閑話 「リルネ=ヴァルゴニス」
リルネ=ヴァルゴニスは、イルバナ領領主の娘として誕生した。
彼女を一言で言い表すならば『天才』。それが自他ともに認める評価である。
伝説は枚挙にいとまがない。
曰く、三歳にして魔法書を読み解いた。初めて魔法を放ったのもそのときであり、危うく屋敷を全焼させるところであった。
曰く、五歳にして全属性の魔法を習得。
曰く、七歳にして修練を積んだ熟練の魔法使いを、決闘にて打ち破った。
などなど。
リルネが魔法学校に入学したのは十歳の頃だ。
幼い頃は伝聞のみで響き渡っていた噂がすべて真実であると、彼女はその才覚にて証明してみせた。
こうして世界はリルネの存在に気づく。
彼女が何者であるか、知る由もなく。
***
メーソンを撃退した翌日。
「ん……」
あたしは外から差し込む光に頬を撫でられ、目覚めた。
そこが整えられたベッドの上だったから、もしかしたら昨日のことは夢だったんじゃないかな、なんて思ったけれど。
部屋の真ん中には石になったままの父様の像があったから、あたしは少しも現実から目を逸らすことはできなかった。
見開いた目に涙がにじむ。
あたしは手の甲で目元を拭った。
そうだ。
まだなにも終わっていない。
あたしはベッドから下りる。わずかな立ちくらみがして、壁に手を付いた。昨夜に消費した魔力がまだ回復し切っていないのだろう。
それでも、無理矢理にでも歩き出す。
前に進むんだ、あたしは。
だってあたしの戦いは、きょうから始まるんだから――。
十二歳の頃だった。
当時、炎魔法第四位を習得してしばらく経っていたあたしは、炎魔法第三位の座を得るため、炎精霊との契約を魔法学校に申請した。
全魔法使いの上位2%しかたどり着けないと言われている第四位だが、第三位はそれにも増して狭き門である。
なぜなら第三位以上の魔法を操るには精霊と契約し、彼らを飼いならす必要があるからだ。
第三位に到達する魔法使いは、千人にひとり。すなわち0・1%。
あたしは当然ながら、自信があった。
この世界で生きることなんてゲームみたいなもので、イージーモードだ。
あたしはそうたかをくくっていた。
教師たちの決議は揉めたらしい。
このリルネ=ヴァルゴニスがいかに天才魔法使いとはいえ、まだ十二歳の子どもだ。
精霊との契約は大変な危険が伴う。
彼らを畏服させ、自らを主人だと認めさせることが契約の条件だが、その条件は個々の精霊によって異なる。
問答で精霊を納得させたり、あるいは
精霊は触媒であり、現象であり、そして魔法そのものだ。サラマンダーの放つ炎は苛烈である。
いかに
あたしを精霊と戦わせるべきか、否か。
賛成は5、反対は4。
あたしは魔法学校の決闘結界内にて、サラマンダーと対峙した。
『お前が喚んだのか』
契約陣にあたしの血を垂らし、召喚した精霊サラマンダーは、まるで小さな蜥蜴のような姿だった。
あたしは勝てると思った。
『そうよ! 精霊サラマンダー! あたしに従いなさい!』
この世界に転生して十二年。人間関係以外で苦労したことなどほとんどなかった。
なんたってあたしには現代人の知識がある上に、前世を生きてきたという圧倒的な積み重ねがあるのだ。
ロッドを振り回すあたしに、サラマンダーは全身から炎を噴き出した。
『良かろう。ならばお前の力を我に示すがいい』
次の瞬間、サラマンダーの体が何倍にも膨れ上がった。
まるでドラゴンのような姿となったサラマンダーは口から炎の吐息を吐き出しながら、あたしを見下ろしている。
あたしは威圧された。
そのとき初めてあたしは、この世界の恐ろしさを知った。
炎精霊に利く水魔法ではなく、風魔法や土魔法、あるいは一番得意な炎魔法を放ったり。あたしの動きは支離滅裂だった。
ろくに戦いも知らず、この学校の教師やチンピラをひねりつぶしていただけのあたしは、なにをしてくるかわからない格上との戦いにおいて、完全に委縮してしまったのだ。
それでも結局、あたしは勝った。いや、勝ったなんて言えたものではない。ただ最大魔力が優っていただけだ。あたしは大人たちにサラマンダーの攻撃をしのぎきったのだと言われたが、違う。亀のように己の身を守っていたにすぎなかったのだ。
その日からあたしは、真面目に魔法の勉強をすることを、やめてしまった。
風魔法や土魔法は第四位になれたが、第三位を目指すことはしなかった。ましてや炎魔法第二位など。
精霊との戦いは、こわかった。
勉強は好きだったが、争い事は向いてないなー、って思った。
だいたい、もともとただの女子高生だったあたしが、なんで命のやり取りをしなければならないのか、わかんないしね。
この世界でそこそこの力を持っていて、誰にも脅かされず、穏やかに生きられたらそれでいい。
あたしはそう思うようになった。
それから三年後、ジンに出会った。
ジンは変なやつだった。
黒髪で背は高く、ひょろりとしていて、いつもへらへらと笑っているような男。
子どもっぽいところもあるけれど、でもやっぱり大人っぽい。よくわかんないやつ。
彼が同郷であると知ったときは驚いたけど、行き来できると聞いたときはもっと驚いた。
ま、今さら元の世界に帰りたいとは思わなかったけどね。あんなところに。
ジンはあたしのためにポテトチップスを買ってきてくれたり、けっこういいやつだった。
使えるから手元に置いておいたら、なんか便利かな、って最初は思っていた。
でも、それは間違っていた。
ジンはただのいいやつなんかじゃなくて、とんでもなくいいやつだったのだ。
見ず知らずの女のために普通、命を賭けたりする?
信じられない。
本当に、バカじゃないの。
あたしは十五歳の誕生日に、学校の屋上から飛び降り自殺した。
原因なんてよくあること。イジメを苦にした自殺。
そりゃ一回目の人生だったから、あたしも攻略法がわかってなかったし。
先生や、両親にだって相談したけど、誰もまともに相手をしてくれなくて。
あたしは絶望していた。
友達だって誰も助けてくれなかった。
閉塞的な暮らしに息が詰まった。
死のうと決めたら胸がスッと軽くなった。
あたしの死はワイドショーを騒がせたかもしれないけど、たぶんそれだけだ。
あっちの世界には魂すらも残っていない。今のあたしはここにいるし。
あたしはひとりで強くなりたかったし、その目的は達成できたと思っていた。
そんなときにメーソンが現れたんだ。
まるで十五歳を呪うように。あたしを絶対に十五歳にはしないとでも言うように。
だから、ただ善意だけでジンが行動しているのを見たときは、そりゃちょっとは嬉しかったけど。
いよいよ追い詰められて、あたしはあいつを突き放した。
元の世界に帰って、と言った。
天才だのなんだのってもてはやされているけど、どうせ安い命だ。
最初からあたしひとりが死ねばよかったんだ。
大丈夫、一度経験しているし。
でも、ジンは決して首を縦には振らなかった。
『――婆ちゃんが、天国で見てんだよ』
そんな冗談みたいな言葉を口にして。
その瞬間、あたしはわかったんだ。
もし、十五年前。あたしが屋上から飛び降りたあの日。
ジンが、辻道尽がクラスメイトだったのなら。
もしかしたら彼は、あたしを助けてくれていたんじゃないか、って。
そんなありもしないことを考えてしまった。
だったら。
あたしはメーソンに立ち向かった。結果はまるでダメで、結局ジンに助けられちゃったけど。
この日、ようやくあたしはひとりで立つことができた。
リルネ=ヴァルゴニスが誕生したんだって思った。
そしてジンはこの世界を去った。
『ちょっとあっちの整理をしてくるよ』と、そう言い残して。
どうせまた戻ってくる。
信じるなんて言うと嘘っぽいけど、あたしはそう確信していた。
だってあいつは、ジンだもん。
父様の像を守るための結界を張り、屋敷から必要な金銭をかき集め、書いた手紙を鞄に詰めて。
「シア、そっちの準備は終わった」
「はい、リルネさま。いつでも発てます」
亜麻色の髪をもつ美人、スターシアがたおやかに微笑む。
旅の準備を終えた彼女の服装を見て、あたしは眉をひそめた。
あたしがプレゼントした、蝶々の眼帯はよく似合っている。けれど。
「……なんでメイド服なの?」
「だってこれは、リルネさまがわたしにくださったお洋服ですから」
すらりとしたシアには、丈の長いロングスカートがばっちりと合う。あたしの見立て通りだ。
「けど、その格好で旅に出るつもり?」
「いけませんでしょうか……?」
あたしが念を押すように尋ねると、シアは不安そうにこちらを見つめ返してきた。
うっ、と思う。
「べ、別にいいんじゃないの。好きにしなさい」
「はい、ありがとうございます」
シアは嬉しそうに微笑んだ。
彼女は礼儀正しくて、美人で、おしとやかだ。最初は魔眼持ちだからってこわがっていたのが、なんだか恥ずかしい。ジンはいい買い物をした。彼の審美眼は確かだったな、って思う。
「ねえ、シア」
「はい?」
「もしジンが戻ってこなくても大丈夫よ、あたしが守ってあげるから」
「ありがとうございます、リルネさま」
シアは微笑んだ直後に、「でも」と付け加えた。
「ジンさまは帰ってきますよ。リルネさまも、わかっていますよね」
もちろん、言われなくてもわかっている。
彼はいつものように照れくさそうに笑って、帰ってくるだろう。
ジンの笑顔を思い出すと、なんだか頬がじんわりと温かくなってくる。
胸の鼓動がほんの少し、早くなる。
「……さあ、どうかしらね」
でも、あたしはそっぽを向いて、頬をかく。
素直に認めるのは、なんかシャクだったから。
「まあ戻ってきたら、一緒に旅してやってもいいわ」
そう言うあたしの顔は、きっと赤かっただろう。
元の年齢を追い越したこの日から。
あたしの第二の人生が、ようやく始まった気がした。
***
暗闇の中、地べたを這いずり回るようにして蠢く子どもがひとり。
片腕は斬り落とされて血がしたたり落ちていた。
この傷ではもう長くは生きられない。
だが、己の命など、どうでもいい。
もはや価値は無に等しい。
子どもは足を引きずるようにして歩きながら、前を睨みつけていた。
意識が遠ざかりながらもたどり着いたその地にて。
子どもはひとりの死を見つけた。
ゴミのように斬り捨てられた死骸を見下ろし、子どもは膝をつく。
――また、守れなかった。
血とともに流れ落ちてゆくのは感情であり、その胸を支配するのは喪失感だ。
激情と諦観。明滅するふたつのシグナルを両眼に浮かべ、子どもは崩れ落ちた。
駄目だ。
いったい何度繰り返せば、この絶望から抜け出せるのだろう。
永遠に続く無限螺旋は終わらない。
誰も――、誰も助けては、くれないのだから――。
第二章 ループ主人公