遂にその幕を下ろしたのだ。


 こうして、人と幻獣の世には再び平和が戻った。


 しかし、現実は物語とは違うのだ。めでたしめでたしと幕が下りることなどない。


「『火の王様』は最後には助力してくれたわ。それでも、幻獣への悪感情は高まり、人々は『王様』達を排除しようとするでしょう………一体、どうすればいいのかしら」


 フェリは低く呟いた。救われた世界には、あまりにも重い課題が残されている。


 ヒュドラという脅威に晒された人々は、幻獣を憎むことだろう。それに伴い、『火の王様』の噂も広まることが予測された。最後には協力をしてくれたとはいえ、彼の振る舞いは人類に対して友好的だったとは言い難い。多くの幻獣調査官も亡くなっている。


 今代の勇者が死ぬ前に、『火の王様』を討伐させようという動きは高まることだろう。


 その存在が知られた以上、フェリと『闇の王様』も逃亡しなくてはならなかった。だが、一箇所に留まる『火の王様』は二人とは比較にならない程の危険に晒されるはずだ。


 それに、再び人が城を訪れることがあれば、世界を滅ぼすと彼は宣言していた。


 しかし、恐れから、人間達は炎の城へ踏み込もうとするだろう。


「結界を再び張り直してもらって………でも、それを解く術を誰かが見つけないとも」


「ぼくが、いくよ」


「えっ?」


 思いがけない言葉を耳にし、フェリは顔をあげた。彼女の前では、勇者の青年が微笑んでいる。炎の宿る剣を掲げ、彼はもう虚ろではない瞳で繰り返した。


「ぼくが、いく。だから、きみはみんなに、それをつたえて。ひろく、ひろく、勇者

はつとめをはたしたって、いって」


『勇者』と、青年はその部分だけは明確に発音した。彼の意志を理解し、フェリは戦慄した。青年は先んじて人々の期待を果たし、『火の王様』を討つ気でいるのだろう。


 そうすれば、確かに『火の王様』に世界を滅ぼされることはなくなる。だが、慌てて、彼女は彼の鎧に包まれた腕をぎゅっと掴んだ。


 ヒュドラを討ち、勇者は務めを果たしたはずだ。必死に、フェリは青年に語りかける。


「何を言うんですか。あなたはやっと、ヒュドラを倒して自由に………それに、『火の王様』は今まで世界を滅ぼすことなく、力も貸してくれたのです。彼を傷つけては」


「ぼくは、いかなきゃ。そして、もう、もどってはこないよ」


 彼は頑なに首を横に振った。真っ直ぐに青年はフェリを見つめる。彼女は口を開いた。


 そこで、フェリはその名前を知らないことを思い出した。


 彼は勇者だ。

 ただ、それだけの存在だった。


「だから、つたえて。だいじょうぶだよ。しんじて」


 勇者は微笑む。


 かつて、表情の作り方すら知らなかった子供が、何もかもを背負うように。

 そして、彼は手を掲げて指を鳴らした。


「――――――せかいは、おわらないから」


 蒼い光が―――他の人間達の借りものとは違う、生まれながらに備わっている魔力が―――彼の全身を走り抜けた。それは大気までをも侵食し、辺りを眩しく覆い尽くす。


 勇者の織り成す光の中、フェリは必死に手を伸ばした。



「待って―――――――っ!」


 いつかと同じように、青年は手を伸ばし返さなかった。だが、今度は、彼は頷いた。

 どうすればいいのか、今はちゃんとわかっているというように。


「バイバイ」


 とても、幼く手を振って。

 子供そのままの言葉を残して、勇者は消えた。


 フェリはその場に崩れ落ちた。蜂蜜色の目から涙が零れ落ちる。大きく瞼を見開き、彼女は誰もいない虚空を瞳に映した。呆然と座り込んだまま、フェリは小さく呟く。


「………そんな………あなたの、あなたの人としての幸せとは、なんだったのですか」


 悲しみに震える声で、フェリは呟いた。クーシュナは何も言わない。主の嘆きを察知したのか、鞄の中からトローは顔を出した。彼はぴすぴすと鼻を鳴らす。


 慰めの声をあげようとした時、トローはある匂いを嗅ぎ取った。空気はまだ毒の刺激臭で満たされている。だが、そこに柔らかな香りが混ざっていたのだ。


 春の匂いだった。

 長い長い時間が過ぎた後、再び、かつてと似た季節が訪れようとしていた。


               *   *   *


 その後、調査員フェリ・エッヘナは『闇の王様』を伴い、『火の王様』の城を再訪した。だが、森の中に揺れていた炎は消滅していた、城内には『王様』の姿もなかった。


 長く誰も棲んでいなかったかのように、そこから生き物の気配は消えていたのだ。


 勇者の行動を国へ伝達後、フェリ・エッヘナは自らも姿を消した。


 それから、世界は滅びなかった。何日経っても滅びなかった。

『火の王様』と共に消えた勇者も、二度と帰ってはこなかった。


 人々は彼を讃え、話や歌にして、英雄譚を語り継いだ。

 世界を滅ぼす『火の王様』を打ち倒した、勇者の話を。


 だが、彼は確かに人だったのだと、一人の少女だけが知っている。

 めでたし、めでたし。



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綾里けいし先生の『幻獣調査員』をお読みいただきありがとうございました。

この作品の続きは、文庫『幻獣調査員 第2巻』にてお楽しみください!

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