2.食卓の空気

 ミーリアはペンションのロッヂに毛が生えたような大きさのアトウッド家の屋敷に戻り、裏庭に回って摘んだラベンダーを納め、クロエと一緒に手を洗った。玄関の入り口におけが置いてあり、井戸からんできた水が使われるのを待っている。七女ミーリア、六女クロエ、五女ペネロペが三つあるうちの一番小さいものを使うルールだ。端に置いてある大きな桶は泥と血で汚れていた。

(あの血は狩りの汚れかな? だとすると領主アーロンが使ったみたいだね)

「はい、じゃぶじゃぶしたらふきふきしてちょうだいね」

 クロエに子ども扱いされていることが小っ恥ずかしいミーリアであったが、彼女の差し出した手ぬぐいをありがたく受け取った。

 目を細めて見届けたクロエが、中腰になってミーリアの耳元に顔を寄せた。

「ミーリア、ご飯を食べたら先に寝ておきなさい。お父様の書斎に人がいなくなった頃、起こすから。いいわね?」

 クロエの言葉にミーリアの心臓が跳ねた。

「わかったよ」

「いい子ね。さ、あまりこうして話しているとロビンお姉さまに勘ぐられるわ。あなたは前と同じようにのんびり屋さんを演じるの。できそう?」

「やってみる」

「あなたは私の天使よ、ミーリア」

 クロエが高速なでなでを開始すると、背後から両手を叩く音が響いた。

 ──パンパン

 もう一度手が叩かれる。威嚇するような叩き方だ。

 ミーリアが声の方向を見ると、くすんだ木製の廊下に一人の女が立っていて、いかにも小言を言いたげに腕を組んでいた。

(次女ロビン!)

 十九歳、黒髪セミロング、目は大きく切れ長、気の強さを表しているのか鼻先が上向きにつんと伸びている。顔も体形も整っていると第一印象では思うも、どこか近寄りがたいオーラとかんしやくを起こしそうな危うさが見て取れた。くだんの浮気出戻り次女である。しかもこのど田舎でかんざし風の髪飾りをつけたり、ドレスを着たりと、無駄に着飾っているのが色んな意味で怖い。

(いざこうして見ると……地雷臭がパない……!)

 ミーリアはバイト先にいたうわさ好きのおばさんを思い出した。誰かれ構わずスタッフの悪口を言う、ちょっとご勘弁願いたい人物だ。ミーリアはお近づきにならず、付かず離れずを維持して日々を乗り切っていた。


「クロエ、ミーリア、何してるの! 早く来なさい!」

 ドレスタイプのワンピースを着た次女ロビンが、再度手を叩く。

「ごめんなさいロビンお姉さま、ミーリアの髪にホコリがついていたもので」

 冷静な様子でクロエが髪をさらりと手で払い、ロビンに近づいていく。ミーリアも後を追った。

「チビのことなんて放っておけと何度言ったらわかるの? あなたはハンセン男爵の二十五番目の妻になるんだから、村内で変な噂でも流されて約束をにされたらどうするつもり?」

「申し訳ございません。お姉さまのおっしゃることはもっともです。こんな辺鄙な村の噂話が南方のハマヌーレまで届くとは思えませんけれど、それでも用心されているとは、魔法使い並のごけいがんでございますわ」

 皮肉たっぷりなクロエの返しに、次女ロビンは意味がわからなかったのか気をよくした顔をしたが、すぐに小馬鹿にされていると気づいて眉をげた。

「本が読めるからって調子に乗るんじゃありません! ハンセン男爵二十五番目の妻になる自覚があなたにあって!?」

 二十五番目をやけに強調してくる次女ロビン。

 人が気にしていることを大声で言うとはなかなかいい性格であった。

(質素な屋敷でその服装って……どうなの?)

 一方で、ミーリアは彼女の着ている服がえらく小奇麗なことに感心していた。宝石のついたネックレスが彼女そのものの価値であり、つけている自分が高貴な人間であると言いたいのか、しきりに触っているのがいやに目につく。

「ミーリア、何? その目は?」

 鋭い視線をクロエからミーリアへ向けるロビン。

 ミーリアは急にこちらへ矛先が向いて驚き、びくりと肩を震わせた。

「……?」

 どうにか気を取り直して、意味がわからない、という目でぼんやりとロビンを眺める。

 ミーリアの態度が気に入らなかったのか、ロビンが近づいてきて中腰になり、ミーリアを抱え込んだ。ロビンは百七十cm、ミーリアは百三十cmほどのため逃れられない。

「あらあらミーリア、お尻につちぼこりがついているじゃない」

 そう言うやいやな、ロビンはバンバンと音が出る強さでお尻を叩き始めた。想像以上に痛くてミーリアはたまらず声を上げた。

「いたっ、痛いです! お姉さま、痛い!」

「ちゃんと土を払って家に入らないあなたの責任でしょう。ありがたく思いなさい」

「ロビンお姉さま! ミーリアが痛がっています! もう少し優しくしてあげて!」

 ミーリアのでんに土埃などついていない。

 クロエが必死に手を滑りこませるも、ロビンはミーリアごと肩を回して方向転換し、さらにビシバシとミーリアのお尻を叩いた。

(痛い痛い! この人なんなの!? お尻が、お尻が割れちゃうよ!)

 もう割れているのだが、ミーリアは声に出すとさらに強くなりそうだったので心の中で叫んだ。

「ロビン、クロエ、ミーリア、夕食よ。早くなさい」

 廊下を覗きに来た母親エラが平淡な声色で呼んだ。

 ある程度発散して満足したのか、次女ロビンがミーリアから離れ、わざとらしい笑みを浮かべて振り返った。

「ミーリア、これで土は落ちたわね。お母さま、今参ります。どうしたの、クロエ、ミーリア、早く行きなさい」

「……」

「……」

「返事は?」

「……はい、ロビンお姉さま」

「……行きます、ロビンお姉さま」

「次からはすぐ返事なさい」

 クロエとミーリアは死んだ魚のような目で足を踏み出した。背後から音を立ててロビンがついてくる。

 クロエがちらりとミーリアを見て、ロビンから見えないように舌をむ顔をした。

 六女はかなりご立腹のようだ。

(クロエお姉ちゃん、どんな顔しても綺麗で可愛いよ)

 一気にもやもやがすっきりしたミーリアもちらりとクロエを見て、思い切り目を寄せて鼻をすぼめた。変顔を見たクロエが笑いをこらえるために、頰を引き締める。


「遅いぞ」

 リビングに入ると、上座に座った領主アーロンが腕を組んでいた。

 黒髪、とびいろの目、目も鼻も大きく、額が広い。いかにも狩猟好きと言わんばかりにひげは手入れをせず伸ばしっぱなしであった。また、着席しているのに立っているミーリアよりも目線が高く、組まれた腕の筋肉が盛り上がっていた。

(大きい人……頰の傷って古傷かな? あれって痛くないのかな? 記憶のとおり頑固そうな人だよ。これはアカンやつだよきっと)

 じかだんぱんして婚約を引き延ばす話など取り合ってもらえそうもない。

 ミーリアはクロエの隣に急いで座り、次女ロビンも席についた。

(これがアトウッド家か……)

 領主アーロンが上座に座り、テーブルの角を挟んで婿養子アレックス。

 隣にその妻の長女。

 さらに母親、次女ロビンと続き、対面には四女ジャスミン、五女ペネロペ、六女クロエ、七女ミーリアがテーブルについていた。三女だけは嫁に行ったのでこの場にいない。

 場はお通夜並の冷たさで、家庭的な空気は一切流れておらず、全員が貴族らしくしようと静かに号令を待っている姿が安い芝居のようであった。実際のところ、田舎でも騎士爵であるのは間違いがなく、最低限の体裁は整える必要があるので当然と言えば当然の習慣である。こんな辺境の地でも、他の領地から貴族の客人が来る場合もあるのだ。

(肩身が狭いよ)

 誰もミーリアに視線を向けない。完全に空気扱いだ。隣に座るクロエも、次女ロビンにつけ入る隙を与えたくないのか表情を消してじっとしている。

 クロエと話すことはあきらめ、ミーリアはテーブルに並んでいる料理を見た。そしてがくぜんとした。

(……なにこれ?)

 黒い物体が皿に置いてあった。

 その横にレタスっぽい野草が添えてある。

 スープには小さな肉が浮かんでいた。木製コップには水だ。

(黒パン? 朝食べたものより小さくない? スープに色がついてないし……なんかスープに肉の破片が浮かんでるけど)

 食欲をそそる夕ご飯ではない。

 一方、領主アーロンの前には焼いた肉の塊が置いてあった。

「デニスの森で狩った鹿だ。俺よりもでかくてな、大岩を一足で跳ぶ大物だったぞ。どうだ、うまそうだろう」

 遅い、と言った割にしゃべり出したアーロン。自慢げに自分の前に置かれた鹿肉を見せつけ、隣にいる婿養子アレックスを見た。

「アレックス、お前もしっかり食べて精をつけろ」

「はい、アーロン様」

 クロエ、ミーリアからロリコンの評価を受けている婿養子アレックスが人の良さそうな笑みを浮かべた。彼の皿にも肉が置かれている。アーロンとは対照的にアレックスは線が細く、くすんだ赤髪、頰にはそばかすが散っていた。どちらかと言えば文系男子に見える。それでも毎日狩りに連れて行かれているため、日焼けしてせいかんに見えなくもない。

 ミーリアは婿養子アレックスの笑顔が不気味に思えた。

「ボニー、まだなんだろう? お前も残さず食べろ」

「……はい」

 子どもを作れと毎日せっつかれている二十二歳の長女ボニーが消え入りそうな声でつぶやいた。

 彼女の皿にも三切れほど肉があった。

 他の皿に肉はなく、長女ボニーが愛想笑いを向けると、場の空気が急激に寒くなった。次女ロビンですらしかめっ面になりそうなのをこらえている。気づいていないのはアーロンぐらいだ。

「食べるぞ」

 それだけ言って、アーロンが肉にかぶりついた。貴族というより山賊の大将と言ったほうがいい食べっぷりだ。挨拶もない。

 横目で見た妻エラが、セリス教の文言、「──セリス様の御慈悲に感謝を」と小声で唱えてスプーンを手に取ると、他の面々も三々五々つぶやいて食べ始めた。会話など一切ない。一家団らんなど遠い夢物語に思える鈍重な空気だ。

(毎日狩りに行くならお肉食べさせてよ)

 ミーリアは不満を漏らしつつ黒パンにかじりついた。

(硬ぁっ! 石ですかこれ!? う…………ううっ、歯が痛いッス……パイセン……)

 あまりの痛みに後輩的な発言を脳内でするミーリア。

 一体誰が誰のパイセンなのだろうか。

 問題なのは、朝食のパンよりも硬いことだ。

 仕方なく薄いスープに浸してかじる。それでも硬い。ミーリアは黒パンをスープに浸してぐるぐるかき混ぜた。こうでもしないと、とてもじゃないが嚙み切れない。

「──ごほん」

 斜向いにいる母親がじっとりした目線をミーリアに向けていた。

 クロエがあわてて肘でつついて、ようやくミーリアが顔を上げて無作法に気がつき、すぐパンでスープをかき混ぜる行為をやめた。

(八歳児の顎じゃ食べられないよ)

 黒パンはスープに浸したままにすることにした。これにお咎めはないらしい。

 だが、母親エラの隣に座る次女ロビンがハンカチで口を拭き、

「お下品ね」

 と嫌味ったらしくつぶやいた。

 彼女は硬い黒パンをお上品に歯でこするようにしてかじっている。

 仕立ての良いドレスワンピースと黒パンの組み合わせがいびつで、ミーリアは一瞬ほうけてしまった。ロビンはそれを愚鈍な反応と捉えたのか、わざとらしくため息をついた。

「お父様、チビの食べる分は二日に一食でいいのでは?」

「あ? ああ、そうかもな」

 肉をかじっていたアーロンが無骨な顔を上げた。

 アーロンはあまり話を聞いていなかったようだが、次女ロビンが苦手なのか、目を合わせず曖昧に返事をしている。

 急な話の展開に、ミーリアはロビンとアーロンの顔を交互に見ることしかできない。

「そうですわね。何の働きもしていない人間が食事をするなど言語道断ですわ。では、七女ミーリアの晩ご飯は──」

 ロビンが口の端をゆがめながら言おうとした。

 そのとき、だんまりを決め込んでいたクロエが大きく口を開いた。

「ミーリア、顎が痛くなるからいいのよ。パンをちゃんと戻さないと。ね? こうしてスープにつけていれば柔らかい状態に戻るから」

 領主アーロン、アレックス、母親、ロビン、四女、五女はめずらしく大きな声を上げたクロエを一斉に見つめた。

「戻るのよ」

「戻るの?」

 驚いてミーリアは思わず聞き返してしまった。

「ええ、そうよ」

 クロエが笑顔を真顔に切り替えて、次女ロビンをいちべつした。

 戻る、というフレーズはアトウッド家では禁句である。

 次女ロビンが近年王都付近の貴族たちでも滅多に耳にできない「正妻が浮気して離縁されて出戻り」という、大変不名誉な記録を作ってしまった。田舎貴族同士の婚姻であったため王都にはまだ漏れていない情報であるが、いずれ醜聞は強風に飛ばされる綿わたぼこりのごとくでんするであろう。貴族とは噂社会でもあった。

「………っ!」

 ロビンは黒パンを持ったまま顔を真っ赤にして震え始めた。

「柔らかく戻った?」

 クロエが黒髪を耳にかけながら、ミーリアに尋ねた。

(戻る、戻る……あ、出戻り…………クロエお姉ちゃん、わざと……!)

 気の強そうな次女ロビンににらみつけられて、冷や汗と苦笑いが止まらない。

 このまま貝になってどこかに消えたいとミーリアは切に思う。

「おいクロエ。戻るなんて言うな。気を使え」

 領主アーロンがフォークで肉をぶっ刺して、さも得意げに言う。デリカシーのなさは指折りであった。

「そうですよ。アーロン様の言う通りです」

 腰巾着よろしく、婿養子アレックスが便乗して話に乗っかった。

 婿養子も、肯定が次女ロビンの醜聞を認めていることに他ならないと気づいていない。

 ロビンは恥の上塗りをされ、思い切り舌打ちをした。

「アレックス様は黙っていてください」

「あの…………失礼」

 ロビンがじろりと視線を向けるとアレックスが押し黙り、アーロンが居心地悪そうに「静かにな」と締めくくって、肉にわざとらしく集中する。

「申し訳ございません。以後気をつけます」

「ごめんなさい」

 クロエが会話の間隙を縫って謝ったので、ミーリアもそれに倣った。

 しかし、どうにも二人の息の合った行動がかんに障るのか、ロビンは腕までぷるぷると震えていた。


(晩ご飯抜きは回避したけど……)

 クロエの機転はありがたかったものの、その後の食卓の空気は最悪だった。

 目を合わせると睨んでくる次女ロビン、肉をかじっているアーロン、失策にようやく気づいて押し黙る婿養子アレックス、終始落ち込んでいる長女ボニー。我関せずの母親エラ、四女ジャスミン、五女ペネロペ。無言を貫くクロエ。

 死神が鎌を投げ捨てて地獄へ帰りそうなてついた食卓だった。

(ご飯抜きのほうがマシな気が……。それに、本気でメシマズだし……)

 気を紛らわそうにも、夕食の味はお世辞にもいいとは言えない。

 手をつけた野草は苦味がひどく、スープをすすると、薄い塩っけと動物っぽい肉の匂いがこうに広がる。野性の風味がほとばしっていた。

(中二のときお婆ちゃんに連れて行ってもらったジョジョ園の焼き肉が恋しいよ)

 日本で最も有名と言っても過言ではないジョジョ園。ランチタイムは一般人にも手の届く価格帯で、ミーリアは祖母と一度だけ焼き肉定食を食べたことがあった。祖母は中学生だったミーリアの笑顔が見たくて、生活費を削って年金をこつこつ貯めていたらしい。

 ジョジョ園は、ほっぺたが落ちて天国に昇りそうな世にも素晴らしい体験だった。

(ほっぺたが引きつって地獄の谷底に落ちそうな晩餐だよ)

 無表情で黒パンをかじるミーリア。

 小麦が栽培できないアトウッド家の領地で、毎日パンが食べれるのは領主だけだ。

 そんなパンも、ふわふわの食パンではなく、栄養価の高い雑穀を混ぜて焼いた黒い物体だった。

 いよいよ掲げたマニフェスト「YES焼き肉、NO結婚」への意志が強固になるミーリアであった。



 ひどい夕食だった。

 それでも、余計なことをしゃべらなかったのは場の状況を悪化させなかった点において、よかったと言える。

 他人から見ればミーリアはぼんやりした七女でしかない。

 夕食を体験して、ぼんやり七女が大きなアドバンテージであることを改めて確認できた。

(ビクビクせずに行動しよう)

 晩ご飯が終わって胸をなでおろし、ミーリアは歯ブラシ草でしゃこしゃこ歯を磨いて、風呂場という名の行水場で、冷水を浴びて身体を洗った。もしこれが冬だったらと考えるとミーリアは背筋が冷えた。南の街ハマヌーレまで行けば大浴場に入れるが、アトウッド領にそんな豪華で維持費のかかる施設は存在しない。村人同様、冬は身体を拭くだけだ。

 母親に言って清潔なワンピースに着替え、髪が乾いてからベッドに潜り込んだ。

(クロエお姉ちゃんはラベンダーの加工をしなきゃいけないんだよね。五女ペネロペ姉さまも手伝ってるみたい。四女ジャスミン姉さまは目が悪くてそういった作業には向かないからか、ずっと編み物をしている……。次女ロビンは、母親エラの手伝いで肉をさばいているんだっけ)


 六女クロエ、五女ペネロペ、ラベンダーの加工。

 四女ジャスミン、編み物。

 次女ロビン、母親エラ、肉の加工。

 領主アーロン、婿養子アレックス、狩りの準備。


 貧乏暇なしとはこのことか、月明かりが手元を照らす日は誰も早くに就寝しない。追加で、獣脂を燃やして最低限の明かりとし、ジャスミン以外は裏庭にある作業場で行動していた。「獣脂って臭いが鼻に残るの。私はラベンダー担当だからまだマシだけどね」とクロエが言っていた記憶がある。高級品のロウソクを使えるはずもない。

 ちなみに、肉はそのほとんどをくんせいにして販売する。

 年二回来る商隊との取引で現金化できる少ない商品の一つで、おいそれと食べるわけにはいかない。スープに入っている肉が少ないのはそのためだ。

 領主アーロンは、もっと狩りをして獲物を捕らえれば現金が増えて裕福になると考えているらしく、毎日欠かさず森へ出る。現金で酒を買いたいというのも理由の一つであろう。ただ、残念なことに取引先であるハンセン男爵領地でも肉は取れるため、そこまでの需要はない。数が増えてもたたかれるだけだ。それをアーロンはわかっていない。

 また、瘦せこけた大地のアトウッド家では、食うために誰しもが狩りに出る。

 律儀な小作人は硬い大地を耕して雑穀を育てているが、やはり狩りに出ねば食えず、農業に費やす時間が圧倒的に少ない。本来であれば領主であるアーロンが陣頭指揮を取って、雑穀の収穫できる土地を増やし、飢えない下地を作って、領民を増やすべきだった。

 人間が増えれば労働力が増える。

 その労働力で開墾する。

 余力で特産品の開発をし現金収入を得る。

 さらに人間が増え、魔物と人間の住む領域の境目、がわずかでも押し上げられて、人間領域が広がる──。

 十歳のクロエが描ける絵図が、領主アーロンには描けなかった。

(私の立場って結構あやういよね……)

 ミーリアは硬いベッドで寝返りをうった。

 働かないミーリアが疎まれる理由がよくわかる。

 いわゆる穀潰しだ。

 アーロンが早々に商家へ嫁入りさせたい理由が理解できてしまい、ミーリアは薄い布団をべしべし叩いた。

(ダメだ、弱気になるな。今はこのポジションの維持に専念しよう。自由に動いて情報を集めて結婚を回避。そのあと脱出の方法を考える。ただ脱出するだけじゃダメだ。小金持ちの焼き肉お大尽になれる計画をして、確信が持てたら実行に移すんだ──)

 そんなことを考えていたら睡魔が襲ってきてまぶたが落ちてくる。クロエが呼びに来るまで待っていようと思っていたのに、気づいたら眠りの世界へと旅立っていた。



「──リア。──起きて、ミーリア」

 ミーリアは耳元で声がして目を覚ました。

 目をこするとクロエの端整な顔がアップになる。どうやらクロエが顔を寄せてささやいていたらしい。

「クロエお姉ちゃん?」

「しーっ……声を出してはダメ」

 ミーリアは口を引き結び、ゆっくりとうなずいた。

「いい子ね」

 さらりと頭を撫で、クロエがジェスチャーで布団から出るように促してくる。

 ミーリアはそっと掛け布団をめくり、静かに床へ足を落とした。

「しばらく目を開けていなさい」

 小声でアドバイスをするクロエの言葉通り、目を開けて息を殺していると、段々と暗さに目が慣れて室内の様子が見えてきた。

 部屋にはベッドが四つ。奥二つでは五女ペネロペ、四女ジャスミンが眠っていた。ペネロペは十二歳、ジャスミンは十三歳。まだ若い彼女たちは身体が成長するためか、深い眠りに落ちているようだった。

 目が慣れたミーリアを見て、クロエがゆっくりとドアに向かい、ドアノブに手をかけた。

 安普請のせいかギギギッと音が響く。

 月明かりの薄い光がクロエの横顔を照らしていた。

「……」

「……」

 クロエが手を止めて深呼吸をし、再度ドアノブをひねった。

 回し切るとカチャリと音がしてドアが開く。

 最小限だけ開け、クロエが先に通りなさいと指を差した。ミーリアはカニ歩きでドアをくぐる。

 続いてクロエが隙間を抜けて、音が鳴らないよう静かにドアを閉めた。

「──大丈夫?」

「うん」

 声を落として聞くクロエにミーリアはうなずいた。

 心なしかクロエも緊張しているようで、深紫の瞳が何度も開閉する。

 クロエと手をつなぎ、無言でアーロンの書斎へ向かう。大して広くない屋敷内だ。廊下の突き当たりがアーロンの書斎で、彼は今頃妻エラと私室で寝ているはずだ。

 暗闇の廊下を歩き、クロエが書斎の鍵穴を覗き込む。

 ポケットから、先がU字になっている木製の耳かきのような道具を取り出し、別の手には針を持った。



 途中、脳筋領主が起きて見つかりそうになったが、どうにかバレずに書斎への侵入に成功した。

 ミーリアとクロエは部屋のスペアキーを探した。クロエが後でまた入れるように、複製するつもりらしい。どこまでも優秀な姉である。

(これかな? でも二つあるなぁ)

 戸棚からオルゴールっぽい小箱を出した。その中に二本の鍵が入っている。

「ありがとう。どちらかが書斎の鍵でしょうね」

 クロエはそれだけつぶやいて、鍵開け道具を出したほうとは別のポケットから丸めた手ぬぐいを取り出した。

「それなに?」

「見ていてちょうだい」

 ちょっと得意げに笑い、クロエが手ぬぐいを開く。

 中から丸めた土が出てきた。

(粘土?)

 クロエはあらかじめ切れ込みを入れていたのか、丸い粘土を二つに割り、鍵を挟んで押し付けた。どうやら鍵の複製を作るつもりらしい。

 ミーリアが感心した顔で見ていると作業が終わったらしく、手ぬぐいの汚れていない箇所で念入りに鍵を拭いた。泥が付着したままだと怪しまれる。

「西の村で取ってきた粘土よ。しばらく置いておけばすぐに乾くわ」

「お姉ちゃん頭いいね」

「毎回鍵開けしていたら時間がかかるでしょう?」

「……毎晩入るの?」

「いいえ。必要な本を読み切るまでよ」

 クロエがにっこり笑って立ち上がり、ミーリアに手を差し伸べて引き上げた。

「まずはあなたが必要としている魔法についての本ね」

 月明かりを頼りに本棚の背表紙をなぞる。

 アトウッド家の屋敷には領主専用の書斎の他に、自由に本が読める読書部屋があった。

 領主アーロンは文字がほぼ読めないものの、それなりの歴史があるアトウッド家には百数十冊の書物が所蔵されていて、クロエは役に立ちそうな本は片っ端から読んでいた。問題は閲覧不可の書斎にある本だ。

「私はね、ずっと書斎の本に目をつけていたの。いつか忍びこんでやろうと計画していたわ」

「だから準備が早かったんだね」

「そうよ。暇なとき、違う扉の鍵穴で練習をしていたの。今夜、ぶっつけ本番で成功できたのはミーリアのおかげかしらね」

「私、何もしてないよ?」

「いてくれるだけで嬉しいのよ。お姉ちゃん、頑張れるの」

「そっか」

 ミーリアはクロエの横顔に笑いかけた。

「ふんふん……食用植物の本、計算練習本、文字の書き方初級編、あまりパッとした本はないわね。読書部屋のスペアを置いているのかしら?」

 背表紙をなぞりながらクロエが言う。

(こっちの世界の文字が読める……。忘れてたけど意識せずに話もできてるし、これって転生した特典なのかな? 神様みたいな人物が存在しているってこと?)

 ミーリアは日本語同様に認識できる異世界言語を眺めて、知らない文字が勝手に読めるという奇妙な感覚を消化しようと考える。しやくするように背表紙に書かれた文字を見つめ、この世界の文字として脳内になじませようと試みた。じっと見ても日本語にしか見えないのが、なんとも言えない気分だ。


 真剣に見すぎたためゲシュタルト崩壊しそうになり、あわてて首を振った。

(あまり考えないほうがよさそう。読めるから読める、それでいいってことにしよう!)

 自分に興味のないことは大味になるミーリアだった。

「あったわ」

 クロエがミーリアの肩を叩いた。

 細い指で背表紙を引っ張り、分厚い装丁の施された本を取り出した。

「私が読んだことのない魔法書ね。さ、ミーリア、こっちに」

 興奮しているのかクロエは本に目を落としたまま、ミーリアの手を握って窓際に誘導する。

 月明かりがよく差し込んでいる場所を見つけると、じゆうたんに直接腰を下ろして本を開いた。

 ミーリアも本に集中するべく覗き込む。

「題名は『魔法初歩解説改訂版十四』ね。読書部屋にある『魔法初歩解説』は改訂版〝八〟だから、六つも後に出たものよ。これなら私の知らないことが書いてあるかもしれないわ」

 そう言って、クロエはどんどんページをめくっていく。

 深紫の瞳がせわしなく動き始めた。

「へえ、挿絵が細かく入っているのね。情報としては代わり映えしない、か……」

「なんで読書部屋に最新版を置かないで書斎に置いてるのかな?」

「お父様が読んでいるんでしょ? 魔法への憧れが捨てきれないのかもね」

「そうなの?」

「もちろんよ。魔法使いなら動物狩りではなく魔物狩りができるもの。しかも単独でね。お父様のことだから、魔物を倒して領地を増やすことしか頭にないと思うわ」

「どうして領地拡大にこだわってるんだろう」

 ミーリアの疑問に、クロエはページをめくる手を止めた。

「きっと、ご先祖様からの言い伝えよ」

「言い伝えって?」

「アトウッド家がアドラスヘルム王国から騎士爵をいただいて百五十年。初代領主さまは優秀なお方だったみたいでね、魔物領域を後退させ、人間領域を現在の範囲まで押し広げたのよ。その初代領主さまの悲願が『東西南北、すべての場所へ自由に安全に行き来できるようにする』というものだったみたいね。お酒に酔うとお父様がよく言っているでしょう?」

「そうだったんだ」

 ミーリアは初代領主が優秀であったことに驚いた。

「残念なことに百五十年間、一度もアトウッド領の人間領域が増えることはなかったけれどね」

「ふうん」

(魔物と人間か……ファンタジーそのものだよね……。関係性についてもあとでクロエお姉ちゃんに教えてもらおう)

 先ほどから頻々に出てくる魔物領域と人間領域。この世界の有り様として、重要な要素でありそうだった。

 そんなことを話している間もクロエの指は止まらずに動いている。

 クロエは思いついたように、口を開いた。

「魔法について知りたいって言っていたわね?」

「うん」

「魔法っていうのはね、魔力があって初めて行使できるものなの。それは知っている?」

「知ってるよ」

 ミーリアの知識で答えられる内容であった。

 魔法とは、身体に内包している魔力を使って事象を引き起こす外界への干渉行為だ。

「魔法適性テストの水晶は魔力の有無を判定しているのよ。ほらここ、見てちょうだい」

 月明かりに照らされたクロエの指先を目で追うと、筆で描かれた水晶のイラストが真ん中にあり、魔力に反応するとどのように光るか詳細に記されていた。

(ファンタジーだなぁ……)

 基本、光れば魔力アリ。

 光らなければ魔力ナシ。

 という簡単なもので、光が強ければ内包魔力が多く、色付きで光れば分野別の魔法才能があると判別される。かつて王国の礎を築いた魔法使いは水晶が割れるほど光が輝いたそうだ。

 色付きで発光した場合は、その色に関連した魔法に才能がある。

 赤なら炎

 青なら水

 茶なら土──といった具合だ。

 ただ、魔法を単純に系統別にすることはできず、色判別も単なる指標でしかないので柔軟性を失うと応用力が著しく損なわれる、とも書かれている。

(赤く光って炎が得意だったこともあれば、血に関係している魔法が得意だった、なんてこともあるのか。原則、魔法は自由に行使できる事象であり、不明確な事柄が多く不自由なものでもある。魔法使いは一つの分野に特化してけんさんを積むほうが良い、と。なんか哲学っぽいね)

「ミーリアには難しいかしら? 次のページに行っても?」

「あ、うん」

「ごめんね。ゆっくり読んで寝る時間がなくなると、あなたの綺麗な顔にクマができてしまうわ。お姉ちゃんが先に読んで覚えておくから、あとで教えてあげるわね」

「えっ……そんなことできるの?」

「平気よ?」

「一回見ただけで覚えるの?」

「あら、それくらい普通でしょう?」

 いやいや当然っぽく言われても、と心の中でツッコむミーリア。

 ぱら、ぱら、とページを何気なくめくっていくクロエの瞳が蜂を追いかけるように素早く運動していて、ミーリアは申し訳なくもちょっとビビった。美少女な十歳の姉クロエのスペックが高すぎた。

「水晶による魔法適性テストで、身体が熱くなる現象の事例はないわね」

「そっか……」

「他に魔法関連の書物は入っていないみたい」

 クロエが『魔法初歩解説改訂版十四』を閉じ、ちらりと本棚へ視線を飛ばす。

「ミーリアはまだ魔法訓練は試していないわよね」

「魔法訓練ってなに? いま初めて聞いたよ」

「なら、ロビンお姉さまがいない時間帯を狙って読書部屋でやってみなさい。魔法が使えないとわかっていても、みんな必ずやるものよ? 私もやってみたからね……もちろんまったく魔法は発動しなかったけど」

 この世界の人間は誰しもが魔法使いに憧れを抱いている。魔法訓練は適性者が行うものと知りつつも、試しにやってみるのが通例だ。そこで魔法らしき現象が何も起きず、ああ自分は才能がないんだな、と吹っ切ることができる。

 クロエはミーリアが絶対に魔法が使えないとは否定せず、あらゆる可能性を考慮している節があった。

 魔法訓練であれば危険性もないので推奨している。

 ミーリアは魔法訓練と聞いてやる気が出てきた。ひょっとしたら、と期待してしまう。

「どうやってやればいいのかな?」

「読書部屋にある『魔法初歩解説改訂版八』の六十一ページにやり方が載っているわ。文字は私が教えたから読めるものね?」

 いい子、とクロエは微笑みを浮かべてミーリアの頭を撫でた。

(クロエお姉ちゃんに読み書きを教わった記憶、たしかにあるね。転生特典のおかげなのか、そもそも読めない文字がないんだけど)

「ありがとう。明日こっそり試してみるね」

「熱を帯びたことを解明できるまで色々と試してみましょう。放っておくにはあまりにも惜しい事柄だわ。それでミーリア、何ページを読めばいいのか覚えてるかしら? さっきお姉ちゃんが言った数字を言ってみて」

「六十一ページだよね?」

「正解よ。可愛いミーリアがお利口さんでお姉ちゃん嬉しいわ」

 月明かりの下で微笑んでいる綺麗な黒髪のクロエは、月の女神のように見えた。

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