第36話 「少女たちの矜持」
森の細い道を、ケルピーはためらわずに歩いてゆく。
その後に続くのが、俺とスターシア。道中に魔物の姿はなかった。インプたちがそうだったように、魔物はケルピーを恐れているんだろうか。しかしケルピーに特殊なスキルがあるようには見えなかったんだけどな。
どっちにしろ、好都合だ。
俺たちは駆け足でケルピーを追いかける。
洞窟があった方向へしばらく進んでいると、森の中に人の足跡を発見した。リルネがここを通ったのだろうか。
もう少しでリルネに追いつけるかもしれない。俺たちは足を早めた。
開けた場所に出た。ここだけがさんさんと太陽が照りつけてくる。
森の奥深くにしては、不自然な広場だ。竜巻になにもかも吹き飛ばされたかのような。
その中央に、いつものように銀髪をくくったリルネの姿があった。俺たちに背を向けていて、杖を構えている。
「リルネ!」
俺が叫ぶと、その背中がびくっと震えた。
彼女は驚きながら振り返る。
「ジン、それにシアも、どうしてここが……、え、その馬って?」
「こいつが案内してくれたんだ」
俺は黒い馬の背を撫でる。馬は首を回しただけで、そこに大人しく立っていた。どこかに去ってゆく気はないようだ。
「リルネさま、一緒に帰りましょう? おひとりだけでこんな森の奥に入るだなんて、危ないですよ。お腹も空いちゃいますし……」
「あ、あんたたちがふたりで来るほうが危ないわよ! なに無茶してんのよ、もう!」
そう怒鳴るリルネに近づこうとする。しかし手を伸ばすと、指先になにか痺れのようなものが走った。
鋭い痛みに俺は顔をしかめる。なんだこれ。指が焦げている。
「危ないわね、まったく……。足元に結界が敷いてあるのよ。あんたたち普通の人間は中に入れないわ」
なんでそんなことをしたんだ。
「……まったく」
リルネはその場から動かない俺たちを見ると、大きくため息をついた。
「あんたたちのお察しの通りよ。あたしはルサールカと一対一で決着をつけるわ。魔力を触媒に精霊を召喚するの。そうしたら、ルサールカはあたしを倒すまでここから出られなくなる。今度こそ逃さないわ」
「しかし、勝算はあるのか? 前の戦いは……」
レベルはリルネのほうが上回っていたが、相性の関係で押されていたように見える。もし彼女になにか秘策があるのなら……。
「……リルネさま」
スターシアが胸元をぎゅっと握りながら、彼女の名を呼ぶ。
「もしかしたら、お体の具合がよろしくないのでは……?」
えっ?
言われてみれば、遠目にもリルネは荒い息をついているように見える。汗で髪が貼り付いていた。
「……別に、大丈夫よ、これぐらい」
「お前、昨日あんなにびしょ濡れになったから! まさかスターシアみたいに熱出しているんじゃないのか!?」
「大丈夫だってば! 薬も飲んだから!」
リルネの声はかすれていた。
「そんな体調で戦うなんて無理だろ! 戻ってこいよ、リルネ!」
「……どっちみちもう無理だわ。すぐにルサールカは来るもの」
なんだって。くそっ、間に合わなかったのか。
リルネは思い詰めたような顔でうつむいた。
「次こそルサールカが誰かを殺すかもしれない。だから、戦って勝つわ。それが村を救う方法なら、あたしはそれを選ぶしかないのよ」
テトリニの街が滅んだのが、誰もリルネのせいだなんて思っちゃいないのに……。こいつはいつまでもそれを気にするんだな……。
俺がなにを言おうかと迷っていた、そのときだ。リルネの前の地面がもぞもぞと動いた。地中から液体が噴き上がる。
もう来たのか、ルサールカが──。
水は人の形を取った。だが、ルサールカよりは小柄だ。水は少女の姿をして、学生服のようなものをまとっている。
水原流花だ。
「……どうして、あの子を刺激しちゃうようなことを」
「あんたに用はないわ。親玉のほうを出しなさいよ」
流花は静かに首を振る。
「りるるんじゃあの子には勝てないよ。見たでしょ、あの力。あの子は誰かを壊すことを、りるるんみたいに躊躇したりしないんだから」
「あたしだって、ためらわない!」
「……無理だよ、あの子は本当にこわいんだから。私は絶対、かなわない」
俯く彼女に、リルネは歯噛みする。
「なんなのよ! 相手が誰だろうと、あたしは負けてらんないのよ! 父さまの仇を討つって誓ったんだから! どんな相手にでも! どんなコンディションだろうと、関係ない!」
琉花は悲しそうな顔をしていた。
「あの子が誰かを傷つけるの、もう私は見たくないの。だから、ここはもう帰ってよ」
「あいつを放置したら、村が!」
「それは私が絶対になんとかするから、だから」
俺は口を挟む。
「水原琉花。神奈川県で水難事故に遭い、命を落とす。しかし彼女はその前日に事件を起こしていた。……そうなのか?」
琉花がハッとした。俺を見て驚いた顔をしている。
「どうして、それを……?」
「調べてきたんだ。日本に戻ってさ」
リルネやスターシアのいる前で口を開くには抵抗がある。しかし、ふたりともルサールカに襲われた身だ。聞く権利はあるだろう。
「そこまで知っているんだったら、もう全部わかっちゃっているよね……。そうだよ、私が殺しちゃったんだ。私が、この手でさ」
流花は自らの両手を見下ろしながらうめく。
「ずっとずっと前から、そうだったんだ。私の中には、押さえきれない化け物がいて、ときどき顔を出しそうになっているんだ。それはどんどん膨れ上がって、我慢できなくなっちゃうときもあった。でも、当時の私は走ることが大好きだったから、くたくたになるまで部活に打ち込むことで、なんとか耐えてきた。そうしていたら、化け物も姿を見せなくなって……、なにもかもうまくいっていたのに」
彼女は「なのに」と首を振った。
「少し私の足が速かったからって、あの子たちは私を仲間はずれにしたり、陰口を叩くようになったり……。別に、それぐらいは我慢できた。けど、大会前にとんでもないことをしたんだよ! いたずらなんかじゃすまないようなことを! 大怪我を負った私は走れなくなって、あの子たちもさすがに謝ってきたけどさ……、もう、そんなの意味なかったよ。時を戻すことなんて、できないんだ」
流花の指先がわずかに黒く染まってゆく。それはまるでルサールカのように。
「私は主犯のやつを階段から思いっきり突き飛ばした。大事なものを奪ったあいつらに、手加減なんてする気はなかった。死ねばいいって思った。実際その通りになったんだから、私は後悔なんてしてない……。先にやったのはあっちなんだから! だから!」
金切り声のように叫ぶ流花。しかしそこで俺は手を伸ばして彼女の言葉を制止した。
「けど、君はその後に水難事故に遭って……、それは、自殺したんじゃないのか?」
「なんで私があんなやつらのために死なないといけないのさ。おうちにも帰れなかった私は、橋の下でダンボールに包まって隠れていたんだよ。そうしたらいつの間にか寝ちゃってて、川の増水に気づかずに……、あはあは、どっちにしたって間抜けだね、私は。だからこんな姿にさせられちゃったんだ」
流花は両手を伸ばす。彼女は足がなく、もう歩くことはできない。背中にはリルネが作ってあげたリュックがあるけれど、それまでずっと洞窟でひとりきりだったのだ。
一週間、二週間、いったいなにを考えて洞窟の中にいたのか。
「つまり、ルサールカは流花の中に潜んでいた化け物、ってことなのか……?」
俺は小さくつぶやいた。
つまり、こういうことか。流花が人外転生する際に、その体はふたつに分かたれた。水原流花の人格であるウンディーネの姿。そして、攻撃的な彼女の気質を継承したルサールカとしての姿だ。
もしかしたらルサールカが村を襲ったのも、俺たちが彼女に『近くの村の人から、あんたを退治するように言われてきた』と伝えたからなのかもしれない。
「ね、もうわかったでしょ。私に関わったってロクなことはないよ。ごめんね、最初に君たちの手を取って。助けてもらって、久しぶりに誰かとおしゃべりができて、嬉しかったのはホントだよ。私にはそんな資格、なかったっていうのに」
流花は消沈したようにつぶやいた。
彼女は生涯、ルサールカとともにどこかの洞窟に潜んで暮らすつもりなんだろうか。幼き頃にしでかした罪を抱えたまま、一生。
そんなの、どうかしている。
「流花、本当にあんたがルサールカをどうにかできるっていうの?」
尋ねたのはリルネだ。流花は眉根を寄せて彼女を睨む。
「……そうするつもりだよ。だってこれは私の問題だもん」
俺にとって、リルネと流花はまるで鏡写しのように見えた。
リルネは一言一言重い言葉を叩きつける。
「村に被害が出ている以上、そんな言葉じゃ済まされないわ。あんたはあたしじゃ勝てないって言ったわよね。でもそれは一緒。あんたでもルサールカには勝てない。わかっているんでしょ」
「……自分のことなんだから、なんとかしてみせるって」
「できるんだったら最初からやりなさいよ。見苦しいのよ、あんたも……、あたしも」
「え?」
ふたりの言い争いを聞いて、俺は思わず声を上げた。今、リルネは自分のことを言ったか?
リルネはわずかに震えていた。
「できないことをやるやる言って、それが本当にできるかどうかもわからず、とりあえずあがいてみようだなんて……、全然スマートじゃないわ。負けたらどうするのか、後先も考えずに……。今だって熱でフラフラするし、頭はガンガン痛むし、絶好調とは程遠いし……、ホント、ばっかみたい。旅に出たばかりのときは、もっともっとうまくやるつもりだったのに……」
リルネは杖をぎゅっと握りしめながら語る。
「自分で自分の面倒を見れないなら、誰かを頼りなさいよ。ヘタすぎるのよ。誰かに助けを求めることがみっともない、恥ずかしいっていうのなら、ひとりでできるって言い張るほうがよっぽどかっこ悪いわよ。あんたを見てて、よくわかったわ」
あのリルネが、自分の非を認めたのか。
俺は思わず呆然とふたりのやり取りを眺めていた。
「だったら、どうすればよかったっていうの! 道の往来で助けてくださいなんて声を張ったって、誰も手を差し伸べてなんてくれないよ! 自分のことは自分でやるしかないじゃん! たとえ勝機がないとわかってても! あの子を産み出した責任は取らなくっちゃ!」
「あたしもずっとそう思っていた。でも、中にはちゃんといるって知ったから。あたしがジンに助けてもらったみたいに!」
リルネはまっすぐに流花を見つめた。その潤んだ瞳が蒼く輝く。
少しだけ振り向いたリルネは、ぽつりとつぶやく。「ジン、ようやくあたしわかったわ。あんたはいつも、ひとりで戦おうとはしていなかったわよね」と。
俺は力強くうなずく。
「ああ、そうさ。俺は弱いからな。自分ひとりでなんでもできるなんて思っていないよ」
「別に、自信満々に言うことじゃないでしょ」
そりゃそうだ。
今だってケルピーにつれてきてもらって、いざとなったらスターシアに力を借りようと思っているわけだしな。俺が笑うと、リルネもほんの少しだけ笑顔になった。森に入った頃から、しばらくリルネの笑顔を見ていなかった気がする。でも、ようやく見せてくれた。ホッとした気分だ。
リルネは再び流花に向き直る。
「だから、今度はあたしがあんたの力になるわ、流花。ひとりじゃできないことだって、ふたりならできる。あたしたちでルサールカに勝つのよ」
リルネの視線を浴びた流花は、身をかばうように胸を押さえる。
「そんなの、どうやって……。私はあいつがこわいのに……」
「一緒に戦うのよ、流花」
杖でコツンと地面を叩くリルネ。その途端、流花の足元に小さな魔法陣が出現した。魔法陣から流れ出る魔力が流花の青い髪を揺らす。流花はリルネを見やった。
「でも私、戦い方なんて」
「あたしが教えるわ。いいえ、あたしたちが、ね」
リルネが左手をひねると、そこには尻尾に炎の灯った精霊、サラマンダーのラシードが現れた。ラシードはそうとわかるほどに不機嫌だ。
『まさか主よ、このような凡愚に……』
「黙ってなさい、アシード。あたしが決めたことよ」
そしてリルネは手を伸ばす。
「水原流花。ウンディーネとしてあたしと契約しなさい。そしてふたりの力で、ルサールカを──あんたが嫌いなあんたを、ぶちのめすのよ」