二章 パンドラゲーム、オンエア!(4)
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波止場の動きが変わったのを見て、「おっ?」と櫃辻は声を漏らした。
宙に複数枚展開した
一度に数十、数百と寄せられるコメントは一々内容を精査するのも馬鹿らしくなるほどに雑多で、とりとめもないが、それらの情報は《#ふるいわけ》の機能を持った別のEPが自動で取捨選択をし、地図アプリに波止場の足跡を書き込んでくれる。
EPによる情報収集能力の強化と〝目〟の拡張。それが櫃辻の選んだ戦略だった。
「イイよ、子羊たち。その調子でバシドシゲームを盛り上げちゃって! みんながポッポ君を追いつめれば追いつめるほど、この世界は喜んでくれるんだから!」
リスナー向けにそう言葉をかけつつ、櫃辻は波止場の足跡を追う。
波止場が逃げ込んだ辺りは複合型のビルや、立体交差橋によって土地が連結していたりととにかく複雑で、住み慣れた人間であっても見知った道を逸れると簡単に迷子になる。
マーケットの辺りはこの時間帯でも人で賑わっているが、奥へ奥へと潜っていくにつれて退廃的な雰囲気が濃くなり、人通りも少なくなる。実際、リスナーの目撃情報もその辺りになると途端に散発的になり始めた。逃げ込むにはまさに絶好の場所と言える。
彼がここを目指したのも、そういった効果を狙ってのことだろう。──けど。
「櫃辻の〝目〟になってくれる子羊はどこにだっているんだよ。だからほら、みーっけ」
濃いグレーのパーマ頭、夢遊病者染みた目元の隈、今にも重力に負けてしまいそうな酷い猫背、背中に鳩の刺繍が施されたミリタリージャケット、襟元の激レアステッカー、胸と左手首に煌めく
《#ふるいわけ》によりコメントからピックアップされた目撃情報を頼りに、櫃辻は地図に描画された逃走経路を俯瞰して、徐々に追いつめるように綿毛を配置していく。
EPとは想像力を叶える魔法だと、櫃辻は考える。
凡人と天才との差を埋めるドーピングアイテム。一期一会のゲームをより面白おかしく魅せる演出道具。そのどちらの意味でも櫃辻はEPを愛用していた。
だからこそ波止場がEPを使ってこない今の状況は、少し物足りないのが本音だ。
彼は見るからに凡人の側の人間だ。よく頑張ってはいるが、それだけ。一方で櫃辻にはEPがあり、頼れる味方がいて、地の利がある。勝敗は決まったも同然だ。リスナーたちの誰一人として、彼の勝利を想像している人はいない。おまけにこちらにはリスナーにすら見せていない秘密兵器だってあるのだ。この優位が覆ることはまず、ない。
だが、もし──彼の想像力がこちらの想像を上回ったなら、あるいは……
(……ま、それが簡単にできたら苦労はしないよね、っと)
櫃辻の淡い期待をすり抜けるかのように、綿毛型ドローンが彼の姿をあっさりと捉えた。
彼は
自らもその跡を追っていた櫃辻は、そんな獲物の後ろ姿を目視する。ビンゴだ。
「──あっ!」
と、櫃辻の存在に気付いた彼は、慌てた素振りで路地の奥へと走っていった。左手首と胸の
「ここって結構、行き止まりも多いんだよね。道に迷った観光客が路地裏にたむろってる不良に出口まで送り届けてもらう、なんて光景がプチ名物だったりして。特に建物に入っちゃいけないってルールだと、ここは詰みポジだらけの袋小路君なんだけど──」
そこは、不法投棄されたガラクタの墓場。多少のスペースはあれど逃げ場などはない路地裏の最奥で、錆とケモノ臭さが鼻につく袋小路になっていた。
そういえばポッポ君も似たような臭いがしたなぁ、と益体もないことを思い出しつつ。
「逃げ込む場所をミスったね、ポッポ君。キミはすでに包囲されているっ!」
櫃辻は堂々と道の真ん中で仁王立ち。行き止まりを前に立ち往生する彼の背中を前に、彼女は孔雀が羽を広げるように〝目〟を展開する。
「──いけっ、《#
主人の命令に従い、綿毛の猟犬たちが一斉に袋小路へと雪崩れ込んでいく。
絶体絶命を悟って振り返ったその姿は、当然、波止場のものであるはずだった。
「えっ……?」
戸惑いから漏れた櫃辻の声に、目の前の〝男〟は振り向いた。
その直後、バサバサッ! と騒がしい羽音と共に〝彼ら〟は一斉に飛び立ったのだ。
「……ええっ、鳩……っ!?」
突如櫃辻の視界を埋め尽くしたのは──鳩だった。
突然住処に飛び込んできた綿毛を外敵と思ったのか、餌と思ったのか。路地裏にわっと広がった数十もの鳩たちが、綿毛の群れに飛び掛かってきたのだ。
「ちょっ、わわっ、何これ! なんでこんなに鳩が……って、こら──ッ! 櫃辻のカメラ突くな、食べるな! 勝手に持ってくな──ッ!」
綿毛のカメラと連動した配信画面が次々とブラックアウトしていく惨状に、櫃辻は慌てふためき絶叫する。そのとき、櫃辻と同じように困惑する悲鳴が近くでも上がっていた。
「うわッ、ぺっ──何だよ!? 何なんだよ、ここ……! あの野郎、こんなことになるなんて、聞いてないぞ……ッ!?」
聞き憶えのない声だった。思わぬ鳩の強襲に、尻もちをついてへたり込む男がいる。
ジャケットのフードが捲れていた。その陰から露わになったのは、ストレートの黒い髪をした見憶えのない顔で、目の下に隈もない。そして胸と左の手首にあるはずの
だってそこにいたのは波止場なんかじゃない──全くの別人だったのだから。
「──って誰ぇえええ!?」
二度目の絶叫。櫃辻は予期せぬ事態に目を回しながらも、見知らぬ男に詰め寄った。
「ちょっと、キミ、ポッポ君はどこっ!? なんで入れ替わってるの……!?」
男は櫃辻の顔を見るや否や、憧れの推しを前に喜びと緊張の両方が振り切れてしまったファンのような顔になった。それからバツが悪そうな表情にもなり、
「……ごめん、ヒツジちゃん。俺、あの男に『この服着てここまで逃げて』って言われただけで、どこに行ったかまでは……あっ、もちろん最初は断ったんだよ。でも『協力した方が君たちのためになる』とか言うから、断れなくて……」
別に責めてもいないのに、懺悔の言葉を並べ立てる偽ポッポ君。
いつの間にこの入れ替わりを行ったのかは解らないが、彼は自分の服を着せることで第三者を
単純なトリックだが、こうして欺かれた身としてはその手際の良さに舌を巻く。
コメント欄は未だ黒画面のままの配信に戸惑っていて、綿毛のドローンも壊滅状態。
今、本物の彼を追っている〝目〟は一つもない。
「……あ、そのステッカー」
櫃辻は男が変装のために羽織ったジャケットを見て、それに気が付いた。
「あぁ、これ。あの男が忘れてったんだ。もったいないよね。あいつ価値解ってないよ」
その通りだ、と櫃辻は大いに賛同したかった。それは櫃辻がコラボ相手にだけ配っていた、本当の意味での限定品だったからだ。それを思うと多少なりともムッとするが……
「──イイね、ポッポ君。やっぱゲームはこうでなくっちゃね!」
強がりでも負け惜しみでもなく、それは本心から出た言葉だった。
想像力が足りなかったのは自分の方だ。だったら補えばいい。想像力の魔法で、だ。
櫃辻は追加のEPを投与して、新調した目と爪を研ぎ澄ます。再び宙に舞い戻った綿毛の群を背に片目を閉じた櫃辻の瞳には、翡翠色の輪郭が楽しげに廻っている。