二章 パンドラゲーム、オンエア!(5)
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「──あと一〇分……!」
波止場は走っていた。複雑に入り組んだ都市迷宮を掻き分け進みながらも、度々
まだ一〇分もあるのか、という思いから全身に圧し掛かる重りのような疲労をつい自覚してしまうが、それでも足を止めるわけにはいかない。振り返れば、綿毛がいる。
「……っ、さっきまでより数多くなってない!? 気のせいかなぁ、これ……!」
気のせいじゃない。一度は櫃辻を撒くことに成功した波止場だったが、彼女が返しの手として選んだのは物量に物を言わせた人海戦術だった。しかも、これまで以上に正確に、執拗に追ってくるのだ。どう考えても〝目〟の精度が上がっていた。
(……本気になった、ってことなのかな……最悪だ)
数刻前──波止場は、櫃辻を欺くために
手元の配信画面とこちらの姿を見比べて、あっ、というような顔をした人物がそれだ。
あとはどう説得するかが問題だったが、そのための言葉は淀みなく口から溢れてきた。
「──ねえ、君。これと交換で、俺の頼みを聞いて欲しいんだ。まあ、なに。別に難しいことを頼むんじゃない。君にとっても悪くない話だよ」
男は解りやすく興味を持ってくれた。「このままだと俺が君の推しの彼氏になるかもしれない」と言うとむしろ乗り気にさえなった。あとは目的地までのルートと、簡単な指示だけを伝え、男にジャケットを手渡した。おまけで付いてきた襟元のステッカーを見て、男は誇らしげな面持ちでフードを被る。
「──ありがとう。じゃあ、推しとの追いかけっこ楽しんで」
そこから先は櫃辻と配信画面が捉えた通りだ。櫃辻が偽ポッポ君を追いかけるのを遠くから見守り、素知らぬ顔で路地から抜け出した。入れ替わりには一分とかからなかった。
『よくあんな急ごしらえの替え玉作戦で乗り切れたものですねー、波止場様』
「あんな場所であんな目立つ格好の奴が逃げ回ってたら、誰だって〝そう〟だと思う。俺みたいな冴えない奴の顔なんて、一々誰も気にして見てないだろうしね」
薄暗い路地裏、という環境も容姿の細部や雰囲気を誤魔化すのには最適だった。
『むしろ私は、瞬く間に彼をその気にさせてみせたその手口の方に興味がありますけどね』
「話が解る相手で助かったよ」
ともあれ、自分でも意外なほどに時間稼ぎは上手くいったと思う。歯車がカチッと噛み合ったような爽快感すらあった。そして実際、そこまでは順調だったはずだ。それがどうしてまたこうも逃げ回る羽目になっているかと言えば、不運、としか言いようがない。
『さて、波止場様の勝利まであと少し……だったのに。案外余裕なさそうですねー』
「……ああ、ホント。まさか犬に吠えられたせいで見つかるとか、最悪だよ」
上着を脱いだところで
元々ただの時間稼ぎのつもりだったとはいえ、こんなアクシデントは流石に想定外だ。
『波止場様はきっと、幸運の女神様に嫌われているんでしょうね』
「……それか悪戯好きの疫病神でも憑いてるか、のどっちかだ」
『よかったですね、見るも眼福なエロ可愛いバニーガールちゃんがついていて』
ツッコむ余裕もない。波止場は、息を切らしながら歩道橋を疾駆する。
歩道橋は四車線の車道を跨ぐように架かっていた。植栽やベンチなどもあり、遊歩道としても機能しているようだ。その中ほどまで走ったところで、波止場はまたあのノイズを右目に感じた。一ビット単位の粒子が瞳の中で、ジジッ、と震えるような感覚だ。先ほどから度々襲ってくるこの違和感。その正体こそ掴めなかったが、嫌な予感は、当たる。
「……っ!」
波止場は、歩道橋の途中で足を止めた。突然橋上に人影が一つ増えたからだ。
まさか本当に、と思い頭上を見上げた直後──櫃辻が空から降ってきた。
「──ガッチャ! 追いついた!」
「櫃辻ちゃん!? なんでいつも上から──ってか、なんかデジャブ……!」
なんてイレギュラーに波止場が怯んでいる隙に、櫃辻は着地姿勢のまま綿毛を展開すると、それら数機の単眼をレンズに、間髪入れずにシャッターを切った。
対して波止場は、咄嗟に右手に掴んだ〝それ〟を正面に掲げてボタンを押した。途中で拾っておいた傘だった。勢いよく開いた黒布が、正面からのフラッシュの連続を遮った。
「……あはっ。完璧に不意突いたと思ったのに、用意がイイんだから……!」
櫃辻は残念そうな、あるいは嬉しそうな表情を浮かべ立ち上がる。正面は塞がれた。
波止場はすぐさま踵を返し来た道を戻ろうとする──が、そこには先ほどまで追ってきていた綿毛の群れが退路を塞いでいるわけで、つまりは、挟み撃ちだ。
右からは綿毛が、左からは櫃辻が徐々に距離を詰めてくる。完全に退路を断つ動きだ。
波止場は傘を広げたまま、歩道橋の欄干に踵をぶつける形で後退する。
「ひどいじゃん、ポッポ君。人がせっかくプレゼントしてあげた物を、さ」
「あんなに喜んでもらえるとは思ってなかったんだ。それに、発信機かと思ってた」
歩道橋の下には車道がある。軽く首だけで振り返ると、バス停の前に停まったバスが見える。右側の車線。数人ほどの客が乗り降りしている最中だ。まだ、少しかかるか。
「櫃辻ちゃん、なんか息上がってない? もしかして意外と体力ない?」
「ポッポ君こそ。見かけによらず、体力あるね……鬼ごっこ勝負なら、負けてたかも……」
「俺なんか彼氏にしたって、何の記念にもならないよ? だから見逃してよ」
「今更ダメだよ。櫃辻いま、けっこー本気でポッポ君のこと狙ってるんだから」
「……やっぱあれ、本気じゃなかったんだ」
「だって櫃辻、超人気者だからね。嫉妬の炎に焼かれてもフェニックスになって生き返るくらいのタフさがないと。だからさ……ポッポ君のイイとこ、もっと櫃辻に見せて♪」
「……期待に添えるとは思えないけど。焼かれるのは、困るな」
プシュー、とドアが閉じる音がする。アクセルを踏む。音が近づいてくる。
──今だ! と波止場は空想上のフラッグを叩き下ろし、広げた傘を宙へと放った。
「んなっ!」
一瞬、櫃辻の視界から波止場の姿が傘の裏に隠れた。傘が無軌道な動きで橋上に落ちたあと、波止場の姿が歩道橋から消えていることに櫃辻は驚愕する。飛び降りたのだ。
欄干から身を乗り出した櫃辻は、バスの屋根へと降り立った波止場の姿を目撃する。波止場を乗せたバスは歩道橋の下を潜って、そのまま車道を走り去っていく。
波止場からは、歩道橋の上で立ち尽くす櫃辻の姿が見えた。
彼を追って数機の綿毛が飛んでくるが、綿毛との距離はぐんぐん開いていき、やがて角を曲がったところで、櫃辻の姿はビルに隠れて見えなくなった。
「……ッ、ふぅ……上手くいった。案外やれるもんだな……もう、二度とやらないけど」
そう嘯いてみたものの、冷静になって初めてどれだけ危険な真似をしたのかと戦慄する。大量の脳内物質が脳細胞の隅々にまで駆け巡っているのが、自分でもよく解った。
波止場は時計を見る。ゲーム終了まで、あと五分だ。
櫃辻の追跡はこれで完全に振り切った。勝利は目前。そう安心しきった矢先──
「……ハハ、嘘でしょ……」
置き去りにしたはずの陰から、宙を蹴って、跳び出した人影がある。
改めて言うまでもない。櫃辻だ。櫃辻は今、宙に浮いた綿花製の雲を踏み、踏みつけ、地上を往くこちらを追って、宙を跳んできていたのだ。
「──イイね、イイよ。ホント、ポッポ君ってさあ! 絶対櫃辻の彼氏にしちゃるッ!」
櫃辻は《#
波止場と櫃辻の距離は、もうあと五メートルにも満たない距離にまで縮んでいた。
櫃辻は身体を宙に置いたまま、「」の形に指を構え、波止場へとカメラを向ける。
「……!」
波止場は不意の遠心力に引っ張られてよろめき、屋根の上に尻もちをついて転んでしまう。その直後、櫃辻と共にフラッシュの光が飛び込んできて、光から視界と胸を庇うように構えた左手の
「──次で、ラスト!」
仰向けになった波止場のもとに大股で歩いてきた櫃辻は、波止場に跨る格好で腰を下ろした。この狭いバスの屋根の上でなお、さらに退路を断つために、だ。
「……っ、櫃辻ちゃん……これは、えっと……暴力反対」
「……ぁ、はぁ……逃げたかったら、逃げてもいいよ? 櫃辻は、動かないから」
ジッパーを大きく開いたパーカーワンピ、その裾から伸びた肉付きのいい太ももが左右への逃げ道を塞いでいる。視線を下げれば裾の陰になった部分が見えてしまいそうだ。
頬を上気させ、呼吸の度に上下する彼女の腰つきは危うい情欲を掻き立てる。
汗の流れ落ちる胸元からへそにかけてのラインに、つい、目がいってしまう。
「あはっ……逃げないなら、これで終わり。なんてフラグは……もう立てないよ」
櫃辻はマウントポジションを確保したまま、跨った波止場の胸元に照準を向けた。
「フォーカス──」
オン、と──櫃辻がシャッターの引き金を引き絞る、その寸前──櫃辻のシャッターに先んじて、交差する二人の視線上でフラッシュが一つ瞬いた。
「フォーカスオン!」
「んうッ……!?」
下から上へと見上げるように瞬いた光は、波止場が構えたフラッシュの光だった。
やり方はツキウサギが見せてくれた。そのカメラが自分の《
突然の閃光に意表を突かれた櫃辻は、フラッシュに目が眩み、体勢を崩した。その隙に波止場は彼女の股下から脱出する──だが、それが不運の引き金となった。
「あっ」
不意に、車体が傾いた。バスが坂に入ったのだ。ただそれだけのことだったが、タイミングが悪かった。丁度身体を浮かせたばかりだった櫃辻は、首根っこを後ろに引かれるようによろめき、屋根の上から滑り落ちた。あっ、と──それ以上の言葉は続かなかった。
後続には等速で突っ込んでくる車の連なり。この状況でバスから落ちたらどうなるか、などと連想するまでもなく、波止場の身体は無意識のうちに動いていた。
「────!」
身体ごと腕を伸ばす。自分自身を遠くへと放り投げるように、後先は考えない。思考と視界が一瞬白んだ。衝撃と感触の連続すらも遠く、正否の実感は白昼夢のようで──
「ナイスキャッチです、波止場様」
その声は、波止場の背後から聞こえたものだった。
和装のバニー衣装に身を包んだ彼女の姿はバスの上にあり、屋根から上半身を投げ出した格好の波止場の腰を、引っ張り上げるようにして支えていたのだ。
窮地を救ってくれたのは、ツキウサギだった。
そして波止場が伸ばした手もまた、バスから転落しかけた櫃辻の腕を掴んでいた。
……間一髪。ツキウサギの支えがなければ今頃は、波止場も櫃辻と一緒に道路に転がっていたに違いない。そんな最悪な想像をはたして彼が口に出していたかどうか。
「まさか。私たち《
「……確かに、余計なお世話だったかな」
波止場は腕の先に繋がれた櫃辻の背中を覗き込んで、苦笑する。
櫃辻の背中、そこに──「んむむーっ!」と必死な顔をした毛玉ウサギのむーとんが、主の身体をその小さな体躯で支えているのが見えたからだ。
電脳の天使とやらは確かに、自分たちのことを見守ってくれていたらしい。
「……ありがと、ポッポ君。今のは本気で死んだかと思ったよ。むーとんもありがとね」
「そうならなくてよかったよ、ホントさ」
波止場は、櫃辻をバスの上に引き上げたところでようやく一息ついた。
バスは屋根上の騒ぎには一切足を止めることなく、今もまだ平然と道なりを走っている。
櫃辻が膝に乗せた毛玉ウサギを撫でてやっている傍ら、
あと一二〇秒。それでこの〝かくれんぼ〟も終わる。
「……で、これからどうしよう? まさかこの流れで俺のこと撮ったりはしない、よね?」
「そんな寒いことしないよ。そんなカッコ悪いとこ、子羊たちに見せられない──」
爽やかに顔を上げた櫃辻は、そこでふと、何か信じられないものでも見たような顔で固まった。さらには波止場の背後に目をやって、あはっ、と噴き出したのだ。
「──でも。ポッポ君がツイてないのは、櫃辻のせいじゃないよね」
含みのある櫃辻の視線。一体何が……と、波止場は後ろを振り返った。
バスの進行方向には橋が架かっている。六號第四区から隣の区へと架かる、河越えの連絡橋だ。そしてその橋の中ほどに、『KEEP OUT』と書かれた帯状の壁が聳え立っていた。
それは、半径一キロ──移動可能範囲の限界を示す円の外縁だった。
「……勘弁してくれ……」
「それじゃあお先、ポッポ君。ゲームはゲームってことで、悪く思わないでね。──あ、そのバス無人運転だから、途中で止まってくれるとかは期待しない方がいいよー!」
あっという間。櫃辻は宙に取り出した《#
バスの屋根に不運な少年を取り残したまま、だ。
「んはは。エリア外に出たらその時点で敗北。まさか忘れてないですよね、波止場様」
「……憶えてるよ。もう関係ないと思ってたけど」
ウイニングランのつもりが、いつの間にやら終着駅が敗北の二文字に変わってる。
最悪だ、と己の不運を嘆きながらも、波止場は橋と交差して流れる大きな河を見やった。
バスは左車線に寄っている。バスから橋の端までの距離は何メートルだ? 河までの高さは? 橋の下は安全か……などと逡巡している間にも、バスはゴールテープを目指して突っ込んでいく。そのゴールテープを切ったが最後、波止場の負けが確定する。
残り時間は六〇秒。到達までの猶予はあと一〇秒もない。あとは、決断だ。
「ツキウサギさん」
「なんです、波止場様?」
「俺の希望を叶えてくれるって話、マジに頼んだよ……!」
なに、一度も二度も同じことだ。そう思い──波止場は跳んだ。
車上を切る突風がその身を横薙ぎに攫い、風までもが自分の勝利を全力で妨害しているような錯覚に襲われながらも、波止場は最大限の跳躍を試みた。
視界の端では、雲に掴まった櫃辻が「……すっご」と口を開いていて、その姿もすぐに橋の死角に隠れて見えなくなり──ザボン! と、水音と衝撃が全身を包み込んだ。
飛び込んだ五月の河は、酔った脳みそを醒ますにしてもまだ少し、冷たかった。
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試し読みは以上です。
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※本ページ内の文章は制作中のものです。製品版と一部異なる場合があります。
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