鮫の王

 かつての世界では、癌や脳卒中、心臓病といった病気が死因ランキングの常連だった。

では2406年現在、主たる死因はなんだろう? ……そんな簡単な質問をしたら、きっと子供にだって馬鹿にされてしまう。性別・年齢・地域に関わらず、長期にわたりランキングトップを独占し続けている死因。

 ――それはもちろん“鮫による外傷”だ。

 そう、鮫。またの名をシャーク。海で暴れたり、頭がたくさんあったり、高速できりもみ回転したりする、あの鮫だ。

 サメといえば最強・最凶・最狂の三拍子が揃う、言わずと知れた絶対王者。

 襲われたら決して無事ではいられない。どこかの大学教授が発表した文献によれば『鮫に襲われた人間が助かる確率』は、1%にも満たないという。


「……つまり俺は、99%死ぬってわけだ」


 絶望的な数値を呟きながら、目つきの悪い青年はどす黒い血を吐いた。

 場所はスラム街の路地裏。天気は雨。気温は10度を下回る。水はけの悪い石畳にぐったりと倒れたまま、青年は現状の分析をする。

 内臓がだいぶやられている。骨は数本折れている。右腕は捻じれて自由が利かないし、少し離れた高架下に、ちぎれた脚が落ちている。事態はかなり深刻だった。

 ……それじゃあ、あいつはどうだ? 俺を襲ったあいつのほうは?

 目の筋肉をどうにか動かし、青年はそいつの巨体を睨む。ドロドロの粘液に覆われた巨体の鮫が、雨に打たれて小刻みに痙攣を続けていた。


「絶対……先にくたばるもんか。勝つのは俺だ……」


 もはやそれだけが、青年の生きるモチベーション。とはいえ肉体はとうに限界を迎えていて、軽い走馬灯すら見えかけていた。

 危険なのは分かっていた。雨の日に外に出るっていうのは、こういうことだ。しかも連日の雨。歴史に残る大豪雨の中だ。

 水ある所に鮫が出る――それが世界の常識だ。海は桁外れに危険だが、陸地といえども安心は出来ない。地上鮫ランド・シャークは、ごく一般的な変異鮫だ。

 しかし通常、地上鮫の性質は比較的大人しい。サイズも小さく、普段は人目につかない場所でネズミでも食べながらじっとしている。

 ところが雨が降ったら話は違う。水を吸った鮫の身体は何十倍にも膨れ上がり、人間を襲うまでに狂暴化する。だから人々は、雨の日には外に出ない。このスラム街の人々ですら、大雨の日は廃墟に閉じこもって内側から防水シートに釘を打つ。どこの誰だって、雨の日の外出が自殺行為だと知っているのだ。

 では何故外に出たかと言うと――簡単だ。青年は配達業を生業にしているのだが、雨の日の配達料は笑ってしまうほど高いのだ。しかも連日の雨ともなれば、食料の備蓄も尽きてくる。命がけで配達をする人間は滅多にいないし、結果として相場は跳ね上がる。どんなに法外な値段でも、依頼がじゃんじゃん舞い込んでくるのだ。

 これでも一応、対策はしていた。海や川はもちろん、水たまりの出来やすい場所には近づかない。少しでも異変を察知したらすぐ逃げる。闇ルートで買った護身用の拳銃を、いつでも取り出せるように隠しておく。

 ……結果から言えば、それらは全く無意味だったわけなのだが。

 やつが隠れていたのは、地下に張り巡らされた用水路の中だった。いくらスラム街とは言え、さすがに用水路ともなれば鮫対策のために頑丈なコンクリートで固めてある。だから何の問題もない……はずだった。

 異変に気付いたのは、地響きのような轟音が響いて、激しい衝撃とともに地面が割れ、片脚が吹き飛んだあとだった。極度に巨大化した鮫が、分厚いコンクリートを打ち砕いて地上に出現していたのだ。

 見上げるほどに大きなそいつは、全身が真っ黒なヘドロやゴミで覆われていた。禍々しさすら感じるそいつを一目見て、すぐに勝てないと直感した。

 けれど、そのまま無抵抗で喰われるのは癪だった。

 だから青年は銃を構え、たった1発だけの銃弾を放った。全身がヘドロまみれだったから、銃弾がどこに当たったのかは分からない。けれど、どうやら奇跡的に急所を直撃したらしい。そいつは攻撃をやめてのたうち回り、やがてビクビクと痙攣を始めた。

 ――そして、今。

 青年は、自らの生命活動が終わりを迎えるのを実感していた。全身が冷え切って、肺に酸素が入っていかない。小刻みに黒目が震えて、全てのものが二重に見える。


「……俺の、負けだな……」


 すでに声は形にならない。ひゅうと虚しく息が漏れる音さえ、雨音に負けて消えてゆく。瞼を開く体力すら失って、青年は静かに目を閉じた――その時だ。


「――鮫は死んだよ。お兄さんの勝ちだ」


 聞きなれない声が、青年の鼓膜を振るわせた。

 最期の力を振り絞り、どうにか瞼をこじ開ける。目の前に倒れる、山のような巨体の頂上に――白い軍服を身に纏った、見知らぬ少女が立っていた。


「すごいね」


「……誰だ」


 巨体からぴょんと飛び降りると、少女はしゃがんで青年の顔を覗き込んだ。

 ぼやけて見えるせいかもしれないが、かなり美人の部類だろう。どこか外国の血が入っているのかもしれない。ボリュームのある金髪を一本に結わえた、17歳ぐらいの女だった。


「私は医者だ。だから、今からお兄さんを診察する」


 そんなことを言いながら、少女はボロボロになった身体に触れる。スプーンのような道具で傷を掻き出し、曲がった腕を引っ張り、ちぎれた脚を見て「あーあ」と呟いた。


「うーん……これは致命傷!」


 うるせえ、そんなの見れば分かるんだよ。力なく睨みつける青年をよそに、少女は滑らかに“診察結果”を話し始めた。


「出血がひどすぎる。内臓がほとんど壊れてる。骨折ぐらいはどうにでもなるけど、ちぎれた傷口が汚すぎて再接着は困難。ほんと、意識があるのが不思議なぐらい」


「…………」


「つまり、現代医学で治療は不可能! 残念だけど、死ぬしかないね。弱っちい人間ごときに耐えられる怪我じゃないし、こればかりはしょうがない」


 この少女はわざわざ死にかけの人間に、こんなことを伝えるために現れたのだろうか?

 怒る気力もなく呆然としていると、突然少女は笑顔を浮かべ。


「つまり何が言いたいのかっていうと――」


 ざあざあ降りの雨の中、青年に顔を近づけてそっと耳元で囁いた。


「お兄さん――“鮫”になる覚悟はある?」


 ***


 世界各地で奇妙な鮫による人的被害が報告され始めたのは、陸地の8割超が海に沈んだ、およそ20年後のことだった。

 とある東の海上都市に、突然、のろのろと四足歩行する鮫が出現したのだ。人々は驚き、すぐさま銃で射殺した。翌日また現れたから、もちろん同じように射殺した。そんなことが数日間続いた。しかし1週間後、現れた鮫は少し様子が違っていた。

 その鮫には、銃が効かなかった。急所を撃っても、びくともしない。住民はパニックになって逃げ惑った。すると鮫は立ち上がり、もの凄いスピードで追いかけてきたと言う。

 程なくして、その都市の人間は全てが食い尽くされてしまった。後の研究によって、鮫は銃撃に対応するために、急所の皮膚を何十倍にも厚くしていたと判明した。

 その研究結果は、世界中に衝撃を与えた。

 つまり鮫は、たった1週間のうちにしていたのだ。通常なら何万年、何百万年、あるいはそれ以上の時間がかかるはずのことを……たった1週間で。

 どうやら世界中の鮫は、突然変異を促進するウイルスのようなものに感染しているらしかった。それによって高度生命体にしては異常とも言えるスピードで変異・進化し、まるで陸地時代のB級映画に出てくるような奇妙奇天烈な鮫の存在が、空想ではなく現実のものとなっていた。そして困ったことに――それらは総じて凶暴だった。 


 ***


「――おはようございます。やっと起きましたね、シロワニさん」


 柔らかな声音が、ふんわりと青年の目覚めを包み込む。

 電球の眩しさに顔をしかめ、青年は何度か瞬きをした。やがて、ゆっくりと焦点が合ってくる。声の主は、白いワンピースを着た10歳ぐらいの可愛らしい女の子だった。

 手を握ってみてくださいと言われたので、言われるがまま握りしめる。柔らかい。いくつか簡単な計算問題を出されたので、素直に答える。

 すると女の子は、ほっと安心したような笑みを浮かべた。



「よかった! 大丈夫そうですね、シロワニさん」


「そのー……さっきから言ってる、シロワニ? ……ってのは、何のことだ?」


「お兄さんの新しいお名前ですよ。カグラさんが付けた、とっておきのコードネームです」


「カグラさん? 君は?」


「わたしはラブカ。シロワニさんと同じ、カグラさんに命を救われた存在です」


 そう言いながら少女は立ち上がり「カグラさんを呼んできます」と微笑んだ。

 ぱたぱたと遠くなってゆく足音を聞きながら青年――シロワニは、どうにか状況を飲み込もうと必死に頭を働かせる。

 はっきりと覚えているのは、自分が鮫に襲われて死にかけていた瞬間までだ。


(……そうだ。たしか、医者を名乗る変な女が現れて、もう助からないとか言われて……)


 それで――最後に“何か”を告げられたのだ。

 もうほとんど意識が無くなっていたから、はっきりと内容は覚えていない。でも何か、自分にとってとても重要なことだった気がしてならない。

 ……あれから、どれぐらいの時間が経過したのだろう? 

 ゆっくりと半身を起こし、シロワニは周囲を見渡した。

 自分が寝ていたのは、無機質な金属製の台だった。台に直接擦り切れたタオルを敷いただけの、簡易的なベッド。周囲には大量の本や薬品、機械のようなものが散乱している。なんとなく病院なのかと思っていたが、どちらかと言えば研究室のような雰囲気だ。

 そうやって辺りを見回しているうちにシロワニは、ちぎれて無くなったはずの脚が再生していることに気が付いた。恐る恐る指先に力を込めると……しっかりと動く。多少強張るが、痛くもない。


「治ってる……?」


 信じられない思いで、シロワニはぽつりと呟いた。

 つまり、自分はあの女に助けられたのだ。世話を焼いてくれたのは、あのラブカという女の子だろう。最先端の医療技術を駆使したのか、あるいは根気強く治療を続けてくれたのか……いずれにしても、ありがたいことだ。

 次に頭をよぎったのは、悲しいことに医療費のことだった。

 これだけの治療だ、かなり高額の請求がされるだろう。保険になんて入っていないから、払える見込みはゼロに近い。


「……参った」


 シロワニの視線は、無意識のうちに出口を探していた。逃げるなら今のうちだ。我ながら恩知らずにも程があるが、背に腹は代えられない。

 出口はすぐに見つかった。金属製の大きな自動ドアが、向かいの壁に付いている。さっそく逃げようと腰を浮かせた瞬間――自動ドアがゆっくりと開く。


「やあ、お兄さん――いや、シロワニ。生まれ変わった気分はいかが?」


 軍服に白衣を羽織った金髪の女が、真っ赤な棒つきキャンディーを舐めながら颯爽と登場した。間違いない、あの雨の日に出会った女だ。


「私はカグラ=レインウォーター。シロワニの命の恩人で、このアジトの――」


 挙動不審に彷徨さまようシロワニの視線に気づいたのか、女はわずかに肩をすくめて苦笑する。


「……ま、そう急がずに。これからシロワニには、話さなきゃいけないことが沢山あるんだ」


 逃走失敗。シロワニはがっくりとうな垂れる。

 そんなシロワニの前に腰かけて、カグラ=レインウォーターは衝撃的な言葉を吐いた。


「単刀直入に言うと、お兄さんはもう普通の人間じゃない」


「は?」


「鮫人間だ」


 そう言いながら白衣のポケットから手鏡を取り出し、シロワニの鼻先に突き付けた。


「……⁉」


 愕然とする。

 鏡の向こうにいる人物は、自分であって自分でない。

 口元からこぼれるのは、ギザギザと尖った歯の並び。明らかに人間のそれではない。視線だけで人を殺してしまいそうな、怪物じみた三白眼にギョッとする。

 もともと人相は悪かったが、最早そんなレベルじゃない。混乱と戸惑いが渦巻く中、ようやく口をついて出たのは、場違いなほど現実的な言葉だった。


「……こんな強面こわもてじゃ、配達先の玄関を開けてもらえない……」


「なんだ、そんなことか」


 予想外のセリフだったのか、カグラがフフッと笑い出す。

 あまりに軽い反応に、シロワニはムッとしながら抗議した。


「客商売なんだ、こっちは! 配達に行って、受け取り拒否でもされたら――」


「鮫人間は配達なんてしなくていいよ」


「配達が出来なきゃ、治療費だって払えないんだぞ!」


「……今さら、そんなことを言われても困る」


 キャンディーで頬を膨らませながら、カグラは困ったように肩をすくめた。


「私は聞いた。鮫になる覚悟はあるのかと。それで、お兄さんは頷いた。うん……たぶん頷いていた。突然、首がガクッってなってたし」


「……それは気絶ってやつじゃないのか」


「ま、まあ! この際どっちでもいいっしょ! ……てか、見た目に関してはどうにでもなるの。定期的に抑制剤を摂取してたら、人間みたいな外見に抑えられるからね」


 カグラはついさっきまで舐めていた棒つきキャンディーを、無防備なシロワニの口に突っ込んだ。口の中が少女の体温で満たされて、甘ったるい血のような味が広がった。

 間もなくして、牙が縮み、筋肉が鎮静し、ゆるやかに人間の肉体に変化していくのを実感する。なるほど、このキャンディーが抑制剤だったのか。

 ほっと胸を撫でおろすシロワニを見つめながら、切り替えるようにカグラが言った。


「シロワニには“ヘドロザメ”の心臓を移植した」


 眉をひそめるシロワニに、カグラが1冊の本を手渡してきた。鮫の絵がたくさん載った、図鑑のような分厚い本だ。そのうちの1つ――黒い粘膜で覆われた巨大な鮫を指差しながら、カグラは淡々と説明を続ける。


「シロワニを襲ったあの鮫だよ。素体ベースは古代種のオオメジロザメ――淡水でも生息出来る人食い鮫の一種だ。変異度はⅣa・危険度はⅤb。排水管や下水に溜まったゴミやヘドロを纏うことで変異を続け……やがて驚異的な獰猛さと再生力を宿した鮫となる」


「そいつの心臓が……俺の中に?」


「人体再生治療は難易度が高い。最新設備や一流技術だけじゃ不十分で、特別に再生力の高い、新鮮な鮫細胞が必要となる……運が良かったね、シロワニ。きみの命を繋いだのは、どれだけ取り除いても蓄積を続ける――しつこいヘドロの遺伝子だよ」


 にわかには信じられなくて、シロワニは自分の胸に手を当てた。

 ドクドクとした心臓の鼓動がありありと感じ取れる。自分の内側にもう1つの生命体がいるような、そんな奇妙な違和感を覚えながらシロワニはカグラに向き直った。


「助けてくれたことは礼を言う。でも……タダってわけにはいかないだろう?」


「察しがいいね」


 ふふっと笑って、カグラはもう1本キャンディーを取り出しガリガリと齧った。


「シロワニに施した治療の、法的根拠は“特例法”と呼ばれるものだ。生命の危険がある場合に限り、鮫細胞を利用して、肉体の修復・強化を行っても良いという法律だけど……特例法の適用には、ひとつ守らなければいけない条件がある」


 カグラは人差し指をぴんと伸ばし、シロワニの胸を軽くつついて言葉を続けた。


「貴重な鮫細胞は、国にとっても重要な資源。それを使わせてもらうわけだから……特例法の適用者は、軍に所属し、民衆のために鮫退治をする義務がある」


 そう言いながら、カグラは羽織りの白衣を脱ぎ捨てた。彼女が纏う純白の軍服には、鮫をかたどった重厚な紋章が輝いている。


「この部隊のリーダーは私。さっきのラブカを始めとして、他にもメンバーはいるんだけど……困ったことに、ちょうど戦闘員が不足していてね。シロワニには私たちの部隊の戦闘員として働いてもらいたい」


「……拒否権は?」


「あると言ったら、嘘になるね」


 あははと悪戯っぽく笑いながら、カグラは大きく伸びをした。

 そしてぴょんと立ち上がりシロワニの顔を覗き込むと、調子を変えて明るい雰囲気でこう言った。


「まあ、安心してほしいな! 治療費は請求しないし、最低限の衣食住は保障出来る。たしかに危険と隣り合わせだけど、慣れれば抜群に稼げるよ。鮫をいっぱい倒して、美味しいものでも食べに行こ?」


 にこっと笑って、シロワニに手を差し出して来た。

 願ってもない条件だ。治療費の不安から急激に解き放たれたシロワニは、気付けば安堵の息を吐き、カグラの手をしっかりと握り返しているのだった。


 ***


 シロワニが負傷した用水路付近は、すでに修復工事が始まっていた。

 地盤の破損は、都市沈没の原因となる。だから通常の工事よりも優先して修復が行われるのだ。もうこの世界に、天然の島や大陸は数えるほどしか残っていない。

 22世紀初頭に加速化した海面上昇に伴って、各国は人工島造成に巨額の予算を投じ始めた。やがて必ず訪れる“海の時代”を生き抜くために、人類は全く新たな居住地区を作り出したのだ。

 ここは、日本領・第18海上都市“松風マツカゼ”。

 浮島構造の一般的な海上大地メガフロートであり、人口200万人程度の中規模海上都市として知られている。

 この国の中心は、ほんのわずかに残った大地のひとつ――霊峰・富士の頂上だ。現在では“第1都市・桐壺キリツボ”と呼ばれている富士の島を基盤として、いくつもの海上都市が蓮花のように連なり国家を作る。

 ほとんどの海上都市は、同一の浮島構造により成り立っている。それはすなわち、海に浮かんだ都市基盤となる“海層”と、都市中心部から伸びた巨大エレベーター・タワー上に広がる“空層”から成る二層構造の浮島だ。

 もともと海層地域は、美しい自然に囲まれた高級リゾートとして開発された。しかし鮫の侵攻によって立場は逆転。空層は限られた身分の人間しか住むことが許されない特級居住区となり、海層の――特に海岸から1㎞以内の地域は、危険に満ちたスラムと化した。


「……いつかは行ってみたいよな、空層ってやつに」


 空高く伸び、雲に突き刺さったエレベーター・タワーを眺めながら、シロワニはぽつりと呟いた。


「順調に仕事が進めば夢じゃないよ。まあ、でも私なら――」


 傍らを歩くカグラが、悪戯っぽくにやりと笑う。


「自分だけの海上都市を作るけどね!」


 棒つきキャンディーをくるくると器用に回しながら、少女は軽い足取りで石畳を歩いてゆく。

 リハビリも兼ねた外出は、シロワニにとって悪くない気晴らしだった。久しぶりに見た空は突き抜けるような快晴で、数日前の悲劇が嘘のように感じられる。

 それでも横を歩く少女の存在こそが、変わってしまった現実の紛れもない証拠だ。


「……ところでシロワニ。人前では鮫になっちゃダメだよ」


 声をひそめてカグラが言い、タバコ型の抑制剤を渡しながら「ちゃんと吸って」と囁いた。タバコに火をつけて煙を吸えば、どこか血なまぐさい匂いが肺の中に充満する。


「私たちの部隊は、発足したての秘密部隊なんだ。関係者ですら知らない場合も多い。だから極力、目立つ行動は控えるように」


 慣れない味に顔をしかめるシロワニをよそに、カグラがキャンディーをがりがりと齧った。抑制剤の形状は自由に選べるそうだが、カグラ曰く「シロワニが可愛いキャンディーとか舐めてたら悪目立ちするから」との理由でタバコが選択されていた。


「……それを舐めてるってことは……つまり、君も鮫人間なのか?」


 声を潜めながら、ずっと気になっていた疑問をカグラにぶつける。すると少女はあっさりと頷き「もちろん」と答えた。


「私のパパってさ、けっこう有名な大学教授なの。13歳の時だったかな? フィールドワークに着いて行った先で、酷い事故に遭って……それでパパが治療してくれたんだ」


「俺と同じような治療を?」


「そ。けっこう賛否両論あったみたい……私は、感謝してるんだけどね」


 遠い目をして空を見上げるカグラは、少しだけ寂しそうな表情をしていた。

 親が大学教授ということは、きっと彼女は空層出身のエリートだ。そんな人間が今、どうして海層のスラム街を拠点として活動するようになったのか――あまり深く考えるのは、彼女の内面に土足で踏み込むようなものだろうか。

 もともと失うものなど無かった自分とは、別種の苦しみがあったに違いない。

 結局シロワニは大して追求することが出来ないまま、その話題を打ち切った。少し印象の変わったカグラの横顔をちらりと見遣り、ようやく慣れてきた煙草の煙をゆるやかに吐く。

 ――奇妙な物音に気付いたのは、その時だ。

 キィキィという、蝶番が軋むような耳障りな音だ。音の出所は、道沿いに建つ廃工場。カグラも違和感に気付いたようで、立ち止まってアジトとの通信を始める。


「――聞こえる、ラブカ?」


『――はい。この音は……たぶん、ネジザメの亜種ですね』


「危険度は?」


『せいぜいⅣa……いえ、音からして小型種なので恐らくⅢかと』


「それは丁度いい!」


 ラブカとの通信を切ったカグラは、くるりと振り返って上機嫌でシロワニに告げる。


「それじゃシロワニ……さっそく、実戦といこうか!」


 ***


 打ち捨てられた工場内部は、酸化したオイルの匂いが充満していた。


「急に実戦と言われても――」


 錆びつき軋んだ床を歩きながら、シロワニはカグラの背中に声を掛ける。


「戦い方が分からないのだが。武器らしい武器も持ってないし、まだ体が鈍ってる」


「こういうのはさ、荒療治が一番なんだよ! 差し迫った必要性を感じないと、せっかくの能力も眠ったまんま」


 ゆるい調子でそう答えて、カグラはずんずんと歩みを進める。

 突き当たりのドアを開けた瞬間、強烈な異臭が鼻をつく。錆びた機械からオイルが漏れ出て、床に大きな油溜まりを作っていた。


「これが鮫の発生源か……」


 呆れたように言いながら、カグラは機械の裏側へと回った。

 ドア付近に立ち尽くしたまま、シロワニはカグラが戻るのを待った。しかし、しばらく待っても戻らない。やがてキィキィという耳障りな音が、無視できないほど大きくなってゆく。

 ギョッと身を固くして、シロワニは音の方向に目を向けた。


「……ッ‼」


 金属板をランダムに溶接したような、歪な形の鮫がそこにいた。体調は1メートルほど。最も特徴的なのは、顔面の中心から伸びる電動ドライバーのように尖った鼻だ。鈍色の無機質な目でシロワニを捉え、威嚇するように鼻をキュインと高速回転させている。


「カグラ! 鮫が出たぞ!」


 慌てて叫ぶが、応答がない。シロワニの声だけが、廃墟にむなしく反響する。何度呼んでも結果は同じ。藁をも掴む思いで、シロワニはアジトとの通信を入れた。


「――聞こえるか、ラブカ⁉ カグラが消えた!」


『ええ⁉』


 素っ頓狂な声を上げて、ラブカが焦った様子で指示を出す。


『そ、それは困りました! えーと……わたしは駆けつけられないので、シロワニさんが頑張って倒してください!』


「いやいや、無理だ! だいたい、こいつは何なんだ⁉ こんなメカメカしい鮫……聞いたこともないんだが!」


『大丈夫、わたしがサポートしますから! ちょっと情報を送りますね』


 腕に装着した通信機器が光り、敵とよく似た鮫の絵が空中画面上に投影される。


『――ネジザメの亜種、コガタネジマキザメです。最大の特徴は、回転するドリルのような鼻。これで標的を串刺しにして、穴だらけにするわけです』


「……こいつも、ウイルスに感染した鮫が変異してるのか?」


『うーん……さすが、いい所に気付きますね。実は、これはちょっと特殊なパターンなんです。具体的に言うと、ウイルスに感染したスクリュードライバーが鮫化したような感じで』


「そんなことある⁉」


『いやー、びっくりですよね! 変異鮫はまだまだ分からないことだらけです。だからこそ興味深いのですが……とにかく、ネジザメ全般は物理攻撃に耐性があります。弱点は動作不良を引き起こす、水と高温――』


 ――ザシュッ。


 突然、腹の辺りに衝撃が走った。

 恐る恐る、シロワニは視線を下へ向ける。高速回転する鮫の鼻が、シロワニの下腹部に突き刺さり、グリグリと肉をえぐっていた。


「……ッ!」


 衝撃的なビジュアルに、強烈な吐き気とともに眩暈めまいがした。

 しかし精神的なショックとは対照的に――シロワニの肉体は意外なほど“平常”だった。


(……なぜだ? こんな大怪我をして……なぜ俺は、平気な顔で立っていられる⁉)


 異常事態に、シロワニの脳は混乱していた。

 やがて傷口から、ドロドロとした黒いヘドロのようなものが湧き上がる。ヘドロは地球外生命体のように脈打ちながら、腹部に空いた大穴をしっかりと塞いだ。

 弾力のあるヘドロに押し出され、コガタネジマキザメは勢いよく床に叩きつけられる。素早く体勢を持ち直した変異鮫は、困惑した様子でシロワニを睨んだ。


「――ラブカ! なんか、傷口から出てきたんだけど⁉」


『……ああ、ごめんなさい。電波が悪いみたいです! とにかくシロワニさん、心臓だけは死守してくださいね! ファイトです!』


 その言葉を最後に、アジトとの通信は途絶えてしまった。


「……1人で戦えってことかよ……」


 怒り狂う変異鮫を前にして、シロワニの首筋を冷たい汗が流れ落ちた。

 改めて実感する。もう、己が普通の人間ではないのだと。

 ……正直ショックだが、今はそんなことも言っていられない。普通の人間でないのなら、きっと勝ち目があるはずだ。

 手のひらを見つめ、ぐっと拳を握りしめる。筋肉収縮に伴い、前腕の毛穴という毛穴から磁性体のようなヘドロが大量に飛び出して来た。飛びかかってきた変異鮫をギリギリのところで避けながら、シロワニは必死に状況を整理する。


(……力を込めた部分から、このヘドロが出てくるんだ。それなら……)


 蠢くヘドロに意識を集中させる。シロワニの意思に従って、ヘドロは急旋回を開始した。

 そうやって試行錯誤しているうちに、シロワニは自由自在にヘドロを操ることが出来るようになってゆく。手足のように器用な動きをすることはもちろん、伸ばしたヘドロを柱に絡め、空中を飛び回ることにも慣れてきた。

 しかし……まだ足りない。これだけでは、あの強靭な変異鮫を倒すことは出来ないのだ。


(……そういや、ラブカが言ってたな。あいつの弱点は、水と高温――)


 激しい攻撃を避けながら、シロワニは周囲に目を走らせた。油に濡れた工場内に、水の気配は一切ない。そうなると、残された手段は……。


(高温……ってわけだ)


 結論に達し、シロワニは胸ポケットからライターを取り出す。

 これをオイル溜まりに投げ入れれば、激しく爆発するだろう。同時に分厚いヘドロで全身を包み込み、その耐久性にすべてを賭ける――あいつを倒すには、これしかない!

 突進してくる変異鮫に、シロワニはライターを突き付けた。指先に力を込め、火を点けようとした――その瞬間。


「……あ」


 一瞬の躊躇。

 このまま大爆発を引き起こせば、どこかに捕らわれたカグラまで怪我をしてしまう――迷いが生まれ、動きが止まる。

 変異鮫は、そのチャンスを見逃さなかった。キィキィと耳障りな声で笑いながら、回転速度を急速に上げ、シロワニの心臓めがけて飛び込んできた。


「……クソッ!」


 ダメだ、間に合わない! 

 体勢を崩し、無防備な心臓を守ることも出来ず……シロワニは反射的に目を閉じた。


「――75点」


 シロワニと変異鮫との間――わずかな隙間に、がゆらりと現れた。

 空間に溶けてゆくように、光学迷彩が剥がれ落ちてゆく。そうして何もなかったはずの空気中に、ひとりの少女が出現した。

 金髪をポニーテールに結わえた、白い軍服を着た少女だ。少女はちらりとシロワニを振り返ると、透き通った碧眼を細めて嬉しそうに微笑んだ。


「……なんだけど……心配してくれたから、5点加算! 合格点だよ、シロワニ!」


「カグラ……」


 コガタネジマキザメに両腕を絡ませ自由を奪うと、カグラは落ち着いた様子で、その金属質の身体の隙間に注射器で水を注入する。

 変化が生じたのは、わずか数秒後のことだった。変異鮫は壊れたような金属音を響かせてのたうち回り、やがて全身が錆びて動かなくなった。


「……どう、驚いた?」


 鮫の死体を踏みつけながら、カグラは得意げに微笑んだ。


「私に移植されたのは、ミミック・オクトパスから変異した擬態鮫ミミック・シャークの細胞だよ。なかなか、面白い力でしょ?」


「……ずっと見ていたのか?」


「うん。ずっと近くにいた。さすがにさ、ここで死なれたら困っちゃうもん」


「……おかげで寿命が縮んだぞ」


「ふふ、大成功だね! シロワニは能力を扱えるようになったみたいだし……」


 すっかり錆びた鮫に目を遣りながら、カグラは目を輝かせ。


「ネジザメ系の変異鮫は、武器にも加工出来るから高く売れるの! ちょっと錆びちゃったけど、内側には使える部分もあるはずだし……今夜はご馳走が食べられるね!」


 浮かれた様子でハイタッチを求めてきた。

 そうして、シロワニにとって初めての実戦は幕を下ろす。

 夕飯に食べた、カグラおすすめのクラゲパイは……悔しいことに、心が震えるほどの美味しさだった。


 ***


 それからの毎日は順調で、ときどき外に出ては変異鮫と戦って、安定した報酬を得る日々を過ごしていた。能力の扱いにもだいぶ慣れて、危険度Ⅲ以下の鮫相手であればシロワニ1人でも無理なく対応出来るまでに成長した。

 鮫の死体を担いで街まで売りに行くのは、いつもシロワニの役目だった。

 秘密部隊とはいえ軍の組織なのだから、それなりにコネやパイプでもありそうなものなのに……指定されるのは、決まって民間の寂れた取引所だった。

 政府の取引所よりも、ずっとレートが高いのだとカグラは言った。


「……はい、まいど。いつも有難うね~」


 今日もシロワニは、朝一で顔見知りの職員に鮫を売る。

 死体と引き換えに受け取ったのは、高級クラゲパイが20個買えるほどの報酬だ。配達員時代の収入と比べたら雲泥の差だが、それでも命をかけて戦った成果としては、決して高くはないだろう。

 だから今日の午後、シロワニは新たなステップへ進むことになっていた。


「……ねえ、きみ。最近すごいね!」


 取引所の出口で、知らない男に声を掛けられる。スラムには不釣り合いなほど上質なスーツに身を包んだ、20代中盤のいかにも優秀そうな男だった。


「噂を聞いたよ。毎日のように鮫を持ってくる青年がいるんだって」


「うん? ……まあ、軍に所属させてもらってるし、仕事だから……」


 シロワニは上の空で応答する。

 なにせ午後から、はじめての“海中探索”をするのだ。落ち着いてなどいられない。


「……軍? どこの部隊?」


 しかし男は、俄然興味を持ったように身を乗り出してくる。


「ん? カグラ=レインウォーターの……」


 うっかり答えかけたところで、カグラから口酸っぱく言われていた言葉を思い出す――秘密部隊なんだから簡単に身分を明かしちゃダメだよ、シロワニ?


「……いや、なんでもない。急いでるから、また今度」


 慌てて話題を切り上げて、シロワニは足早に帰宅する。

 頭の中は海中探索で一杯で、数分後には謎の男の存在などすっかり忘れてしまっていた。


***


「――それじゃあシロワニ、心の準備は大丈夫?」


 小型ボートの縁に腰かけて、カグラは小さく首を傾げた。ゆらゆらと揺れるボートのすぐ下は、吸い込まれそうなほど深い青色が広がっている。


「この辺りの海域には、第11海上都市“花散里ハナチルサト”が沈んでる。日本古来の文化を大切にする……とっても綺麗な街だったんだってさ」


 もともと日本には54の海上都市が存在した。しかしいくつかの都市は鮫によって修復不能な被害を受けて、現在では深海に沈んでしまっている。花散里も、そのひとつだ。

 沈没した人工島には、貴重な資源が眠っている。新たな人工島建設や、武器作成に必要不可欠なレアメタルやレアアース――今回の海中探索の目的は、それらを持ち帰ることだ。

 カグラが海に飛び込もうとする気配を感じ、シロワニは思わず「あっ」と叫ぶ。不思議そうに振り返った少女に、シロワニは慌てて指摘をする。


「潜水服を忘れている!」


 世界が水没してから飛躍的に進化した潜水服は、旧時代のモデルと比較すると見違えるぐらいスマートだ。全身を覆う透明な膜のようなデザインで、この膜が海水から酸素を作り出す。振動から音声を再現することも出来るので、意思疎通用のホワイトボードも必要ない。

 そんな画期的なデザインだから、つい着用を忘れてしまうのも無理はないが……。


「鮫に襲われる前に、溺れて死ぬぞ」


 真剣な表情で忠告したシロワニの顔を、カグラはしばらくぽかんと見つめ。


「……シロワニ? 潜水服を着た鮫を見たことがある?」


 けらけら笑い出したかと思うと、シロワニの手を引っぱって、そのまま海へとダイブした。


(…………ッ‼)


 ばしゃん。

 細かく砕けた空気の粒が、ふたりの身体を包み込む。ひんやりとした海水は、心地よい羊水のように肌に馴染んだ。輝く帯となった陽光を浴びて、カラフルな魚たちが泳いでいる。

 思わず手を伸ばしてみれば、彼らは逃げずにシロワニをくるくる囲んで泳ぎ出した。


(ここが……あの、誰もが恐れる“海”なのか……)


 息を呑むほど美しい。シロワニはしばらく任務を忘れ、夢のような光景に浸っていた。

 やがてカグラに先導されて、深海への潜水を開始する。

 泳ぎに自信は無かったけれど、何の問題もなく自由自在に水中を移動することが出来た。この遊泳能力も、きっと鮫の心臓を移植した影響なのだろう。

 潜水を続けてようやく到着した沈没都市は、想像以上に本来の姿を保っていた。

 伝統的な石塀に囲まれた、風情のある小路。瓦屋根の民家に混ざって、趣のあるおでん屋の看板なんかが並んでいる。

 今にも人々の話し声や、作り立ての夕飯の匂いが立ち込めてきそうな錯覚に陥る。

 町並みを肌で感じながら大通りに移動して、カグラに指示された通りに採掘をした。任務は概ね順調で、1時間が経つ頃にはレアメタルでバッグがいっぱいになっていた。


「そろそろ浮上しようか、シロワニ」


 すっかり満足したような表情で、カグラが任務の完了を知らせる。

 本当はもう少しだけ、海に包まれていたい気持ちがあった。しかし滞在時間が長ければ、

それだけ危険な鮫に襲われるリスクも上がる。まあ仕方ないかと浮上を開始した瞬間――何かが爆ぜるような音が響いて、目の前でカグラが血を吐いた。


(……襲撃か⁉)


 シロワニはとっさに振り返る。金属質のクジラに似た不気味な物体が、すぐ目と鼻の先に浮かんでいた。腹部にある歯車のような装置が回転し、それに対応してヒレ部分の円筒が狙いを定めるように動いている。銃口のようだ。カグラはあれに撃たれたのだ。

 これもまた、機械から変異したネジザメの一種だろうか? ……シロワニは初め、そう思った。しかし何か、言葉に出来ない違和感がある。違和感の原因を探ろうとそいつをじっと見つめていると、突然、口の部分があんぐりと開いた。


「……⁉」


 中から出現したのは、ガラス張りの操縦席コックピットだ。

 よく見れば側面に、軍のマークが刻まれている。ここに来てシロワニは、それが変異鮫の一種ではなく、軍所有の潜水艦であることに気が付いた。

 操縦席には男が1人座っていた。あの顔には見覚えがある。今朝、民間の鮫取引所で話しかけてきた、エリート風の男性だ。


「――興味深い案件があるので来てみたら……」


 男の声が、潜水艦に取り付けられたスピーカーから水中に響く。男はシロワニに向かって白々しく会釈をしたあと、苦しむカグラに視線を移す。


「まさか君に会えるとは。久しぶりだね、カグラちゃん」


「……お前は……!」


 撃たれた腹を押さえたまま、カグラがさっと顔色を変える。命に別状は無いだろうが、かなり痛そうだ。おそらくカグラは、ヘドロザメほどの再生力を持っていないのだ。


「……カグラ、あいつと知り合いなのか?」


「……ガスタ=ユスリカ。パパの裁判で派遣されてきた、軍選弁護士」


「裁判?」


「大怪我をした私に……認可を受けてない、研究中の治療をしたことが問題になったの。そのときに弁護を買って出たのが、あの男。でも……あいつはわざと負けた。不利な証拠、でっちあげの証拠ばかりを悪用して、パパを陥れたんだ」


 鬼の形相で睨みつけるカグラの言葉を、男――ガスタは肩をすくめて否定する。


「カグラちゃん、言葉は正しく使いなさい。きみはもう死んでいたし、きみのお父様のやったことは治療じゃなくて死体窃盗および死体損壊。残酷な命への冒涜だ」


「違う! 私は死んでなんていなかった! あの時の私は低体温で、極度に心拍数が落ちていて……それであのヤブ医者が、死亡判断を誤った。裁判前に何度も証言したはず。それなのに、お前は――」


「でもねえ、書類上死んでるの。そういう事になってるの。法律は絶対のルールなわけ。つまり戸籍も持たず、鮫の細胞を宿したカグラちゃんは……法律上、ただの鮫。鮫は殺しても、なんの罪にも問われな~い!」


 嬉しそうに叫びながら、ガスタはまたしてもカグラに向かって砲撃した。砲弾は右足を直撃し、カグラは激痛に顔を歪める。


「――なにやら、複雑な事情があるのは分かったが!」


 とっさにカグラを庇うように両手を広げ、シロワニは男に向かって叫ぶ。


「その後、いろいろあって同じ軍に所属することになったわけだろ? だったら、こんな所で争うべきじゃない! こんな――」


「……ハァ」


 必死に訴えるシロワニを憐れむような目で見下ろして、ガスタはこれ見よがしにため息をついた。


「可哀想に。君も、まんまと騙されて」


「……何の話だ」


んだよ、カグラ=レインウォーターの所属する部隊なんて。彼女は軍をことで、君みたいに無知な人間を信用させ、良いように利用したんだ」


「……⁉」


 ギョッとして、シロワニはカグラの方を振り向いた。

 カグラのことだ。こんなふざけた嘘をつかれたら、怒って即座に否定してくるはず。

 ……しかしカグラは俯いたまま動かない。青ざめたまま唇を噛んで、シロワニと目を合わそうともしない。

 その反応に、シロワニは真実が何かを一瞬で悟った。


「……本当なのか。あいつの話は」


 静かに問うと、カグラは小さく頷いて。


「……パパが投獄されたあと」


 ぽつりぽつりと、震える声を絞り出す。


「戸籍もなくなって、何者でもなくなった私は……パパの研究日誌を持って、スラムに逃げたの。あいつらに、この研究を渡しちゃいけないと思ったから。それで、独学で技術を身に着けて……瀕死の人の、再生を――」


「ハイ、自白~‼」


 潜水艦の中ではしゃぎながら、ガスタがこちらを指差した。


「取りました、言質取りました! あいつはやっぱり、父親未満の犯罪者! あ、戸籍もないから犯罪者にすらなれないか? うーん、それじゃあ……」


「お前は少し黙って――!」


 あまりの煩さに、シロワニは舌打ちをして男を睨む。

 ――その時だ。潜水艦の背後から、ゆらりと大きな影が現れるのが見えたのは。

 声を上げる間もなく、そいつは潜水艦に噛みついた。

 頑丈な潜水艦が大破して、金属の欠片が海中に舞う。


「……⁉」


 巨大な――いや、巨大という言葉では言い表せないほど、規格外の大きさの鮫がそこにいた。全身が見えないから、正確な体長は分からない。ただ少なくとも50メートル以上はあるだろう。本能的な畏怖を感じずにはいられない、あまりに雄大な姿だった。

 ザザッという雑音に続いて、耳元の通信装置からラブカの声が聞こえてくる。


『大丈夫ですか、シロワニさん⁉ 周囲のレーダーが、異常な鮫影を観測しています』


 ラブカの声には余裕がなかった。いくつか鮫の特徴を告げると、ラブカは息を呑んだ様子で少しの間、黙り込む。


『……それは恐らく、メガメガロドンです。絶滅種である古代鮫・メガロドンの成長抑制因子を壊し、さらに巨大化するよう変異した……とても珍しい種類の鮫』


「対処法は?」


『逃げる者を獲物だと思う性質があるので、背中を向けることは厳禁です。メガメガロドンの変異部分は体長サイズに限局しています。特殊な能力はありませんから、心臓を真っ二つに引き裂けば倒せるでしょう。ただし……』


 そこで、ラブカがわずかに言いよどむ。


『大きいということは、それだけで非常に危険なのです。まず心臓まで武器を届けるのが困難ですし……それに中途半端に痛めつけたら、余計に狂暴化してしまう。そうなったら、もう手が付けられません。倒すチャンスは、たった1度きりと思った方がいいでしょう』


「一度の攻撃で仕留めろ……か」


 奥歯を噛んで、シロワニは真剣に考え込んだ。

 中途半端な攻撃は出来ない。ならばラブカの言う通り、一撃で仕留めなければならないが……まともな武器はなく、頼れるのは己だけ。


「……ねえ~! ちょっと、鮫人間くん!」


 壊れた潜水艦から這い出たガスタが、シロワニの脚にすがりついてきた。なんだこいつ、生きていたのか……うんざりしながら足元を見ると、ガスタは泣きそうな顔で懇願する。


「助けてくれ! こんな場所で鮫に喰われて死ぬなんて、あまりにも僕が可哀想だ!」


 潜水服を着ているようで窒息はしていない。しかし、あまりにも無防備だ。


「……なぜ助ける義務がある。さんざん強そうな言葉を吐いておいて、鎧を脱いだらこのザマだ。俺は、ダサい男は大嫌いだ」


 そう言い捨てて、男の頭を軽く蹴る。しかしガスタは、それでもしつこく言い寄ってくる。


「そう言わないでさあ! ねえ鮫人間くん、それなら司法取引をしようよ」


「……司法取引?」


「ここであいつを倒したら、君に空層の居住権をあげよう。僕みたいな上級国民の口利きがないと、とても手に入らない権利だよ? どうだい、悪くない話だろう?」


「……そんなもの、俺はいらない。その代わり……あいつを倒したら、カグラに新しい戸籍を作ってくれ」


「はああーん⁉ なんでよ、なんであいつに――」


「じゃあ助けない。このまま喰われて死ねばいい」


「……ッ……分かったよ、分かりました! 鮫人間くんの言う通りにする! あいつを倒してくれたら、カグラちゃんの戸籍を作ります! 約束は守るよ、法律家だもん。僕にだってプライドは――」


「……ってわけで、ラブカ? 今の言葉、ちゃんと録音したな?」


『はいっ! わたしたちの通信は、常に高音質でアジトに保存してあります♪』


 歌うようなラブカの声に、ガスタは小さく舌打ちをした。


「……抜け目のないヤツめ」


 気持ちを切り替えて、シロワニはメガメガロドンに向き直る。

 改めて見ると、やはり足がすくむほどの大きさだ。中途半端な攻撃では倒せない、相応の覚悟が必要だ。


「……カグラ、ひとつだけ教えてほしい」


 戦闘の直前――俯いたままの少女に問う。


「あの日、俺をヘドロザメに襲わせたのも……君なのか?」


「……ッ! 違う! 断じて、それはないと誓う‼」


「……そうか。それじゃあ、何も変わらないな」


 軽く微笑み、震えるガスタに視線を向けた。


「そこの男。俺のことを、さんざん鮫人間と呼んでくれたが……そんな呼び名で、俺を呼ぶな。俺にはちゃんと名前がある。命の恩人に貰った、大切な名だ」


 続けて、巨大鮫に視線を移す。悠々と泳ぐ、あいつの心臓だけが標的だ。


「覚えておけ。俺の名前は――シロワニだッ‼」


 大声で宣言し、シロワニは全身の筋肉に力を込めた。

 脚、胴体、腕――毛穴という毛穴から、大量のヘドロが湧き上がる。そのまま力を込め続けたら、やがてヘドロ同士がくっついて、ひとつの大きな球体となった。

 生物のように蠢く、漆黒の艶やかな球体だ。その表面にわずかに触れると、触れた部分が渦巻いた。何かが、急速に形作られてゆく。

 やがて組みあがったのは、巨大な剣だ。シロワニの身長の何倍もある、鋭利に研ぎ澄まされた、漆黒の刃ヘドロ――それを両手で握りしめ、シロワニはゆっくりと息を吸った。

 目を閉じれば、心臓の音が聞こえてくる。どくん、どくん。あの巨大な肉体全体に血を巡らせる、化け物じみた心臓ポンプの音。どくん、どくん。狙いを定めろ、確実に。チャンスは、たった一度きり――。


「――そこだッ‼」


 覚悟を決め、一気に剣を振り下ろす。

 刃が、滑らかに肉を引き裂く感覚があった。剣先が巨大な心臓を捉え、真っ二つに切断する。おびただしい量の血液が噴出し、深海を鮮やかに染め上げた。

 切断されたメガメガロドンは、ほんの一瞬、うめくような声をあげた。しかし間もなく動かなくなり、海底へドスンと倒れ込む。舞い踊る砂を眺めながら、シロワニは足の力が抜けるのを感じていた。


「……倒した……」


 ぽつりと呟く。自分でも、まだ信じられなかった。


「倒した……やったぞ、カグラ!」


「……やるじゃん、シロワニ。さすが……うちの、自慢のメンバーだよ」


 親指を立てて、カグラがにっこりと微笑んだ。

 少し泣いているようにも思えたが……どんな顔をすれば良いか分からないので、気付かないふりをしておいた。


 ***


 カグラの怪我は、1週間かけてゆっくりと治った。

 約束した、カグラの戸籍については審査中だ。ただ少なくとも、ガスタ=ユスリカによって申請はされたことを確認している。

 あの男はヘタレのクズだが、こちらに弱みを握られていては妙な動きも出来ないはず。あいつはその程度の臆病者だ。


「……ね、シロワニ? ちょっと行きたいとこがあるんだけど……一緒に来てくれない?」


 ある日。カグラに連れられ、シロワニは小高い丘に来ていた。

 見晴らしがよく、真正面に海が見える。瑞々しい葉を輝かせる樹木や、可愛らしい花々が辺り一面に生えている。その中に、小さな石碑が立っていた。


「……やっと来れたよ、パパ」


 柔らかく微笑み、カグラは石碑にちょっと上質なクラゲパイを供える。


(例の父親……亡くなっていたのか……)


 石碑に手を合わせたカグラの横顔は穏やかだった。

 その横顔を見て、ふと思う。なぜカグラは、父親の真似をして再生治療など始めたのだろう。軍から逃げるだけならば、そんな手間を掛ける必要など無かったはずだ。


(……まあ、でも。たぶん……)


 答えは、すぐに頭に浮かんだ。

 カグラは居場所が欲しかったのだ。家族を失い、人間社会そのものから弾き出され、孤独に思い悩んだ少女が出した結論――きっとそれが、死にかけた人間を“鮫”にして救い、共に戦うという選択だったのだ。まあ……これも結局、憶測の域を出ないのだが。


「……カグラ」


「ん?」


 つい呼びかけてしまってから、何もセリフを考えていないことに気付いて焦る。

 伝えたい言葉はあった。君の居場所はここにある。俺の居場所もここにある――でも、いざ改まって言おうとすると、口が痒くてとても言えない。

 そのまま、しばらく照れ臭さと格闘していたが……やはり打ち勝つことは出来なかった。

 不思議そうに首をかしげたカグラを直視できず、シロワニは目を逸らしながら、どうにか言葉を紡ぎ出す。


「……明日も、明後日も――俺と一緒に、鮫を狩ろう」


 世界には、まだまだたくさんの鮫がいる。

 だから、この日々はいつまでも続く。それで良いのだ。いつか世界中の鮫をすべて倒し切り――平和な世界で、自分自身が鮫の王に至るまで。


「……っ!」


 透き通ったスカイブルーの瞳が、はっと驚いたように見開かれた。

 色白な頬に、桜色の紅潮が浮かぶ。目をきょろきょろさせながら、カグラは石碑にこっそりと話しかけた。


「……ぱ、パパ? 今の聞いた? 私、プロポーズされちゃったかも……」


「へ? いやいやいや、そういう話じゃ――」


「違うの? もしかして年下は嫌い?」


「いや、だから! 違う――」


「あはは! シロワニ、照れてる~!」


 ――ケラケラと笑いながら、丘の上を楽しげに駆け回る少女。

 ――顔を赤くしながら少女を追いかけ、必死に否定する青年。

 他愛のない日常を繰り広げる二人の姿を――海だけが優しく見守っていた。

MF文庫J evo

Close