『ドキドキラブ学園~恋する乙女と思い出の王子~』通称『ドラ学』において、メアリ・アルバートは王家に次ぐ権威を持つ貴族という設定だった。
裕福な貴族の家に生まれ、両親に甘やかされ、年の離れた二人の兄にも溺愛される。周りは自分に従い、誰も逆らうことは無い。世界の中心は自分だと考えていそうなほどの我が儘令嬢。
常に高価なものを身に纏い、もちろん制服はオートクチュール。金に物を言わせて何でも自分の思い通りに支配し、まさにやりたい放題である。ことあるごとに庶民の出である主人公を貧相だとバカにし、行く先々で財力の違いを見せつけていた。まさに典型的な『嫌な金持ち』で、メアリの財力自慢は定番イベントとまで言われていたほどだ。
「へぇ、ゲームのお嬢は高価なものばっか持ってたってことですか」
「そうよ。何かっていうと自慢して、あの子の私物に対して『あらやだ、なんだか庶民臭くありません?』なんて言い放ってたわ」
「そりゃまた典型的な……」
呆れてものも言えないのか、言葉を濁すアディにメアリが同意だと頷く。同じ貴族、ましてや共に同じメアリ・アルバートでありながら、こちらのメアリはそういった手合いの人間が苦手でさえあった。
だが悲しいかな、現状この世界の貴族の殆どがプライドが高く見栄っ張りである。とりわけ王家に次ぐ権力のアルバート家の娘として生きてきたメアリにとって、親の財産を我が物顔で語る者達と話す機会は多い。
やれ何台目の馬車を買って貰った、誕生日に別荘を建てただの。好きな食べ物はフォアグラとキャビアで、一流のシェフをわざわざ家まで呼んでパーティーがどうのこうの……。きっとゲームのメアリならばその自慢に同調、それどころか「私の方が!」と高飛車に財力を自慢していただろう。アルバート家の娘なのだ、たとえ相手がどれだけ由緒正しき貴族相手だろうが所詮は格下に過ぎず、自慢の聞き役でしかない。
だが実際のメアリにそういったプライドはなく、目の前で繰り広げられる自慢合戦をいつも冷ややかに眺めていた。馬車なんて一台あれば十分だし、年に数日どころか飽きたら訪れもしなくなる別荘に果たして意味があるのかどうか……。自分専用のシェフに至っては、美味しいものを作る人を縛り付けるなんて非道も良い所だとさえ思っていた。
「でも、これからは悪役として自慢しなきゃいけないのよね」
「そういや、お嬢はそういった自慢をしないですね。高価な物を買い漁るわけでもないし、お抱えシェフもこれといって居ないし。なんでですか?」
「なんでって言われても。一応、欲しいものは買ってるし、食べたいものだって食べてるわよ」
「ちなみに、今一番欲しいものは?」
「誰かさんの解雇状」
「……た、食べたいものは?」
「解雇状がなかなか手に入らなくてねぇ、というか手に入るんだけど決まって書いてる最中にどっかにいっちゃうのよ。ねぇアディ、あなた書きかけの解雇状が無くなっちゃうことに関して何か知らない?」
「いいえ、まったく、微塵もこれっぽっちも分かりません。きっとお嬢の部屋には小人が住んでいて、解雇状を盗んでしまうんですよ」
「予想以上に夢あふれる回答が返ってきたわ」
「それで、俺じゃない誰かさんの、俺にはまったく関係ない解雇状はさておき、今一番食べたい物は?」
コホンとわざとらしく咳払いをして話を無理矢理もどすアディに、メアリが「食べ物……」と呟いて、パッと表情を明るくさせた。
「コロッケ!」
「お嬢、その感覚で他所の御子息様達に自慢しないでくださいね」
はぁ……と盛大に溜息をつきつつ、アディが手元のメニューに視線を向けた。
ちなみに、現在地は食堂。ちょうど昼時とあってか、かなりの賑わいを見せている。
そんな中、メアリとアディはランチメニューの一覧を眺めつつ、配膳の列に並んでいた。『ドラ学』のメアリであれば横入りか、もしくは自分は席に座ってアディに「早くしなさいよ!」とでも言っていそうなものだが、あいにくメアリにそんな目立つ真似をする気はない。
それどころか、次第に混雑する食堂を見回して「先に席を取っておけば良かったわね」と暢気に言っているほどなのだ。『ドラ学』と違い、メアリには席を取っておいてくれる取り巻きも、ましてや権力を恐れて席を譲ってくれる者もいない。
「それにしても、改めて考えるとバカみたいに高いわよね、ここの食堂って」
「そりゃ貴族が通う学校ですし」
「フォアグラだのキャビアだの、よく学生如きに食べさせる気になるわね」
呆れたように溜息をつき、メアリがメニューを眺める。
確かにメアリの言う通り、カレリア学園の食堂はどのメニューもやたらと高く、デザートでさえ一般家庭の一日の食費を遥かに上回るのだ。内容もそれ相応に豪華で、一流レストランをそのまま移設したかのような品揃え。そのうえ各界から引き抜かれたシェフ達が目の前で料理してくれるのだから、もはや食堂の域を超えている。
だがその反面やたらと客の捌きは悪く、今こうやって並ぶ羽目になっているのも事実。一品一品手間をかけて提供しているのだから当然と言えば当然だろう。まさに非効率なシステムではあるが、これもまた貴族ゆえである。「早い・安い・うまい」が有り難がられるのは庶民の世界だけなのだ。財布にも時間にも余裕のある者は「ゆっくり・高くて・うまい・価値のある」食事を選ぶ。
「相変わらず遅いわねこの食堂。作り置きぐらいすればいいのに」
「お嬢、また貴族らしからぬことを……美味しいものが食べられるんですから、大人しく待ちましょうよ」
「あのね、私はメアリ・アルバートなのよ? 食堂のメニューなんて、家でいつだって食べられるの。アディが食堂に来たがらなきゃ、誰がこんな騒々しいところに来るもんですか」
「そりゃ、ここにでも来なきゃ俺はこんな高い飯食えませんからね」
嬉しそうにトレーを用意するアディに、メアリが溜息をついた。いったいどこの世界に、従者に付き合って食堂の列に並ぶ令嬢がいるのか……いや、ここに居るのだけれど。
そんなことを考えていると、何かに気付いたのかアディがメアリの肩を叩いた。
「お嬢、あそこ見てください。あれ、アリシアちゃんじゃないですか?」
「え、どこ!?」
アディが指さす先を見れば、確かにアリシアの姿がある。
食堂の隅に身を隠すように座り、不安そうに周囲を窺っている。手元にある小さな鞄には弁当が入っているのだろう。その隣には一品料理が置かれているが、どちらも手を付けている様子は無い。
それを見たメアリがニヤリと口角をあげた。
「アディ、これはチャンスよ」
「チャンス?」
「ゲーム通りなら、あの子はお金が無くてお弁当を持ってきてるはず。そこに現れるのが……」
「なるほど、悪役令嬢メアリ様の食事自慢ってことですか」
「そういうこと。豪華な食事を見せつけ、貧相なお弁当を嘲笑うの。さぁ行くわよアディ、貴族と庶民の格の違いを見せつけてあげるわ! この、産地直送 海鮮丼で!」
「……」
「…………」
「お嬢、それは無いです」
「あ、やっぱり?」
海鮮丼は駄目だったか……とメアリが持っていた食事チケットに視線を落とす。
太字で書かれた『産地直送 海鮮丼』の文字は食欲をそそるが、確かに令嬢の食事自慢には些か不向きである。いや、美味しいのは確かなのだが、そもそも異国の料理である海鮮丼をアリシアが知っているか定かではなく、知っていても羨ましがるかは微妙なところである。
普段からメアリが食べているのを見ているアディでさえも「よくそんなもの食べられますね」と本人を前に言ってくるのだ。冷ややかなその視線に、ならば互いに譲歩しあって分かり合おうと海鮮をパンに載せて食べたこともあった。その結果、アディの海鮮丼嫌いが増したのだが。
それを思い出し、海鮮丼で食事自慢は厳しいかしら……と悩むメアリを見兼ねたのか、アディが彼女の手からチケットを抜き取ると、代わりに自分が持っていたものを手渡した。
「アディ?」
「急に海鮮丼が食べたくなったんです。お嬢、交換してください」
「貴方、生の魚を食べる人の気が知れないっていつも言っていたじゃない。米なんて邪道だって……食べてる私を目の前にして。というか、食べてる私の目をジッと見つめながら」
「陰口は叩かない主義ですから」
「本人目の前にすりゃ良いってものじゃないのよ。それは置いといて、本当に交換していいの?」
食べられる? と首を傾げて尋ねるメアリに、アディが交換したてのチケットを見つめ「だ、大丈夫です」と若干戸惑いつつ答えると、返事も聞かずにさっさと歩き出してしまった。彼の表情を見るに到底大丈夫とは思えないが、その強引な気遣いに思わずメアリが笑みをこぼす。
まったくどうして不器用な従者ではないか。だがそれを指摘すれば、きっと「主人に合わせてるんです」とでも言い返すのだろう。
「そういうことなら仕方ないわね。渋々食べてあげるわ、この……」
と、メアリが交換したチケットに視線を落とす。
先程の海鮮丼同様、太文字で書かれているのは、
『仔羊のフィレステーキ フォアグラ添え』
「……アディ、貴方食費がアルバート家持ちなのを良いことに贅沢三昧してるわね」
「旦那様には感謝してもしきれません」
「まぁいいわ、とにかく今日はこれでアリシアに格の違いを見せつけてあげる」
トレーに食事を受けとり、意気揚々とメアリが食堂内を進んでいく。
転校生かつ庶民出身という異質さゆえかアリシアの周りには誰も居らず、まるで故意に孤立させるかのように彼女の座る一角だけ席が空けられていた。「庶民の隣で食事をとりたくない」という貴族ゆえの考えなのだろうか。それでも気にはなるのか誰もがチラチラとアリシアに視線を向け、一部は声を潜めてなにやら話している。
勿論その空気は当の本人も気付いているわけで、申し訳なさそうに身を小さくするアリシアの姿は哀れみさえ誘う。身分の違いゆえ同じような居た堪れなさを感じたことのあるアディとしては、彼女の辛さは他人事ではない。対してメアリはそんな空気も物ともせず、真っ直ぐにアリシアのもとへ向かうと当然と言いたげに堂々とその隣に腰を下ろした。
おまけに、
「隣、座ってもよろしくて?」
という──本人にとっては──威嚇の一言付き。
これにはアリシアもアディも目を丸くするしかなく、アリシアは「……どうぞ」と椅子を引き、アディは呆然としつつメアリの前の席に座った。
「あら、貴女お弁当を持ってきているのね。そちらの料理は、どうして食べないのかしら?」
チラとアリシアの弁当と一品料理を一瞥したメアリが、わざとらしく尋ねる。それに対してアリシアは恥ずかしそうに俯くと、ポツリと小さく「分からないんです」と呟いた。
「私、今までちゃんとしたテーブルマナーなんて習ったことがなくて……だから失敗するのが怖くて」
頼んだは良いが食べ方が分からず、隠れるように隅に座っている。そう語るアリシアからはゲームのような明るさは微塵も感じられない。
だが確かに、流石は貴族の通う学園だけあり、この食堂で食事をする誰もがみな完璧なテーブルマナーを身に付けている。学生らしく楽しげにお喋りをしながら食事をする女子生徒も、その手付きはまさに優雅の一言。
この学園においてテーブルマナーは習うものではなく、出来て当然なのだ。ゆえにアリシアは教わることも出来ず、美しく磨かれた銀食器を前に自分がいかに場違いかを自覚させられていた。
「ふぅん、まぁ庶民の貴女にはテーブルマナーなんて縁が無かったんですものね」
嫌みたっぷりに言い切り、メアリがナイフとフォークを手に取る。
そうしてゆっくりとステーキを切って口に運ぶその仕草は、誰が見ても完璧な所作である。それも当然、メアリはアルバート家の令嬢、テーブルマナーなど最早意識するまでもないのだ。
そんなメアリの優雅な所作に見惚れていたアリシアが、はたと気が付くと慌てて一品料理と銀食器を手元に寄せた。そうしてチラチラと横目でメアリを見つつ、ぎこちない手付きでナイフとフォークを料理へと向ける。メアリを真似て一口大に切り、口に運ぶと嬉しそうにほころぶその表情といったらない。
(……お嬢、悪役どころか、良いお手本になってます)
二人の前に座ったアディがそんなことを思いつつ海鮮丼を口に含んだ。実際に声に出さなかったのは、勿論ここまで頑張っているメアリの失態を指摘してやるのが従者として申し訳ないからだ。……あとやっぱり生魚も米も受け付けられず、口の中に広がる生臭さと言いようのない食感を消すため水を飲むのに必死だったからである。
「忘れがちだけど、『ドラ学』は乙女ゲームなのよね。つまり恋愛してなんぼってわけ」
「そういや、乙女ゲームってのはそういうもんだって話してましたね」
「選り取り見取り状態のかっこいい男性と恋に落ち、チヤホヤしてもらい時には恋愛のドキドキもある……それが乙女ゲームよ」
「へぇ、そりゃまたお嬢の前世ってやつには面白いもんがあるんですねぇ。驚きだなぁ」
乙女ゲームの説明をするメアリに、彼女の向かいで本を読んでいたアディがうんうんと頷いて返す……が、視線は本に落としたままである。そのうえ返事は全て棒読み。この従者、ついには主人に顔を向けずに生返事である。
ちなみに二人の現在地は学園内の図書館。利用者が誰も居らず図書委員が用事で席を外している今は、悪巧みをするにはもってこいである。
「メアリ・アルバートはそんな乙女ゲームに出てくるライバルキャラ。ことごとく主人公の恋愛を邪魔するのよ。というわけでアリシアの恋愛を邪魔してみようと思うの。アディ、どう思う?」
「そいつは良いんじゃないですかねぇ」
「……いいかげん本を閉じないとお父様に言いつけるわよ」
「さぁお嬢、頑張りましょう! まずは何をしますか!!」
「ねぇ、貴方の中のヒエラルキーおかしくない!? 私とお父様の差が激しすぎない!?」
これでも私アルバート家の令嬢よ! と声を荒らげるメアリに、アディが笑って誤魔化す。
「それでお嬢、アリシアちゃんの恋愛を邪魔するってどういうことですか?」
「さらっと流したわね……。まぁ良いわ、とにかく今はアリシアの恋愛よ、あの子いつの間にかフラグ立ててるんだから」
現在、アリシアが親しくしている異性は三人。
その中でもとりわけ親しく接しているのが、歴史の長いカレリア学園の中でも過去最高の優等生と謳われる生徒会長のパトリック・ダイスである。
文武両道・眉目秀麗、おまけに歴史ある貴族の家柄といういかにも乙女ゲームに居そうなハイスペックの持ち主。藍色の髪に同色の瞳という、見た目もまさにな王子様である。
『ドラ学』での攻略難易度が高く、初期好感度はキャラクターの中で誰よりも低い。庶民の出である主人公に対し、出会い頭に「気安く話しかけるな」とまで言ってのけるのだ。だがそんなクールを通り越しツンドラ氷河期な態度が女性プレイヤーのハートに火を点け、『ドラ学』の中で誰よりも人気のあるキャラクターだった。グッズも彼の品物が一番売れ行きが良い、と聞いた覚えがある。
実際のパトリックもまた同様に、やたらと見目の良い男達が集う生徒会の中でも一番の人気を誇る。それどころか彼の人気は学園に留まらず、年頃の令嬢であれば誰もが一度はパトリックに恋焦がれると言っても過言ではないほどだ。
そんな生徒会長と、生徒会の書記と物理教師。この三人が今のところアリシアが親しくしているキャラクターである。
といってもパトリック以外はゲームでは初期好感度が高く、どんなに低いステータスでも親しげに接してくる。実際の彼等も同様に、誰にでも分け隔てなく優しい性格をしている。大方、好奇心旺盛な書記は庶民のアリシアに対し興味を抱き、親切な物理教師は身分の違いに悩むアリシアを見兼ねて、それぞれ生活の助けを買って出たのだろう。
今のアリシアの成長具合からすれば、まずまずの進み具合といったところだろうか。
付き合い方も友人以上恋愛未満といったところで、別段誰かのルートに突入した気配はない。ここから新たな攻略対象キャラクターと親しくなることも出来るし、必要ステータスを上げて特定のルートに進むことも出来る。まだ分岐点は先のようだ。
「褒めるほどでもないけど、順調ではあるわね。今のまま進むならまず問題ないでしょ」
至って順調、とアリシアの成長具合と恋愛事情を語るメアリに、アディが感心したように頷いた。
「さすがお嬢、しかしよくそこまでアリシアちゃんのこと調べましたね」
「……あの子、最近やたらと私に話しかけてくるのよ。嬉しそうに色々と語ってくれるわ」
どういうことかしら……と視線を逸らしながら呟くメアリに、アディが答えられないと顔を背けた。「どう考えても友達だと思われています」とは、流石のアディも口には出来ない。もっとも、メアリも薄々と感付いてはいるのだが、没落コースを目指している以上、認めてしまえば心が折れかねないのだ。
「と、とにかく! アリシアが三人と親しくしてると知ったからには、邪魔をしないわけにはいかないわ!」
『ドラ学』でも悪役令嬢メアリは事あるごとに主人公アリシアの恋愛を邪魔していた。
わざとアリシアの前で攻略対象者と親しげにしたり、自分こそがお似合いなのだと家柄含めて自慢をする。
アルバート家主催のパーティーが開かれた際には、わざわざ好感度が一番高い相手をエスコートに選ぶほどである。それどころか、ルートによっては攻略対象者と婚約までしてしまうのだ。もちろん攻略対象者がアリシアを好いていると知っていて、というより知っているからこそ。まさに形振り構わず邪魔をしてくる。
もっとも最終的にはそれらも含めて糾弾されるわけで、となると没落を目指すメアリがそれを真似しないわけがない。
「今日あの子は市街地に遊びに行くって言ってたわ。なんでも、転校してくる時にお世話になった人に挨拶をするんだとか」
「それもまた本人から聞いたんですか?」
「……聞くどころか、一緒に行かないかと誘われたわ」
「うわぁ……」
「やめてよ引かないでよ泣きたくなるでしょ! 今はとにかく妨害よ! 確かゲームの中で市街地で起こるイベントがあったはず」
何だったかしら、とメアリが記憶を引っくり返す。
確か市街地で見られる一枚絵が何枚かあり、その中にメアリが関係していたものがあったはずだ。記憶の限りでは相手は生徒会長パトリック。絵の中で彼はメアリと馬車に乗っていて……。
「思い出した! 私とパトリックが馬車に乗ってるのを、たまたま主人公が見つけるのよ!」
ゲームの中でも、今と同じように主人公アリシアは市街地へ向かう。
その途中、メアリとパトリックを乗せた馬車が彼女の横を走り抜けるのだ。身を寄せ親しげに話す二人の姿にアリシアは傷つき、もしや二人は付き合っているのでは……と勘違いまでしてしまう。
といっても、パトリックのルートを進めればそれが単なる思い過ごしであることが判明する。メアリがアリシアに見せつけようと画策し、半ば脅すように彼を馬車に誘い込んだだけなのだ。詳しくは語られていないが、大方ゲームのメアリは家柄を盾にパトリックに迫ったのだろう。「貴方と私の家、どちらが大きいか分かってらっしゃる?」とでも言えば、彼は黙って頷くしかないのだ。
「なるほど、確かにそれは妨害になりますね」
「でしょ。そういうわけだから、パトリックを誘って市街地まで行くわよ!」
幸い、メアリとパトリックは顔見知りである。互いに名門貴族の生まれであり、学園で出会うより先に社交界で挨拶を交わしているのだ。
それどころか、パーティーがあればエスコートを頼む関係ですらあった。代々アルバート家とダイス家は親しくしており、互いの家柄を考えればそういった関係になってもおかしくはない。おまけに、メアリもパトリックも誰もが羨む美貌の持ち主なのだ。
「パトリックとの付き合いは長いし、『少し話がしたいの、馬車で送っていくわ』くらい言えば付いてきてくれるでしょ」
「……馬車で、ですか。ところでお嬢」
「なぁに?」
「俺ら、自転車通学ですよ」
……。
元より静かな図書室に、耳鳴りがしそうなほど冷ややかな静けさが漂う。
「そうだったわ……!」
ガクン、とメアリが膝から崩れ落ちた。
床に膝をつくなど貴族の令嬢らしからぬ体勢ではあるが、絶望感がヒシヒシと伝わってくる。
「誰よ、王家に次ぐ貴族の娘に自転車通学なんて強いるのは……」
「言っちゃあなんですが、お嬢ご自身です」
「だって馬車だと大通り通らなきゃいけなくて五十分もかかるのよ? 自転車なら小道抜けて十五分なのに! とんだタイムロスよ!」
「まぁ確かに、ここいらは馬車が通り抜けられない細い道が多いですからね」
「非効率、ナンセンスよ!」
喚きながら訴えるメアリに、アディが溜息をつきつつも同感だと頷いた。
アルバート家の豪邸からやたらと大きな馬車で学園まで行くとすると、その途中にある小道の入り組んだエリアを大きく迂回する必要がある。おまけに、学園の正門前は生徒達の送迎で溢れかえっており、乗り降りするのにやたらと時間がかかるのだ。
対して、自転車ならばアルバート家の裏手にある使用人用駐輪場から裏門を出て小道をかっとばし、学園の中庭に自転車を停めるだけである。所要時間は約十五分。どちらが効率的かと問われれば、断然後者である。
だがあくまで自転車は庶民の乗るものだ。貧相な庶民は小回りの利く自転車で忙しなく動き回り、裕福な貴族は馬車でまったりと……が常である。貴族の令嬢が自分で自転車を漕ぐなどもっての外。
「しくったわ。悪役令嬢はどんなに効率的でも自転車になんか乗らないのよね……」
「お嬢、自転車通学三年目にして言いますが、普通の令嬢も自転車に乗りませんからね」
「なるほど、だからうちの学園に駐輪場が無いのね。今この瞬間ようやく納得したわ」
「で、パトリック様はどうします? 俺、アルバート家に戻って馬車の手配をしましょうか?」
「…………いいえ、このまま誘うわ!」
「誘うんですか!? 自転車ですよ!?」
「乗せるわ!!」
たとえ拒否されるのが分かりきっていても、敵前逃亡だけは許されない! そう訴えるメアリに、アディが呆れたように出かけた言葉を飲み込んだ。
相手はあの生徒会長パトリックなのだ。馬車ならまだしも、庶民の乗り物である自転車になんて乗るわけがない。つまりメアリは玉砕覚悟で挑むわけで、ならばここは何も言わずに骨を拾ってやろう……と、そうアディが心の中でメアリの墓標を立てていると、カツカツと足早に廊下を歩く音が聞こえてきた。
で、あれこれあってしばらく。
「……まさか本当に乗るなんて」
と、自転車を漕いでいたアディがポツリと漏らした。
その後ろにはカレリア学園生徒会長のパトリック。藍色の髪を風になびかせ、自転車の荷台に座るその姿にすら気品を感じさせる。
ちなみに何故こんなことになったかと言えば、遡ること数分前。
玉砕覚悟でメアリがパトリックを誘ったところまさかのオーケーを貰い、揃って目を丸くしているうちに気付けば学園内の中庭。別名、駐輪場。その隅に停めてある二台の自転車をやたらと興味深そうに眺めるパトリックを横目に、ようやく我に返ったメアリとアディはどうしたものかと悩んだのだ。
本来の目的を思い出せば、ここはパトリックとメアリが二人乗りをするべきだ。例え本来のゲームのような金持ちぶりは発揮できなくとも、仲睦まじく下校する姿を見ればアリシアも傷つくはず。
だが貴族の生まれであるパトリックは当然だが自転車に乗ったことが無い。メアリも、流石にパトリックを乗せて漕ぐことは不可能。となれば当然、メアリの従者であるアディがパトリックを乗せて自転車を漕ぐことになるのだが、果たしてこれが正解なのかどうか……。
いや、そもそもの自転車通学が間違いと言われればそれまでなのだが。
「ところで、パトリック様を自転車にお乗せするなんて、もしかして俺って今とんでもないことしてるんじゃ……ダイス家から訴えられたらどうしよ……」
「気にするな。俺が言ったんだ。それに自転車には一度乗ってみたいと思っていた」
「え、それは意外ですね。自転車に興味がおありだったんですか?」
「あぁ、風が気持ちいいと以前にアリシア……いや、とある人物が話していてな」
「とある人物ですか」
わざとらしくコホンと咳払いをして誤魔化すパトリックに、アディが察して聞こえなかったふりをした。
隣で並走しながらそのやりとりを聞いていたメアリも同様、何事も無かったかのように風を受けて自転車を漕いでいたが、内心ではパトリックの変化に驚きアリシアに賛辞さえ送っていた。
この生徒会長が庶民の乗り物に興味を示しているのだ、どうやらメアリが予想していた以上に──そしてきっと、純粋で少し鈍感なアリシア本人も思っていないほどに──パトリックのなかでアリシアが大きな存在になっているらしい。
『ドラ学』はプレイヤーがアリシアとなり学園生活を送るシステムである。あくまで心情が分かるのはアリシアのみで、相手からどう思われているかは作中の会話と、あとは好感度と言う数値でしか分からないが、どうやらゲームで受ける印象以上にパトリックはアリシアにベタ惚れなようだ。冷静沈着、愛の言葉を囁く時でさえクールなゲーム上の彼とは思えないそのあからさまな誤魔化しに、なるほどこれは案外に面白いとメアリが僅かに口角を上げた。
そうしてふと前方を見れば、道の先に見覚えのある後ろ姿が見えた。
金糸の緩やかな髪を風に揺らし、スラリとした手足を潑溂と動かして歩く少女。貴族の証でもあるカレリア学園の制服を身に纏い、それでも不用心に一人で外を歩くその姿は間違いなくアリシアだ。他のカレリア学園の生徒が徒歩で下校などするわけがなく、迎えも護衛もなしに一人で出歩くわけもない。……自転車通学ならいるが。
そんなカレリア学園らしからぬアリシアの後ろ姿に、メアリがいよいよだとハンドルを握る手に力を入れた。ゲームのイベント通り、このままアリシアの横を通り抜けるのだ。彼女はメアリ達を見つけ、その仲睦まじい姿に傷つき、そして勘違いをしてパトリックから距離を置いてしまう。
上手くいくはず。
……上手く、いくはず。
…………上手くいくかなぁ。
本来のゲームとは微妙にシチュエーションが変わった現状に、思わず不安を感じてしまう。
ゲームの通りであれば今はアルバート家の馬車の中で、メアリとパトリックが身を寄せ合い親しげに座っているのだ。その光景からアリシアが要らぬ誤解をしてしまう、というのは理解できる。
だが今はどうだ。パトリックはアディと二人乗り、メアリは一人で自転車を漕いでいる。
ゲーム通りアリシアが「なんて仲が良さそうなの、もしかして二人は……」という勘違いをするのであれば、この場合だとメアリとパトリックではなく……。
「やめよう、それ以上考えては駄目よメアリ……自分を信じなくちゃ」
浮かび上がった絵面に寒気すら感じ、フルフルと首を横に振りながらメアリが自分をなだめる。
ここで自信を無くしてどうする。既に計画は動き出しているし、一度決めたからには貫くのがアルバート家の令嬢というものだ。そう、きっと上手くいくはず。この光景に、きっとアリシアは勘違いをしてくれるはず。
……まぁ、その勘違いが多少違ったとしても良しとしよう。
要はアリシアとパトリックの仲を邪魔出来ればいいのであって、アディが巻き込まれたとしても仕方ない。彼は尊い犠牲になるのだ。
そんなことをメアリが考えつつ、まさにアリシアの隣を走り抜けようとし……。
「あら、パトリック様」
「アリシアか。悪いアディ、止まってくれ」
「はい!」
キィ! と軽快な音を立てて止まった自転車に、思わずメアリも倣ってブレーキを握りしめた。
「ごきげんよう皆様」
ペコリとアリシアが頭を下げる。
その挨拶はどことなく不慣れでぎこちなさを感じさせるが、アリシアの身の上と彼女の性格を知っていれば微笑ましくも見えるだろう。
現に、普段であればぎこちない挨拶をしてきた者に対し「それでもカレリア学園の生徒か」と叱咤でもしかねないパトリックが、アリシアに対してはただ頷いて返している。それどころか彼女に注がれる視線はどこか優しげで、冷静沈着かつ無表情がデフォルトとさえ言われる彼が今だけは柔らかく見える。
対してアリシアはそんなパトリックの視線には気付かず、不思議そうに三人を見るとクイと小首を傾げた。
「皆さん自転車に乗って、今日はどうされたんですか?」
アリシアが疑問に思うのも無理はあるまい。なにせ、貴族ばかりが通うカレリア学園の中でもとりわけ名門貴族の二人が庶民の乗り物に乗っているのだ。
そんなアリシアの疑問に対し、パトリックはコホンと軽く咳払いした後、まるでこの場を任せるとでも言いたげにメアリに視線を向けた。どうやら「アリシアの話を聞いて自転車に興味を持った」とは言えないらしい。
分かりやすいパトリックの態度に、メアリが僅かに笑みをこぼした。ゲームでの彼は好感度が上がるや砂糖を吐きそうな甘ったるい台詞を吐いて女性プレイヤーを魅了したものだが、今のこの甘さとプライドの合間を彷徨っている姿もこれはこれで魅力的ではないか。
だが今はそんなことを考えている場合ではない。
なのでメアリは適当に「運動になると思いましたの」とでっち上げ優雅に笑いつつ、アリシア達から後退った。
「おほほ、ちょっと私アディと話がありますの」と、こんな感じで従者の腕を引っ張りつつ、彼女達から距離を取る。気分は仲人の「後はお若い二人で」状態だ。
そうして二人には声が届かない程度に離れると、気まずそうに他所を向くアディの足を踏んづけた。
「いやぁ、あの二人お似合いですねぇ……ねぇお嬢、俺の足を踏んでないで、あの二人をご覧なさいな」
「聞きたいことは一つ。なぜ止めた。私の計画を知っていて、なぜ自転車を止めたの」
「ははは、お嬢ほら見てくださいパトリック様ってば照れていらっしゃいますよ。まぁアリシアちゃんは素朴で可愛いし、今までいなかったタイプなんでしょうねぇ」
「……私達いっぺん話し合う必要があるようね。お父様を交えて」
「すいませんでした。いくらお嬢の計画があっても、パトリック様の命令には逆らえませんでした!」
申し訳ありませんでした! と勢いよく頭を下げるアディに、メアリが眩暈を覚えつつ額を押さえた。
確かに、従者の家系であるアディが名門貴族のパトリックの命令を無視できるわけがない。それは分かる。が、その前提にメアリの命令があるのだが、彼の中でそれはどうなっているのだろう。
あと、やはり彼の中のヒエラルキーがおかしいことになっている気がする。そりゃアルバート家の当主であるメアリの父親が最上位に位置するのは当然だが、その娘がパトリックよりも下に位置されている気がする……。
と、そんな疑惑の視線をメアリが向けると、流石にこれは不味いと思ったのかアディが誤魔化すように笑った。
「ほらお嬢、機嫌直して戻りましょうよ」
ね、とアディが笑いかける。
ぎこちないその笑みはご機嫌取りなのが明らかで、メアリが怒る気力も失せたと溜息をついて「まぁ良いわ」と話を終えた。
そうして、パトリックとアリシアのもとへと戻っていく。ここでアディを問い詰め、主人として彼を叱咤し、場合によっては処罰を……としないところがアディの態度を後押ししているような気もするのだが、今はそれを気にしている場合ではない。……と、こうやって後回しにし続けているから今に至る気もするのだが。
「お待たせして申し訳ありません」
ニッコリと微笑み、メアリがパトリックとアリシアに話しかける。
どうやら会話が随分と弾んでいたらしく、声をかけられるまで気付いていなかった二人はメアリの登場にはたと我に返ったようで、アリシアは嬉しそうに、パトリックはどこか恥ずかしそうにメアリに視線を向けた。
「ではパトリック様、参りましょうか。ごきげんようアリシアさん、また明日、学園で」
「あぁ、その件なんだが……」
アリシアに別れの挨拶を告げたメアリに、パトリックが待ったをかけた。それに対して勿論だがメアリが目を丸くするわけで、いったいどうしたのかと視線で問えば、パトリックがコホンと一度咳払いをした。
で、どうなったかと言えば、こうなった。
「やはり自分で漕ぐとまた違った感覚だな。これは確かに良い運動になる」
「凄いですパトリック様、一度で乗れるようになるなんて。それも、私を乗せて!」
「そうはしゃぐな、乗馬に比べれば楽なものだ」
楽しそうに風を受け走る二人を横目に、メアリが盛大に溜息をつく。
ついでに八つ当たりでアディの腰を肘で小突けば、「うぐ……」という声が聞こえグラリと自転車が揺れた。
「試合にも負けて勝負にも負けて、おまけに賭けにも負けた気分だわ」
「お気持ちは分かりますが。お嬢、大人しく摑まっててください」
はぁ……と溜息をつきつつ、メアリが言われたとおりアディの腰に腕を回す。
ちなみに、今のメアリはアディが漕ぐ自転車の後ろに座っている。いわゆる二人乗りと言うやつだ。
その隣ではパトリックとアリシアが二人乗りで並走しているわけで、傍目から見れば貴族らしからぬ、それでいて若者らしい光景に映ることだろう。現にパトリックとアリシアは楽しそうで、それでいて時に自転車が揺れるとアリシアがパトリックに抱き付いて二人とも顔を赤くさせ……と、観ていて甘酸っぱさすら感じられる。
それに対してメアリとアディはと言えば、メアリは死んだ魚のような瞳で負け台詞を呟き、アディは背後から漂う負のオーラに引きつった笑みを浮かべていた。
パッと見はどちらも仲睦まじい男女ではあるが、よくよく見ると二台の差は天と地である。自転車が段差を乗り上げ揺れるたびアリシアが「きゃっ」と可愛い声を上げてパトリックに抱き付けば、その隣ではメアリが揺れに乗じてアディの腰に軽い肘鉄を入れて呻き声をあげさせていた。
「お嬢、大人しくしていてくださいって。八つ当たりとは言え、貴女を自転車に乗せて落としでもしたら旦那様に申し訳なくて、合わせる顔がありません」
「その状況、落ちてる私には申し訳なくはないのかしら」
「だってお嬢の八つ当たりですか……痛い! だから大人しくしてください、落としますよ!」
「落とされるときは貴方も巻き込むわ! 死なばもろとも、二人で病室でお父様に会うのよ」
「なにその状況、いっそ殺してください」
と、爽やかなカップルと並走しつつ、長閑な町並みに陰鬱とした空気を振りまいていた。
それでもしばらく走ると目的地の市街地に着き、どちらともなく自転車を止めた。
「送っていただきありがとうございました、パトリック様。メアリ様もアディさんも、ありがとうございました」
深々と頭を下げるアリシアに、メアリが「気になさらないで」と微笑んで返した。
心地よい風に吹かれ、流れ行く町並みを眺め、幾度かアディの腰を小突き、時に父親を盾に彼を脅し、本気で落ちかけて慌ててアディに抱き付いて、そうしたら更に自転車が揺れ……と、なんだかんだ文句を言いつつ騒がしく二人乗りを続け、そうして敗北を受け入れたその笑みは傍目から見れば気品すら感じさせるだろう。……よく見れば、いまだ目は死んでいるが。
とにかく、そんなメアリの胸中など知る由もなくアリシアは嬉しそうに笑い、それを見るパトリックもどこか満足そうだ。純粋無垢な少女とそれを見守る王子様。まさにそんな光景に、毒気を抜かれたメアリが誰にも気付かれないよう小さく溜息をついた。
完敗だ、むしろ挑む前に負けたようなものだ。
更に、何を思ったか──大方、アリシアを目的地まで届けるためであろう──パトリックまでもが「ここで結構」と言ってのけるのだ。これでは妨害どころか、二人乗りを堪能させた挙げ句に市街地デートまで見届けたようなものではないか。完敗どころではなく、パトリックのセコンドについて応援した気分にすらなってくる。
そうして、楽しげに話しながら去っていく二人の背を、メアリが死んだ目のまま見送った。
「何がしたかったのかしら、私は……」
そう呟いたメアリの言葉に、流石に今回は自分の責任もあると感じたのか、アディが気まずそうに顔を背けた。