傷ついた楽器
「どこかの部活かな?」
騒いでいる教室を指す織羽。廊下から九十度左を向いたところに入り口がある他の教室と違って、西端のその教室は入り口が廊下から真っ直ぐ入れるようになっている。みんなドアの方を向いてるので、ここからだと男子の頭しか見えない。
「ああ、あそこは何だったかな」
「え、あめすけ、部室の場所暗記してるの? 趣味?」
「人に言えない趣味を捏造するな」
織羽は納得したように「特技だね」と返す。特技でもないわ。
「部活紹介のときに部室の地図付きのパンフレットもらっただろ。どんな部があるか気になってたから、なんとなく覚えてた。あそこは確かジャズ研究会だな。ほら、紹介イベントでジャズ演奏してただろ?」
その言葉を聞いた途端、織羽は口をひん曲げた。
「ふうん、ジャズねえ」
「なんだよ、嫌な思い出でもあるのか?」
「そうじゃなくて。高校生で『ジャズ聴いてます』なんてのは、ジャズが好きなんじゃなくて、『ジャズが好きな自分』が好きなのよ!」
「いきなり偏見を持ち出すのやめて」
突然ストレートな毒を吐くなよ。
「高校生で普通にジャズが好きって人もいるだろ」
「高校生で普通にジャズが好きって人はいない!」
「断言しちゃった」
声のボリュームを下げて! 向こうに聞こえるから!
「ユーチューブで作業用BGMとしてちょっと流すことはあると思う。でも、『やっぱり、あの人のサックスのアドリブ、好きだなあ』なんて言う人は自分に酔ってるだけ!」
「待って待って、それオーケストラとかでも聞く話だろ? この楽団がこの年に演奏したこの曲が良いとかさ」
「そうよ、だからオーケストラだろうがジャズだろうが、高校生でそういうことを言う人は酔ってる」
「色んな人を敵に回していくなよ」
どうすんだよ、いつか親友ができたときに交響曲大好きだったら。
「でも俺、別にめちゃくちゃ好きってわけじゃないけど、小さい頃から爺ちゃんの家でジャズ聴いてたからそれなりに詳しいぞ」
俺の言葉を全部聞き終わるか終わらないかのうちに、織羽はムンクの叫びと同じポーズを取り、ひえっと悲鳴を上げた。
「でったー! あめすけ、でましたー! 幼少期から〈本物〉の〈音楽〉に触れてましたアピール!」
「織羽、言い方言い方」
「そういう人がたまたま歌をSNSでアップしたりして、それがバズってデビューしたら、『小さい頃から音楽好きな祖父の影響で音楽に触れ……』みたいな、〈音楽に愛されし者〉みたいなラベル貼ってくるのよ! まだ若いのにデビューアルバムに『深淵』とか『厭世』みたいな意味深っぽいタイトルつけて、私の音楽を聴くには一定の教養がないといけませんって感じに仕上げてくるんだから!」
「もうアーティスト全般の悪口になってるぞ」
日頃思ってたとしても、立て板に水で言えるのがすごい。
「まあ私も知識だけはあるけどね。ジャズをテーマにした小説読んでたから。中学のときにあれを読みながら、『喋らなくても音と音で分かり合える、とか何言っちゃってんの』って思ってたわ。会話と空気の読み合いがなかったら旋律も友情もぐちゃぐちゃになるし。そんなことより、何が起こったかちょっと気になるわね」
そんなことより、の前が強すぎて全く聞き流す気になれないけど、ここは我慢して調子を合わせる。
「どうする、話聞きに行くか?」
部室まで二十メートルほど距離があり、ここからだと何を話してるか分からない。
「うん、行ってみよう、かな」
そう言うと、彼女は上履きを廊下から離すことなく、右足をずっと前に出した状態で摺り足で進んでいく。竹刀を持っていたら完全に剣道。
「…………」
そして無言で十メートルほど行って、戻ってきた。
「何してんだよ」
「だっていきなり行ったら不審でしょ」
「そりゃその歩き方だったら不審だよ」
平常時の人間らしく歩行しろよ。
「それに、どんな風に声かけていいか分からなくない?」
「いや、普通に『何かあったんですか?』って聞けばいいんじゃないか?」
「それがすぐにできたら苦労しないわよ。ちょっと待ってて、他の方法を考えたから試してみるわ」
そう宣言し、織羽は今度は普通の歩き方でジャズ研究部の部室に向かっていく。そして、かなり緊張した面持ちで、たじろぎつつ彼らに近づいたり遠ざかったりを数往復繰り返した後、俺の前まで戻ってきた。
「ダメね、全然声かけてもらえないわ」
「スカウト待ちのモデル志望か」
うまく話せないのが恥ずかしかったのか、織羽はそっぽを向いて軽く膨れる。その仕草や、強がっているのにうまくいってないところが、妙に可愛く見えてしまう。
「そうだ! あめすけが話しかけてよ」
「なんで俺が」
「何でもするって言ったでしょ?」
「ここでそれを持ち出すのかよ……」
多少意地の悪い笑みを浮かべる織羽に向かって溜息をつき、彼女より二歩前に出る。
「どんな風に声かけるかなあ」
「普通に『何かあったんですか?』って聞けばいいんじゃない?」
「どっかで聞いた回答だ」
小さく深呼吸して、俺もゆっくりと彼らに近づいていく。が、勇気が足りなくてまた少し後ずさり、それを繰り返す。犬が怖くておそるおそる通る小学生かお前は。
よし、言うぞ、言うぞ。
「あの、その、すみません。その、ここで何かあったんですか?」
こそあど言葉多めに質問する俺に、三人が振り向いた。ワインレッドのネクタイ、一年生が一人に、深緑のネクタイの二年生が二人だ。
「はい。俺たち、ジャズ研なんですけど、使ってる楽器が傷付いちゃってて……」
そこまで話した後、二年生の先輩はつい話してしまったと言わんばかりに話題を切り替え、「何か用ですか?」と訊いてきた。いや、それはそうだよね。俺も織羽のこと笑えないくらい不審だったもん。見えたのよ、三人がちょっとこっちを見てる様が。でもまあ、あんな反復運動してたら誰も声かけてこないよね。
「え、傷付いたって……楽器大丈夫ですか? 先生とか呼んできますか?」
「いや、そこまでではないんですけど──」
「あめすけ! こっち!」
犬か猫の如く呼ばれたので、ジャズ研の二年生に「すみません」と断って一度戻った。さっきからこの二人、完全に怪しいヤツである。なんなら織羽があの三人の中の誰かに告白するっぽい雰囲気まで出てるから早めに誤解を解いておきたい。
「どうしたんだよ、織羽。ちょうど、なんで話しかけてきたのか、それっぽい理由考えようと思ってたのに」
「その理由はもうあるわ」
力強い、彼女の言葉。その瞳は、漫画にしたら星が映るだろうというほどキラキラと輝いている。
「楽器に傷を付けたのが誰なのか、私が解き明かすことにする!」
「…………は?」
なんだ? なんか今この人変なこと言わなかったか?
「織羽、気のせいかもしれないけど、『私が解き明かすことにする』って聞こえたぞ?」
「よく聞こえてるじゃない。そうよ、解き明かすの」
ダメだ、なんか根本的に彼女の言うことを理解しきれてない。
俺は織羽の腕を引っ張り、少し彼らと距離を置いた。
「あのな、織羽。まず誰かが傷付けたのかどうか分からないだろ? 単に運んでる途中とかに傷付いただけかもしれないし」
「そんなことないわよ。さっきあの二年生、『楽器が傷付いちゃってて』って言ってたわ。ということは、意図しない形で、しかも本人たちが知らないうちにそうなったってことよ。イタズラで傷を付けられた、とかね」
「確かに言い方的には……いや、だからと言って、なんで織羽が解くんだよ。復讐はどうしたんだ?」
そう訊くと、彼女はグッと胸を張ってみせる。世の男子なら無条件で凝視してしまう、というプロポーションではないけど、小学校時代からずっと一緒にいた俺からすれば、それなりに成長していることはちゃんと理解できた。
「分かってないね、あめすけ。これを解き明かすことが、復讐に繋がるのよ! なぜなら、犯人は陽キャに決まってるから!」
そういう彼女は、もうすっかり推理を披露する役になりきっていた。
「あの、織羽さん、質問があるんですが」
「はい、あめすけ君、どうぞ」
挙手もしてない俺を指名する織羽。ノリノリだな。
「まだ何にも詳細聞いてないのに、なんで陽キャが傷を付けたって分かるんだ?」
「待って、逆にそんなことも分からないの? まったく、学年首席っていっても所詮はこんなもんだよね」
両手のひらを上に向け、欧米人がやるような「やれやれ」のジェスチャーを見せる。でも、別にカチンとはこない。むしろ、真相を知りたい欲求の方が強かった。
「受験はたまたまだからさ。早く理由を教えてくれ」
「分かったわ。簡単なことよ。きっとね、ふざけて楽器使って面白動画とか撮ろうとして傷付けたのよ。そんなことやるの、絶対陽キャに決まってるじゃない!」
「え、決めつけ!」
なんて純然たる偏見なんだ!
「スマホで撮影して、『運動部に全青春捧げて音楽経験ゼロの俺たちが楽器勝手に触ってみた』みたいなタイトルでSNSに投稿して拡散する気だったのよ、間違いないわ」
「あの……怪しいと思ったきっかけとか、証拠とか、そういうのはないの?」
「あるわけないでしょ。そもそも何が起こったのかも分かってないのよ。あめすけ、何言ってるの?」
そっちこそ何言ってんだよ。
「仮にその人が本当に傷を付けてたとしてだ。それを動画に撮ってるかどうかは分からないだろ」
「いいえ、分かるわ! あめすけ、覚えておいて。陽キャっていうのはね、ネタ動画を撮り損ねると悔しさで溶ける生き物なの。コンビニのバイトに入ってる陽キャの高校生は全員もれなく自撮りしながら、機械に直接口をつけてソフトクリームを食べてるのよ!」
「ちゃんとバイトしてる高校生に失礼すぎでは」
あと悔しさで溶けるってどういうこと。
「それで、陽キャがやってたとして、何で織羽がそれを解くのが復讐になるんだよ」
「それこそ簡単よ。このトラブルを解決して、楽器に傷を付けた不届き物が表沙汰になれば、その陽キャの青春を潰せるでしょ!」
潰せる、のところで何かを叩き潰すように目の前でバチンと両手を合わせた。
「ネタとして英雄扱いされるのは一瞬のこと。友達からもダサいことしてるって思われて、クラス内の人気者ランキングは急降下。部活の先輩からも呆れられて、後輩に『あんなダサいヤツにはなるなよ』って反面教師にされて、人望を失っていくわ。あの世代はカッコいいかダサいかだけが世界の全てだから」
「さっきからスムーズに極論が入ってくるな……」
世界の全て、もう少し何かないの? そして俺たちも同世代だよ。
「ということで、これを解決することで一人の陽キャのアオハル奪える! 最高ね!」
「別に奪っても織羽のにはならないんだぞ?」
「奪うだけでいいのよ。私が欲しかったけど手に入らなかったものを奪えたって事実が明日の一番の活力になるわ!」
心から嬉しそうにガッツポーズを決める織羽。こんなにはっきり言い切られると納得してしまう。「他人の不幸は蜜の味」という言葉が頭を過ぎった。
「青春は諦めたって言ったでしょ? 私が幸せにならなくていい、周りが今よりほんの少し不幸になってくれればいい。そうやって世の中の人の『心のしんどさ』みたいなものを平準化できればそれでいいの」
「……そんなに言われちゃ、協力するしかないよなあ」
「うへへ、ありがと、あめすけ」
彼女は顔の前にピースを作って破顔する。その表情は、闇の深い願望を抱えているようにはとても見えないくらい、透明感のある笑顔だった。
「はい、じゃあよろしくね」
「よろしく、とは?」
「私が協力して解き明かすって話をジャズ研にしてくれるんでしょ?」
「さっきより難度高いな……」
見ず知らずの俺たちが楽器の件を解き明かすから協力してって頼むの? それこそ陽キャの出番では? あの人たちなら「うっす! 何してんすか!」から始まって三分後には友達になってるでしょ? ダメだ、織羽の偏見が伝染してきたぞ。
「よし、ちょっと行ってくる」
コミュニケーションのプレッシャーで窒息しないよう思いっきり息を吸って、もう一度ジャズ研の三人に近づいていく。向こうからしたら恐怖じゃないこれ? さっき倒して消えたはずのモンスターが復活してまた迫ってきた、みたいな。これが会話に困って何度かリトライする陰キャゾンビの正体です。
「あの、何度もすみません」
三人が一斉に振り返るのを確認して、俺は一気に話した。
「その、俺の友達が、ほら、あそこにいるクラスメイトなんですけど。その、ね、誰が楽器に傷を付けたか、解き明かせそうかな、なんて言ってまして。いやー、その、別に捜査するみたいな仰々しいことではないんですけどね。でもなんか、彼女がそういうの得意? らしい? ので役に立てればな、なんて思ってて。いや、もちろん困ってたらですけど」
都合の悪い答弁をする政治家でももう少しはっきり言うだろうというくらい持って回った言い回し。彼らもぽかんとしていたものの、徐々に理解してきたらしく、「あー……じゃあ話だけでも聞いてもらえますか?」と了承してもらった。
「あめすけ、ありがと……ってどしたの?」
「いや、なんでもない、気にしないでくれ……」
報告に行った俺の顔を窺う織羽から目を逸らした、これから脳内反省会の時間です。
雨原亮介よ。お前、織羽の役に立つって決めたんだろ? それなのにこのザマよ。この前公園横を歩いてるときに見かけたあの幼稚園児を思い出せ。違う幼稚園グループの鬼ごっこにスッと混ざっていっただろ。あのスキルをどこかに忘れてきたのか? 今のままだとスキルが幼稚園児以下だぞ? もも組やさくら組に混じって、俺だけ負け組だぞ?
そんな俺の横に並んだ織羽は、思いっきり目を泳がせながら、ペコリと一礼した。
「その、一年五組の、岩里織羽です。えへへ……急に、あの、変なお願いしてしまってごめんなさい。良かったらお話聞かせてください」
「さっきは、どうも。同じクラス、あ、彼女と同じってことです、はい、雨原亮介です」
受験科目に「挨拶」があったら間違いなく不合格になる話しっぷりで、二人揃ってジャズ研の三人に頭を下げる。すると、深緑のネクタイの二年生のうち、もじゃもじゃの天然パーマの先輩が話し始めた。
「えっと、よろしくお願いします、ジャズ研究会の
小菅さんは眉や耳にかかるくらいの黒髪の銀縁メガネ男子、家倉さんは長身とやや主張の強い眉が特徴だ。
「それで、今回の件なんですけど……ここが俺たちの部室なんです」
三人がスッと体をどけると、部屋のドアが見えた。入口に蝶番の掛け金がついていて、錠が開いた状態の南京錠が嵌めてある。
「ここの南京錠、昨日壊れちゃったんですよ。ガチャってうまく締まらなくなっちゃって。で、一応ここに掛けるだけ掛けておいたんです。で、今日新しい南京錠を用意して来たんですけど、部室に入ってみたら、コントラバスの裏面に傷が付いてたんです」
コントラバス。人が抱えるようにして弾く、オーケストラでは一番低い音を担当する弦楽器だ。
「ジャズギターなんかも置いてあったんですけど、置かれ方が昨日と微妙に違ってて……だから、誰かが鍵が開いてることを知って部室に入って、一通り触ったんじゃないかなって思ってるんですよね」
「ふむふむ、誰かが侵入して触ったんじゃないかと」
阿久津さんは溜息をついて頷く。その目から読み取れるのは、怒りではなく悲しさだった。
「大事にする気はないんです。そこまで深い傷じゃないし、コントラバス自体が弾けなくなったわけでもないので。でも、修理も多少お金がかかるので、やった人はちゃんと見つけたいなって」
彼がそう話すと、織羽はククッと口角を上げる。そして、軽快な足取りで二歩進み、部室の南京錠を握った。
「勝手に部室に入るだけでもダメなのに、楽器に触ってしかも壊すなんて許せないですよね。でも大丈夫です、私が必ず侵入者を見つけ出します!」
俺たちの方を振り返り、ドンと胸元を叩く織羽。「そしてその侵入者の青春を奪ってみせます!」という続きが、彼女の声で脳内再生された。