プロローグ
穏やかな陽射しの昼下がり。白の縦縞を織り込んだネイビーブルーのスーツに赤のネクタイを締めた男と、臙脂色のブレザーにスカート姿の少女が、二人並んで石畳の通りを進んでいく。向かいから馬車が走ってくると、二人して道の端に寄り、無地の白シャツにトラウザーズを着た顔見知りの御者が親しげな笑みで手を振って、通り過ぎていく。
二人が訪れたのは、街の南東にある住宅街だ。通りを挟んで行儀良く並び立つ石造りの家は、どれも白く外壁を塗装して、屋根は赤茶色のレンガを敷き詰めている。どの家も庭はなくて、気味が悪いほど規則正しい光景が続く。退屈な景観を少しでも華やかにするためか、通りの脇には草花が植えられていて、薄紫の花を咲かせていた。
「ヒースのお守りはあたしに任せてくれて良いよ。今日はカイリと一緒に、シン・勇者の冒険第三巻を読み聞かせるから、ルンさんはその間に話を済ませちゃって」
隣を歩く少女が得意顔で言って、脇に抱える絵本を見せる。二つ結びにショートボブの黒髪の上に乗った白い体毛の小動物も、飼い主の得意顔を真似る。額に宝石のような石を飾りつけたリスのような動物で、これが妙に賢い。
「この辺の子供、みんなトーナちゃんの話が好きだよね」
「そりゃそうだよ。街の子供みんなファンだからね!」
勇者が魔王と戦うおとぎ話に滅茶苦茶な脚色を加え、それを大仰な身振り手振りで演じて見せる。半ば趣味のような活動だが、おかげで大事な話を滞りなく進めることができる。
二人は目的地の家の前までやってきて、木製のドアをノックする。ドアを開けた灰色の髪の女性に、男は会釈ほどの一礼をした。
「あ、ルンさん」
「おはようございます、奥さん。先日ご相談いただいた件で、お話が」
「あ、トーナだ!」
用向きを告げたところで、家の奥から子供が走ってくる。父親譲りの赤毛と、母親譲りの柔和な顔立ちの少年だ。
「おはようヒース。こないだの続き、読んであげに来たよ!」
「ほんとに? カイリも一緒?」
「もちろん! あたしが魔王役で、カイリが勇者役!」
肩に降りてきたカイリが、グッと背伸びをして見せる。「お邪魔しまーす!」と少女が駆け込んで、少年と一緒に二階へ上がっていくと、夫人はそれを咎めるでもなく見送り、ルンをリビングへ通した。
「商人ギルドで聞きましたけど、ご主人の仕事を引き継がれるんですって?」
ソファに座ってそう訊くと、向かいに座った夫人が「えぇ」と続ける。
「元々私も同業ですし、ヒースを産むまでは一緒にやってましたから」
元々三人で住んでいたこの家には、三週間前から夫人とヒースの二人しか暮らしていない。大黒柱だった彼女の夫は採掘師で、街の外で魔法石を掘り出しては魔導士に売って生計を立てていたが、先日の採掘の折、魔族に襲われて命を落としたのだった。
「奥さんが復帰してくれるんだったら、うちもカイリに食べさせる魔法石の仕入れ先を変えずに済みますよ。この街で魔法石を売ってくれる人って、あまり多くないから困ってたんです」
「まぁ、危険が伴うお仕事ですからね。私も魔族に襲われたことなら、何度かありますし」
夫人は苦笑しつつそう言って、
「それで、審査結果は?」
そわそわしつつ本題を切り出した夫人に応じるように、カバンをテーブルに置いて、錠を外して開いた。
「お時間をいただいて申し訳ありませんでした。審査の結果ですが、ご主人の死亡は保険の支払事由に該当すると判断しました。よって、保険金の一億バルク、満額お支払いします。ご査収ください」
一万バルクの紙幣を一〇〇枚で一束にして、それが一〇〇。この街の中間層の人間が、一生で見ることなどまずない大金だ。相対した夫人も、やや気圧されている。
「このお金なんですが、もし良ければこちらで銀行に預けておきましょうか? 奥さんの必要な時に、必要な分だけ引き出してもらうこともできますし、口座もご主人が開設したものがありますから、そちらに振り込んでおきますよ。クロアさんから借りている三〇〇万バルクも、こちらで返済手続きをしておきますし」
「それでお願いします。ルンさん達に預かってもらえるなら、安心だし」
健全な反応に安心していると、夫人はカバンの方に目を向け、首を傾げた。
「悲しさも貧しさもぶっ飛ばす……?」
「え?」
不意に夫人が口にした言葉に、カバンの中を覗く。裏面に書かれている文字を、夫人が読み上げたのだ。
「あぁ、これうちの企業理念なんですよ。トーナちゃんが書いたんですかね」
二階から一人息子の笑い声と、役に入り込んだトーナの熱演が聞こえてくる。本来なら手に汗握る冒険譚だというのに、一体どんな脚色を加えたら、あんなに子供が爆笑するのやら。
「そうだったんですか。何か、かっこいいですね」
夫人も二階で繰り広げられる演劇が気になるのか、天井を見上げながら静かに笑う。
家族を亡くして悲しみに暮れる人の生活や夢を、これから訪れる貧しさから守ることができる。新しい人生を歩み始めるその背中を、押してあげることができる。それが、この企業理念が示す彼らの使命だ。それを果たすことができることが、二人にとっては何よりも大切で、誇らしかった。
この保険金で、夫人は夫が事業で遺した借金を完済して、この家を手放さずに済む。来年から学校に通う一人息子のヒースの学費も、十分に賄うことができる。亡くなった主人は息子に高等教育を受けさせてやりたいとよく言っていたが、それも叶うはずだ。
「本当にありがとう、ルンさん」
安堵した夫人が述べた謝辞に、いつもの言葉を添えて、それに応じた。
「私ども異世界生命保険相互会社は、保険を通じてお客様に寄り添い、生涯に亘って支えていくことをお約束します。また何かありましたら、何でも相談してください」