Scene 1
ファミリーレストラン・バニーズ、
桜の影が薄れた四月半ば。外から運ばれてくる甘い海の香りが鼻をくすぐる。
平日の夕刻はまだ客足少なく、比較的穏やかな時間が流れる、そんな時。
接客アルバイトに勤しむ俺──
「お子様ランチ、ひとつくださいっ」
──なんだこいつは。
まだ生地が硬そうな、深い紺色のブレザー。ブラウスを彩るツユクサ色のネクタイ。
それが神奈川県立・
「あの! 私高校生ですけど、お子様ランチください! このおまけが欲しいんですっ」
意気揚々と見せつけられたメニュー表には「小学生までのとくべつりょうり」と大きく書かれてあるというのに、一切の躊躇いなく注文をかます少女。
ドヤっと音が飛び出してきそうな様子すら見せつけられた気がするが、とんでもない厄介客にあたったとクソデカため息が漏れた。
「あの、お客様?」
「はい?」
「その……こちらのメニューは小学生までのお子様を対象としておりまして。お客様はご自身でも仰られている通り、高校生ということですので……」
「えぇー……?」
その困り顔が思った以上に可愛いだなんて、そんな邪念は心から焼き払え。
確かに行為こそアレだが、少女の様子はあどけない。
黒真珠のように艶やかな光を放つ黒髪。首元をくすぐるようにくしゅっとした襟足が肩上まで伸び、垂れた前髪からは大きな瞳が覗く。そこには「好奇心」というビー玉を嵌め込んだような純朴さが見えるが、あなどることなかれ。ブレザー越しでも分かってしまう胸元は年下であることを忘れさせ、チェックのスカート丈から覗く腿は健康的でふにっとしている。
落ち着け、心を乱すな。気を許すな。今の俺はバニーズのアルバイトマン。
今月は店長に散々怒られ、これ以上問題を起こせばクビだと宣告されたばかり。
この崖っぷち、こんな厄介女子にかまける余裕などない。
口をきゅっと絞り、心に冷水をぶっ掛けた。
「他にご注文がございましたらお知らせください。ではお済みのお皿、お下げします」
食べ終えたであろうパフェのグラスを手に取り、少女から視線を逸らす。
普通、デザートは最後だろうと心の中でぼやくが、こういう欲求第一なところが彼女らしさなのか。きっと遠慮するだとか、周囲の目を気にするだとか、そういう感覚がないのだろう。俺からはまるで想像のできない類の人間だ。
そんな彼女は頬を膨らませ、猫のように大きかった目はジト目に変わっていた。
「ぶふぅ。ケチ」
「は、はぁ。すみません」
「店員さんは欲しいと思わないんですか? このおまけのにゃんにゃんコレクション。いろんなネコちゃんがランダムで付いてくるんですって! あ、ところでこのムスっとしたネコちゃん、店員さんに似てません?」
「……似てませんよ……」
引きつった営業スマイルでカクカクと返事する。
こ、こいつ、ついに俺の悪口まで言ってきやがったな……。
確かに人相が悪いと言われるが、不機嫌なわけではない。陰気臭いとも言われるが、いかにも拗らせているタイプだとは思わない。
ただ、自分を外に出すことが苦手なだけなのだ。だから表情は乏しく、誤解だってされる。こいつのように欲のまま生きるなんて地球が三角になってもできやしないし、人生に向き不向きがあるのだとしたら、俺は不向きな方にカテゴライズされてしまうのだろう。
だが、それがどうした。
俺だってちゃんと人間として生きているし、怒る時は怒る。やる時はやる。
「ということで早く、早く! 持ってきてくださいよ、店員さん〜!」
決めた。たまには言うこと言ってやれ。年下のこいつには縦社会を叩き込んでやろう。
グイグイと袖まで引いてくる彼女の手をそっと払い、顔には一杯の力を入れてやった。
「お客様。失礼ですが、辻橋高校の生徒ですよね? あまり迷惑な行為をされますと、学校に報告させていただきますが?」
迷惑学生にはこれが一番だ。悪いな、これでケリをつけさせてもらう。
が、少女の表情は変わらない。
いや、むしろ喜びがより染み込んだような顔で、ちょいちょいと指で俺を誘った。
なんだなんだと屈んで傍に寄ると、こしょこしょとくすぐったい声が耳奥に絡み付く。
「店員さんも
「へ? ……え?」
なぜそれを。
ぎょっと後退りすると、星が詰められたような彼女の目と合ってしまった。
彼女はニパっと無防備に笑う。
まるでお菓子の箱でも見つけたように嬉しそうにしているが、意味が分からなかった。
「私、知ってますよ? 先輩のこと、たっくさん♡」
……ほう。これはなんだ、脅迫のつもりか。
ならば浅はかなり。クラスで「概念」とさえ呼ばれる影薄男子の俺について、こいつはなにを知っている。その悪あがきを鼻で笑い返してやった。
「あの、自分のなにをご存知で? 恐れ入りますが、本日はお引き取りを……」
が、その瞬間。
まるで無数の弓矢が放たれたようだった。
「辻橋高校二年B組の城原千太郎先輩、出席番号十二番の帰宅部で十月生まれのA型!
いつも休み時間はスマホばっかりいじって人付き合いが苦手な先輩ですけど、接客のバイトすっごく頑張ってますよね! ところでなんでファミレスなんですか? もしかして他のバイトは全落ちしちゃってここしかなかったからですか? でも今月、店長さんにたくさん怒られてピンチですよね? 次なにかやったらクビらしいですけど、知ってます? ていうか先輩、バイトの許可証の更新もまだですよね? うちの学校、厳しいのでちゃんとやらないと問題行動になっちゃいますよ〜!」
……脇が汗でダクダクだ。
やばい。うそだろ。なんでだ。おかしいだろ。
そんな情報、クラスの誰にも言っていない。こいつは今、俺の頭の中をスキャンでもしたのか。
彼女はきゃるんとひとつウインクしてから、舌なめずりまでしてみせた。
「ということで先輩、こっそりお子様ランチ持ってきてくれませんか? 可愛い後輩がお腹ペコペコで待っていますっ♡」
「お……お前……なんだそれ……何者だよ……」
「え? 私ですか?」
彼女は少し考え込んでから、思いついたように人差し指を立てて発した。
「『監督』ですっ」
監督。
まるで聞き慣れない言葉を打ち返され、一時停止。
なんだ、野球監督か。それとも工事監督でもしているのか。
だが待て。ストーカーじゃないならこいつの目的はなんだ。人の情報を売り捌くつもりか? いや、それとも気に入らない輩を社会的に抹消する気か。しかし俺の情報なんてこれ以上……。
「そうそう。ところで先輩、英語のノート落としてましたよ?」
「へ……」
「すっごく焦って探していましたよね? 下駄箱で落としちゃっていたみたいで、お届けできて良かったです!」
「お、おお……さんきゅ……」
差し出されたノートを受け取ろうとすると、引きかけていた汗が再び噴き出してきた。
俺にはこのノートを必死に探していた理由がある。
まさか。こいつ、まさか。
「先輩、授業ちゃんと聞いてます? ノートにこんなこと書いてちゃダメですよ?」
「……………」
「でも二年生の英語ってとっても難しそうですよね。あ、そっか。だからこんな妄想をしちゃって……」
「……あの……」
「えっとえっと、これですかね。『七ヶ国語をマスターしてきた俺が英語の授業で超無双。かつて赤点をつけた教師が慌てふためくが、もう遅い』……?」
「おぁぁああああ!? やめろ、それ以上読み上げるなぁ!! ストーップ!!!!」
やばいやばいやばい、誰かこいつを止めろ。
いとも容易く人の闇を開示しようとするな。とにかくそのノートを取り上げろ。そう思って光の速さで一歩踏み出したところで、つま先が床にぶつかった。
そのまま身体は前傾し、グラスは手から逃げるように空を泳ぐ。
時間がスローで進み、やがて床に着地したグラスからは、パリンと割れる音。
すると、かつての店長からの宣告が頭の中でこだました。
──城原くん、次やったらクビだから。
店長の怒声が厨房から聞こえてきたのは、それから間もなくのことだった。
*
「城原くぅん? キミ、これで何度目かな? んんん??」
注文間違い。シフト伝達ミス。酔っぱらい客とのトラブル。
数々の失態をまたアップデートしたものは、今しがたのグラス割り。
天国に旅立った食器に懺悔するよう頭を下げ、鷹野店長のお叱りを全身で浴びる。
これが今月、……何度目だ。
バニーズの厨房出口──通称「お叱り場」でゴミ箱に囲まれながら、ひい、ふう、みい、と数え、五本の指じゃ足りなくなったところでカウントを諦めた。
「おおよそ五回目くらいでしょうか、すみません」
「九回目でしょ九回目! グラスを割った回数は今月だけで四回目! そんな割って、キミは親の仇でもとってるの!?」
「そ、そうですねぇ……なのでグラスを持つとつい覚醒しちゃいまして……」
「……城ぃ原くぅん? じゃあお給料から引いておこうかなぁ?」
「ひっ!? うそですうそです冗談です! もう二度と割りませんごめんなさい!」
鷹野巴、二十九歳。
バニーズ逗子海岸店の店長を務め、その勢いは飛ぶ鳥を落とすかの如し。
甘い声音とは裏腹にマイクロマネジメントとおもてなし接客を徹底し、この逗子海岸に通うサーファー、パリピ、陽キャたちからは「逗子の人魚」と崇められているが、俺は「逗子の魚人」と胸の奥で何度も呼んでいる。それが鷹野巴こと店長に俺が抱く思いだ。
そりゃこの御方の出るところは出ているし、センター分けの前髪から覗く柔らかな垂れ目とぷっくりした唇は確かにお美しい。
胸元まで伸びた明るい亜麻色の髪は先端で波打ってカールし、ワイシャツ姿でもゆるりとした雰囲気を醸す彼女は、このバニーズ逗子海岸店を淡い色に染める。
温和で優しそうで、色気のある大人の女性。
……そんな印象を店長に抱いてしまったら、負けだ。
そう。店長はやることなすことがとにかく激しい。竹を割ったような性格と言えば聞こえは良いだろうが、この人はむしろバリンバリンと持ち前の豪腕で砕きにいく。先月に俺がやらかした時は「城原くん、じゃあ看板担いで海岸ぐるっと宣伝してきたら許してあげる(笑)」と笑顔で罰を命じられ、数キロ歩かされた俺はその晩ひっそりと泣いた。
「城ぃ原くぅん? 私はね、もう怒りたくないんだよ? 怒るととってもお肌に悪いの」
「はい、申し訳ないです……」
「見える? ここ一年で眉間にこんなシワが寄っちゃった。昨日のマネージャー研修でもね、久々に同期に会ったら『老けた?』だって。ヒドくない? ブスって言われるよりヒドくない??」
「い、いえ。店長はとってもお若く見えるので大丈夫です」
「ふふ、そう? ふふふふふ」
ああ、今日は本当にもうダメだ。俺の中での店長アラートがオンオンと鳴っている。
ポンと肩を叩かれると、それはもう首元に刃を添えられたようだった。
「じゃあ城原くん、元気でね? これでやっと私のお肌は若返るけど、城原くんのいないバニーズはちょっと寂しいなぁ」
「いやいやいや! 待ってくださいよ!? 次やったらクビって話、やっぱりマジだったんですか!?」
「そうだよ? ほら、ちょうどキミの学校のバイト許可証に更新のサインしようか迷ってたところだし。それにマネージャー研修でもコンサルタントさんに言われたんだ、『あなたが獅子なら我が子を奈落の底に突き落としなさい』って」
「奈落の底からは這い上がれないですって! ていうか、ここで働けなくなったら俺はどうやって暮らしていけば……」
「それ、どうせゲームの課金に使うお金でしょ? 高校生なら趣味とか部活とかに夢中になった方がよっぽど良いと思うんだけどなぁ」
「いえ、俺にとってはここでのバイト生活がなによりも生き甲斐なんです!」
「思ってないでしょ! キミの目、光が全くないじゃん!」
くそっ……ダメだ、こんな付け焼き刃じゃこの魔手から逃れられん。
だが、クビはまずい。絶対にまずい。今月は春のガチャ全力ウィークで回しすぎた。だがここで俺の数少ない娯楽を取り上げられようものなら、休み時間すべてを机の上に突っ伏すことになる。だからといってまた新たにバイトなぞ探せるか。履歴書作成も面接もあんなん続けたら闇堕ちするわ。
ならばこの緊急事態──俺はまた、「あれ」をやるしかないんじゃないのか。
「……はっ……俺が……クビ……」
スロー再生でろうそくの火を消すような、長い息。
目頭をぎゅっと押さえながら、ゆっくりと壁にもたれかかった。
それはもう、ゆっくりゆっくりと。冬眠から目覚めた動物のように。
──人間、こうやって見放されてしまえば、おいそれと涙をこぼすものだろうか。
いいや。きっと己の無力さに辟易し、まずは真っ直ぐ地面に立つ気力から失っていく。
背中を壁に預け、自嘲めいた苦笑いを浮かべ、左手をだらんとぶら下げる。
顔を覆った右手の指と指の隙間から店長を覗き、折を見てから壁に頭をぶつけた。
ごつん、ごつん、と。
「……城原くん? なにしてるの?」
「はは……こんな人生、さすがに辛すぎるっていうか……」
「そんなショックだった? でも、約束は約束だからね。これを機に自分のことを見つめなおして……」
「これじゃ、アカリに顔向けできねぇ」
「アカリ?」
「俺の妹のことです」
「城原くんに妹なんていたっけ?」
「……ええ」
俺はこれから、架空の『お兄ちゃん』へと姿を変える。
バイトのクビから逃れるため。店長を化かし、欺き、ちょろまかすため。
つまり、ウソをつく。
そんなウソで構築するものは、ウソの妹。固い絆で結ばれたウソの兄妹愛。ウソの妹を守ろうとするウソの兄のウソの話。
いいや、今だけはウソを現実にしよう。解像度を上げていく。
妹の年齢は五歳。俺との身長差、およそ大きなスイカふたつ分。趣味は『プイキュアごっこ』とお兄ちゃんにおんぶされること。
世の汚れも穢れも知らず、童話の世界からやってきたような純粋無垢のふわふわ幼女。俺とは似つかぬクリンクリンのおめめで大好きなオムライスを頬張り、「お兄やん、お兄やん」と服の袖を引っ張る。口の端についたケチャップを拭き取ろうとすると、「いやや」とそれを拒否。俺がやれやれと笑えば、今度はだっこをおねだり。そんなワガママさんだが、世界で一番可愛い。そんな大天使の妹。
そうだよ、こんな妹が欲しかったんだよ。心に薄く笑いが込み上げた。
「……先日、うちの妹が幼稚園で家族をテーマにした日記を書いたんです」
「幼稚園? 城原クンの妹さんってそんな小さいんだ?」
「はい。そこで妹はこんな題名をつけました。『おしごとをがんばるお兄やん』──って」
「え?」
店長の表情が動く。
が、そこにはまだ余裕が見えた。冗談だろうという心の声すら聞こえる。
ならばもっと熱が必要だ。
「……それを先生や皆の前で読み上げるらしいんです。『お兄やんは、こわいおきゃくさんにもゆうきをだして、今日もおしごと。お兄やんがいるから、みんなたのしいおもいでいっぱい! お兄やんがうちのヒーローです!』……なんて」
「へ、へぇ。城原くん、案外お兄さんしてるじゃない」
「『だから、お兄やんのゆうきがあれば、あかりはしゅじゅつをうけられます』」
言うと、辺りから忽然と音が消えたようだった。
「……手術って、まさか」
ここだ。
丹田にぐぐっと力を入れ、膝を折り、前に倒れ込んで地面に手をつけた。
小石が手のひらに食い込む。痛い。だが、痛いと感じるようじゃまだ生ぬるい。
ここから先は、一切の躊躇いを置き去りにする。
他人の目なんか気にするな。熱を上げろ。走り出せ。突き抜けろ。
だって俺は、本当に追い詰められた「お兄やん」なのだから。
「アカリッ! すまねぇ!! お兄やんはお仕事、続けられそうにねぇンだッ!!」
「き、城原くん!? ちょっと! 手術って一体どういう……」
「お前にどうしてもお兄やんのかっちょいい姿、見せたかった。でもお兄やん、今日もグラスを割って……ついにクビだ! お前に勇気、与えられなかったんだよ……っ」
「まっ……待って城原くん! 落ち着いて!? ほら、身体も起こして!」
「お兄やんはここまでだ、アカリっ! すまねぇ、すまねぇ……!! 許してくれアカリ! アカリ⌇⌇⌇⌇ッ!!」
アスファルトにずりずりと額を擦り付ける。
なにをやっているんだ俺は。いや、これでいい。こうじゃなきゃならない。
ウソは決して躊躇わない。たとえ指差され嘲笑われ磔にされようとも、迷いを見せてはならない。信じる人間が誰もいなくなった時、真実という灯火が消えてしまうのだから。
だから、苦しい。
メチャクチャをやっている自分が恥ずかしいからじゃない。「お兄やん」の自分が本当に無力で、妹を救えなくて、自己嫌悪と後悔に溺れているから。
胸を押さえ地面に這いつくばっていると、店長はついに耐えられなくなったのか。俺の身体を起こして両の肩を掴んでいた。
「ごめんね……城原くん。私、そんなこと知らずに城原くんをクビだなんて……」
「店長……」
「城原くんがお仕事を続けること。それは妹さんにとっての希望でもあるのね?」
「はい……店長、どうか俺を捨てないでください……」
「よしよし。そんなことしないよ、城原くんは大切な仲間だもん。次は失敗しない?」
「はい! 百回食器を割ったら百一回オーダーして取り返してみせますッ!」
「いや、そもそも割っちゃダメだからね。……でも、そうだね。城原くんにケガがなくて本当に良かった。危ないからもう割っちゃダメだよ? ね、城原くん」
そう言った店長は目元をハンカチで隠し、鼻をすんと鳴らして戻っていった。
残された俺は余韻に浸らず、愉悦にも浸らず。
ゴミ箱の上によっこらせと腰掛け、ぼんやりと静寂を堪能。
やがて小鳥のちゅんちゅんとした囀りを聞いてから、がばっと頭を抱え込んだ。
「お……ぉぉおお……また……やってしまったぁぁぁぁ……っ!」
クビを神回避した。いつものように「ウソ」をつくことで。
今回もまたハチャメチャなウソだ。そんなワケあるはずないだろうに、気付けよ店長。泣くなよ、店長。
そう。いつもこんなバカなことをして、終わった後に後悔する。それが俺なんだ。
こんな悪癖がいつから付いてしまったのかは分からない。
だけど追い込まれるたび咄嗟に「誰か」を拾ってきて、その場を凌ごうとする。それは処世術だなんて聞こえの良いものではなく、つまりはウソだ。良くないことなんだというのは重々承知している。が、だからといって正直に生きましょうとはならず、俺にとってそれはそんな簡単なものじゃないんだ。
そんなことを考えながら今日も今日とて後悔にまみれるが……とはいえ考えすぎてしまうのもよくない傾向だ。それこそ店長も言っていたばかりじゃないか、眉間に寄ったシワが戻らないと。
よし、今日こそは前を向こう。気を取り直し、ポケットからスマホを取り出した。
「……まあ、せっかくバイト続けられるんだ。ガチャでも一発回しておくか!」
うむ。悩んだ時はこれが一番。
それにしても今日は厄日だったのかもしれない。思えば俺がグラスを割ってしまった原因だって、あの変な一年生女子が急に現れたからだ。
そうだ、もし学校であいつを見かけたらどうしてやろうか。あのイキりまくった顔を驚かせる悪巧みをひとつふたつ考えていると、ふと後ろから声が聞こえてきた。
「今日もすっごい大胆なウソつきますねー。でもクビにならなくて良かったですね!」
「ほんと良かったよ。しかし俺の人生にはこういう
「確かに災難でしたよね。でも前にお客さんと揉めた時は、先輩悪くなかったですよね? ケンカの仲裁に入られたって聞きましたよ?」
「あれなぁ。今みたいにウソついて止めようとしたんだけど、あの客酔っ払ってたからなぁ。困ったもんだよ、まったく」
「あはは。やっぱり先輩、そういうこと多いですよね〜」
談笑。ガチャをポチっと回しながら、お叱り場には和やかな空気が流れる。
だが、その瞬間。
温まった空気をすべて斬り裂くように、恐ろしい速度で二の腕を掴まれた。
「……え?」
「捕まえた」
撫でるような声。されどそれは殺気を帯び、首を静かに掻っ切る鎌の如し。
──さっきのヤバい一年生女子。
なんでこいつがこんな所に。驚いて一歩退こうにも腕は彼女の両腕に抱えられ、がっちりと脇でホールドされていた。
「おおおおおい!? お前、なんでここに!? ここは関係者以外は立ち入り禁止……」
「いやだなー、表口からぐるっと回ってこっそりドン、ですよ。ていうか先輩、いつも怒られている場所ってここだったんですね? ここが『お叱り場』って奴ですか?」
「なんでそんなことまで知ってるんだよ!? お前はなんだ!? こんなところまで来やがって……ていうか……」
いや、いやいやいや。突っ込むべきことが恐ろしいほどにある。
来ちゃった、みたいなノリで佇むこいつはなんだ。しかも俺の腕を掴み、ニコニコと嬉しそうにするこいつはなんだ。
はてなの数だけでプールが作れそうで思考が追いつかん。というか、さっきから俺の腕がグイグイと当たっているんだよ。ブレザー越しにでも分かってしまうお前の胸と……。
柔らかな表情の反面、腕を離すまいと必死に踏んばる彼女は、まるで草食動物を捕食する小型肉食動物のようだ。が、こんな甘い香りのする動物を俺は知らない。
「そんなことよりほら。これ見てくださいよ、これこれっ」
すると、目の前に差し出されたものはスマートフォン。
彼女が体勢を維持したまま片手で画面を操作すると、なにやら動画の再生が始まった。
ぬるぬると動き始めた映像には男女が映り、男はなにやら震え声を発している。
こいつは誰だ。目を凝らす。
その顔は、親の顔より見たことのあるものだった。
「は……? 俺……?」
「ええ、先輩です」
「おいまさか、これって俺と店長とのやり取りを盗撮……」
「あ、ここです。一旦ストップ」
映像はそこで停止する。
俺が地面に膝を付け、泣きたてる場面。自分の声はこんなにも気持ち悪かったかとギョッとするが、お構いなしに彼女は訊ねた。
「先輩。このとき、なにが見えていたんですか?」
「なにって……地面しか見えないけど」
「違います。先輩に病気の妹さんなんていませんよね。一体どんなことを思ってワンワン泣いていたんですか?」
なぜこいつは我が家のことまで知っている。
だが瞳孔開いたような目で問い詰める彼女は、有無を言わさない様子だ。やむを得んとさっきの出来事を思い返し、ぽしょりと答えてやった。
「……別に大したことは思ってないけど。妹は五歳だから背丈はこのくらいだろうとか、好きな食べものはなんだろうとか。五歳なら兄に反抗することもあるだろうけど、兄はきっとそういうのも全部ひっくるめて歳の離れた妹にメロメロになってるんだろうなって」
「なるほど。ああやってウソをつくのにそんな細かいところまで見られていたんですね。ふむふむ、ふむふむ」
そう言う一年生女子は、顎に指を当てて一人で納得したように頷いている。
そんなことを知ってどうする。やけに真剣そうだが探偵の真似事でもしているのかと笑ってしまいそうになるが、彼女はまた違う場面を再生してみせた。
「じゃあ、ここ。頭に巻き戻します。最初に目頭を押さえていたのはなんでですか? まだ泣く場面じゃないですよね?」
「うん? それは『お兄やん』が疲れちゃったからだろ」
「え?」
「だって小さい妹が病気なんだぞ? 『お兄やん』がバイトやってるのは、手術費を少しでも稼ぐため。でも妹に無理してるところは見せたくないから、『お兄やん』は勉強だって夜中にする。妹のことが心配で眠れない日もあると思うし、寝不足になればこんな手癖も生まれる。こういう疲れって心が折れたタイミングで押し寄せてくるだろうからさ」
「そんなことまで考えて……? 一体なんで……」
「まー、『お兄やん』はきっと色々考えてるよ。家族のために無理しちゃって、普段は作り笑いが上手いんだろうな。そんな根が真面目な『お兄やん』がクビきられるってなったら、おかしくなっちゃうわ。泣き慣れてもいないだろうし、格好悪いところだって見せちゃうかもしれない。感情がごちゃごちゃになって、さっきみたいにオンオンと泣き散らすことだってありえ……」
「あ、いえ。なんで先輩がそこまで考えてウソをつかれているかって質問でして」
……しまった。やってしまった。
なんで俺は聞かれもしていないことを得意げに語っているんだ。これじゃあ完全にイタい奴じゃないか。
ウソをつくことを掘り下げられた経験なんてないものだから、ついくっちゃべってしまった結果がこれだ。くそっ、生きるのがヘタくそすぎんだろ。
既に彼女は一歩引いた様子を見せているが……ええい、もっとちゃんとせねば。とにかく、心の奥に手を突っ込みガサゴソと言葉を探してみせた。
「まあ……中身が空っぽだからウソをたくさん詰め込めるんじゃないのか、はは……」
「え……」
冗談らしく言ってみせると、ついに彼女は俯いてしまっていた。
終わった……取り返しのつかないスベり方をした……。
きっと明日から俺は一年生の教室の前を歩けない。こんな寒い奴がいたのだとウワサが二年生にまで広がれば、俺の高校生活はいざナイトメアモードへと突入する……。
人と喋るたびにこうやってトラウマが生まれるからイヤなのだ。普段ならもう少し自分を抑えているものなのだが、どうにも今日はこいつのペースに流されっぱなしだ。そんなことを嘆いていると、彼女は顔を手で覆い、小さな身体を前に折り畳んでいた。
「ふふ……ふひ……ふひひ……」
「へ」
「な、なんですかその……ヘンテコな理屈……はじめて聞きました……っぷ……や、やっぱり先輩はおもしろい……」
なにがそんなにツボに入ったのかは分からない。
やがて彼女は身体を起こし、笑い泣いた目頭を拭った。
「ウソつきは『役者』の始まりですよ、先輩」
それは共犯者を見つけたかのような、不敵な笑み。
役者。そんな突拍子もない言葉にポカンと置いていかれ、聞き返そうとしたところで彼女に遮られた。
「明日の放課後、忘れずに旧視聴覚室に来てください」
「はい? 旧視聴覚室?」
「ええ。私より先輩なんですから、場所くらいは知っていますよね?」
「いやいや、いきなりワケ分からんて。つーか役者ってなんだ。あと勝手に人の都合を無視して呼び出そうとすんな。明日の放課後とかバイトあるから無理……」
「いえ。明日、先輩のシフトはないですから。すぐウソつこうとしないでくださいね?」
怖……なんでこいつはそこまで知ってるんだよ……。
だが、こんな意味不明の一年生女子にほいそれとついて行く甘ちゃんな俺ではない。このイキりようにもそろそろ縦社会というものを徹底的に叩き込むべきではなかろうか。
「はぁ……まあ、確かに明日は暇だけど。でもな、人にお願いする時は目的を明確にしなさい。分かる? そもそもさっき俺がグラスを割ったのだってな、元はと言えばお前がウザ絡みしてきたせいであって……」
「まーまー、そんなこと言わずに! ね? せ・ん・ぱ・いっ」
きゃるんと髪を揺らして笑う。もはや今までの真剣な表情がウソだったかのように。
可愛い。なんだこいつ、どちゃくそ可愛い。顔ふにっとしすぎだろ。髪さらさらじゃん。良い匂いがする。花でも食ってんのか。
そんなことに惚けていると、そいつは「えい」と動画の続きを再生。
すると、そこには「ガチャでも一発回しておくか!」とスマホを触り始める俺の姿が記録されていた。
「ふふ。今、どちらが有利な立場にいるかは分かりますか?」
「え……あ……まさか……」
「店長さんにこれを見せたらどうなりますかね? もうクビどころか、打ち首にされちゃうかもですよ〜」
「その動画で俺を脅すつもりか!? くそっ、だったら俺はまたウソをついて店長を……」
だが、彼女はもう俺の言葉なんて聞いていない。画面の方をじっと見つめ、その視線は液晶の向こうの奥底を覗いているようにも見えた。
「──映像って不思議ですよね。それがいくらウソだったとしても、見る人にとってはそれが『真実』になる。そうして、観る人の記憶にはその真実だけが残り続ける」
「へ……?」
「先輩がそんな世界に飛び込んだら、どんなウソをついてくれるんでしょうかね」
一体何のことを言っている。
やがて彼女はスマホをポケットにしまうと、よいしょと俺から離れていった。
鼻歌交じりに一歩を踏み出す彼女。
ふりっとターンし、揺れた前髪を指で整えると、初めて彼女は名前を告げた。
「一年生の
それはもう、満面の笑み。
身体中の喜びを頬に集めたように、春のすべてを詰め込んだように、暖かそうな顔。
……いや、なにが約束だ。俺は一ミリも頷いてやった覚えがない。
やがて少女は小走りに立ち去り、お叱り場から見えなくなる寸前一度だけ振り返った。
じゃあねと小さく手を振る姿は、そこだけ世界が別の色を塗ったかのようにも見えた。