第一話 あたし、レンジャーになります!(1)
「よっしゃぁぁあッ!」とその場で叫ばなかったのは、我ながら自制心が働いたものだと思う。それくらいの、喜びが。確かに胸のうちにこみ上げてきた。
「小牧三曹、落ち着け」
机を挟んだ先に座る、呆れたような
「なにが、ですか」
小牧
「おまえはなぁ、すぐ顔に出んだよ。顔に」
「え、そうですか?」
自分の顔を両手でぺたぺたと触ってみる。しまりのない、だらしなくゆるんだ口元。陶芸をするみたいに、慌てて顔回りを触って、引き締まった表情に整える。
その様子を、尾花二尉はじとっとした目で見ていたけれど、一つ息を吐くと、こめかみを掻きながら話を元に戻した。
「まぁ、自分でも分かってただろうがな。選抜のデキも悪くなかった。そうさな……思う存分やってこい」
「はいっ! 部隊の看板を損なわないよう、必ずレンジャーになって帰ってきますッ」
思わず敬礼をするあたしに、尾花二尉は「おう、頑張れよ」と適当な応援の言葉を投げて寄越した。
陸上自衛隊レンジャー──有事の際には困難な任務にあたることになる、全国の隊員達のなかで八パーセントしか存在しない、特別な教育課程を施された正に少数精鋭。その訓練を受けるにも、厳しい素養試験や適性検査に合格しなければならず、またそれらに合格していざ訓練が始まったとしても、「地獄」と呼ばれる約九十日間が待っていて。それを乗り越えられた隊員だけが、資格を得ることができる──多くの隊員と、そして例に漏れずあたしにとっても、憧れの存在。
ただし。レンジャー隊員に、女子は存在しない。
女性隊員が年々増えていくなかで、それでも長いこと「レンジャー」は、女性隊員には扉が開かれていなかった。
それが、去年の三月からとうとう、女性隊員の訓練を受け入れるようになった。その基準なんかも、揉めに揉めたらしいけれど、基本は男性隊員と変わらない。教育課程も男女混合で、同じ訓練を受けることになる。
それに、あたしが参加できるんだ……!
「去年の一期目と二期目からは、女性隊員の合格者は結局出なかったからな……おまえがもし合格できたら、自衛官初の女性レンジャーだぞ」
「はいっ! 名誉なことですッ」
「そうだなとりあえず一旦落ち着け。そんで話を聞け。──いいか、つまりはそれだけ厳しい訓練っつーことだ。レンジャー訓練が地獄って言われてるのはだてじゃない」
「はいっ」
「あっち行ってからも、適性検査がある。それに落ちたらアウトだしな。送った矢先にまた迎えに行かせるなんて、無駄足踏ませるんじゃないぞ」
「レンジャー!」
「気がはえぇよバカ」
ちょっと強い口調で言われて、慌てて口を閉じた。ふと、向かいで机に座っている、同じ三曹の
「……ま、とにかくそういうことだから。入校までに、できることはしっかりやっとけよ」
尾花二尉の言葉に、「はいっ」とまた背筋を伸ばす。
「小牧三曹、全身全霊をかけてやりぬいてみせます!」
「分かったから、室内でいちいちでかい声を出すな」
「レンジャー!」
「だから、気が早いしうるせぇっつーの」
勤務を終え、自主練のランニングも終わったあたしは、首に巻いたタオルで汗を拭きながら、売店に入った。駐屯地内の売店──コンビニは、外のコンビニに比べると品ぞろえが良い。具体的に言うと、うっかりきらしてしまっていたプロテインも、ここならささっと買うことができる。
「運動したら、三十分以内に飲もうねプ・ロ・テイン〜」
適当に口ずさみながら、ついでにスポーツドリンクのコーナーに足を向けると、見知った顔があった。
「あ、田端さん! おつかれさまですっ」
「……おつかれ」
田端さんは小さくそう言うと、手に持っていたエナジードリンクを三本、カゴに入れた。
「走ってたのか?」
「はいっ! 体力、つけないとなんで」
訊かれたから答えたのに、「うっせぇよ」と田端さんが嫌そうな顔をする。
「店ん中ででっかい声、出すなって。おまえのボリューム調整するツマミ、壊れてんじゃねぇのか?」
「やだなぁ、田端さんったら。冗談お上手なんですからー!」
「あはは」と笑うと、「わりとマジだかんな」と田端さんは半眼で溜め息をついて、うつむいた。その顔が、ふっと小さく歪む。
「半長靴はいて走ってたのか」
言われて、自分の足元を見た。運動靴とは違う、黒くて脛まである、いわゆるコンバットブーツだ。あと、ちょっと重たい。
「レンジャー訓練中は、ずっとこれだって聞いたんで」
あたしの言葉に、田端さんは「ふぅん」と唸った。目当ての飲み物を取り出しながら、「あのっ」と、あたしは少し勢い込んで続ける。
「田端さん、レンジャー行ったの、一昨年でしたよね。なにかアドバイスとか、あったら教えて欲しいんですけどっ」
「別にねぇよ」
田端さんは、そうぶっきらぼうに言うと、レジの方へと歩き出した。
「田端さん。あのぉ……どこか、具合でも悪いんですか?」
「は? なんでだよ」
小走りで追いかけてきたあたしを振り返りつつ、田端さんが眉を寄せる。「だって」と言いかけた頭に浮かんだのは、いつもの田端さんの、ちょっと控えめな笑顔で。
「なんて言うか、いつもと様子が違うなー、と。お腹でも痛いのかなぁなんて」
「……おまえは聡いんだか鈍いんだかわっかんねぇなぁ」
会計を済ませたあたしたちは、そのまま
それから、ようやく思いきったように「あのな」と顔を向けてきた。
「おまえが思ってるよりも、ずっと地獄だぞ。レンジャー訓練は」
「……はい」
太めの眉を寄せながらきっぱりと言う田端さんに、あたしはこくりと頷いた。田端さんの眉間のシワが、ますます深くなる。
「風呂も飯も、時間なんてほとんど取れない。それどころか、水も飲めねぇ、ろくに寝ることもできねぇって日が続くし、その状態で何時間もぶっ続けで体力錬成、更に訓練、訓練、訓練……って、最後の方じゃマジで幻覚とか見えるからな。──ガッチガチに鍛えた男でも、だ」
じっと見つめてくるその黒い目に、あたしのぽけっとした顔がうつり込んでいる。
「えっと……」
あたしはハッとして、姿勢を正した。弾みで、会計したばかりのプロテインとスポドリを落としそうになって、慌てて支え直す。
「ご教授、ありがとうございますっ」
「……は?」
「実際にレンジャーを経験された方のお話を聞くと、身が引き締まると言うか。いや、でも田端さんもあれですね。ツンデレってやつですね。アドバイスないって言ってたのに、ちゃんと心配してくれるなんて」
「おまえなぁ」
髪を短く刈り上げた頭をぼりぼりと掻いて、田端さんは「はぁぁあ……」と深く息を吐いた。
「なんかもー良いや。おまえと話してると疲れるから」
「え? なんでですか?」
「うっさい。あとランニングも良いけどなぁ、ロープ使って腕も鍛えとけ。筋トレ大事だぞ」
「まじっすか! ありがとうございますっ。やってみます!」
「それからな、もう少し肉つけとけ、肉」
「え、なんですかそれ。セクハラですか」
「アホかっ! 訓練中はガッと体重が減るからな。最初にある程度、肉をつけとかねぇと途中でバテるぞ」
「へぇえ」とあたしは胸の前で両手を組んだ。
「ありがとうございます! 参考にしますッ」
「……ま、そんだけやっても厳しいのが、レンジャー訓練だけどな」
田端さんのじとっとした目に、「はいっ!」と勢いよく手を上げる。
「田端さんの期待に応えられるよう、がんばりますッ」
「別に期待してねーよ」
「じゃあ期待はしなくて良いんで、応援してくださいっ!」
「お、応援?」
珍しく、キョトンとした顔になる田端さん。なにか考えるように、少し視線をさ迷わせると、「えぇっと」と呟いて、レジ袋を持っているのと反対の手を握って拳を作った。
「フレー、フレー、小牧……?」
拳を振りつつ言ってから、自分でもなにか違うと思ったみたいで、田端さんの口元がなにか言いたげにもにゅもにゅと動く。
あたしはなんだか感激してしまって、その拳をがしっと両手で握った。
「田端さんって、意外に可愛い一面がおありだったんですね……っ!」
「う、うるせぇ! おまえが急に変なこと振ってくるからだろうがッ」
あわあわと真っ赤になる田端さんの顔がまた物珍しくて。思わず見入ってしまうあたしを追い払うように、激しく手を振り回す田端さん。
「応援してやったんだから、おまえ絶対三ヶ月間、その顔見せんじゃねぇぞ!」
早口で怒鳴るように言われたその言葉に。あたしは笑って「レンジャー!」と敬礼した。