マーメイド

その2

 再び、フェリ達は三日月形の浜辺を訪れた。


 先ほどよりも波の位置は高く、青色の海は階段付近まで迫ってきている。クーシュナは人魚が辺りにいないのを確かめると、フェリの影の中に溶けこんだ。

 

 フェリは階段の終段に膝を立てて座り、杖を抱えると眠るように目を閉じた。心地いい夏の熱と波の音に、彼女は包みこまれる。そのまま彼女がうとうとし始めたころ、不意にカッと硬い物同士がぶつかるような音がした。


 慌ててフェリが目を開くと、毒々しい色の貝がクーシュナの盾に弾かれ、砂浜に落ちるところだった。その中から脚をだしたヤドカリに、彼女が気をとられていると、冷たい声が響いた。


「また来たのあなた達。まぁ、なんて恥知らずで迷惑な人間だこと」


 不機嫌に唇を尖らせる人魚に、フェリはぺこりと頭を下げた。彼女は改めて、人魚の夏の海をそのままはめこんだような青い瞳をじっと見つめた。


「実は、あなたにお聞きしたいことがあるのです」

「何よ。あなたに話すことなんて何もないわ。私が話すのは私のいい子だけよ」

「幻獣書、第一巻九十三ページ――『人魚マーメイド――地域固有種を除く』」


 フェリの足元の影が伸びると、階段の上にごとりと分厚い本を置いた。その見た目は、以前フェリが飛竜の項目を参照した本よりも更に古びている。膝の上に大事に本を抱え、フェリは黄ばんだページを丁寧にめくった。


「『妖精種。上半身は美しい乙女の姿、下半身は魚の尾をもつ幻獣』『海に関する予言の力と薬草に関する知識を持つ』―――書にはそうあります。今、街では多くの娘が肺病を患っているのです。よろしければ、この周辺に生えている肺病に効く薬草を教えてはいただけませんか?」


「あなたは馬鹿なの? 身のほどをわきまえなさい。なんで私のいい子でもないあなたなんかに、私が教えなきゃならないの?」


「多くの娘達が困っているのです。もしもご存じでしたらお助けいただければ幸いです」


「あのね、都合のいいことを言うのはよしてちょうだいよ。人が困っていても私にはなんの関係もないわ………えぇそうよ。えぇ、そうね。なんの関係もない、のだけれど」


 人魚は言葉を迷わせ、目を伏せた。彼女は黙って何かを考えだす。その長い睫毛の先から、真珠のような海水の滴がいくつも零れ落ちた。やがて、彼女はぼそりと呟いた。


「『甘い陸のたまご』を持ってきてくれたのなら、教えてあげてもいいわ」

「『甘い陸のたまご』、ですか?」


 その言葉にはどこか切実な響きがあった。だが、次の瞬間、人魚はどうせ無理だろうと言うように小馬鹿にするような表情を浮かべた。金髪を掻きあげ、彼女は唇を歪める。


「えぇ、持ってこられなかったら、教えてあげない。それくらいできるわよね?」

「わかりました。善処しましょう」


 フェリがそう請けおうと、人魚は不機嫌に鼻を鳴らした。彼女は身を翻し、尾をくねらせ、素早く海底へ消えていく。フェリは座ったままそれを見送った。クーシュナは彼女の背後に現れるとふざけた仕草で階段の端に片足で立ち、ぐるりと回った。


「で、我が主よ? 『甘い陸のたまご』とは何のことか、お前にはわかるのか?」

「ううん、ちっともわからない」


 フェリは堂々と応えた。やはりそれでこそお前よなと、何故かクーシュナは満足げに頷いた。その目の前にトローが飛びだした。彼はパタパタと飛びながら何事かを訴える。


「うん? どうした、小僧っ子? なになに? 甘い卵を産む鶏がいるかもしれない? いるか、たわけ。いるとすれば、それはバジリスクの亜種か何かだ」


 ピンッとクーシュナはトローの鼻先を指で弾いた。トローはくるくると吹き飛んだが、翼を一打ちして自力で止まった。イーッと歯を剥きだして、彼はフェリの頭の上に戻る。


 いたら素敵よね、新種よと、トローを慰め、フェリはヴェールを揺らして歩きだした。彼女と共にクーシュナも階段を昇り始める。


「で、またまたどこに行く気だ、我が花よ?」

「私には『甘い陸の卵』が何かはわからない。でも、大丈夫。きっと知っている人は知っていると思うから」


 彼女は足を止めると、クーシュナを見あげ、柔らかく微笑んだ。



「だから、知っている人を探しに行きましょう」


                   ***


「アイツ自身は悪い奴じゃねぇんだが………人魚は網にかかると嵐を呼ぶからな。で、人魚はアイツのために街の近くに来る。漁師は避けてるし、まだ被害にあった奴もいねぇ。だが、人に不運ばかりを運ぶ奴から幸運を受けてりゃ、そりゃ嫌われるだろうよ」


 そう酒場の店主は言った。だが、彼は特に隠すことなく、青年の家を教えてくれた。


 長旅の疲れで両親が早くに亡くなって以来、青年は街外れに位置する断崖の先の家に、ひとりで棲んでいるという。


 フェリは崖の先端の緑茂る丘へ続く坂を昇った。橙色の屋根が鮮やかな屋敷に近づくと、黒髪の青年が涼しげな木陰に座っているのが見えた。竪琴の手入れをしている彼の上では、果実を実らせた木がさわさわと優しく揺れている。青年はフェリに気がつくと竪琴を置き、慌てて立ちあがった。


「………あなたは。先ほどは、どうもありがとうございました」


 彼はそう頭を下げた。それにフェリは首を横に振って応える。


「いいえ、私は当然のことを言ったまでです。礼を言われるようなことは何も」

「何を言うんですか。あんなことを言ってくれた人は初めてでしたよ」

「あんなこと?」

「………僕のことを馬鹿にせずに、自然だと」


 そう青年はうつむくと唇を噛んだ。彼はひどく悔しげな表情を浮かべる。彼は苦しみを訴えるように漁師達が着ているものよりも遥かに上質な自身のシャツの胸元を掴んだ。


 不意に、海風がその背中に強く吹きつけた。風に呼ばれたかのように、彼は後ろを振り向く。フェリも続いて、手作りの柵の向こう側を覗きこんだ。


 遥か崖下には青い海が広がっていた。まるで波に浮かぶ木の葉のように、いくつもの船が視界に散っている。その後には白い泡の線が続いていた。猟師達は今頃必死になって魚を捕っているのだろう。その光景を眺め、青年は吐き捨てるように言った。


「呑気なものでしょう? 皆が必死に働く中、僕は好きな時に一度だけ漁に出ればいいんです。そうすれば、魚が勝手に網に飛びこんできてくれるんだ。何をするにも運が向いてなんでもかんでも上手くいく。でも、それは人魚の加護で僕の実力じゃないんだ」


「先ほども申しあげましたが、人でない者は『小さな親切』に惜しみなく応えます。それを受けてはならない法は存在しません。ですが、それが受ける人間にとって、本当に幸いなものであるのかどうかは誰にもわからない」


 フェリの言葉に、青年は僅かに眉根を寄せた。フェリは彼に蜂蜜色の瞳を向ける。


「あなたにとって幸運をもたらす存在は、時に他人にとっては不運をもたらす存在です。人は幻獣を忌避するもの。そして、あなたは幻獣側に一歩踏みこんでいる。人からの嫉妬や迫害は受けるでしょう―――それにもうひとつ問題があります。彼らの恩恵は素晴らしすぎて、時に受ける人間の自尊心を折る」 


 人はパンのみで生きるのではない。幻獣からの贈り物は大概親切の内容に不釣り合いなほど素晴らしいものだ。だが、代価を求めない衣食住の保証とその継続が、人に真綿で首を絞められているような苦しみを与えることもある。


「それは場合によっては、恩恵を受ける人間から生きるための意欲も奪いかねません」

「………………」

「ですが、その喜びも苦しみも、受けるのはあなたひとりだけです………他者の声を最も気になさっているのなら耳を貸す必要はありませんよ」

「………えぇ、そうなんでしょうね」


 青年はそう応え、じっと崖下を見つめた。帆を広げた幾艘もの船が、青い海を走っている。青年はその様子をまるで焦がれるように睨んだ。ぎゅっと強くシャツを掴む手には漁師達のような傷も染みもない。それを見つめながら、フェリは静かに続けた。


「人魚と関わるのは他ならないあなたです。もしも、あなたが彼女の『まことの恋人』になる道を選ぼうと、誰にも責められるいわれはない」

「でも、僕はっ………彼らの言う通りだ。僕は自分の人生を生きてないっ!」


 青年は悲痛な声で叫ぶと、その場に屈みこんだ。彼は竪琴を掴み、大きく振り被る。彼が手を放すと竪琴はあっけなく宙を舞った。それは回転しながら崖にぶつかり、四散する。きらきらと光る欠片が海へと降り注いだ。切なげな眼差しで青年はそれを見送る。



「……………僕は…………僕は一体どうしたいんだ?」



 途方に暮れたように呟き、青年はじっと海を見つめた。やがて彼は何かを決意するかのように強く拳を握った。彼が振り向き、歩きだそうとした瞬間、フェリは問いかけた。


「あなたは、『甘い陸のたまご』を知っていますか?」

「………彼女、ですか?」


 驚いたように、青年は足を止めた。その言葉に、フェリは頷く。


「彼女が僕以外と話をするなんて珍しいですね………まさか、『甘い陸のたまご』のことまで話すなんて」

「それを持って行けば、肺病に効く薬草を教えてくださると約束していただきました」

「そうですか。一体、どうしたんだろう………ちょっと待っていてくださいね。早成りの種類とはいえ、まだ時期じゃないんですけど………あれがいいかな?」


 青年は木を見あげて目を細めると、物置から梯子を運んできた。彼は慣れた様子で梯子に昇り、大振りの枝に足をかけた。高みにある一個を器用にもぎ取り、彼は降りてきた。フェリにそれを差しだしながら、青年はどこか気恥ずかしそうに言った。


「祖父が遠くから苗を運んできて、育ったのはこの一本だけだったんですよ。これこそ、僕が………僕達が彼女に与えた『親切』の正体です」



『甘い陸のたまご』ですと、彼は微笑んだ。

 その手には、ようやく色づき始めた林檎が握られていた。

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