屑(3)
***
紫煙を深く吸い込んで一息に吐き出す。隣を見下ろせばシーツにくるまった雲母が眠っていた。
「びっくりするほどちょろかったな」
駆け引きもクソもなかった。一周回って面白くないぐらいだ。本当に同い年かどうか疑いたくなる。高校生の頃ですらもっと手強い相手はいくらでもいた。
一般的にはともかく、俺にとって恋愛とはゲームだ。ほど良い手応えのある難易度が丁度いい。簡単すぎるゲームなんてただの作業で、初心者狩りなんて趣味じゃない。そういう意味では雲母はつまらない相手だった。
「痛っ……ちっ」
引っ掻かれた背中が痛む。しばらくは他の女と遊びにくくなった。
まあ気にしないやつもいるから構わないといえば構わないのだが、痛みを喜べるようなタチでもないのでただ単に不快なだけだ。
「ったく、爪くらい切れってんだ」
ネイルだなんだと好きにすればいいと思う。だがそれならせめて引っ掻かないようにして欲しい。それができないっていうなら切れ。
溜息交じりに紫煙を吐き出せば、雲母が身じろぐのがわかった。
「ん……霞さん?」
ぼんやりと焦点の合わない瞳で雲母が俺を見上げる。徐々に徐々に目が開かれていく。
「え……? えぇっ!」
いっぱいまで開かれたところで跳び起きた。
「えっ! なんでっ!?」
「はぁ?」
こいつ何を言って……ああ、酔うと記憶が飛ぶタイプか? つーかそこまで酔ってたのかよ。男と二人でそこまで飲むとか何考えてんだか。……案外何も考えてなかったのかもしれない。あのちょろさだし。最低限の受け答えは出来ていたから、そんな可能性は気にも留めていなかった。
「なんにも覚えてねーのかよ?」
「え? ……………………あ」
少し青ざめていた顔色がみるみるうちに耳まで赤く染まっていく。最近はある程度スレた女ばかり相手にしていたから、その初心な反応は逆に新鮮だった。
「思い出したか?」
「あ、その……っ!」
雲母が何かに気付いたように慌ててシーツを掻き抱いて体を隠す。
何を今さらと思わないでもないが、わりとよく見かける反応なので、きっとそういうものなのだろう。逆に一切気にしないやつもいるが、かつては俺も照れていた気もする。……いや、そんな記憶ねぇな。照れていたのはたぶん相手だ。
昔を思い出してなんとなく微笑ましい気分で雲母を見ていると、ようやく落ち着いたのか雲母が意味深に笑った。
「おはようございます。霞さん」
「ああ、おはよう」
シーツを掻き抱いたままそそくさとシャワーを浴びに行った雲母を待つ。その間に手早く身だしなみを整えた。今からもう一戦ヤる気はなかった。
紫煙をくゆらせながら、つらつらと取り留めのないことを考える。
総合すれば雲母も悪くはなかった。偶にならいいだろう。静かに飲みたい時になら誘ってみてもいいかもしれないとも思う。
だが逆に言えば、それ以上でもそれ以下でもない。
それが俺の雲母に対する評価だった。
「霞さん」
いつの間にか雲母は風呂から上がっていたらしい。タバコの火を灰皿に押しつける。行くぞ、とだけ声をかけてチェックアウト。特に会話もなく朝の繁華街を行く。
「今日は講義があるんですか?」
「ああ」
駅に着いた頃。雲母にそんなことを問いかけられて生返事をした。
今日も大学では講義がある。だが一度家に帰るには時間が微妙だ。別にサボりたいわけではないのだが、どうにも億劫で面倒。そんなありがちな気分だった。
「ではまた後ほど」
「ん? ああ。じゃあな」
後ほど、という言葉の意味はわからなかったが、その場は大して気にも留めずに別れた。
言葉の意味がわかったのはその日の昼頃。大学の食堂で智也とカツ丼をつついていた時のことだった。
振動するスマホに表示されていたのは一通のメッセージ。
『今どこにいますか?』
送信元は雲母。なぜそんなことを聞いてくるのかわからないが、特に隠す理由もないので正直に答えて、そういえばと話題にする。
「智也、百目鬼雲母って覚えてるか? 同じ高校の」
「もちろん。覚えてるよ。三年の時、同じクラスだったよね」
流石は智也。思い出すような素振りもないノータイムでの返事だった。
「あいつ、うちの大学に進学してたんだな。知ってたか?」
「うん。というか霞はやっぱり気付いてなかったのか」
「興味のない相手なんてそんなもんだろ。むしろ智也がいちいち気にしすぎなんだよ」
「そうかもしれないけど、霞は霞で気にしなさすぎだよ。でもなんで急に?」
「昨日見かけて思い出して、ちょっと飲みに行ってな」
「えっ? あ、あー……うん」
智也は一瞬驚いて、すぐに納得したように頷いた。そんな智也の態度が意外だった。
納得されたことは気にならない。いつものことだ。飲んで、その後何があったかまでおおよその推測をされたのだろう。おそらく智也の推測は概ね間違っていまい。
意外だったのはその前。驚いたことだ。いつもならそんな反応はしない。相手が智也の知り合いであってもだ。またかよ、と慣れ切った反応を返すだけだ。
まさかとは思うが……もしかして智也は雲母を狙っていたりしたのだろうか?
なんとなく気まずくて別の話題を探す。
「あー……」
「お、噂をすれば」
智也が視線を向けた先に雲母はいた。一度家に戻ったらしい。朝別れた時とは違う恰好をしている。
「こんにちは。ご一緒してもいいですか?」
「もちろん」
「ああ」
俺と智也が同席を許可すれば、雲母も早速俺の隣の席に着く。手にしていたのはコンビニで買ったと思しきサンドウィッチ。
「いつもは自分で用意しているんですけど、今朝は、その……」
俺の視線に気付いた雲母がそんな言い訳染みたものを並べながら意味深な視線を送ってくる。
別にお前が何食ってようが気にしちゃいねーよ。
それより智也の呆れ半分の生暖かい視線がイラつくから、そういういかにもな態度を取るのをやめろ。
だがまあこの感じなら智也が雲母を狙っていたというわけではなさそうだ。
いくら智也でも自分が狙っていた女だったなら、もう少し棘のある反応を見せるか、あるいは無反応を貫くか。少なくとも生暖かい目ってことはないだろう。
内心で決して智也にだけは見せられない安堵の息をつ──いや、待てよ。智也は本心を隠して取り繕うのが異常に上手いやつだ。まだわからない。
「霞?」
「なんでもねーよ」
どうにかその本音を探ろうとして諦めた。まあ、その時はその時だ。今さら考えたってどうにもならない。
「お二人はいつも一緒に?」
俺と智也の視線だけのやり取りに何を思ったのか、雲母がそんなことを聞いてきた。都合がいいので話に乗れば、一瞬の緊迫はすぐに霧散した。
「別にいつもってわけじゃねぇよ」
「お互いに時間があった時ぐらいかな」
「そうでしたか。なんだかお二人はいつも一緒にいるイメージがあって」
「あはは。まあ高校の時ほどじゃないよ」
そりゃそうだ。お互い交友関係だって広がっているし、受けている講義にだって違いはある。常に行動を共にしているなんてことは有り得ない。
雲母が尋ねて、智也が答えて、俺が適当な相槌を打つ。そんな身のない会話が続く。
しかし雲母はやたらと探りを入れるような会話が多いな。講義にサークルにバイトに。昨日もそんな感じだった気がする。まあ久しぶりに会った知り合い相手の会話なんて近況報告染みたものになるのかもしれないが。
「っと、そろそろ時間か」
講義前に一服する時間を考えて席を立つ。袖を引かれた。相手はもちろん雲母だ。
「あの……。えっと、今日って……」
「あー、悪いけど、予定があるから」
「そうですか」
名残惜しそうに俺の服の袖を握っていた拳が解かれる。
「それでは、また」
「ああ。またな」
トレーを返してから喫煙所へ。タバコに火をつけてゆっくりと深く吸い込む。
うぜぇ。
吐き出した煙が風に流されるのを眺めながらそんなことを思う。
いちいちスケジュールを把握しようとするのはやめてほしい。彼女にされたってうざかったのだから、都合よく扱うつもりしかない女にされれば余計にうざったい。
「そういや智也が言ってたな」
ふと高校の頃にした会話が甦る。確か『彼女はやめておいた方がいいと思う』だったか。今さらになって思い出した。なるほど、確かにこれは面倒くさい。
ただ一方で意外なことに突き放そうとは思っていない俺がいることにも気付いていた。
なんというか、新鮮味があるのだ。最近は遊びやすい遊び慣れた女ばかり相手にしていたからかもしれない。
特定の誰かと付き合っているわけでもないのだ。しばらくは構ってやってもいいだろう。そのうち満足するはずだ。
俺はそんな軽い気持ちで雲母と遊ぶことに決めた。