【#1】メイク・ミー・マム(2)
出払っていた海ヶ瀬は自分の席に座るなり、そのままヘッドホンを耳に被せていた。
「くそ、オレのくじ運が良かったら」「いきなり席替えするなんて思わんかったよな」
「しっかしマジで可愛いよな海ヶ瀬さん」「何聞いてるんだろ」「マイナーな邦楽とか聞いててほしいわ」「うわ。なんかわかるわそれ」「彼氏とか、いんのかな」「いるとしたらきっとアホほど顔が良くて、医学部入るくらい勉強できて、趣味がボルダリングの奴だな」
たぶん聞こえていないのを良いことに、男子連中は思い思いの言葉を吐露し始める。
それに影響されてか、俺も海ヶ瀬の様子を窺ってしまった。
小さな欠伸と共に頬杖を突いて、窓の方を向いている。ルーティンの一環として今日も音楽を聴いている。開けっぱなしで置かれた彼女の黒のキャンパスリュックからはゴマフアザラシのぬいぐるみがはみ出ているが、あれは確か筆箱だったっけか。そしておもむろに、机の中からグミの袋を取りだして一粒だけ口に入れていた──なんか一粒でかくね?
どれもこれもがなんてことの無い所作でも、それを海ヶ瀬がやるだけで特別なもののように見えた。生粋のモデル気質、というやつだろうか? 俺が知らないだけで、本当にモデル業のようなこともやっているのかもしれない。
「──なあ。ところで、亜鳥は実際どっち派なんだ? 山城と、海ヶ瀬さん」
海ヶ瀬果澪を観察していたら、男子連中の一人から唐突に、派閥について問われた。
……途中から聞いてなかったので、どういう話の流れでそうなったのかは知らない。
ただ、これだけは言える。本当に、心の底から、きのこたけのこ論争と同じくらいどっちでも良かった。これが俺の好きなエロg……もとい『全年齢向け恋愛シミュレーションゲーム』のヒロインの話なら血の涙を流しながら悩み抜いて答えを出すだろうが……リアルだろ? 創作と違ってリアルの恋愛なんて、明日どうなってるかもわからんくらい熱しやすく冷めやすいもんだろうし(偏見)。どいつもこいつも心の繋がりじゃなくて身体で繋がれるかで選んでるんだろうし(大偏見)。面倒くさい、適当に答えときゃいいだろ。
「……じゃあ、桐紗」
「お、どうしてだ?」
「今期推してるアニメのメインヒロインと、髪型と雰囲気が似てるからだ」
「……なんか、もういいや」
「ちな、巨乳でポンコツで、古き良きツンデレ属性が人気のキャラクターではある。もしも俺が次元を一つ落とせたならば、ぜひとも太ももに挟まって……」
「説明しなくていい、わかったから……って、そこまで言って乳じゃねえのかよっ」
「……そういや亜鳥はオタクの二次元専だったな」
「あ、そうなん? 意外だな」
冷めた風呂の湯みたいな雰囲気が漂いつつも、男子連中は各々で勝手に納得しているようだった。気が済んだなら何より。なんとなく軽んじられた気はするが、スルーしてやる。
「亜鳥は顔良いのに言動に難アリなんだよな」「変人……いや変態だし。絵描いてばっかりだし。しかもなんか顔描いてないやつ」「優良物件かと思ったら事故物件だったパターンだな」「罠すぎ」「しかも聞いてもない時に限って、今みたいにオタク話語り出すし」
「俺って嫌われてんの?」
せっかく黙ってやってたのに、こいつらの方から追い打ちをかけてきやがった。後、顔描いてないのは絵柄でバレないようにだよ。一応配慮してんだこっちも。
「ねえ」「はいはい、なんだ、よ──」
またくだらないことが言われるのかと思って、ぞんざいな態度で返事をした。
でも、言われてから気づく。
俺に浴びせられた声は、男子のそれじゃなかった。
海ヶ瀬果澪からだった。
「亜鳥くん」
その声は、清流のせせらぎを彷彿とさせるほどに澄んでいた。聞き心地の良い音が耳を通り抜けていって、その二言目で、今の声がけが偶然じゃなかったんだと認識。
さっきまではちぎれた雲と青空に視線を向けていた海ヶ瀬は、何を思ったのかこちらを見ていた。吸い込まれそうなほどに印象的な両目は、しっかり俺の姿を映している。
「ど、どうかしたか?」
態度や言葉に動揺が出ている俺と違って、海ヶ瀬は終始落ち着いていた。ヘッドホンを首にかけながら、個装されたグミを一粒だけ取り出して俺に放り投げてくる。
最後にはにこりと、小さく微笑んでいた。
「うん、ナイスキャッチ──それ、お礼にあげるよ」
「な、何に対するお礼だ」
「んー……さて、なんだろね」
不可解なことを口にした海ヶ瀬は再びヘッドホンを装着し、気まぐれな猫のようにぷいと、再び窓の方を向いてしまう。この様子じゃ、詳しく問いただすのも難しかった。
「わ、笑った顔が、法に触れるレベルで可愛すぎる……」「むしろ法そのものだろ」
一連の流れを見ていた男子連中は再びざわつき始めて、なのに、そいつらの声はまったく頭の中に入ってこない。心拍数が上昇していく感覚だけが、今の俺を支配している。
当然だが、海ヶ瀬と話せたから、なんてミーハー丸出しな理由じゃない。
今のやり取りの間で、ほんの僅か。時間にすれば1フレームにも満たないであろう時の中で、けれど確かに海ヶ瀬は、俺の手元のタブレットを一瞥していた。
……落ち着け。いくらなんでも今の一瞬で何を描いていたかはバレていないはずだし、誰をモデルにしているかも、同じく。グミを渡してくるという意味不明な行動はあったものの、逆に考えれば、グミを渡せるくらいには、俺への警戒度は低い(?)とも取れる。毅然とした態度を取っていれば、問題ないだろう。海ヶ瀬だってきっと、少し気になったからちょっと俺のタブレットチラ見しちゃった、くらいのことしか考えていないはず。
……とはいえ、これ以上この場で描き続けるのも気が引ける。
どうにもばつが悪くなった俺は、隠すように机の中へタブレットをしまった。
もう少し作業を進めておきたかったところだが──ま、帰ってから再開だな。
「亜鳥頼む。学食奢ってやるから、だから海ヶ瀬さんの連絡先だけ教えてくれ!」
「……ああもう、ごちゃごちゃやかましいな! つか、そもそも知らねえよっ」
隣に本人いるんだから、直接聞きゃいいだろうが。そんくらいは能動的に動けよ!
呆れつつ、そこで俺は初めて、海ヶ瀬から貰ったグミへと意識を向けた。
グミなのに、ホットドッグの形をしている。
一粒が異様に大きく、存在感がある。
どんな味すんだよ、これ。
§
アトリエ美学、その一──神絵師たるもの、毎日の鍛錬は欠かしてはならない。
よって、その日の夜も俺は、完成したイラストを自らのTmitterに投稿していた。
今回のメインは、青みがかったロブヘアのサキュバス少女だ。背中に黒い羽根、へそ下付近にタトゥー、仙骨付近からハート形の尻尾を生やした、いかにもサキュバスな彼女。
その娘が青いマイクロビキニを着用し、夜の教室の窓際で、体操座りの体勢で椅子に座っているという構図。表情は夢魔らしく恍惚としたもので、目線は妖艶な上目遣い。
客観的に見ても、素晴らしいクオリティのイラストだろう。全体的な色調を青色で統一することで清涼感を出しつつ、名も無きキャラクターの可愛らしさを前面にプッシュ。なおかつ水着に期待されるエッチさを胸やお腹、鼠径部付近などから醸し出す。爆盛りされた属性がとっ散らかるどころか、絶妙なバランスでそれぞれを活かし、高めている。
……くっそ良いな。こんな神イラスト、誰が描いたん? ──ええ、私です!
断言しよう。このイラストは俺が今まで描いたイラストの中でもトップレベルに完成度の高いものであり、なおかつ神絵師アトリエが世の中に送り出すに値する一枚である、と。
うん。やっぱデッサンモデル、効果あるわ。ここ最近のアトリエの筆は間違いなく乗りに乗っている。いいね数とかからも判断できるし、何より俺自身のイラストに対する満足度が高すぎる。こんなにも素晴らしいクリエイトが行えた事実が嬉しすぎる……。
と、いった具合で。
俺は投稿したイラストを人目に付きやすいようTmitterのプロフィール欄に固定し、アトリエのアカウントに寄せられた感想のつぶやきに対して、続々といいねを押していった──一時間以内にコメントをくれた人には、こうしていいねを返している。地道なレスポンスは新規ファンの開拓に繋がるし、何より、目に入るファンの存在によって気分も引き締まる。よし、明日も良いイラスト描くぞ、みたいな感じ。
……ただ。
唯一の懸念。というよりは、俺の良心の呵責のようなもの、だけど。
はっきり言ってしまうと──この一枚に描かれている女子のモデルは、海ヶ瀬果澪だ。
俺が海ヶ瀬の容姿やら何やらを事細かに説明できるくらいに詳しいのは、イラストとして落とし込むため、今日以前からちょこちょこと視線を送っていたからに他ならない。
そして。これは本当に、自分でもどうかとは思ったが──今まで頼んできた女子と違って海ヶ瀬からはデッサンモデルの約束もしていないし、あなたの容姿の一部をイラストに落とし込んで良いか、という承諾も取っていない。完全なる、無断。
始業式翌日の席替えの結果、俺の隣の席に座った彼女を一目見て、例によってビビッときて、思わずイラストにしたいと思ってしまって、しかし声をかけることはできないまま筆だけを進めてしまって……こうして完成を迎えた、というわけだ。
そして、今日の昼に海ヶ瀬からいきなり話しかけられて焦ったのは、このイラストが原因だ。俺が彼女に抱いていた疚しさが暴かれるのではないかと、ひやひやしたから。
……これ、あれか?
今さらだが、だいぶキモめの行為か? トリッキーなストーカー、みたいな? バレたら殺されてもおかしくない案件だったりする?
もちろん、髪の長さがロブくらいの女子なんかいくらでもいるし、俺の絵柄は写実的なものではないので言い訳しようと思えばできるかもしれない。二次元と三次元は別物です、ほんと難癖はやめてくださいよねっ、なんて逆ギレしてやれば通るかもしれない。
無論、そもそもそんな状況にはならないだろうし、俺の意図がモデルにした海ヶ瀬本人に露見した場合はどちらにせよ終わりなので、考える必要もないが……。
切り替えよう。
こうやって投稿してしまった後でグダグダ言っても始まらないし、そもそも海ヶ瀬は、俺がこういったイラストを描き上げていることなんて知ってるはずがない。
そうだ。いくらアトリエのTmitterフォロワーが八十万人を超えているとはいえ、日本全体で考えればその数字は一パーセントにも満たない。考えるだけ無意味、まさに杞憂。大丈夫だ、落ち着け──。
自分で自分を説得して、デスクの上のタンブラーに注がれていたコーヒーをちびりと啜って、PCと液タブの電源を落とした。さ、そろそろ風呂にでも入ろう。
『──そういうの繰り返してたら、いつか痛い目見るからね』
見るからね、見るからね、見るからね……。
日中に桐紗が俺に言い放った言葉を、不意にこのタイミングで思い出してしまう。
……しかし、痛い目か。確かに俺の振る舞いによってはそのうち見ることになるのかもしれないが、それはきっと、今じゃない。今回のこともバレるはずがない。完全犯罪だ。いや、犯罪じゃない。この罪に名前が付いていたなら、ごめんなさい。
とにかく。
俺が飽きるまで、デッサンモデルという試みを続けさせてもらおうか──。
§
『お降りの際は、お忘れ物なさいませんように──』
「……はっ!?」
車内アナウンスによって、うっすら微睡みに落ちていた意識が浮上してくる。
朝、学校に向かう電車に乗りながら諸々のことを思案しているうち、いつのまにか目を閉じてしまっていたらしい。そのせいでふと、一週間ほど前の、できれば思い出したくない過去を夢に見てしまっていた──電車内の表示板を見ると、降りる駅が近かった。危なかった。もう少しで、乗り過ごすところだった。
……ただ、めくるめく回想の甲斐あって、だろうか。
どうして俺が朝から駆り出されているのかは、それなりに理解できた気がする。
ブレザーの胸ポケットからスマホを取り出し、時刻を確認。
朝、六時四十五分。『かみお』なる人物から指定された時間には間に合いそう。
ついでにTmitterを開き、DM欄にはママになってほしいというメッセージがしっかりと鎮座していることを確認。嘆息し、そのままアトリエのTmitterに固定されていた、青髪サキュバス少女のイラストを再び眺める。
もしもこの少女のモデルが誰なのか、他ならぬ海ヶ瀬が気づいているならば……。
痛い目に遭う覚悟をしておくべきなのかもしれない。