【1st】リグレット・リグレット(1)

 桃花愛未の熱愛疑惑を覚えている人間は、どれだけ居るのだろう。たった1ヶ月しか経っていないが、人々の関心は誰かの不倫や不祥事に流れていた。消費者脳というのは、本当に残酷なモノだ。

 かく言う俺も、桃ちゃんが表舞台から消えて抜け殻のようになっていた。生きる楽しみを失ったのだ。ただ会社のために血肉を注ぐ人間のカタチをした機械と化している。

 季節はすっかり夏に模様替えしていた。俺の感情は、桃ちゃんと会えたあの日から止まっている。

 タバコを取り出して火を付ける。勢いよく吸い込んで、肺まで送り込む。鼻から抜けるこの味が、たまらなく美味い。そんな単純作業。

 息と一緒に煙を吐く。自宅マンションのベランダはさびれている。夏の入り口みたいな生ぬるい風が全身に当たる。

「新曲、売れてるなぁ……」

 タバコ片手にネットニュースを漁る。そこで目に留まったのは、桃ちゃんが休養してから出したサクラロマンスの新曲の話題。高校生に人気のアプリでウケたらしく、動画配信サイトでのミュージックビデオ再生回数もグループ内では最多を更新したという。

「桃担」からすれば、複雑以外の何物でもない。ここに彼女が入れば、この売れたカタチを崩すことになる。売れれば良い事務所は、どう判断するのだろう。スキャンダル未遂とはいえ、イメージダウンは避けられない。

 彼女の裏アカである「ブルーローズ」も、あの日以来動きが無かった。メッセージはおろか、発言すらしていない。もしかしたら、完全にログアウトしているのかもな。エゴサーチ出来ないように。それならそれで良いことではある。

 ただそれは、彼女との唯一無二の繋がりを無くした気がして。少し寂しいのが本音だ。いや、そもそも繋がりなんて大層なモノではないけれど。

 タバコを吸い終わると、解放感がすごい。

 桃ちゃんが休養に入ってから、サクラロマンスそのものを追いかけなくなった。別に他のメンバーに興味が無いわけじゃないが、俺にとってのサクラロマンスは、桃花愛未だったのだと痛感している。

 社会人にとって大切な休日は、ここ1ヶ月無駄に終わってばかりだ。ただでさえインドア派なのに、彼女たちを追いかけなくなって本格的に家を出なくなった。こうやって、ドルオタは消えていくのだろう。そう考えると、なんか儚いな。

 桃花愛未を追いかけている時は気にならなかったが、もう32歳。今のままだと、独りで人生を生きていくことになりそうで悲しいというか、なんというか。別に結婚願望があったわけではないが、心に空いた穴を異性で埋めようとする本能が働いている。

 そもそも、顔に自信が無い。生きてきてカッコいいと言われたことはないし、カワイイとも言われたことはない。

 いわば、意識してないけどそこに居るだけの存在。付き合えないけど同僚や友人なら歓迎、なんて言われるタイプだ。髪の毛は元気だが、いつ終わりが来るか分からない。内心ではビクビクしながら仕事している。

 この世界の空は繋がっている。憎たらしいほどに広がった青空を背に、財布をズボンの尻ポケットに突っ込んだ。昼から酒を飲む決意の表れである。

 あの子も見ているのだろうか。この空を。

 もし桃ちゃんが復帰しても、やがては辞めてしまう運命。それは変わらないけど、本人の口から聞いている分、やけに現実的な問題に聞こえる。

 きっと、最後に握手会をやってくれるはずだ。その時には何と伝えようか。

 ――うん。やっぱり、感謝の気持ちだな。

 桃担で良かったよと、泣きそうになりながら伝える自分が簡単に想像できた。それが可笑しくて独り鼻で笑った。

 家を出ると照り付ける日差しがうるさい。近所のスーパーマーケットまで歩いて数分。大して自炊もしないせいで、宝の持ち腐れ感が生まれる。もう気にしていないけれど、やっぱり料理が出来る人はすごいと心から思う。

 スーパーの中は冷房が入っていた。足を踏み入れた瞬間、肌表面についた熱気を振り払うような冷気が全身を包んだ。店内は生鮮食品コーナーや、独立したパン屋などがテナントみたいな形で入居していた。平屋建てだから上り下りが無いのはありがたい。そんなことを思える歳になってしまったと情けなくもあったが。

 足は本屋兼文房具屋『ナカノ書房』に向かった。飲み物を買いに来ただけだが、文房具メーカーで働く身として完全な職業病に近い何かがあった。

「あら、どうも」

「こんにちは。暑いですね」

「そうねぇ」

 何より、ここはウチの卸先でもあるのだ。俺が入社する前からの付き合いらしいが、営業部に居た時は担当していたし、ここのオーナーとも気軽にあいさつできる間柄である。

 店主の仲埜なかのさんは、すごく話しやすいオバちゃんだ。本人いわく実家の稼業をそのまま継いだだけだと自嘲気味に言うが、今の時代に本と文房具を売って生計を立てている時点ですごいと思う。

 ここに来るといつも、ウチで作った文具がどれぐらい消費されているかをチェックする。ボールペンやメモ帳、スティックのりなど幅広い。いちいちメモ取りするまではないが、減り具合を見るだけでも需要が見えてくる。

彩晴さいせいさんの製品、売れ行き好調なのよ」

「それはよかったです」

 仲埜さんが言う彩晴というのは俺が働く会社、彩晴文具のことである。長年の付き合いがあるおかげで、基本的に悪いことは言われない。最近良いことが無かったせいで、反動的に頬が緩んだ。

 ふと目に入ったのが、あの日彼女が使っていたペンとメモ帳だ。ウチの製品でも特に人気がある。書きやすくて評判と聞く。でも頭をよぎるのはやっぱり、桃花愛未の悲し気なあの表情である。

 あの中には、彼女が紡いだ言葉が眠っているのだろうか。誰にも吐露できない心の中を曝け出しているのだろうか。それを知っているのは彼女本人だけ。覗き込みたいと思ってしまうのはファンの範疇を越えているのかな。

 視界に入る四季色たち。仲埜さんは好調だと言ってくれたが、相変わらず棚にはたくさん差し込まれている。消費量は食料品と同じなわけもない。気にする必要は一切ないけれど、桃ちゃんが頭の中に居るせいで寂しく思えた。推しのせいにしてしまう自分がみっともなくて。仲埜さんに聞こえないようにため息を吐いた。

「あの」

 ふと隣から声がした。仲埜さんじゃない。彼女よりも若々しくて、どこか憂いを帯びた声色である。それはまるで、俺が知っている一番綺麗で可愛い桃色の香り。

「あぁすみません」

 咄嗟に立っている場所をずらした。俺の目の前、つまり彩晴の文具に用があると察したからだ。目の前で売れていくのを見られるのはある意味貴重だから。

 特に意図せず視線を落とした。メジャーなブランドのキャップを被って、薄緑のTシャツにベージュのチノパン、黒のリュックを背負っている。すごくスタイルが良い人だ。ボーイッシュな格好が良く似合う女の子。胸はあまり大きくはないけれど。

「へっ」

 途端に気の抜けた声を出したのは、この子だった。と言うのも、俺の顔を見上げていたからである。視線が合う。ほんの少し釣り目で、でもぱっちりとした瞳に吸い込まれそうになる。無意識に高まっていく全身の鼓動。恋に落ちた時の衝撃じゃない。これはあれだ。要は気まずさで心臓が止まりそうになっているだけ。


 それは、夏に似合わない桃色の空気を纏っていた。


 慌ててキャップを深く被りなおす彼女。さっきまで合っていた視線を見失った。顔が見えない。無意識なファン根性で控えめに心を覗き込む。随分と薄化粧だが、間違いない。胸はあまり大きくないけれど、と茶化した彼女は俺の推し、桃花愛未であった。どうして近所のスーパーに居るのか、どうしてナカノ書房に居るのか、どうしてこの時間帯なのか。気になることしか頭に浮かばないが、俺が推しの胸を心の中でイジった事実は消えない。

「ごめんなさい」

「へっ?」

「あぁいや……すみません」

 無意識に思っている言葉が漏れた。彼女も動揺しているようで聞き逃してもらえたらしい。別に悪気があったわけではない。俺は桃ちゃんの胸のサイズを気にしたこともないし。うん。すらりとして綺麗じゃないか。

 それで、意識を再び彼女に向ける。また目が合う。けれど、また避けるように視線を逸らされた。それを追いかける気にはなれなかった。

新木あらき君の知り合い?」

「知り合いと言うか、なんと言いますか」

 仲埜さんが興味津々な様子で聞いてくる。俺たち以外に客が居ないせいで、周りを気にしていないようだ。つくづくタイミングが悪い。

 それよりも、単純に気になる。どうして彼女がこんな場所に居るのだろうか。いわば、ここは俺のホームタウンだ。歩いて数分なのだから、それだけ通う頻度は高い。それに、周りは住宅街で何かの拍子に立ち寄ることもまずないだろう。

「仕事のついでなんです」

「仕事?」

 休養中だよね? とは言えなかった。いずれにしてもプライベートであることには変わりない。ここで変な追及をしてしまえば、それこそ週刊誌の記者と同じだ。別に彼女を論破するつもりなんてないのだから。

「みーちゃんも照れちゃってどうしたのよ」

「みーちゃん?」

 仲埜さんが揶揄うように言う。その言葉が俺ではなく、彼女に向けられたモノだと気づくのに少しだけ時間を要した。

 少なくとも、俺が知っているのは「みーちゃん」ではない。そんな彼女は仲埜さんの発言に「もうっ!」と怒っている。ほんの少しだけ彼女の素を見た気がした。うっすらと汗ばんでいた両腕はすっかり冷房の虜である。特に寒いわけではないが、さすってみると湿っていた腕は消えていた。

「その……なんでもありませんから」

「あ、う、うん」

 桃ちゃんから釘を刺された。語気の強さに思わず狼狽えてしまう。

 仲埜さんは桃花愛未と知り合いらしい。と言うか、察するにここの常連なのだろう。ペンやメモ帳をあんなに丁寧に使ってくれているのだ。そう考えるのが自然な話。

「それでは」

 ノートとペン、そしてスティックのりを取ってレジに並ぶ。その際にペコリと会釈してくれた。対応する仲埜さんはなぜかニヤニヤしていて、俺の方を見てくる。一方で、桃ちゃんは彼女と目を合わせようとしなかった。まるで拗ねた子どもみたいで少し可愛かった。

「あ、あの桃ちゃん」

 名前を呼ぶと、ピクリと肩を震わせた。ちょうど会計を終えたようで、くるりと俺の方を向く。声に反応してくれたと思ったが、考えてみれば俺の方に来ないと店を出られない。なんか少し悲しい気分になった。

「俺、待ってますから」

 特に深い意味なんてなかった。言い訳じゃない。

 あの日言われた「アイドルを辞めたい」という言葉は、俺の頭の中にこびりついていた。けれど、どういうわけか今この瞬間だけはそんなことなくて。

 ただ、俺の瞳を無意識に覗き込む彼女を引き留めたいとしか考えられなかった。

 彼女は何も言わず、俺の横を通り過ぎて行った。会釈してくれたさっきのあの子とは、まるで別人みたいな顔をして。


 そんな夏。屋内なのに、蝉の声が聞こえた気がした。

 これはただの心臓の音だというのに。


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