プロローグ
そのとき、僕には深い夏色の空が明滅しているように見えていた。
瞬きするたび視界が白む。上がった息を整えたいのに、思うように呼吸ができない。
焦燥が僕らの体を熱くしている。恐怖が僕らの鼓動を速くしている。
積乱雲が浮かぶ空の下に、僕らは逃げ込んでいた。それが、すべての終幕だった。
「……まあ、最悪一緒に死ぬことになってもいいと思って身を委ねますよ」
隣に立っている少女が言う。見ると、彼女の顔は恐怖で歪んでいた。
きっと、僕も同じような顔をしているのだろう。
校舎の屋上。安全フェンスを越えた先。
死と隣合わせのわずかな足場に僕らは立っている。
「
優しく言い聞かせながら、僕は胡桃の手を持ち上げてゆっくりと撫でた。
胡桃はきょとんとしたあと、鼻で笑うような感じではにかんだ。
「ふっ。いつぞやの真似事ですか? 先輩に撫でられたって安心しませんよ」
そうか。こんなんじゃ、ダメか。僕らが不安を解消できる行為なんて一つしかないよな。
僕は胡桃の被っているキャスケットを、空いているほうの手でひょいと取った。
ほんの少しだけ前かがみになって、顔を近づける。そっと唇を重ねて、舌を絡める。
「んっ……んちゅっ……んっ……れぇ……」
キスという名のテロ行為。吐息が、体温が、寂寥感が、粘膜を通して伝わってくる。
僕の抱えている気持ちも、胡桃に伝わってしまっているのだろうか。
昔から僕は何者かになりたかった。感受性が高くて、傷つきやすくて、人と接することがあまりにも苦手。そんな僕は、自分の中にある忌々しい不器用さに名前がほしかった。
例えばそれは、病名であったり。例えばそれは、才能であったり。
なんでもいい。とにかく、この生きづらさの正体を誰かに暴いてほしかった。
「れ……んんっ……ぷはぁ……えへへ……いきなりキスするんですから、もう……」
胡桃の唇から僕の唇にかけて、一筋の唾液の線が伸びている。
いつも思う。この淫靡な線は、僕を僕として認識してくれた証拠なのだと。
「そろそろタイムリミットだ。覚悟はいいか、胡桃」
「はい。行きましょう、先輩」
頷く胡桃を片手に抱く。僕はタンッと足場を蹴って空に飛んだ。地に落ちた。
これは、無理心中じゃない。明日を生きるための逃避行だ。
この落下は、僕らのキスのようにどこまでも後ろ暗いハッピーエンドなんだ。
重力に導かれ、僕らは落ちる。二人、身を寄せ合いながら風を切って落ちていく。
その日、僕はやっと、自分というものを見つけた気がした。
一緒に堕ちてくれる彼女に、僕という存在を見つけてもらった気がしていた。