プロローグ

 ここははこにわ

 女王はひとり。

 やがて、民は知る。

 千年の安息が続いた幸福と、幸運を。


   ***


 明るい、夜だった。

 冴え冴えと、月は白くかがやいている。

 そのさまは、まるで闇という黒い湖に浮いた一枚の鏡のようだ。

 欠けのない真円は、灯りのないスラム街をも照らす。ガラクタを組みあわせたかのような木造の家々に、染みわたるかのごとく澄んだ光は広がった。だが、貧しい人間たちに、明るい夜が歓迎されるかといえば、必ずしもそうではない。


 月とは魔の象徴だ。

 こんな満月の夜には、悪魔が騒ぐ。


 その証拠のように、今、路地裏を走る影があった。

 うす汚れた身なりの娘が、裸足で駆けている。ひび割れた煉瓦道を、彼女は息をきらして急いでいた。裂けているスカートが足に絡まってもなお、娘は必死に走り続ける。それには理由があった。死にものぐるいで、彼女は追手から逃げているのだ。

 追跡者は人間ではない。蠢く、異形の影であった。

 ソレは醜く、ソレは邪悪で、根底から歪な存在だ。

 百の獣の顔をもつおぞましい生き物が、娘の後を這っている。狼や犬の頭部が、不定形の胴体からはいくつも生えていた。ガチガチと顎を鳴らして、獣たちは低く唸る。無数の足が、ただでさえ荒れた道に爪痕を刻んだ。彼らが残忍な殺意をあらわにするたびに、血のような色をした涎が垂れ落ちる。

 ソレに追われながら、娘は哀れな悲鳴をあげた。

「ひぃい、ひいいいいいいいいいいいっ!」

『そう……そう……もっと怖がって……くださ……あっ、ちがう。怖がれ!』

 なにやら、まぬけな声がひびいた。

 一瞬、違和感を覚えて、娘は足を止める。だが、それを咎めるかのように、獣たちが鳴いた。ギャワン、ギャワン、グルル、ビャン、ビャンと、耳障りで、金属的な声が重なる。

 怖がれ、怯えよ、畏怖し、泣けと。

 急いで、娘は逃走を再開しようとした。だが、前のめりになりすぎて、転んでしまう。

「………あっ」

 荒れた路面に、彼女が叩きつけられそうになった瞬間だった。

 獣の体から伸びた影が、サッと娘を支えた。

 ふわりとやわらかく、彼女は煉瓦道に降ろされる。倒れることなく、娘は無事に着地した。いったい、なにが起きたのか。ぱちくりとまばたきをして、彼女は思わず後ろを見た。

 獣たち──正確には、その中央に隠れたナニカが、ビクッと震えた。

 もはや、娘は怖がりなどしなかった。じいっと見つめることで、彼女は目の前の怪異の実態を暴こうとする。それを拒むかのように、獣たちはガチガチと牙を鳴らした。だが、決して、娘を噛もうとはしない。その事実に気がつくと、彼女はますます凝視を続けた。

 やがて、獣たちの中央から困ったような声がひびいた。

『えっ、えーっと、怖がって、くれませんか?』

「やだ」

『あの、その、怪我はさせませんので! どうか存分に怖がってくださ……キャアッ!』

 次の瞬間だ。

 カッと、清浄な光に黒の獣は照らされた。

 満月が悪魔に寄りそう伴侶ならば、太陽はその身を苛む針にも等しい。吸血種よりも、悪魔は陽光から受ける影響は少ない。とはいえ、ここまで激しく晒されれば、話は別だ。

 小さな悲鳴とともに、邪悪な獣の表面は溶けはじめる。それは粒と化して、霧散した。


 あとに残っていたのは──。

「う、うう……なんですかぁ」


 可憐な、少女だった。


 その目は紫水晶を思わせる神秘的な色をしている。同色の髪はふたつ結びにされ、緩くウェーブを描きながら足下へ流れていた。肌は白くなめらかだ。形のいい胸や尻にきわどく繊細な衣装がよく似合っている。左腕にはなぜか──拘束の意味をなしていない──片方だけの手錠がはめられていた。そして肩甲骨からは悪魔の象徴たる黒い羽が生えている。


 美しく、儚いが、過激な格好の少女。

 それが百の頭を持つ獣の正体だった。


 思わぬ美しくも弱そうな正体に、逃げまどっていた娘はぽかんとした。だが我にかえって拳を振りあげる。獣のフリをしていた少女に、彼女はありったけの文句を言おうとした。

 その瞬間だった。

 明かりが、カッと強さを増した。

「ひゃううっ!」

「見つけた、『逃げ羽根のイヴ』!」

 高らかな声がひびいた。

 新たな、誰かの登場だ。

 揉めごとの気配を敏感に察したのだろう。スラム街育ちの勘を働かせ、人間の娘はあっという間に逃げて行く。その遠ざかる背中へイヴと呼ばれた少女は弱々しく言葉を投げた。

「あっ……今日のごはん」

「罪もない人間を怖がらせ、その恐怖心から悪魔としての糧を得ようなどと不届き千万! 天使の目からは逃れられないと知りなさい!」

「てん、し?」

 恐る恐る、イヴは自分を照らす光のほうへと目を向けた。

 見れば、白い翼の生えた丸い物体がパタパタと宙に浮かんでいる。それは投光機の役割を果たし、イヴへと聖なる光を投げかけていた。そして二体の球体の中央には、ひとりの少女が立っている。その姿を見て、イヴは思わずぽつりとつぶやいた。

「…………きれい」

 彼女の目はやわらかな紅色。イヴと似ているふたつ結びの髪は、クリーム色がかった白。

 小柄な体は、メリハリこそ控えめだが、人形のように均整がとれている。その身を、少女は白と黒の軽やかな制服で包んでいた。愛らしいが、同時に凛々しい印象がある。

 その頭に、彼女は羽の紋章が描かれた帽子をかぶっていた。

 びくっと震えて、イヴは声をあげる。

「け、警察さんですか!?」

「そう、そのとおり。犯罪者としての自覚はありそうでなによりってところかな。覚えておきなさい。アンタを捕まえる天使の名を……アタシはエル」

 カッと、投光機の光がふたたび強まった。

 手袋をした指で、少女は帽子のツバをかたむける。そしてニッと笑うと誇り高く続けた。


「天使警察エリートのエル!」


 かくして物語ははじまった。

 すべては月のかがやく夜に。


 悪魔にして犯罪者のイヴと、

 天使警察、エリートのエル。


 ふたりの少女はこうして出会い、

 開幕のベルは鳴りひびいたのだ。

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