ハサミ女のはすみ先生

『不可思議な不審者事件、大量発生中につき、住人は警戒を!』


『2019年12月25日 神奈川県横浜市戸塚区の路上に令和の"口裂け女"出現!?』

『23時に塾から帰宅途中の女子高生A美さんが包丁のようなものに刺され重傷!』


『2020年1月7日 千葉県浦安市猫実の一般家庭に"メリーさん人形"出現!』

『自室で就寝前の女子中学生N子さんが意識不明の重態、未だ意識回復せず』


『2020年2月4日 埼玉県川越市松郷の住宅街に"人面犬"出現!』

『24時過ぎに複数の人が目撃。SNSを通じて写真が拡散中。被害者はなし』


『2020年2月14日 静岡県富士市比奈にて"きさらぎ駅"発生!』

『会社員のHさんがSNSで報告。以後、消息不明』


『オカルト関係者の間でこれらの現象を"フォークロア事件"と命名』

『短縮して"ロア"発生と呼称。以後、ロア関係の事件大量発生中』


『2020年2月29日 全世界に"閏年の魔"出現』

『詳細不明。2月29日を百日過ごしたものとされる。全世界より記憶消失』

『フォークロア事件として初の大規模事件』


『2020年3月3日 東京都東村山市栄町の交差点に"四辻の怪"出現!』

『近隣の小学生男女6名が三日間行方不明に。現在は心身ともに元気に帰宅済み』


 …………。


 2023年の現在も。

 

 ――記事は増え続けている。

 

 僕は『フォークロア事件まとめサイト:ロア速報★』をスマートフォンで見ながら、それらの事件を指でスクロールして見ていた。そこにはあまりオカルトに詳しくない僕でも知っている、怪異の名前たち。都市伝説や怪談の定番とされているものが『本当にあった事件』として列挙されていた。

 だいたい四年前からまとめられているけれど、コメントには『もっと前からいっぱいあった』というのも見かけたので、実際はずっと事件は続いていたのかもしれない。

 それにしても、オカルトをかじったことがあるだけの僕から見ても、見事なラインナップだった。


「『口裂け女』以外にも色んなのが載っているなあ……」


 2019年から現在にかけて、事件発生数は増加傾向にあった。

 そして僕は。

 

『2023年7月1日 東京都豊島区長崎にて"ハサミ女"が出現』


 フォークロア事件を解決している人が、そこにいることも知っていた。

 この記憶は時間を追うごとに、まるで夢の出来事だったかのように消えていく。

 だから僕は今のうちに、こうして記憶にある限りをこのサイトに書き込もうと思った。

 確かに僕は、この事件で"ハサミ女"に助けられて、そして――。

 

 これから記す物語は。

 

 いわゆる僕の初恋の物語である。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

【事件当日:23時 東京都豊島区長崎椎名町駅付近にて】


 その日のその時、僕は『人にあらざる者』に恋をした。


『口裂け女』の生首が、綺麗な放物線を描いて飛ぶと、そのまま歩道の上を三回ほど転がって、電信柱にぶつかって止まる。

 同時に信号が青になり、電子音のちゃちで音程のずれた不気味な『夕焼け小焼け』が流れた。23時を過ぎた人影のない道路に響く音は、なんだか物悲しい。

『口裂け女』だったものの生首。

 断面からは血ではなく黒い煙のようなものが漂っていて、下ではなく上に向かって伸びている。その先端はゆらゆらと不安定に揺れながら虚空に消えて。


『何が起きたのか分からない』


 そんな驚いた目をした彼女の視線と、きっと似たような表情を浮かべている僕の視線が交差した時には――。

 傷口から広がった黒い煙が彼女の頭全体を覆い、ふんわりと静かに、最初からそこには何もなかったかのように消滅してしまった。

 後に残っているはずの胴体を慌てて振り返ると、赤いワンピースに身を包んだそこそこグラマラスな背の高い肉体も同じように首の断面から黒い煙と化して消えていく。

 カランと乾いた音を立てて、血で錆びた包丁だけが残った。

 念のため言っておくが、僕が恋したのはこの殺された『口裂け女』ではない。

 

「ふう。『口裂け女』討伐完了」


 今、目の前で大立ち回りをした女性が一息ついた。

 彼女は『口裂け女』の手にした包丁の斬撃を全てヒラヒラと回避し、反撃のたった一撃で見事、首を刎ね飛ばしたのだ。

 女性の名は『はすみ』先生。

 それが苗字だったのか名前だったのかは忘れたけれど、学校の誰もが『教育実習生のはすみ先生』と親しげに呼ぶので、僕もその名前で覚えてしまっていた。

 僕がこの瞬間に恋をしたのは、正に彼女だった。


「大丈夫? 海野うみのくん」


 何事もなかったかのような顔で、腰を抜かしていた僕を気遣ってくれる。

 ピシッとした紺色のリクルートスーツは乱れることはなく、整った綺麗な顔立ちも汗ひとつかいていないクールなままの印象。セミロングの黒髪もつやつやでサラサラしていて、生徒たちが憧れている姿そのままだ。

 ただひとつ。圧倒的に違和感を覚えさせる謎の巨大ハサミを持っていることを除けば。

 両手で、それぞれのハサミの持ち手である輪の部分を握っている。先の方はクロスして、鋭利でギラギラした刃が伸びていた。長さは先生の身長くらいあるから、160センチとかそれくらいだろうか。暗闇に街灯を反射している姿は、なんとも言い難い禍々しい雰囲気を醸し出している。

 いつもの先生の姿でありながら、あり得ないほど異質な巨大ハサミ。

 あまりのミスマッチのせいで逆に整合性が取れて美しさすら感じて。

 僕の心はすっかり先生に囚われてしまっていたのだ。


「お話できる? こんばんは?」


 まるで、学校で普通に挨拶するみたいに落ち着いた声音で尋ねられる。

 見た目完璧美人である彼女の唯一の違和感、思った以上に声が高めで甘く柔らかいというのも魅力のひとつなわけだけど。こんな時間にこんな場所、こんな状況で普通に尋ねられてしまうと恐怖とか驚愕とか愕然とかそういうよく分からない感情でいっぱいになる。

 なんて応えていいか頭が追いつかない僕を気遣うように見て、はすみ先生は『パチン』とハサミをたたむと、安心させるように胸を張り。


「もう大丈夫、海野うみのほたるくん。悪いオバケは先生が退治したから」


 僕のフルネームを呼んで、現状を正確に教えてくれた。

 前から少し子供っぽい仕草をする先生だと思っていたけれど、まさかこんな化け物を退治した時まで自然体のままだとは。

 僕もなんとか声を振り絞って、返事をしてみる。


「え、あ、う、え、は、はさみ?」


 それでも言葉が出ず、ようやく口をついて出たのはその単語だった。


「私? あ、これか。大丈夫。こうすればコンパクトなハサミに戻るよ」


 ハサミの真ん中にあるボタンのようなものを押すと、ハサミから黒い煙が出て消えてしまう。……いや、消えたのではなく、普通の文房具サイズに小さくなって先生の右手に収まったのだ。

 さっきの生首や胴体が消えた時のような黒い煙。

 先生のハサミは、いや、先生本人が、さっきの『口裂け女』みたいなものなのかもしれない。つまり、あのハサミは首を切断するためのもので、次の犠牲者はもしかして僕だったりするのだろうか? そんな生命の危機を感じるほど、そこにある武器は正に恐怖を顕現していた。


「はすみ先生のハサミ、なんちゃって」


「え? あ、はい」


 たぶん冗談だったのだろうけれど、今の僕に笑っている余裕なんてない。

『口裂け女』があっさり殺されたのも驚いたし、先生がめっちゃ強いのも驚いたからだ。


「やっぱり、まだちょっと怖い? 分かった。先生がご馳走しましょう!」


 僕の内心に気付いているのかいないのか、はすみ先生は得意げに言うと辺りを見回した。

 その時になって僕もようやく気付く。少し離れた大きな道路からは車の行き交うような音が聞こえ、道には普通の人が数人、特に何も気にした様子もなく歩いている。

 さっきまでの誰もいない街ではなく、ごく当たり前の日常が帰って来ていた。

 

「この時間だとマクドしかないんで、マクドでいい?」


 そして一番非現実的だった先生が、一番一般的なお店の名前を出して。


「先生って関西の人だったんですか?」


「あ! 東の方だとマックって呼び方だっけ」


 先生は親しみ易いいつもの返しをしてくれた。

 なんにせよ、僕はどうにか生き延びることができたらしい。

 一時はどうなることかと思ったけれど、今は無事だ。


「ううう……」


 しかし、僕の心は晴れなかった。

 確かに命や体はまったくもって問題ないのだけど。


「どうしたの? お腹痛い? 便秘? お腹ピーピーかな?」


「大丈夫です! あと、高校生相手にそれはデリカシーがないです!」


「元気そうで良かったよ」

 

 先生はあくまで気さくに僕を心配してくれていた。

 恐怖空間にいた生徒を明るい冗談で気遣ってくれている……のだと信じたい。

 しかし、僕は本当に頭も、お腹も痛いような状態だった。


「先生って、ああいう化け物みたいなの、やっつける人なんですか?」


 思い切って尋ねてみると。

 

「そうだね。結構やっつけてるよ。そろそろ三桁キルかな」


 ものすごい数字を平然と言ってくれたりする。

 だんだん僕の緊張感は増して冷や汗も出てきた。

 

「あれ? ヤツの残した包丁は?」


 さっき『口裂け女』が落とした包丁のことを言っているのだろう。

 

「さ、さあ?」


 僕は白を切って視線を斜めに向けた。

 

「倒した時に消えてしまったのかな。まあ、ならいいか」


 先生はあっさりと納得すると、もう包丁の行方を探さなかった。

 僕はホッとすると同時に、罪悪感まで押し寄せて余計に色々痛くなる。

『口裂け女』の包丁は、僕のリュックサックの中にしまってある。

 さっきのどさくさに紛れて拾っておいたからだ。

 何故、そのようなことをしたのかと言えば……。

 

『そこの女を殺しなさい』


 耳元では低く不気味な声がずっと聞こえていた。

 

 ――こんなにも優しくて強い、そして恋焦がれたはすみ先生を。

 僕はこれから、殺さなきゃいけないようだ。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


【事件前日:16時 私立イリオス学園図書室にて】


 はすみ先生とよく話すようになったのは、僕が図書委員だったからだ。

『口裂け女』との戦いから、十日くらい前だったと思う。

 

「何か、都市伝説とか地域のオバケ伝承が載ってるような本、あるかな?」


 図書室で受付を担当していると、やってきた先生が唐突に尋ねてきた。以前から先生の現代国語の授業を受けていたので以前から顔は知っていたけれど、直接二人で話したのはこれが初めてで。


「はすみ先生って、オカルトが好きなんですか?」


「どちらかと言えば嫌いだけど、生きるのに必要なんだよね」


 あの時はそれが冗談だと思っていたものの、どうやらそのままの意味だったらしい。

 僕は知っている限りの本を紹介してみた。近隣の図書館や近所からの蔵書提供もあってか、我が伝統ある私立イリオス学園の図書室には結構古い本も揃っている。妖怪とか怪異とか、そういったおとぎ話みたいなものも結構揃っていた。単なるオカルト本かと思っていたけれど、民俗学とか考古学とかなんかの学問にとってはこういう資料も重要らしい。


「へえ。思ってたよりもいっぱいあるんだね。今日は一冊くらいしか読めないけど」


 先生が手にしていたのは分厚い『実録! 恐怖の都市伝説集』という、いかにもなタイトルのバラエティ本だ。全国から集められたオカルト話についての解説が載っている本なのだが、いかんせん内容が薄い。オカルト関係の本に一家言ある僕は、素人相手にマウントを取れる機会だとばかりに提案することにした。


「それよりもこの辺りのオバケとか怪談に詳しい本があったはずなんで、明日までに探しておきますよ」


 親切心でそう伝えると、先生は目元を緩めて嬉しそうに僕を見た。学校の生徒たちに人気なのが分かる、美しい笑顔。静かで落ち着いた大人の女性の佇まいに、男子だけでなく女子たちからも注目を集めていた。

 この時の僕はまだ、単に美人な教育実習生に親切にしたいだけだったので、恋心も下心も何もない純粋な図書委員だった。逆にそれが良かったのだろう。先生はそれから毎日のように図書室に足を運び、僕も当番の日ではなくても放課後には通うようになった。


「海野くんのおかげで、とても調査が捗っているよ。ありがとう」


 今にして思えば、先生は化け物退治の調査を全く隠していなかったように思う。当たり前のようにそういう話をしていた辺り、それほど秘密にしていなかった。

 だけどあの日の僕は全く気付かず、自分と趣味が似たこの先生に友情みたいなものを抱いていたのかもしれない。


「はすみ先生、これを使ってください」


 だから、栞を渡したのも単なる親切心だった。

 後で恋に落ちるのを知っていれば、もっとオシャレだったり可愛かったり、せめて押し花で彩ったような手間のかかった物を渡していたはずだ。

 だけど、僕が選んだのは本当に便利なだけの、青い短冊型の栞だった。アルミ製の金属で造られた、少し頑丈なだけの物。それは、図書室にカラーバリエーションがいっぱいある、いわば図書室の備品だ。

 強いて言えば黄色のリボンがアクセントとして付いているが、いかにも本に挟むだけが目的の代物。

 先生が栞を受け取って目を丸くしているので、僕はため息交じりに伝える。


「先生、学校で渡されたプリントを栞代わりに使っているでしょう。こないだ返却してもらった本に入っていましたよ」


 僕の指摘に、先生は「あっ」と思い出したように口を開けて、それから嬉しそうに手にした栞を見つめていた。横顔を見ていると確かに『あ、可愛いなこの人』と思っていたので、僕が恋に落ちる可能性は既にあったのかもしれない。


「なるほど、本に挟む、金属の栞、ね。なるほどなるほど」


 何に納得したのかは分からないけど、先生は何度も栞を眺めている。そして目を細めて僕をまた見ると。


「この青い色は、海野くんらしいね。名前が海をイメージさせるからかな。そういう意味だと、黄色いリボンも蛍を模しているみたいに見えるし。うん、いい思い出の品だよ」

 

 特に意味もなかったのに、そんな風に名前と関連付けられてしまうと照れくさくなる。色違いの栞は図書室にいくらでもあったのに、たまたま渡した物が僕の名前を連想させる思い出になるなんて、全く考慮していなかった。


「ふふっ、それにしても栞のプレゼントだなんて」


 とてもご満悦過ぎる様子なので、居心地の悪くなった僕は。

 照れ隠しも兼ねて先生に話したのだ。


「そこまで喜ばないでください、単なる備品です。それに、そろそろ帰らないと危ないですよ。最近、この近くには『口裂け女』が出るんですから」


 それは本当に、何も知らなかった頃の僕がたまたま話しただけだった。だけど、話を聞いた瞬間の先生は、露骨に顔色が変化したのだ。

 あんまり感情が表情に出ない人なのは知っていたけれど。その時ばかりは明らかに、強い興味を示していた。猫とか犬が、目の前に玩具をぶら下げたらすっごい見てくるようなあの感覚に近い。


「なにそれ、すっごい興味ある話だね!」


 語調まで強くなっていたので、僕は得意になってしまったのだろう。

 もしくは、このクールな美人と言われてるけれど、本当は素直で愛らしい先生を、少しは怖がらせたい。そういう意地悪の意図もあったのかもしれない。

 だから。

 『口裂け女』の噂話を、でっち上げた。


「夜の22時過ぎから24時くらいの間に、駅から少し離れた児童公園の脇に細い道路があるんですけど、そこに『口裂け女』が現れたらしいんです。赤いワンピースを着た背の高い、髪の長いマスクをした女性の姿で。たまたまその時間帯に近くを通りかかった塾帰りの女子高生が、話しかけられてしまって……」


「『わたし、綺麗?』みたいな?」


「そうです。女子高生も不気味に思ったものの、マスクで覆われていない目元はとても美人だったから『綺麗だと思いますよ』と返事したそうで。すると、女性はマスクを取って『これでも綺麗かー!?』と叫び。その口は頬を裂いて、耳の近くまで裂けていた……」


「おお、典型的だね。それでそれで?」


 先生は怖がるのではなく、むしろ興味津々の様子だった。本来は怖がらせるのが目的だったのに、すっかりエンターテインメントになってしまっている。だから、本来ならばこの後は『ポマード!』と女子高生が『口裂け女』の弱点である整髪料の名前を叫んだおかげで助かった――という流れのつもりだったのだが……。

 悪戯心を抱いた僕は、凄惨なパターンの方を伝えたのだ。


「女子高生は咄嗟に『口裂け女』の話を思い出して『ポマード!』と叫んだんです。ですが、現代の『口裂け女』には全く通じませんでした。女子高生はあえなく彼女に捕まってしまい、口を包丁で引き裂かれてしまったんです……!」


 まあまあ脚色してしまったが、もともとの『口裂け女』も概ねこんな感じの話だったはずだ。確か『ポマード』が効かないヤツも現れた、みたいな話を見たこともある。オカルトや都市伝説が好きなはすみ先生なら知っていたかもしれないが、この食いつき様なら意外とまだ押さえていない話だったのかもしれないな。


「なるほど。この街に現れるのは『ポマード』の呪文が効果がないヤツで、包丁で口を引き裂くタイプか」


 先生は顎に手を当てて真剣に考え込んでいた。

 もしかしたらこの時既に、どう戦えばいいのかを考慮していたのかもしれない。

 だけど、この時の僕は怖がらせることに失敗したと思って、更に余計な一言を付け足してしまったのだ。


「しかも、犠牲となった女子高生はまだ見つかっていないそうですよっ」


 最後は行方不明パターン。

 これも定番と言えば定番なのだが……。


「そうなんだ。それは大変だね」


 先生の目に映っているのは、それまでの愛らしい動物のような好奇心ではなく。

 怜悧で生真面目な……いや。

 どう殺せばいいのかをひたすらデジタルに考えている『殺人鬼』の目だった。

 それまでそこにいた可愛らしい女教師ではなく、何か物体的な無機物。

 それこそ、人を殺すための刃そのものみたいな。

 何人も人を斬り殺した日本刀は美しさと恐怖を同時に植え付けると言われている。

 今の先生の目は正に、それと同じように見えた。

 

「っ!」


 背中にゾクゾクとした寒気が走り、同時に何か触れてはいけないものに触れてしまったような、奇妙で居心地の悪い感覚に囚われる。僕の作り話のせいで、目の前にいる愛らしい先生の開いてはいけない扉を開いてしまったような、罪悪感めいたものも抱いて……。


「な、なんて、冗談ですけどね、すみません、そろそろ図書室を締めますので!」

 

 怖くなってしまったのを誤魔化すように、その日は慌てて図書室を締めた。先生はきょとんとしていたが特に疑うこともなく「またね」と挨拶をして去っていく。

 僕はと言えば早々に戸締まりを済ませると、駆け込むように帰宅した。

 ずっと頭からは先生の『目』が離れない。あまりにも冷たくて、あまりにも透明で、そしてあまりにも綺麗で。その美しさは圧倒的な『死』を連想させるものだった。

 もしもあの目に僕が映ってしまったら、それこそ殺されてしまう。

 そんな妄想に囚われ、それから僕は思い出しては震えるようになってしまい……。

 暫くは、バツが悪くなって図書室に行かなかった。当番の日も別の図書委員に代わってもらい、先生の授業でもなるべく目が合わないように過ごす。

 彼女を見る度に、恐怖を思い出してしまう。

 あの目は純粋な闇の深淵だ。

 深淵を覗き込もうとすれば、逆に深淵からも見られている……みたいな言葉もある。

 つまり、関わってはいけないと本能的に察した。


 そのまま先生と関わることなく日々を過ごし、一週間が経過した頃。

 もうすぐ、はすみ先生の教育実習期間が終了する辺りだと安心していたところで……。

 そのニュースが目に入ってきた。


『東京都豊島区長崎椎名町駅付近に"口裂け女"出現!? 私立イリオス学園の制服を着た女子生徒が行方不明に!!』

『衝撃の犯行の瞬間写真を公開! これが令和の口裂け女だ!』


 スマートフォンのおすすめ記事の欄に出てきたニュースを慌てて開いてみる。

 そこには公園の監視カメラで撮影したらしい写真が掲載されていた。

 色は白黒でよく分からないものの、背の高いワンピースの女が、我が校の制服を着ている女子生徒を襲っている姿が写っている。手には大きな包丁のようなものが握られており、逃げようとしている女子を掴んでいるような写真だった。


「え、なんだこれ……?」


 信じられない光景に、零した声は嗄れていた。

 自分が創作した『口裂け女』が実際に現れた?

 そこにある公園は、確かに僕が先生に話した場所だ。

 見覚えのある街並み、小さな横断歩道、信号機の付いた電信柱。

 どれも見知った特徴をそのまま写している。


「僕の話が現実になった? 僕のせいってことか? いやいや、そんなわけないっ」


 震える声で自分に言い聞かせたのだが、心のどこか……魂の部分では理解していたのかもしれない。

 この『口裂け女』は自分の作り話が生み出したもので。

 ――実際に被害者まで出してしまったのだ、と。

 その後、居ても立っても居られなくなった僕は、実際に写真が撮影された場所まで向かった。学校からそう離れていない場所なのもあり、放課後に向かえば二十分ほどで到着する。少し陽が傾いた頃は特に何もおかしい所はなかった。公園では子供たちがはしゃいでいる声が響き渡り、いかにも平和な住宅街の空気だ。

 だが、横断歩道の看板には『不審者を見かけたら即連絡を!』という言葉が書かれており、心臓がドクンと跳ねた。

 今はまだ『不審者』ということになっているのだろう。

 だけど、写真から感じた禍々しさは間違いない。

 アレは人間ではなく、もっと異質な何かだ。


「確か、僕は……22時から24時くらいに現れるって言ったよな」


 本当に僕の言った通りなのか確かめたいのもあって、ここからそう遠くない駅の近くにあるマクドナルドで時間を潰すことにした。四時間近くいるのは退屈ではあったが、家に帰ってしまうと取り返しのつかないような、そんな予感がしていたのだ。

 マックシェイクだけで時間を潰し、ようやく22時になったので横断歩道まで移動する。

 ごく普通に車が通り過ぎ、たまに歩いている人も見かけた。

 公園には何人かの人がベンチで休んだりしているし、駅から家に帰るらしき人影もちらほらと横断歩道を歩いている。なんてことのない、ごく普通の光景だ。

 だが。

 公園の時計が23時を過ぎた辺りで――。

 いきなり、まず音が消えた。

 人の歩く音、車の走る音、風の音すらも。

 いきなり訪れた静寂と共に、人影もすっかりなくなっている。

 ついさっきまで視線のどこかには誰かしらいたのに、今はどこを見回しても人影はない。

 ドクンドクンと波打つ心臓の鼓動が、耳に響く。


「はあ、はあ、はあ……」


 自分の荒い息遣いもうるさいくらいに響いていた。

 この空間で音を発しているのは、実在しているのは僕一人だけ。

 膠着状態のような時間が数分続いて……。

 

 ザッ。

 

 誰かが背後から近付いてくる足音が聞こえた。

 とても嫌な予感はしていたのだが、振り返る以外の選択肢がない。

 それほど、静寂というのは人の心を追い詰める。

 そしてそこには、予想通り。

 本当に『口裂け女』が現れたのだ。

 赤いワンピースを着た、マスクをした長い髪の背の高い女性。

 彼女はゆっくりと足音を立てて近付いてくる。

 僕はこのまま、この自分が生み出した化け物に殺されてしまうのだろうか。

 僕と話ができるくらいの距離に近付くと、マスク越しにもよく分かるくらいに不気味で奇妙な笑みを浮かべていた。

 僕は『わたし綺麗?』という質問が来ると思い、身構える。

 整髪料の名前が通じないという設定を作ったのは僕だったので、この質問を上手く回避することでしか生き延びる術はないと判断したからだ。

 だがそいつは、僕に質問などしてこなかった。

 僕の腕を掴んで体をぐいっと引き寄せると、僕の耳元にマスクに覆われた口を近付けて、もっと禍々しい言葉を囁く。


『もっと私の噂を広めないと、貴方の家族や友達から殺していくわ』


 それはある意味、殺されるよりも恐ろしい脅迫だった。

 この化け物は、僕に共犯になれと言っているのだ。

 自分が行方不明にする生贄を捧げろと。

 そうしなければ、家族や友人を殺害すると。

 僕が言葉も出ないほど怖がっていると――。

 気がつけば、人の気配も車の音も戻ってきていた。

 周りを見回しても、あの『口裂け女』はいない。

 もしかしたら夢でも見ていたのか?

 そんな希望は、誰かがこちらを見ているのが視線の端に映ったことで打ち破られた。

 電信柱の裏手。

 そこで、暗い顔をした制服姿の女子が、じっとりと僕を見つめている。

 目は真っ黒に塗り潰されていて、とても人間の瞳には思えない。

 その口元は、無惨にも引き裂かれて血を流していた。

 あれでは会話なんてできないだろう。だが、意識だけはハッキリと伝わってきた。


『貴方を許さない』


 あまりの恐怖に、僕はわけも分からず走り出していた。

 それからのことはよく覚えていない。

 どんな道を通ったのか全く分からないくらい、逃げるように家に帰っていた。

 一刻も早く布団にくるまってガタガタ震えたかった。

 泣きながら誰かに助けを求めたくて仕方なくなった。

 だが、僕がとった行動はもっと奇怪なものだった。

 部屋に戻った僕は、真っ先に机にあるノートパソコンを開くと、インターネットブラウザを立ち上げた。

 そして。

 頭と感情と体が全部恐怖でおかしくなってしまっていたのだろう。

 僕は匿名で、色んな場所に僕の創作話を投稿しまくっていた。


『令和の口裂け女出現! 場所は東京都豊島区長崎椎名町駅付近の――』


 学校の裏掲示板、街の情報板、匿名のSNS、オカルト情報収集サイト、などなど。

 考えられる限りの様々な場所に僕は書き込みを続けていた。

 何故なら、ずっと耳元に聞こえていたからだ。

 

『私の噂をもっと広めなさい』


 そう。

『口裂け女』に取り憑かれてしまった僕は、ただただ従うしかなかったのだ。


 三日後。

 

 行方不明者の数は……犠牲者は三名も増えてしまっていた。

 それは明らかに、僕の仕業だった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


【事件当日:23時 東京都豊島区長崎椎名町駅付近にて】



 このように、圧倒的なまでの恐怖存在『口裂け女』。

 それをあっさりと無傷で仕留めてしまったのが、目の前にいるはすみ先生だった。

 ――先生の戦う姿は、とても美しかった。

 巨大なハサミを巧みに使いこなし、かなりアクロバティックな動きで『口裂け女』の攻撃を回避。そしてスキを突いて、ハサミでズバッと首を切断したのだ。戦闘時間は一分にも満たなかったと思う。

 だけど、あの恐怖存在を圧倒したこと。

 そしてあまりに現実離れした戦い方。

 僕自身が元凶であるという罪悪感――。

 様々な感情がないまぜになって、僕は先生に恋をした。

 そんな初めての感情に震えていたというのに、僕は先生を殺さなければならない。


『女を殺せば、また私は蘇るわ。早く殺しなさい……』


『口裂け女』の声は、今もなお僕の耳元でずっと囁き続けているからだ。

 先生が退治しただけでは消滅しなかったのか、それとも僕の頭がおかしくなってしまい、声がずっと聞こえてしまっているだけなのか。

 後者なら有り難いが。

 

「この公園を通り抜けるのがマクドまでの近道みたいだ」


 先生はスマートフォンのマップに集中している。

 右手には小さくなったハサミを持っていて、指を通した状態で器用に画面をスライドさせている。無防備な背中は、巨大ハサミを振り回していたとは思えないほど小柄だ。

 リュックサックのジッパーは開けてある。

 後はこっそり包丁を取り出して突き刺せばいいだけ。

 先生は音が戻ったことで完全に油断しているだろう。

 だけど、僕の視界の端には常に見えていた。

 電信柱の影、公園の木陰、ベンチの下、茂みの向こう。

 暗がりにいる四人の犠牲者たちが真っ黒な瞳と裂けた口で僕をじっと見張っているのだ。

 僕のせいで行方不明になった少女たちは、元凶である僕を恨んでいるのだろう。

 激しい怒りと憎悪の籠もった視線で僕をひたすら見つめている。


『好きな人を殺せば、彼女もずっと貴方を見てくれるわよ?』


 耳元の声は甘く優しい声音になっていた。

 誘惑としてはあまりに悪質なものだったが、僕の罪悪感を削るためのものなのだろう。

 すっかりヤツの言葉に乗せられるような形で、僕は先生の背中との距離を詰めていく。

 先生が犠牲者たちみたいに恨めしそうな目を僕に向けてくれることなんて、もちろん望んでなどいない。

 だけど、視線の五人目が先生であれば僕は喜んでしまうのかもしれない。

 もしかしたらこの『口裂け女』も先生の声でずっと囁いてくれるかもしれない。

 だったら、この恋する人を殺害するという行為は正当化される。

 それがまともな判断でないことは、頭の片隅で理解していた。

 だというのに、僕にはそれが正義になっていたんだ。

 先生の背中は目の前だ。

 サラサラのセミロングの髪、その下辺りに包丁を突き刺せばいい。

 それだけで全ては取り返しがつかなくなり、僕の恋も永遠になる。


「ああいうの、いっぱい倒してるって言ってましたね」


 油断を煽るために、僕は平然と尋ねてみた。

 先生はまだスマートフォンのマップを見るのに集中している。

 今から顔を上げて僕を見て、それからハサミを構えたとしても僕がひと刺しする方が絶対的に速い。


「うん、そうだよ」


 先生は顔を起こすこともなく、目の前をのんびりと歩いていた。

 集中しているからだろう。辺りからは再び音が一切なくなっていて、僕と先生しかいなくなっていることに気付いていない。

 後は取り出したこの包丁を、先生の背中に突き刺すだけ。

 思いっきり深く突き刺せば、あまり苦しまないで死んでくれるだろうか?

 いざ、切っ先を先生に向けると、僕の心は恐怖以外の高揚に支配された。

 絶対にやってはいけない、取り返しがつかない、やればもう戻れない。

 それがとても理解できるからこそ、興奮してやらずにはいられなくなる感覚。

 本の中で殺人鬼が、人を殺す度に性的興奮をする描写があった。

 つまりこれは、先生と僕の愛の作業なのか。

 

『まずは右手に握ったままのハサミを落とせば、抵抗できないわ』


 耳元の囁きは冷静に次の手を指示してくれる。

 僕はあまりに強い興奮状態だったため、思考なんて全て放棄してしまっていた。

 単にこれを先生に突き刺して、早く気持ち良くなりたい。

 体中が、細胞のひとつひとつに至るまで、その欲望に満たされる。


「じゃあ、人間退治はどうなんですか?」


 先生の左肩に左手を置いて、彼女の体を固定。

 その時、僕は強く願った。

 殺される瞬間の先生の顔が見たい、と。

 だから、思いっきり肩を引っ張ってこちらを向かせた。

 

「えっ――」


 先生はとても驚いていた。

 いつもの澄ました顔には、動揺すら浮かんでいる。

 本当に、心の底から油断していたのだろう。

 薄く開いた唇の艶めかしさと、見開いた瞳の反射が、やっぱりとても綺麗で。

 まず僕は、右手に握られていたハサミを包丁で叩き落とした。

 サクッとハサミは公園の地面に突き刺さり、先生の手から離れる。

 それと同時に、返す手で胸の膨らみの下辺り、みぞおちに目掛けて包丁を突き刺す。

 先生は無防備で抵抗もない。

 全てがスローモーションに感じられた。

 切っ先がスーツの生地に触れる。

 スーツの繊維をぷちぷちと切り裂く小さな感触すら明確だ。

 この先にはシャツがあり、下着もあるのだろう。そしてその先には皮膚があり、血管があり、細胞があって、臓器に達する。

 衣服を構成する糸のひとつひとつが切れていくのが、脳に刺激として届く。

 本当は、この時間はごく一瞬だったに違いない。

 だというのに、僕は認識の世界で本当に長い時間をかけて先生を突き刺していた。

 ああ、もうすぐ先生の体を貫いてしまう。

 そうなった時、僕は一体どうなってしまうのか?

 あまりの悦びで、死んでしまうのではないか?

 だったらその最高の恍惚を早く得たい!

 そんな妄想でいっぱいだった時。

 

 想像もしていなかった感触で、包丁が停止した。

 

 この切っ先にあるのは衣服の繊維であり、それを貫けば肉体にまで届くはずだった。

 だと言うのに、包丁の先端に触れたこれは……金属?

 勢い良く突き刺した『口裂け女』の包丁は、先生の服の内側にあった謎の金属によって完全に停止させられていた。


「っ!?」


 スローモーションだった時間が一気に戻ってくる。

 先生は目をぱちぱちと瞬かせて、僕の顔と包丁を交互に見ていた。


「なるほど。海野くんの中に本体が取り憑いてたのか」

 

 彼女の納得した吐息が、僕の頬にかかった時。

 信じられないほどの後悔が僕の胸に怒涛のように押し寄せる。

 それはそうだ。

 恋する人、仲良くなった先生を包丁で突き刺したのだから後悔して当たり前だ。


「先生! これは、あの、その! いえ、えっと、だから!」


 大混乱している僕は、まともな言葉すら浮かんで来ない。

 支離滅裂に、ただ意味もなく叫ぶだけだ。

 僕の……包丁を握っている手を、先生はそっと左手で包んでくれる。


「人間退治はしていないよ。特に生徒は助けるものだからね」


 バシン! と激しい衝撃を受けて、僕の体が後ろに吹き飛ぶ。

 先生に攻撃されたのかと思って慌てて見てみたが、そうではない。

 さっきまで僕がいた場所には、いつの間にか『口裂け女』が包丁を握った手を先生に掴まれた状態で立っていた。


「えっ?」


 意味が分からない。さっきまでそこにいたのは確かに僕だったはずだ。なのに、そこには今、苦しそうに震えている『口裂け女』と、平然とした顔の先生がいるだけで。包丁も、全く先生に突き刺さっていなかった。


「さすが、先生……胸に何か金属を仕込んでいたんですね?」


 僕がようやく声を出すと、先生は敵と掴み合っているというのに首を振って。


「キミの、生徒の愛が助けてくれただけだよ」


 と、意味の分からないことを言う。


『死ねええええええええ!!』


 僕らの会話を無視して『口裂け女』が奇声を上げた。

 だが、先生は彼女を冷めた視線で見つめると「ふう」とため息を吐いて。


「同じのを殺してもキルカウントは増えないんだけど、仕方ないか」


 事もなげに『口裂け女』の体をひょいっとスルーしてかわすと、先生はハサミを拾わずに胸ポケットに右手を入れた。そこから取り出したのは……あれは……。

 僕が先生にプレゼントした、アルミ製の栞……?

 まさかあんな物が、僕の包丁を止めたのか?


「私は"ハサミ女"の"ロア"だから――」


 先生は僕の栞を人差し指と中指の間にと。


ものなら、なんでも武器にできるんだよね!」


 手にしていた栞で『口裂け女』に切り付けた。

 栞のメタリックな青色が街灯に反射し、まるで弧を描いたような青い軌跡を描くと『口裂け女』の首を綺麗に両断する。

 栞は本に物。

 だから『ハサミ女』の武器になる。

 無理矢理な理屈を、先生の強さは押し通していた。

 再び、僕の目には『口裂け女』の生首が綺麗な放物線を描いて飛ぶのが見えた。

 そのまま公園の地面を三回ほど転がって、木にぶつかって止まる。

『口裂け女』だったものの生首。

 断面からはやはり大量の黒い煙が溢れていた。

『何が起きたのか分からない』、そんな目をした彼女の視線と、安心で泣きそうになっている僕の視線が交差する。

 見ていると、口がパクパクと不気味に動いた。


『お前をずっと許さない』


 声にならない最期の言葉は、僕の頭にしっかりと植え付けられた。

 それはきっと、毎晩恐怖の思い出となって僕を苛むのだろう。

 元はと言えば僕が生み出してしまった"ロア"だ。

 それが罰なのだとしたら……とても怖いし絶望的だけど……仕方ない。

 

「ふう。今度こそ『口裂け女』討伐完了」


 先生は栞を指に挟んだまま、僕の方を見てくれた。

 その眼差しは柔らかくて優しくて、やっぱり泣きそうになってしまう。


「キミのくれた栞のおかげで、生き延びたよ。ありがとうね」


 先生は地面に倒れたままの僕のためにしゃがんで視線を落として。

 優しく頭を撫でてくれた。

 温かい手の感触は確かに安心を与えてくれたけれど。

 だけど僕の耳にはもうずっと『口裂け女』の最期の言葉が響いている。

 だから目からはただひたすら、ボロボロと涙が溢れて止まらなかった。

 

「心配しないで。私は"ハサミ女"だから、なんでもチョキチョキ切り取ることができる。それは、キミの記憶や因果も一緒。キミが『口裂け女』を生み出してしまったという現実も、無かったことにできるから」


 まさか、そんな夢みたいなことができるなんて。

 先生は本当に凄い人だと、一気に希望と感謝で胸が満たされる。


「私との出会いも全部消えちゃうけどね。海野くんの栞とても嬉しかった。ありがと」


 だけど、それは僕の恋の終わりも意味していた。

 先生との出会いが全て消える。それはとても寂しくて、つらいことだ。

 こうして仲良くなったのも、憧れたのも、恋をしたのも。

 全部、消えてしまうというのか。


「せ、先生、僕は、あの、先生のこと! 先生のこと――!」


 言いたい言葉は、それ以上出て来なかった。

 先生は優しい目で僕を見て、僕を撫でていた手でチョキを作る。

 そして、僕の頭の先から何かが出ていて、それを切り取るかのように動かすと。


「バイバイ、海野蛍くん。先生、驚いたよ。なんせ先生の本名は、本当は――」


 先生は最後に自分の本名を耳打ちしてくれた。

 だけどその名を、僕は覚えていられない。

 だからこそ悪戯っぽい、見たこともないような満面の笑みを見せているのだろう。

 なんとか先生だけでも覚えていたい。せめて、この恋心だけでも。

 そう強く願っていても。

 

「ちょきん、とね」


 愛らしい言葉が僕の耳に届くと同時に――。

 意識を失って、視界は真っ暗に染まった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


【事件後:16時 私立イリオス学園図書室にて】



 後日談。僕の記憶は即座に消えるものではなかった。

 因果の切断というものがどういう効果だったのかは分からないけれど『口裂け女』の噂話を聞く度に、はすみ先生のことを思い出せたのだ。だからあの事件から三日過ぎた今も、こうして彼女と僕の記録を残すことができている。

 だが、立つ鳥跡を濁さずと言うべきか。はすみ先生のことは、生徒たちの記憶から完全に消えてしまっていた。なんなら『教育実習生なんてこの学校には来ない』とまで教師に言われてしまう始末。先生が一体何者で、どうしてこの学校に来ていたのかすら不明だし、この違和感も僕は忘れてしまうのだろう。それが残念でならない。

 だから僕は、たまたま見つけたこの『フォークロア事件まとめサイト:ロア速報★』のページに、覚えている限りを記していた。かなり記憶に抜けがあるので、犠牲者たちがどうなったのか、僕はどうしてあの日あの場所にいたのか。そして何故そこに、たまたま先生が来たのか。全ては確かめる術がない。

 こうして記憶を漁っている今も、もう先生の顔も思い出せないのだから切ないものだ。

 だけど、この恋心だけは願い通り消えていなかった。

 図書室にあった備品の栞。

 アルミ製の金属でできたそれ。

 中に青いものを見つけた時に郷愁のような強い気持ちと同時に、不思議な先生に抱いた感情も戻ってきた。

 ここで誰かと、仲良く会話した。

 その人にこの栞をプレゼントした。

 

 そしてその人に、僕は恋をした。


 いずれこの感傷も全て霞のように消えてしまうのだろう。

 だから、せめてもの抵抗として栞を取り出し、指でなぞってみる。

 すると、ちょうど先端の辺りに小さな傷が出来ていることに気が付いた。

 

「この傷は……」


 不意に、柔らかく笑う誰かの甘い声が聞こえたような気がして。

 僕の初恋の記憶は、図書室の静かな空気に消えていくのだった。



          She was definitely there and left with good memories of you.

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