二章 月が綺麗ですね(2)

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 八月の日々を、夏子は女学校の女教師になるための訓練に捧げた。身に着けるべき技能を学び続けた。

 学びは短くして成らず、とは先人の説く道理である。

 けれども夏子は九月より女学校に居場所を作らなければならないため、学びをひと月で成らせる必要があった。

 無理を承知で学びに熱中した。

 そして、無理が通れば道理は引っ込むという言葉の正しさを理解した。


 八月下旬。

 先だって英世が仄めかしていた「新しい護衛」との顔合わせの日が来る。

 英世に連れられて病室に入ってきたのは一人の少女だった。

 歳は十六程度に見える。きめ細かく洗練された白絹のような美貌を持ち、佇まいは何年も清流で洗われた玉石のように磨き抜かれている。

 髪の色艶は黒檀を思わせ、潤いを感じさせる瞳は黒真珠のよう。

 外見上の美点を挙げたらキリがないが、一言でいえば美少女だった。

「ご主人様なのですか?」

 その少女が夏子を見て、小さな唇から声を漏らす。

「本当に、女性になってしまわれたのですね……」

 夏子はまじまじと少女を見て、それから英世を見る。

「誰だ?」

 夏子が問い、場に沈黙の帳が下りた。

「誰だ、だと?」

 英世が気難しげな表情になる。

「あんたの顔見知りだろう? って名前で、夏目家の元女中だ。あんたの護衛となる人間である以上、俺の方でも裏はしっかり取っている」

「記憶にない」

「そんな」

 禰子という少女はショックを受けた様子だった。

 顔は悲しみで満ちている。

 嘘偽りのない、純粋な感情が透ける。

 しかし夏子の方も覚えがないのだ。記憶をいくら棚卸ししても、彼女の姿はない。

 大体、身近にこんな美少女がいたら絶対に覚えているはずだ。

「君は俺を知っているようだが、俺は君を知らん。いや、記憶がないというべきか。君が夏目家の女中だったというのであれば、その証を示してほしい」

「証、ですか」

 禰子が何やら迷い始める。

 何を言うべきか迷っているというよりは、言ってしまっていいものかを迷っている様子だった。やがて彼女の口が開く。

「……私は夏目家の女中でしたから、夏目家の事情はよく知っています。当然、きょう奥様のことも」

「鏡子のことを?」

「はい。奥様が折に触れて『うちの旦那が女の子になってくれればいいのに』と呟かれていたことも存じています」

 夏子は目を丸くした。

 漱石の妻・鏡子は、確かにそんな言葉を呟いていた。その記憶は夏子にもある。

 また、この話は夏目家の外には漏らしていない。この情報を知っている以上、夏目家の内部に禰子がいたという話は信憑性がある。

「そうだ」

 夏子は禰子に頷きかける。

「鏡子は可愛らしいものが好きでな。旦那にも可愛らしさを求めたんだろう。だからこそ俺に『女の子になればいい』などという妄言を――」

「違うのです」

「違う?」

 自分の妻の解説をしていたら、女中を名乗る少女から解釈違いだと指摘される。

「私は知っています。ご主人様が女の子になるよう奥様が望んでいたのは、かつてご主人様が口にされた、心無いお言葉が原因です」

「心無いお言葉?」

 間が抜けた声でオウム返しする。

 禰子は少しだけ言い淀み、説明する。

「昔、夏目家が経済的に苦しかった折、ご主人様が奥様に『お前が子どもをバカみたいに生むから、うちに金がなくなるんだ』と責めたと伺っています」

「…………」

 それは記憶にある。

「あまりの言葉に奥様が涙を浮かべつつ『それは貴方も悪いのではありませんか』と訴えると、ご主人様は『お前が悪いんだ』と、冷ややかに切り捨てたとか」

「…………」

 それも記憶にある。

「その言葉を奥様は深く恨みに思っていらして、その記憶が蘇ると『うちの旦那が女の子になってくれればいいのに』といい、ご主人様のいないところでは『そうしたら、私の気苦労を思い知らせてあげられるのに』と呟いていらっしゃいました」

「…………」

 顔面を蒼白にした夏子は、尋ねる。

「意見を聞きたい。俺がこの体になっていることを鏡子が知ったら、鏡子はどうするだろうか。自身が味わった七回の陣痛を、俺にも与えようとしてくるだろうか?」

「いえ、鏡子奥様の性格を考えるに、きっと倍返しのはずです。ご主人様の行く先には、最低でも十四回の陣痛が待ち構えているでしょう」

 成程、なるほど……。

 夏子は返答を分析し、そこから一つの確信を得た。

「ラトルスネーク、彼女は本当に夏目家の女中だ。俺の妻に対する理解が深い」

「確信の仕方が最悪すぎる」

 英世は呆れを隠さない。

「あんたって人は……俺も人間としてはクズもいいところだが、そんな俺でも断言できるぞ。あんたの発言は畜生度が高い」

「今となっては反省している」

「足りん。猛省しろ」

「本当にごめんなさい」

「ったく……木曜会の夏目漱石といえば、今なお多くの表現者が英雄と仰ぐ存在なのに、こうも情けないザマを見ることになるとはな」

 やれやれと肩を竦める英世に、禰子が質問する。

「どうしてご主人様は私のことを覚えていないのでしょうか」

 その点は夏子も気になったところだ。

「確かに変だ。なぜか俺の記憶が抜け落ちている」

 夏子と禰子の視線は、自然と英世の方を向いた。

 英世は腕組みをしながら答える。

「おそらく、移植の際に脳が何かしらのダメージを負った影響だろう」

「手術は成功したんじゃないのか?」

「成功であることは事実だ。現にあんたはこうして生きている」

「なら、どうして」

「延命治療分の金はもらったが、記憶を保証する分の金は受け取っていないんでね」

 利己主義者め、と夏子は毒づく。要は、手術に限界があったということなのだろう。

「つまり俺には、他にも失っている記憶があるかもしれないということか」

 噛んで含めるように呟いて、ふと気づく。

「思い出す限り、俺の弟子たちにまともな奴が少ないんだが……もしかしてこれも手術の影響か? 俺がまともな弟子の存在を思い出せていないだけか?」

「申し上げにくいのですが、その点についてはご主人様の記憶は正常だと思います」

 一縷の望みも禰子に否定された。

 木曜会メンバーに対する理解も深い様子だ。

 英世が裏を取っている点からしても、元女中という話は信用するべきなのだろう。

「とにかく、このガキがあんたへの餞だ」

 英世が場を仕切り直す。

「あんたが神田高等女学校の教師として過ごす間、こいつが神田高等女学校の生徒としてあんたの傍にいる。適度な距離を維持しつつ、護衛の役割を務める」

「分かった。しかし、こんな子どもを巻き込むことになるとは」

「子どもとはいえ、そこらの大人より役立つはずだ。何せ俺が直々に鍛えている」

 会津式でな、と英世が付け加える。

 会津は戊辰戦争において、多数の子どもを動員したことで知られている。

 察するに英世は会津出身なのだろう。だから夏子とは考え方が違う。

 彼は十六歳という年齢を、兵役に適したものと見ているのだ。

「それで、ラトルスネーク。お前はどうするんだ?」

「俺には俺の思惑ってやつがあってな。ここから先は別行動。悪いが、あんたのりはこれっきりだ。寂しくなるか?」

「清々するさ」

「だろうな。俺も同じだ」

 この一か月半で、憎まれ口をたたき合う程度の間柄にはなっている。

 互いに皮肉な笑いで唇をゆがめ合う。

 別れの挨拶はそれで十分だ。

「後はお前に任せる。しくじるなよ」

 英世は禰子にそう言い残し、部屋を退出していく。

 彼の背中を見送って、夏子はそっと呟いた。

「――感謝する」


 英世と別れ、禰子との縁を手に入れた。

 いや、縁を結びなおしたというべきか。

 禰子に見守られつつ、残された八月は足早に過ぎていき。

 そして九月がやってくる。


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試し読みは以上です。


続きは2024年2月20日(火)発売

『夏目漱石ファンタジア』

でお楽しみください!


※本ページ内の文章は制作中のものです。実際の商品と一部異なる場合があります。

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