二章 月が綺麗ですね(1)
夏子は大きな鏡に己の裸体を映し出す。
八月の熱気で火照った身体に、汗の玉が浮かんでいる。
鎖骨のあたりに生じたひときわ大きな汗の雫が、滑らかな肌を降っていく。双丘の間を抜け、括れる腹へと伝い、その下にある茂みに消えていく。
一ヵ月間の療養により皮下の肉は血色を取り戻し、唇は華やかに色づく。
二十四歳の身体は少女という「春」の時代を過ぎ、女として熱を帯びる「夏」の季節を迎えている。
「ふぅぅぅぅっ」
長い息を吐き、手にしていた鉄亜鈴を床に置く。
部屋の戸がノックされた。
「入れ」
告げれば、英世が二つの袋を抱えて入室する。
裸の夏子と面と向かうことになった英世は、特に興奮を表すわけでもない。
「どうして裸なんだ?」
普通に尋ねられる。夏子は部屋のクローゼットを指さした。
「用意された服だが、あれはいい服だろう。トレーニングの汗で台無しにするのは、勿体ないと思ってな」
「トレーニングに励むのは大いに結構だが、諦めが肝心だぞ」
「何を諦めろって?」
「リボルバーだ」
拭け、と英世からタオルを放り投げられる。
夏子はすらりとした腕を伸ばし、白魚のような指でタオルを掴む。
清拭に取り掛かる夏子に向かい、英世は言葉を重ねる。
「あんたの身の回りの危険は完全に去ったわけじゃない。政府側に命を狙われていた身であり、更には厄介な『ブレインイーター』までもいる。ならばと護身用の銃を持てと言われ、以前愛用していた銃にこだわろうとしたのも分かる。が、あんたの身体はリボルバーを取り回すには不向きだ。自動拳銃に切り替えろ。安全装置もあるし」
「
夏子は、双丘の下を濡らす汗を拭きながら反論する。
「あんなもの実戦でアテになるか。弾詰まりはするし、故障も多い。いざ使おうとしたら中の
「ところが、今じゃそうでもないのさ」
英世は持ってきた袋の一つから、一丁の拳銃を取り出す。
「コルトの最新式――今年の三月に米軍が採用した自動拳銃は、砂漠地帯や湿地帯の使用にも耐える丈夫な構造で、45口径のマンストッピングパワーが信頼性を生み出す。自動拳銃が頼りなかった時代は終わりだ」
「それが実物か?」
問えば、呆れたような眼差しを返される。
「バカ言え。45口径なんて今のあんたが撃ったら、反動で音を上げるぞ。これは米軍の自動拳銃の機構を参考に、あんたでも扱えるよう改造したものだ」
「そうか」
武器を手渡され、夏子はため息を吐く。
かつて浪漫主義文学にも掉さしたことのある身である。
自分の相棒となる銃は、せめてロマンのあるリボルバーを使いたかった。
とはいえ、リボルバーにこだわることに合理性はない。それは承知だ。
「……ところであんた、いつまで裸でいる気なんだ?」
英世が投げかけた疑問は、この場において至極ごもっともなものであった。
夏子の言うところの「いい服」とは、目の覚めるような色合いの服であった。
洋装と和装の合わせ着だ。服に燕子花の意匠。どこか尾形光琳の絵を思わせる。
おそらく美術に通じた鷗外が絡んでいるのだろうと、夏子は察した。
それを着こなせば、成程。良家のご令嬢のような出で立ちとなる。
少なくとも、頭の中身が四十過ぎの中年男性であるなど、誰も見抜けまい。
「来月からあんたが赴任する神田高等女学校は、全寮制のお嬢様学校だ」
令嬢然とした見た目の夏子に、英世がブリーフィングを行う。
「ここ一か月の間、あんたはよく訓練に耐えた。お陰で予定よりも早いペースで体の機能が回復している」
「ついでに食欲も回復した。ここで出される料理の量じゃ物足りないくらいだ」
「まさか、もっとあれを食べたいと?」
「ああ」
素直に言うと、英世が思案気な顔になる。
「はっきり言うが、ここの病人食は栄養価のみを意識していて、食味は最悪だぞ」
「そうか? ウマくはなかったが、食えないほどじゃ……」
困惑する夏子を見ていた英世だったが、急に何かを思い出したらしい。
「そういえばあんた、数年間メシマズの国に留学していたな」
「やめろ」
「は?」
「英国の話題を俺に振るな。胃に鳥肌が立つ」
「そこまでマーマイトの味を思い出したくないのか?」
「マーマイトがマシだと思えるくらいの食環境を生き延びてきた」
心なしか、英世の目に同情的な光が宿る。
「まぁ、なんだ。あんたの食欲については俺も考察したが、肉体が冷凍保存されていたことが関係していると思う」
「というと?」
「休眠状態だった細胞が一気に活性化し、細胞に変異が生じたのかもしれん。代謝が活発になり、身体機能が向上したんだ。かつてその体は死病を得ていたが、復活してから病状が鳴りを潜めている。これは活性化した細胞が、病巣を一気に駆逐したと考えられる。予想外だ」
「上々じゃないか」
「いや、細胞の活性化は長短両面を持つ。あんたは膨大なエネルギーを使うことになり、エネルギーを補うために食欲が増進しているんだろう。活発な代謝による体温と血圧の上昇も、燃費の悪さに拍車をかけている」
告げくる英世の眼は鋭い。
眼光は職業人としての矜持に満ちている。
「燃費の悪さは身体に負担をかけている。寿命を力に還元しているんだ。すぐに死ぬことはないだろうが、命の残量は意識しておいたほうがいい」
それは夏子にとって重要な問題ではなかった。
どの道、今ここに生きているだけで儲けものの身である。
ここで長生きを望めば、過ぎたる願いというものだろう。
「また、細胞の活性化は、そのまま細胞が悪性変化した時のリスクに繋がる。悪性腫瘍ができれば、一気に全身に広がることになるというわけだ。細胞の悪性変化を誘発する行為は慎んだ方がいい」
「具体的には何を?」
「喫煙だ。細胞が悪性変化しやすいという報告書が出た」
それは夏子にとって重要な問題であった。
「煙草は引き続き楽しみたい。今だって、久しぶりに吸いたいくらいだ」
「駄目だ」
「煙草は紳士のたしなみだぞ」
「今のあんたは淑女だ」
「ラトルスネーク、お前は吸っているじゃないか」
「それとこれとは別だ」
「量を調整すれば吸っていいのか? 例えば一日三本までとか……」
「何のためにこの部屋に大きな鏡を据え置いたと思っている。今の自分の姿を客観視することで、体に合った生活を心がけるようにするためだ。自分の姿をもう一度見てみろよ。こんな乙女が、リボルバーを取り回してタバコを吸うか?」
「カッコいいじゃないか」
「大和撫子を叩き込んでやる必要がありそうだな」
英世が肩を竦め、話を継ぐ。
「さっきも話した通り、神田高等女学校はお嬢様学校だ。教師であるあんたも清く麗しいご令嬢であることが求められる。夏目漱石であることを捨てろとは言わないが、今は樋口夏子であることの自覚を持ってくれ」
「神田高等女学校ってのはどんなところなんだ?」
問えば、英世は説明する。
そもそも高等女学校とは、尋常小学校を卒業した女子たちが、更に学びを求めて向かう学校である。
そして東京・神田に建てられた神田高等女学校は、中流から上流家庭の子女を対象に、全寮制の充実した環境を提供することを謳い文句に発足した、新進気鋭の学び舎だった。
広大な敷地を煉瓦塀でぐるりと囲んで、囲いの中には赤煉瓦で構成された洒落た校舎と寮塔がある。
塀の外からは建物の一部が見えるのみであるが、全容を見せぬことで、見る者たちの想像力を逞しくさせる。
塀に守られた聖域のなかに在る、乙女たちが行きかう素晴らしき学び舎を想像し、足を踏み入れてみたいと誰もが一度は願う。
塀という結界で外界と隔離された聖域――そう夏子は理解した。
「高等女学校は通常でなら四年制だ。しかし法律は、就学期間の一年延長を認めている。此度、神田高等女学校は九月より就学期間を一年延長し、新たに五年生を設けた。あんたはその学年を受け持ってもらうことになる。当然、生徒と一緒に寮に住んでもらうぞ」
「五年生というと、ちょうど十六、七の年頃か」
ちょうど乙女盛りである。
目に見える世界がキラキラ光り、楽しい年頃だろう。
そのような年頃の、それも名家のお嬢さんたちを預けられるというのだ。
責任は重大なものになると夏子は感じた。
学問を教える上での心配はしていない。
だって夏子は、漱石時代に帝国大学の教師をやっている。
国内最高峰の学び舎で、最高学年を相手取り、英文学だとか、哲学だとか、女性論、煙草の吸い方、英国式の皮肉の言い方、浅草十二階下での遊女の買い方……澄みも濁りも様々な知識を学生に伝授してきた実績がある。
夏子として生まれ変わっても、教導能力は自家薬籠中にある。
それよりは、寮生活のなかで淑女さを求められ続けることの方が心配だった。
「あんたの言葉遣いも直さなければな」
英世の言葉に、暗澹たる気持ちになる。
「勘弁してくれ」
夏子はぼやいた。己を貫くために武器と筆を握るしかなかった不器用な男が、器用に女言葉を使えるとも思えない。
泣き言がつい口から漏れる。それを英世が見咎める。
「やる前から諦めるな。あんたは帰国子女という設定にしているから、多少の不自由さは異国暮らしの名残として誤魔化せる。それに、妙案もある」
「妙案?」
「口癖を作ればいいんだ。口から発する言葉を全て女言葉に翻訳するのは、骨が折れる。だから言葉に窮する場面があったら口癖で繕えばいい。言葉の受け手に意味を想像させるんだ」
口癖、か。
一考に値するアイデアだとは思えた。
肉体こそ令嬢だが、頭の中は中年男性。その事実を秘匿する必要がある。
会話で何かしらのボロが出そうなとき、下手に説明で取り繕うよりも、煙に巻く方が効果的というのも頷けた。
問題はどんな口癖にするかだ。
良い案なんて、早々出てくるものでない。
と、ここで英世が聞いてくる。
「あんたは昔『アイ・ラブ・ユー』を『月は綺麗ですね』と訳したと聞くが?」
「そんなこともあったが……おい、まさか」
「それでいこう。あんたの口癖は『月が綺麗ですね』だ」
「は?」
ニヤニヤと口唇を歪める英世を見て、夏子は非常に不吉な予感を得た。
このままだと玩具にされそうな気がする。
「おい冗談だよな? その設定、俺には背負いきれないんだが? なぁおい、おい!?」
ズルズルと大きな鏡の前に引きずられた。
鏡に改めて自分の姿を映し出す。
華やかな美貌と向き合うと、傍らで英世が指を鳴らす。
「さぁ、口癖の修行だ」
「なんて雑なフリなんだ」
ため息をつきつつ、まぁやってみるかと考える夏子。
修善寺の大患前は、個人主義を掲げて自由を死守する活動をしてはいたが、本来は他人に従うことに抵抗があるタイプではないのだ。
「口癖を自分のものにするんだ。様々な場面を『月が綺麗ですね』で乗り切れ。まずは、月夜に知人と出会った時の挨拶」
夏子は記憶の中にある一葉の笑顔を思い出す。
腹をくくり、記憶の中の一葉の表情を、自分の顔に張り付ける。
「――あら、こんばんわ。月が綺麗ですね」
鏡のなかの自分は中々の演技をしていた。
初めてのことなので多少のぎこちなさはあるが、及第点だろう。
「いいぞ」
英世が頷き、次の場面を設定する。
「待ち合わせの場面だ。あんたはだいぶ待たされている。待ち合わせの相手が現れた時には、既に空には月が浮かんでいた」
「――あらあら、本当に、月が、綺麗、ですね」
月が出るまで待ちぼうけをくらったという不満を舌先に染み渡らせて、一句ずつ刻みつけるように発する。
表情は笑顔で、目のみを怒らせた。
鏡で見ると、単に感情を露わにするより迫力が滲んでいる。これも及第点だ。
「悪くない。ならこれはどうだ。小糠雨の中、あんたは恋人と共に一つの傘の下で、肩を寄せ合い歩く。至近距離で恋人から笑いかけられ、照れたあんたは思わず目線を逸らし、出てもいない月の輝きを――」
「待て」
「どうした?」
「そんな場面を想定する必要があるか?」
「逆に、この場面は必要ないとあんたは断言できるか?」
「いや、それは……」
「必要のなさを証明できなければやれ。これは想像力を鍛えるための訓練でもある。想像力に乏しい兵士の戦場での末路を、理解できないあんたではないはずだ」
「…………」
なんかもう、ヤケクソな気分になってきた。どうにでもなれ。
夏子は羞恥心を心中のゴミ箱に捨て去り、演技に没頭する。
「――つ、月が綺麗ですねっ!」
頬を染めて、目を泳がせる。
見つめるべき月など空のどこにも浮かんでいないことを、目の動きで表現する。
「次だ。友人の詠んだ詩が下手糞過ぎた。ところが友人はこれを会心の作だと自負して、あんたに感想を求めている。友誼は大切にしたいが、駄作を上手とも言えぬ」
「――あ、ははは、えーと……あっ、月! 月が綺麗ですね!」
愛想笑いからの、空々しい話題転換の演技。これも上手にできた、
演技を続けていると、なんだか楽しくなってくる。演技にも脂が乗ってきた。
「霊験鮮かな恋結びの大樹の下で、あんたは想い人に恋心を伝える」
「――あなたが側にいると、月が綺麗ですね」
「新婚生活、新居での夜のこと。布団の上に座るあんたに、夫は『この家をもう少し賑やかにしたい』と言ってくる。その意味を察したあんたは、官能の熱を宿す体をそっと夫に沿わせ、返答する」
「――月が……綺麗ですね……ふふっ」
「天空には赤く大きな月。その月より襲来した六枚の翼を持った漆黒の怪物が、月を背負って地上を睥睨している。地上部隊はすでに壊滅状態で、唯一まだ生き残っているあんたは、なお怪物に立ち向かおうとする。彼我の戦力差は歴然なれどあんたは諦めない。 人類としての矜持があんたに再び銃を取らせる。満身創痍で立ち上がるあんたの口から、叫びが轟く」
「――へへ……まったく……月がッ! 綺麗ッ! ですねぇぇぇぇっ!」
「最愛の娘の命を惨たらしく奪った犯人をあんたはついに追い詰めた。這い蹲って命乞いをする犯人に対し、あんたは冷たく目を光らせ、犯人の頭部に銃口を向けて――」
「――月が綺麗ですね」
ズドン!
夏子は先ほど手渡された自動拳銃を手にし、己の想像力が生み出した足下のクソ野郎の頭部目掛けて照準を定めた。安全装置を外して引き金を引いた。銃声が生まれた。
ビシィッ!
床板が銃弾で弾ける。
銃声は空気を震わせ、建物全体に警戒を行き渡らせた。
「馬鹿、演技にのめり込み過ぎだ! 本当に撃つ奴があるか!」
「馬鹿はお前だ! 銃弾が入った状態で人に渡す奴があるか!」
英世の怒声に、夏子もまた怒声で対応する。装填済みとは予想外だったのだ。
怒声をぶつけ合う間に、人の気配が近づいてくる。
「くそっ、騒ぎを鎮めねぇと!」
舌打ちをしながら英世が廊下に出ていく。
駆け付けた保安要員を説得する声が、部屋の中まで聞こえてくる。
「襲撃じゃない、事故だ! 護身用の拳銃が暴発したんだ!」
「事を荒立てる必要はない! もうじき患者も退院するさ!」
「分かっている! 始末書ならいくらでも書かせてもらう!」
応酬が続き、しばらくして。
部屋の中に戻ってきた英世は、疲労感が宿る表情をしている。
「俺は一つの知見を得た。有意義な知見だ。それは、あんたといると、退屈しないだろうということだ」
「護衛を外れるなら今の内だぞ」
言い放って、夏子はふと尋ねる。
「そもそも、俺は教師として寮に住みこむとして、お前はどうやって俺を護衛するんだ。まさかお前も教師になるのか」
「教師? バカ言え。なんで俺の貴重な人生の一部を、ガキどもの供物にしなければいけないんだ?」
「言い方はともかくとして、主張には同意できる」
夏子は大きく頷いた。
教導能力こそ自家薬籠中の物だが、本当は教職が大嫌い。
鷗外が神田高等女学校を紹介したのは、彼なりの配慮のつもりだったのだろう。
だが、夏子にとっては余計な提案であった。教師はもうウンザリだったのだ。
そして、余計といえばもう一つ。
「俺に護衛は必要ない」
夏子は主張する。
「お陰で随分と力も戻ってきた。今なら一人でもやっていける――」
カチャリ。
金属音が、夏子の言葉尻を食い破った。
英世が夏子のこめかみに拳銃を突きつけていたのだ。
銃はシングル・アクション・アーミー。SAAの略称で知られるリボルバー。
グリップ部には金属製のガラガラヘビの意匠が彫りこまれている。金属の蛇が、
「護衛が必要ないだと? あんた、この状況でも同じセリフを吐けるか?」
英世が冷ややかに告げてくる。
「自惚れるな。あんたの回復は驚異的ではあるが、全快には程遠い。この程度の早抜き、かつてのあんたなら対応できていたはずだ」
「……ッ」
「俺はドクトル・ニルヴァーナに金を積まれ、この仕事を引き受けた。俺の雇い主は彼であってあんたじゃない。あんたの我儘に付き合う義理もないわけだ。分かるな?」
夏子は英世の銃を一瞥し、英世に目線を戻した。
負けを認めるべき場面だが、素直に認めるのは悔しい。皮肉の一つも言いたくなる。
「随分と風変わりな手術道具だな?」
「穿頭手術用さ。分厚い頭蓋骨でも、一撃だ」
頭に穴を開けるのは得意なんでね、と英世は言う。
医者としてはあまりに不謹慎な発言だし、同時にこんなやつだからこそ、脳移植手術なんて所業に手を染めるわけだと納得させられた。
ひとまず両手を挙げて降参の意を表す。
呼応して英世も銃を収め、言う。
「安心しろ。神田高等女学校に赴任するあんたのために、俺の代わりとなる護衛を用意した。後日あんたに紹介するが、あんたもよく知る奴だ」
「俺がよく知る奴?」
頭の中に何人かの候補がよぎる。
殺人剣の使い手である物理学者や、南満州鉄道株式会社の隻眼総裁。
アル中の弟子、漱石のところに来た手紙を焼くのが趣味の弟子、漱石が「最低のゲス」「生かしておきたくはなかった」と評するレベルの弟子、借金魔の弟子(複数名)、夫婦で爛れきった弟子、等々。
「…………」
思い返すと碌な奴がいねぇな、と内心でため息。
遠い目をした後、目線の照準を英世に戻す。
「それにしてもお前、俺に自動拳銃を押し付けておきながら、自分はリボルバーか?」
「リボルバーにはロマンがあるからな」
「分かるぞ。すごく分かる」
これは大いに首肯できた。
夏子は本日何度目かのため息を吐く。
「まぁ、リボルバーの良さを分かち合える男と出会えたのが、せめてもの慰めだな。お前とはリボルバーの魅力を肴に、いい酒が飲みかわせそう――」
「酒? 冗談も大概にしてもらおう」
英世が真面目くさった顔で言う。
「喫煙同様、飲酒も細胞を悪性変異させる可能性がある。あんたは禁酒だ」
「鬼かお前は」
リボルバーを取り上げられ、禁煙を強いられ、挙句に禁酒ときた。
これでは現世にしがみついた甲斐というものが感じられない。
「うんざりだ。一体、何を楽しみに生きろと?」
「小説を書けばいい。あれだけ熱心に執筆していたんだから」
「俺は、小説を書くことが楽しいなんて思ったことはない」
床に目を落として呟けば、英世が不思議そうな表情になる。
「そうなのか?」
「心に溜まる鬱憤やら不安、悔恨や憎悪、未練……それらを抱え込むには、俺の脳味噌は小さすぎたんだ。時折吐き出してやらないと、心が壊れていく。だから俺はそれらを表現で発散するため、小説を書いたんだ」
舌打ちを一つ、場に落とす。
「世間は俺たち作家を勘違いしている。俺たちは楽しんで小説を書いていたんじゃない。表現しないと己が壊れていくという強迫観念に駆られ、血を吐きつつ筆を手にしたんだ」
そう。
作家を操ろうとした政府や社会主義者たちは、そこを勘違いしていた。
作家たちは単なる金銭欲や承認欲求から創作に打ち込んだのではない。
少なくとも、明治を生きる作家たちは、貧困や病苦、身分差別などの困難により消耗した精神を治癒させるための手段として、創作に打ち込んでいた。
武装組織・木曜会が大所帯となったことは、その証左である。
個人主義の旗の下に集う作家たちは「表現しないと己の神経が死ぬ」という切実な理由から、戦いに身を投じたのだ。
表現の自由は、彼らにとって文字通りの生命線だったから。
「そうとも。執筆は心の治療だ。執筆をするのは心が怪我している奴だ。心か健やかな奴が、小説なんか書くものか」
思えば森鷗外も、樋口一葉も、心のどこかに闇と病みを抱えていた。
だからこそ鷗外や一葉はあれだけ素晴らしい作品を書けたのだろうと、夏子は語る。
「なるほどな」
夏子の話は、英世を納得させたようだ。
「てっきり楽しくて小説を書いているものと思っていたが、どうやら俺は浅慮だったようだ。学ばせてもらったよ。ところで――」
英世は紙袋をひとつ摘まみ上げる。
それは彼が部屋に持ち込んだ二つのうち、未開封のものだった。
もう片方の袋には拳銃が入っていたが、この袋には何が入っているのだろうか。
「俺はあんたが病人食のマズさに心をすり減らしていると思っていた。だから口の慰めとなるものを用意したんだが」
英世は紙袋のなかから、カステラの包みを取り出す。
夏子は思わず身を乗り出した。
「ふ、風月堂の東京カステラ!」
突き出されるカステラは、夏子にとって値千金の価値がある。
「甘い物は嫌いか?」
「大好きだ。甘味は人生の喜びだ」
夏子は整った顔で微笑んだ。
「そうとも、俺にはまだ甘味があった! 食の喜びは素晴らしい! 甘いものは特に!」
「……作家ってやつは本当に、甘味が馬鹿みたいに好きだよな」
「何か言ったか?」
「いいや、何も。とりあえずお茶にしようぜ。いい紅茶があるんだ」
喜色満面だった夏子が、ここで身震いした。
「おい、あんた一体どうしたんだ」
「緑茶にしてくれ」
「緑茶? 紅茶じゃダメなのか」
「紅茶は嫌なんだ」
「なぜ」
「心に鳥肌が立つ」
ああ、と。英世が手を打つ。ニヤリと笑う。
「あんた、英国の文化まで毛嫌いするほど、あっちで食生活に難儀していたのか。この分だと、ユニオンジャックを見せたら気絶すらしそうだな」
「……月が綺麗ですね」
苦し紛れに場を濁す夏子の姿を、英世は明らかに面白がっていた。