Case.1 ‐方舟へみちびく女‐(9)

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 翌日、Twitterのトレンドに『ベササノ』の名前が載った。

 近くシャンハイで開催されるビリビリワールドにおいて、ベササノが携わる人気スマホゲームの出展がきゅうきょ中止されるというニュースがきっかけだった。

 火種となった動画。それはベササノと複数のVTuberとのチャットログだった。

 とあるVTuberとのやりとりの中で、外国人をおとしめる発言がばっちり捉えられていた。

 ベササノは一気に信用を失墜させた。もはやイラストレーターとして活動自粛せざるを得ないほどの大炎上。請け負っていた仕事もすべてキャンセルとなり、当然、それは彼のVTuber事業である『ベササノ・Vプロダクション』にも飛び火する。

 海那は業に指示されていた通り、何度もベササノにDiscordから通話をかけていた。もちろん、出ないことを確信して。

 おまけに業務的なチャットログも残す。無頓着な相談は身の潔白の証明になる。


 ──2022年6月25日──

 ○鏡モア  今日16:51

 :ベササノさん。本日の配信のことで相談したいのですが、よろしいですか。

 :お忙しいとは思いますが、今日のことですので……。ご連絡をお待ちしてます。

 ○鏡モア  今日 20:00

 :申し訳ありませんが、自主的な判断で配信をキャンセルします。


 ベササノは取り込み中のようで、まったく反応がない。

 仕事を山ほど抱えていたベササノが、個人事業で始めたVTuberプロジェクトの対応を後回しにすることは想定済みだ。それ以外の出版社、ソーシャルゲーム運営、イベントコンベンション会社といった企業とのやりとりで手が回らないのだ。

 鏡モアの配信は自己判断で中止。そう判断した経緯を証拠に残す。

「カルゴさん、モアラーのみなさんには……」

 海那は配信予定時刻が迫る前に、意味深長な表情で業にたずねた。

「その件はもう少しあとだな」業はしれっと言う。

「……?」海那は首をかしげる。「でも、せめて配信中止の連絡はしないと──」

 何か重大なことを見落としているように海那は思った。けれど、それが何なのかは掴めずにいた。業はじっと海那の様子を見ている。

「どうしましょう……?」

「ファンのことくらい、自分で考えたらどうだ」業がにべもなくそう吐き捨てる。

 ひとまず海那は直前になって配信中止をツイートでしらせた。リプライでは、モアラーから心配の声が数十件もついた。

 海那が業のほうに向くと、相変わらず彼はただじっとこちらを見るばかりだった。

 数日ち、ベササノ炎上による一連の騒動が落ち着きを見せた頃、本人から鏡モアへ連絡があった。まるで、人が変わったかのような丁寧な口調で。


 ──2022年6月28日──

 ○ベササノ 今日14:25

 :先日のご連絡、返信できずに申し訳ありません。Discordを立ち上げることすらままならず、連絡が遅れてしまったことをおびします。


 海那はその連絡を受けたとき、すっかり日常の中にいた。

 昼休みにはあやとお弁当を食べ、午後の古典の授業中、来週に控えた一学期の中間考査のことで気をんでいたときだったため、まるで体に電流が走るようだった。

 放課後、急いで業のアパートへ押しかける。ベササノから連絡があったら来るように言われていたのだ。ここでメッセージを無視することは賢明ではない。


 ○鏡モア 今日18:41

 :とんでもないです。災難でしたね。

 ○ベササノ 今日18:55

 :今後のVTuber運営について相談したいことがありますので、ボイスチャットをする時間をいただけませんか。


 ──来た。海那は背筋が震えた。

 正直に言えば、海那はもう、ベササノと通話をしたくなかった。

 このまま自然消滅的に連絡を途絶えさせればいい。そう考えていたが──。

「逃げるな」業はかたくなに否定する。「ベササノはこれまでイラストレーターとして持てはやされて生きてきた。職を失ったいま、途方にくれたこの男が真面目にアルバイトを始めて懸命に働き出すと思うか?」

 業は肩をすくめて告げる。

「答えはノーだ。燃えたやつは必ず燃やす側に回る。この男がどのかいわいを目の敵にするかわからないからこそ、そんな危険な爆弾を放っておけない。鏡モアが逃亡すれば、あんたを〝弱いやつ〟と認識して騒動が終わる。それだけじゃない。炎上の火種をばらまいたのも鏡モアじゃないかと疑い始めるだろう」

「カルゴさんの考えすぎじゃないですかねぇ……」海那は気乗りしなかった。

「いや」業はしかめっつらで首を振る。「これは普通の引退じゃない。敵や恨みの種をつくることになるんだ。そういうやからは徹底的に潰しておかないと足元をすくわれる」

 業の口ぶりは、まるで裏社会で生き抜くためのかんげんのようだ。だが、確かに──。

「ご無沙汰してます。ベササノさん」

 海那は震える声を押し殺し、通話相手に話しかけた。

『……』

 ベササノは答えない。相手の様子がわからない無言が時間を引き延ばしていた。

「お元気でしたか? ……鏡モアも、この一週間は活動休止したままです」

 海那はあらかじめ業とすり合わせていた台詞せりふを読み上げる。脚本さえあれば、かつてセクハラやパワハラを繰り返した男とも対等に話すことができた。

『…………じゃねぇ』何か声が聞こえた。押し殺したようなぜんめいまじりの声が。

「はい? なんですか?」

『お元気ですか、じゃねぇ!』ベササノが語気を強めた。脚本がチャートBに移行する。

「どっ……どうしたんですか? 落ち着いてください」

 海那は内心びくびくしながら、努めて冷静に振る舞った。

『おまえだろ……。おまえがあんな動画つくって、世界中に拡散したんだろう!』

「え……」

 ベササノのどうかつを受け、心臓が飛び跳ねる。海那は涙目になって隣に目配せした。

 そこにいる死神は不敵な笑みを浮かべ、とんとんと自身のイヤホンを指でたたく。

 彼も通話音声を共有している。それがどんなに心強いことだろう。

『おかげで俺の人生は終わりだっ! どうしてくれんだ? ええっ?』

「ちょ、ちょっと待ってください。わたしがベササノさんのことを告発したって言いたいんですか?」

 海那は仕込みの台詞を読み上げる。

『そうだろう? あのチャット、鏡モアとコラボしたVTuberの女たちとのものばかりだったじゃねぇか! あんなの集められるのは、おまえしかいないっ』

「ひどいです。わたしは告発動画なんてつくってないのに」

 うそはついていない。動画をつくったのはあらカザンという、どこの馬の骨とも知れぬ炎上屋だ。なぜかその男の手にチャットログが渡っていたわけだが。

『ふざけるなよっ! 絶対にふくしゅうしてやるからな。おまえが今後新しくVTuberを始めたって地の果てまで付け回してやるっ! 地獄に道連れにしてやるからなっ!』

 その発言を聞いていた死神がニヤリと笑みを浮かべる。も安心感を覚えた。死神は次にふさわしい台詞を指差した。

「え──」海那は感情を込めてしゃべる。「新しくVTuberって……」

 ベササノの口からそう言ったことが何より重要だった。

「鏡モアはもう、終わりなんですか?」とぼけたように海那はく。

『当たり前だろ! おまえバカかっ。こんな状況で俺の事業が続けられると思ってんのかよ!』ベササノはえ続けている。

「いえ、その」海那はりゅういんを下げつつ冷静な声で続けた。「だってそれはベササノさんの判断ですから。でもよかった。じゃあ鏡モアは引退でいいんですね」

『はぁ? そんなことはどうだっていいんだよっ! それよりもおまえが俺を貶めたことを絶対に復讐──』ベササノがヒートアップしていく。

 感情的な男の声はどうしてこうも脅迫的で、野獣のほうこうのようになるのだろう。目配せすると死神も頷いた。大丈夫らしい。

「わかりました、ベササノさん。では、これにてわたしのお仕事は終わりということで。お世話になりました」

『あっ、おい! 待て。通話切るなよっ!? おまえとはまだ何も──』

 ベササノの怒りがむ気配がない。彼のご近所が、その怒声で迷惑を被っていないだろうかと、海那は他人を心配する余裕すら出てきた。

「ベササノさん。解雇されたので、ここから先は対等な関係ですよ。まだしつように罵声を繰り返すようでしたら、いままでの通話音声もしかるべき場所に提示します」

『は……っ?』ベササノはき込み、そのまま絶望を吐き始めた。『ゴホッ、ゲッハ! オェェェエエ』

「えーっと、なんでしたっけ」海那は通話を振り返った。「地獄に道連れ……とか、あとバカって言いました? これって侮辱罪に当たるんでしょうか」

『あっ……ああ……。あぁ……』

 ベササノの歯がガチガチと音を鳴らした。

 この男は一度、炎上を経験した。さらされる恐怖が心に刻まれている。

「勝手に通話を録音するってダメなんでしょうけど、わたしもわたしで、いままでたくさんベササノさんにいじめられてきましたから……。正当防衛というやつです」

 海那の心は晴れ晴れとしていた。その台詞にもアレンジが加わりつつある。

「そうそう。過去のわたしへの威圧的なチャットもスクショに残してありますよ。わたしは告発のことはまったく知りませんし、誰にもスクショを渡したりしてませんので、わたしとのログはまだ公開されてなかったと思うんですが……。もしそれでも疑うようなら、こちらも追加で告発できるかなって思うんですよ。さっきの通話音声と一緒に」

 ベササノはなにも言わなくなっていた。きゅうが猫を噛んでいる。

「……もしもし? どうしました? ベササノさ〜ん」

 問いかけるうち、ベササノのほうから事切れるように通話が切られた。

 これで海那は自由の身だ。音声通話の終了を確認すると、ごうはなんでもないことのように立ち上がり、ただ一言。「終わったな」

 一人の人間が社会的に死んだというのに、業はおそろしく冷淡だった。

「やつが今後、あんたを攻撃してくることは二度とない」

「また、あんたって……」そう呼ばれたことに、ひとまず目をつむる海那。解放されたことで心のおりがすっかり消えていた。

 業はぶっきらぼうに言う。

「本題はここからだぞ」

「え……?」海那は冷や水をかけられた。

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 □鏡モア @MoreMirror

【大切なおしらせ】モアラーのみんなへ

 ツイートに収まらなかったので、画像を見てください。

『モアラーのみんなへ

 心配をおかけして申し訳ありません。本日をもちまして鏡モアは引退します。

 突然のおしらせになって、ちゃんとしたお別れもできず本当にごめんなさい。

 二ヶ月という短い期間でしたが、モアラーのみんなには配信を支えてもらったり、動画を楽しんでもらったり、たくさん応援してくれたこと、振り返ると感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。

 わたしは弱虫なところがあって、VTuberをやることで弱い自分を克服しようと、このプロジェクトに飛び込みました。

 そこでみんなと出会って、わたしのほうが楽しませてもらうばかりでした。

 なにより悔しいのは、ファンのみんなにちゃんと恩返しできないことです。こんなわたしのことを見つけてくれて、支えてくれてありがとう。またどこかで……というと、未練がましいので、やめておきます。

 モアラーのみんながずっと元気でいてくれることを願ってます。

 本当にありがとうございました。』

               2022-06-28 20:18:09


 海那は打ち終えたメッセージを何度も読み返し、目を潤ませながらツイートした。

 そのときには業の真意を理解していた。

 ──あんたの覚悟を試すチャンスをやる。

 事もあろうに、海那はこの別れをまったく覚悟していなかった。

 推しの引退がどれほどつらいかはよく知っている。……はずだったのに。

 魂のおもいは当事者になって初めて思い知った。

 この結末は酸鼻のきわみだ。

 VTuberが引退するというときには、とくにファンの間でが始まる。その悲しみの声はファンが多いほど膨れ上がり、きょうかんの中で見送られることになるのだ。

 しかも、その声は死んだ魂にも直接届いてしまう。


 □とま@モアラー @tom0625

 @MoreMirror モアちゃん、いままで本当にありがとうございました。モアちゃんのことは初配信のときから知ってひとれでした。実は先日、僕の誕生日、モアちゃんの配信アーカイブを見ながらケーキを食べてすごく幸せでした。本当に悲しいけど、笑顔でさよならします。いつまでもお元気で。

                   2022-06-28 20:26:52

 □ヴォエーっと吐くたか@モアラー @p1y0h1k0

 @MoreMirror おつもあでした。悲しい。

                   2022-06-28 20:30:11

 □DNDNざうるす @2ApkgrO753VFYq1

 @MoreMirror モアちゃん……。仕方ないんだろうけど、本気でショックです。どこかでまた会えることを願って…………。いままでありがとう。モアちゃんの弱み克服、これからも陰ながら応援してる!

                   2022-06-28 20:31:27

 □スポイデメン @taitsumen

 @MoreMirror モアちゃん謙遜するけどVTuberやってただけすごいやで! 弱虫じゃないやで。だから胸張ってええ。元気でやりや

                   2022-06-28 20:51:33


 続々とリプライが届く。海那は涙が止まらなかった。

「あぁ……わたし……」

 ほろりほろりと大粒のしずくが、業の部屋のカーペットに降り注いでみこんだ。海那の声はうわずって、やがてていこくへと変わり、負け犬のように膝からくずおれる。

「そんな……うっ……うう……うぁぁあああああ……っ!」

 そんな海那を業は冷徹なまなしで見下ろし、残酷な事実を突きつけた。

「鏡モアは死んだ」

「……っ!」海那は顔を引きつらせ、また気持ちまかせに泣き叫んだ。「ごめん……なさいっ……ごめんなさいっ。ごめんなさい!」

「あんたが望んだことだ」

「ごめんなさい……。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ……」

 もしベササノの悪質な運営に立ち向かう強ささえあれば、海那は〝鏡モア〟として、まだ活動することもできたはずだ。

 だが、自分の弱さゆえに勝手な炎上を企て、結果、ファンを悲しませた。

 海那はモアラーと、鏡モアという自分自身を裏切ったのだ。

「うっ……うっ……うぅぅぁああああああっ……わぁあああああああっ」

「器を捨てるってのはそういうことだ。魂にとっては挫折。ファンにとっては推しの死。VTuberを救う? これでか?」

 海那は嘆き悲しんでいる。一方で、その様子を眺める業もまた感傷に浸っていた。

 鏡モアのことではない。

 それは、かつての推しのこと。

 振り返れば、の炎上でおかしいと思うことはたくさんあった。

 あの乃亜が、ファンを裏切るようなをするだろうか? 『星ヶ丘ハイスクール』という多くのVTuberリスナーを魅了したグループが、あんなふうに乃亜の炎上に無防備なままでいるだろうか。魂が特定されたタイミングも、どうにもできすぎている。

 考えたところでもう乃亜の引退はくつがえらない。けれども乃亜との別れは、もっといエンディングがあったのではないかと考えずにはいられない。

 鏡モアの引退は業にとって、これまでで最も乃亜に近づくものだった。

 それゆえ、もしあのとき、こんなふうに、と愛惜の思いが止まらなくなっていた。

「……っひく……。わたし……。だって、もう……」

 それは、いま終わりを迎えたばかりのVTuberも同じようで──。

「まあ」業は抑揚のない声で言う。「VTuberは魂だけのものじゃない。今回はあのクソ野郎が台無しにしたんだ。一人で抱え込むな。それに、あいつらも数日後には鏡モアなんて最初からいなかったように別のVTuberへ熱心にリプライでも送ってるさ」

 皮肉にしか聞こえないが、業は業なりにを励まそうとしていた。

 今回のことで海那のうそ偽りない想いも証明された。

 もう彼女は裏切り者じゃない。カルゴと同じ想いの、正真正銘のノア友だ。

「カルゴさん……」

 海那はよろよろと立ち上がり、震える手で業の服の丈をつまんで泣き続ける。

 業はそんな海那の腕を握り、ぐっと引き寄せ、怒気を込めて言った。

「いいか。なにかを成し遂げたいなら、その手でしっかりつかめ。そんな細い指先で誰かを守れると思うな。わかったか」

「……はい」

「じゃあ、これをやる」業は掴んだ海那の手を開かせ、もう一方の手に持っていたものを強引に掴ませた。業が手を離すと、チャリンと音がした。

「……か、鍵……?」

「この部屋の鍵だ」

「は、はい……? え、ど、どういう……」

 意味がわからず、その意図を深読みして海那は顔が真っ赤になった。

「ミーナ。あんたをノア友だと認める。ざんがしたくなったら、またここに来い」

 業はそれ以上、なにも語らなかった。けれど海那は初めて名前を呼び捨てされたことがうれしくて、自然と涙も止まっていた。

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