◇◇ 第一話 四月十三日、あと23日・朝(1)
急病人を見つけて、救急車を呼んだことはあるだろうか?
僕の人生初119番は、先週──始業式に向かう途中の通学路だった。
「大丈夫ですか!?」
朝の道路沿い。女の子が、苦痛の顔色で腹部を抱いて、膝をついている。
それが同じ高校の制服を着ているとなれば、声をかけないわけにもいかない。
「っ、すみ、ません……痛く、て……っ」
近付いてみると、彼女は眉間にしわを寄せており、声も掠れ気味だった。
「動けますか? 道路沿いは危ないのでこっちに。救急車を呼びますから」
手を貸して車道から離れつつ、スマホを取り出す。
突然の事態に混乱して、「119番って何番だっけ?」などと馬鹿な手間を踏んだのは内緒にしておきたい。
「……セー、ジ?」
名前を呼ばれた気がした──初対面のはずだが、違ったのだろうか?
詳しく聞いている場合ではなかったので、救急車を優先した。
問題は……いつの間にか彼女に手を握られて、救急車に同乗するしかなかったことだ。
「命に別状はないようです。保護者の方も来られましたし、もう大丈夫かと」
結局、病院まで付き添った僕は、職員に説明されて胸をなで下ろした。
思えば名前も聞かなかったが、かといって改めて顔を出すのも恩着せがましい。ここは名も告げず去るまでが親切だと思って、そのまま病院を後にした。
もちろん乗ってきた救急車が送ってくれたりはしないので、親に車を出してもらって、始業式をすっぽかしてから登校するという、格好のつかない形になったが。
「ああ、遅刻は気にしなくていい。その子の親御さんから連絡があったよ、助けてくれた生徒に感謝してるってさ。いいことしたなぁ」
幸い、職員室で迎えてくれた教員から、お叱りの言葉は無かった。
確かに、誰にでもできることとはいえ、人助けをしたのだ。
教室で話題にして、ちょっとくらい賞賛の声を期待しても、罰は当たるまい。
そんな僕に、級友たちが送ってくれた言葉は──
「あ、悪い。クラス委員長、お前になった」
学校あるある、欠席者に押し付けられるクラス委員長の座だった。
○
というわけで、委員長の
教室に一人はいる委員長をさせられがちな眼鏡男子と言えば、自己紹介は十分だろう。
(やっぱりあの子、だよな……)
転入生の自己紹介が終わり、SHRが始まっている。
朝陽悠乃が座っているのは、始業式の日からあった空席だ。
担任からは、急病で来られなくなった子がいると説明されていた。
その時点で予想はしていたが、やっぱり僕が救急車で送った彼女だった。
(奇縁ってあるもんだな)
新学期の教室は五十音順。
相影という名字のおかげで僕は常に最前列、朝陽悠乃は数席後ろだ。
ちらりと振り返ってみると、向こうも気付いているのか、照れ臭そうに目礼する。
「なあ、セージ」
と、一つ後ろの席から、教師に咎められない程度の声が僕を呼ぶ。
小柄で、茶髪を整髪剤で尖らせて制服を着崩すという、粋がった風体をしている。
親しい者は、名前の『翔』を音読みして『ショウ』と呼んでいた。
「後ろの転校生、前にどっかで会ったことねえか?」
翔は自分の一つ後ろの、朝陽悠乃を指して首を傾げている。
「ああ、前に話した救急車の子だ」
「いや、それも奇遇だけどそうじゃなくてな。オレも含めて、もっと前にどっかで会ってないかってことだよ。ほら、前もこの町に住んでたって言ってたろ?」
どうやら翔自身も、朝陽悠乃に見覚えを感じているようだ。
出身がこの町なら、同じ小学校だったとしても不思議じゃない。
(ん?)
記憶を辿ろうとしていると、ポケットの中でスマホが震動した。
教師の目を盗んで画面を見ると、メッセージアプリが受信を通知している。
(
送り主は、同じ教室の女子生徒だ。
翔と同じく幼少期からの付き合いである彼女は、朝陽悠乃の真後ろの席に座っている。
【前の子、ゆーちゃんじゃない?】
送られてきたメッセージは、そのようなものだった。
なるほど、前の席に当人がいるので、スマホでの内緒話か。
それにしても『ゆーちゃん』とは、悠乃の前半を取って『ゆーちゃん』だろうか?
【覚えてない? 小学五年くらいに引っ越しちゃった、ゆーちゃん】
「っ!」
二通目のメッセージが、小学生時代の記憶を脳内に撒き散らした。
出席番号の近さは友達の始まり。
番号順に並べば自然と一緒になり、それがきっかけで親しくなったりする。
六学年もある小学校だと、進級するたび「またお前か」と見飽きてしまうくらいに。
僕にとってのそれは、明丸翔や雨夜千亜希であり、もう一人──
「ゆーちゃん! ゆーちゃんだよねっ?」
気がつけばSHRが終わり、教室が雑談に包まれる。
誰より早く口火を切ったのは千亜希、その声は前席の悠乃に向いていた。
「え? ……あ!」
驚いて振り返った悠乃は、喜色を浮かべた千亜希を見て、目を丸くする。
彼女の脳内にも、ランドセル時代の記憶がひっくり返ったことが見て取れた。
「私、千亜希だよっ? 雨夜千亜希。『ちぃちゃん』って言ったら分かる?」
「分かる分かる! ちぃちゃんだっ、懐かしぃーっ。すっごい可愛くなったねー」
「ゆーちゃんもだよっ。急に可愛くなって戻ってきたから最初分かんなかったよー」
悠乃と千亜希は、机越しに手を握り合って再会を喜ぶ。
「そうだそうだっ、ゆーだよ、ゆーっ」
翔も記憶が蘇ったようで、当時の呼び方を口にする。
互いに振り返って目を合わせると、悠乃は翔の顔を見てハッとした。
「え、嘘っ、もしかして翔くんっ?」
「おう。いや悪い、見た目が変わりすぎてすぐに思い出せなかった」
周囲の生徒が何事かと注目して、しかし会話からすぐに関係を察した。
そう、彼女は悠乃、あだ名は『ゆーちゃん』──
僕たちが中学に上がる前に引っ越してしまった幼馴染だ。
「じゃあ、もしかして……」
彼女の視線が翔から外されて、やや上を向く。
「久しぶり、この前は大丈夫だったか?」
席を立って彼女の傍に来ていた、僕の顔に。
「やっぱりあのときのっ、本当に誠治くんだった!」
悠乃は椅子から立ち上がると、驚きと喜びの声を口にした。
そう、僕と悠乃に限っては、再会は今日ではなく先週のこと。
あの救急車の件で、懐かしの再会は起きていたのだ。薄情なことに気付かなかった僕と違い、悠乃は感付いていたようだが、確認する余裕も無かったのだろう。
「よく覚えてたな」
「忘れてないって。それよりこの間はありがとう、おかげで助かったよ」
悠乃は、途中から周囲の目を気にして小声になりつつも、先日の件について礼を言う。
救急車で運ばれた件は、あまり大っぴらにしたくないようだ。
僕たちから声をかけなければ、悠乃からこっそり接触しに来たことだろう。
「気にしないでいい。大事がなくてよかったよ」
感謝の言葉は心地よいが、衆人環視の前でとなると、流石に気恥ずかしい。
「へー……背が伸びたねぇ」
悠乃は不思議そうに僕を見上げていた。
近い距離といい香りに胸が高鳴る。昔とは違って、悠乃もすっかり女の子だった。
「ああ、そっちも見違えたな」
「そう? へへ、ありがと」
言外に可愛くなったと伝えたら、素直な照れ笑いが返ってきた。
悠乃の目はそのまま翔の方に向けられる。
「それに引き替え、翔くんは変わってないねー」
「おうおう、扱いの差を感じさせるじゃねーか。これが日頃の徳の差か?」
翔が不平等感を零したところで、他の級友たちも加わってくる。
「なになに? 委員長たちの知り合い?」
近くの席にいた級友、ギャル系女子の金枝が、僕たちの関係に首を傾げていた。
「ああ、同じ小学校だったんだ」
他の級友の耳目も集まっているので、説明がてら答える。
悠乃と千亜希は、揃って懐かしそうな顔をしていた。
「私が小五の頃に引っ越したから……五、六年ぶりくらい?」
「ゆーちゃんが居なくなってから、もうそんなに経ってたんだねぇ」
転校した同級生のことを忘れてしまっても仕方がない年数だ。
思い出せたのは、それだけ密接な日々を送っていたからだろう。
「それよりゆーちゃん、先生や誠治くんからも聞いてたけど、入院してたんだよね?」
千亜希が心配そうに確認を取る。
命に別状はないと聞いていたが、そこは僕も気になるところだ。
「あー……大したことじゃないのっ。ちょっと内臓を痛めたというか……」
悠乃は妙に気まずそうな顔で、目を泳がせていた。
「もう完治してるのか? 気をつけた方がいいことあるか?」
「そ、それは大丈夫だって。軽い手術しただけだからっ」
問い質すと、悠乃は焦った様子で手を振る。
「……どう思うよ?」
翔が声を潜めて聞いてきた。
「詮索するのも失礼だし、とりあえず様子見で」
入院・手術歴を隠したがる理由は色々ある。根掘り葉掘りはよくない。
ふと周りに目を配ると、他のクラスメイトたちも話を聞いていたようだ。
「病弱なのかな?」
「転校したのも治療のためとか?」
男子も女子も、声を潜めて言葉を交わしている。
それを聞いた悠乃は、なにやら冷や汗をだらだらと流す。
翔が慌ててスマホを取り出し、『内臓疾患』『発汗』で検索しているのが見えた。
「循環器疾患、内分泌代謝疾患、悪性腫瘍、不安障害、パーキンソン病……」
物々しい単語を耳にしたクラスメイトたちが、段階的に顔色を悪くしていく。
様子見だと言ったばかりにこれかと、僕は翔を肘で小突いた。
「ゆーちゃん本当に大丈夫っ!? 何かの拍子に血を吐いて倒れたりしないっ!?」
「副委員長の望月です。悩み事があれば何でもご相談を」
「私、保健委員なのっ、何かあったら声かけてねっ」
時既に遅し、千亜希を始めとするクラスメイトが悠乃の心身を心配している。
「大丈夫っ、本当に大丈夫だからっ」
深刻な顔で詰め寄る級友たちに、悠乃は慌てふためいている。
とりあえず、彼女の転校先が平和な教室であったことだけは、間違いなかった。
そこで、予鈴の音が響く──
「じゃあ、また後で」
「ゆーちゃん、お昼一緒に食べよ。学食でいいかな?」
「あ、うん。お弁当あるけど、持ち込んでいいよね?」
千亜希と悠乃が約束している。僕や翔も交ざるべきかと思ったが、女子の集まりっぽいので控えておいた。健康状態や転校の事情などは、いずれ分かるだろう。
いわゆる竹馬の友とはいえ、いまでは高校生、言えないことくらい誰にでもある。
誰にでも──だ。