第一章 不幸の始まり(1)
「ルーナ。あんたはここで寝起きしな」
そう言われてルーナが案内されたのは、埃まみれの物置だった。いくつも木箱が置かれていて、使われる様子のない布が重ねられている。薪なのか、細長い木の枝などが束になって隅に置かれているのも見える。掃除なんて、これっぽっちもしていない。
ルーナは視線だけを動かして、部屋の中を見た。
(……部屋の一番奥にある窓まで行くには、物を整理しないと難しそう)
「なんだい、不満だっていうのかい?」
「う、ううん……!」
ギロリと睨まれて、ルーナは慌てて首を振る。
「まったく……。わたしは忙しいんだから、煩わせるようなことはしないでおくれ。戦争のせいで物価だって上がってるんだから」
「……はい」
そう言い捨てると、彼女はバタンと大きな音を立ててドアを閉めて物置を出ていった。すぐにドスドスと階段を下りる音が聞こえてきたので、ルーナのことをまったく気にも留めていないことがわかる。
出ていった彼女はドーラ。どっしりとしたふくよかな体型で、天然パーマの髪を一つにまとめている。白の上衣と、橙色を基調とした丈の長いスカートとエプロンを着けている。
ルーナの母──エリーナの姉で、つまるところルーナの伯母だ。何度か会ったことはあるけれど、交流が多かったわけではない。たまに会う親戚のおばさん、という感じだろうか。
ドーラの家は、花屋を営む二階建てだ。
一階の表通り側に店があり、奥が台所とちょっとした団欒のスペースになっている。二階には表通り側にドーラたち夫婦の寝室と、その向かい側に娘のマリアの部屋。ルーナに割り当てられた物置はマリアの部屋の横にあり、その広さは比べると三分の一ほどしかない。
「今日からここがわたしの部屋……」
自然と首を動かしながら、一歩部屋の中を進むと、歩いたところに足跡ができた。急いで掃除をしないと、今日の寝る場所に困ってしまいそうだ。普通ならば、怒るなり、困惑するなりするだろう。けれど……ルーナには、雨風を凌げるだけでありがたかった。
気が抜けてしまったからか、ふいに両親のことが頭をよぎる。ルーナはここへ来るまで、両親と三人で旅をしながら生活していた。
最後にいたのは戦地の近くの集落で、両親は敵味方関係なく怪我人の治療を行っていたのだが……治療に使う息吹の花を使い切ってしまい、ほかの治療用の花を仕入れに行く途中で馬車の事故に遭ってしまった。──先月のことだ。
数日雨が続いていたため、道がぬかるみ、乗っていた馬車が横転して、さらに間の悪いことに……崖が崩れて崖下にあった池に落ちてしまったのだ。両親が庇ってくれたのでルーナだけが奇跡的に助かった。
しかしその後が地獄だった。ルーナは近くにあった洞窟に避難していたが、食料などはほとんどなかった。深い池の底に沈んでしまったからだ。飢えがこれほど苦しいものだとルーナはこのとき初めて知った。さらにひとりぼっちであることが、ルーナを精神的にも追いつめた。ついさっきまで一緒にいた両親は、もういないのだから。
数日が経ったとき、死ぬ寸前だったところを通りすがった商人に保護された。けれど、ほとんどの持ち物を奪われてしまった。……保護料だ、と言われて。
ルーナの手元に残っているのは、両親が作り出した新しい種が入ったネックレスと少しの着替えだけだ。
その後ルーナは孤児院に保護されたが、戦地に近い街だったため、食べ物はあまりなく、隙間風なども酷かった。ほかの孤児たちは暴れん坊も多くて、ルーナはしょっちゅう食べ物を取られていた。
しばらく孤児院で過ごしたのち、血縁であるドーラを見つけてもらい、引き取られて今にいたる。
たった一ヶ月ほど前は両親たちと暮らしていたのだ。人生とは、本当に何が起こっても不思議ではないのだとルーナは思い知らされた。
(ドーラおばさんに会うことができてよかった。……もう孤児院には戻りたくない。今日から、ここがわたしの新しいお家だもの。お手伝いも、頑張ろう)
ルーナは小さく深呼吸をして、これからの生活に思いをはせる。
「……っと、片付けないと!」
ルーナは持っていた鞄──といっても、孤児院でもらったお古で、中身はちょっとした着替えが入っているだけ──を部屋の隅に置いて、掃除道具を探す。
(先に部屋の中のスペースを確保した方がいいかな?)
箒を見つけても、荷物だらけで上手く掃けないかもしれない。道具も見当たらないので、まずは部屋の中の整理を先にすることにした。もしかしたら、途中で道具が見つかるかもしれない。
積み上がっている木箱は、ルーナの細い腕では持ち上げることができない。なので、乱雑に置かれたままの状態から、壁に沿って並べることにした。これなら、体を使って押せば動かすことができる。
木箱がいくつもあるので、何度も押しては並べてを繰り返す。難点は、埃が舞うことだろうか。たまに咳き込んでしまう。
時間はかかったけれど、ひとまず部屋にスペースができた。ふうと息をついて、ルーナは部屋の中を見回す。
木箱は机の代わりにできそうなので、そのまま使わせてもらうことにする。部屋の奥にはベッドがあったので、こっちは放置されていた布を敷けば使うことができるだろう。
「あ、箒!」
ベッドと壁の間に箒が落ちているのを発見した。
ルーナは急いで部屋の中を掃いて、ゴミを集めて、庭の隅へと持っていく。簡単なものは後でまとめて燃やすこともあるけれど、街の中に大きなゴミ捨て場もあるので、溜まったら持っていくのだ。庭のすぐ横には共同の井戸があったので、木桶に水を汲むのも忘れない。
(これで雑巾がけもできる!)
部屋には雑巾がたくさんあったので、それを使って壁や窓、床を拭いていく。雑巾を絞った水は真っ黒になったので、部屋と井戸を何往復もしたのがちょっと疲れた。
数時間ほどかかったが、部屋の掃除が終わった。
「それから、これっ!」
掃除をしている最中、ルーナは部屋の中で少しヒビが入って欠けた小さな鉢植えと木箱に入っていた花の種を見つけていた。
大切な花の種がどうしてここに!? と思ったルーナだったが、入れられていたのがゴミの詰まった袋だったので、いらないと判断された種だとわかった。花師かそれに縁がなければ花を種から育てるのは不可能だし、長い年月放置してあるようなので発芽は難しいと判断されたのだろう。
(もしかしたら、お母さんの持ち物だったのかも……?)
なんてことを考えて、ちょっとだけ頬が緩んだ。
『花』は『花師』が育てるもの。
けれど別に、花師の国家資格がなくても花を育てることはできる。とはいえ、知識がなければ育てることはできない。なぜルーナにできるのかといえば、両親から花の育て方を教わっているからだ。
では、花師であるかどうかで何が変わるのか?
それは育った花の品質に違いが出る。花師の国家資格を得たときに授与される特別な花師道具を使うことにより、花の咲き方が劇的に変わるのだ。
家の明かりとして使う灯花を例にするとわかりやすい。自生している灯花は、蛍の光ほどの小さな明かりが灯るだけ。ルーナのように花を育てる勉強をした者が育てたものでも、個人差はあるがだいたい蝋燭のようなか細い明かりしか灯らない。しかし花師が育てると、ランプのような明るさが灯る灯花が育つのだ。
花を育てるには、大地が育む『マナ』というものが必要になる。マナを上手く操り花を育てることが、花師の役割。それができれば、花師見習いになれる。しかし、花師になるにはそれだけじゃ足りない。
『ルーナにはとびっきりの才能があるわ。でも、それを誰かに言っては駄目よ』
一ヶ月ほど前にも、息吹の花にそう言われたばかりだ。いつも自分に優しかった花を思い出して、懐かしさに目を細める。
(大丈夫、誰にも言ってないから……!)
ルーナは鉢植えに庭の土を入れて、種を植える。優しく土をかぶせれば、種を植えた土からほわりと光が現れた。可愛い光は、目をぱちくりさせて微笑んだ。
『わあ、ありがとう。気持ちいい』
「どういたしまして」
種──花と会話できるのが、ルーナの才能。
ルーナが礼を告げると、花の種はとても驚いた。まさか自分の声を聞ける人間がいるとは思わなかったのだろう。
『よろしくね』
「うん!」
元気に返事をしたルーナは、鉢植えを窓辺に置く。これで部屋の片付けと掃除は終了だ。
「ふー。わたし、頑張った!」
綺麗になった部屋を見回していると、きゅるるる……とルーナのお腹が鳴った。そういえば、今日は朝にミルクを飲んだだけだったことを思い出す。
(ご飯はどうすればいいんだろう?)
この部屋に案内されて何時間も経っているから、そろそろ夕飯の時間になっていてもおかしくない。ルーナが鼻をふんふんさせてみると、いい匂いがしていることに気づいて自然と嬉しくなる。
「ちょうどご飯の時間なのかな?」
今日はゆっくりご飯を食べられるかもしれないと、ルーナは思う。
孤児院に入れられていた間はご飯を満足に食べることができなかった。でも、今日からは新しい家族──ドーラたちがいる。ルーナの心も軽やかだ。
あまりにも久しぶりの平穏なので、じわりと目頭が熱くなる。ルーナは目元を擦って、ぱっと笑顔を作った。
「……みんなでご飯、楽しみ!」
ルーナが階段を下りると、楽しそうな話し声が聞こえてきた。ドーラと、ドーラの夫のマッシュ、その娘のマリアだ。
マッシュはひょろりとした細身の体型で、ドーラとは対照的だ。しかしその目つきは鋭く、ルーナは少しだけ苦手だったりする。
マリアはルーナの三つ上の十歳の可愛い女の子で、ストレートの髪を二つに結んでいるお洒落さんだ。
「今日はいい花が手に入ったから、明日は売り上げもいいだろう!」
「あら、よかったわ。ルーナも増えたから大変だもの。稼がなきゃ」
「わたし、友達と遊びに行くときの服がほしいなぁ」
しかし声をかけようとしたルーナは、息を呑んだ。三人がもう夕飯を食べていたからだ。ドーラがルーナのことを口にしていたから、忘れられていた……ということもないはずなのに。
話しかけづらいと思っていたら、ルーナのお腹がきゅるるる〜と鳴った。しかも、さっきよりも大きい音で。
(うあ、恥ずかしいっ!)
ルーナがお腹に手を当てて慌てていると、マリアと目が合った。
「ああ、ルーナ! 久しぶりね。こっちへいらっしゃいよ」
「マリアお姉ちゃん……。うん、久しぶり」
ルーナがたどたどしく返事をすると、マリアは満面の笑みを浮かべた。どうやら嫌われてはいないようだとほっとする。
「わたしの部屋はルーナの隣だから、うるさくしないように気をつけてね」
「! わ、わかった!」
ルーナがコクコク頷くと、マリアは「片付けをお願いね」と言って、さっさと自分の部屋へ行ってしまった。
(え、わたしが片付けるの?)
マリアの行動にルーナが戸惑いつつも頷くと、ドーラが「あんたのご飯は、わたしたちの後だよ!」と言った。
「うちの丸テーブルは三人掛けだからね。食べ終わったらちゃんと片付けて、テーブルの上も拭いといてくれよ」
「あ……、はい。わかりました」
ドーラとマッシュも食べ終わると席を立った。今日はもう体を拭いて寝るみたいで、台所で沸かしたお湯を木桶に入れている。
「あ、おばさんっ! わたし、お母さんの話とか聞きたくて……」
両親が死んでから、ルーナは誰とも二人の話ができなかった。もちろん、弔いをするような余裕もなかった。せめて、ドーラと一緒に両親の想い出話ができたら──と、ずっと思っていたのだ。
しかしドーラは大きくため息をついた。
「何を言ってるんだい。あんたに話すようなエリーナのことなんて、何もないよ。それよりわたしたちはもう寝るんだから、そんなくだらないことで引き留めるんじゃないよ」
「え……」
そう言い捨てると、ドーラとマッシュはお湯の入った木桶を持ってさっさと自室へ行ってしまった。
(お母さんのこと、話したかったな……。でも、今日は忙しくてそんな気分じゃなかったのかもしれないよね? 明日、お手伝いをしてからもう一度聞いてみよう)
二人を見送ったルーナは、椅子に座って夕食を見た。
黒パンが一つ、お肉が食べつくされた野菜の炒め物に、ほとんど具がないジャガイモのスープ。量はそれほど多いわけじゃないけれど、最近の食生活を思い返せばゆっくり食べられるだけでもありがたい。
「……いただきます」
一人になった部屋で食べたご飯はまだ温かかったけれど、なんだか寂しい味がした。