裁判が終わって家に帰るや否や、私は呆気ない程簡単にスワローズ家から追放してもらえた。
与えられた…というか手切れとして渡された、予想通りでレディロの中でリリアナが辿ったシナリオ通りに、一年は遊んで暮らせる資金と住居の鍵を持ち、私は馬車での最後の送迎を断って簡素なワンピースで家を飛び出した。そんな私の表情は──無論、満面の笑みである。
テンションはうなぎ登りで上限を知らず高まって行く。今にもスキップしてしまいそう! これから仕事探しにご近所付き合い、その土地の慣習にも馴染まなきゃ! 大忙し! なんて幸せな大忙しなの!?
まぁ! いつの間にか本当にスキップしちゃっていたわ! あらやだ、言葉がまだたまに令嬢っぽくなっちゃっている! もう必要ないのに! そう! 必要ないのに!
スキップじゃ足りない! ダンスの先生に教えられている時は大嫌いだったのにワルツを踊りたい! 一人で馬鹿みたいにワルツを踊るだなんて素敵! ああでも、ワルツってやっぱり令嬢っぽいし…ここはコサックダンス!? やった事無いけどコサックダンスにトライしちゃう!?
家を出て十五分足らずにして私がテンションの上がり過ぎにより錯乱し始めた頃、黒歴史を生み出す前で丁度良かったのかもしれないけれど、目の前に私のテンションを落ち着かせる…要するにテンションをだだ下げ通常のテンションへと引き戻す人物が立ち塞がった。
「フェリシア様…!」
「…あら、エヴァン様」
私の目の前に立ちはだかるはレディロの攻略対象キャラの一人…学園で主人公に一目惚れし、婚約者が居ようと諦め切れないと主人公に迫って来る肉食系。けれどわんこ属性で主人公の言う事には逆らえない茶髪緑目の当然イケメンな同級生エヴァン・ダグラス君。
俺様殿下と比べて情報が具体的なのは当然の話。私の好感度の差だ。
でも自由を手に入れる為なら大好きなゲームキャラとはいえ眼中無しで最初から恋愛する気皆無だった私にとって、この場面でイレギュラーにもキャラと遭遇するなんて事態には不安しか感じない。豪華絢爛だけど冷たい鳥籠から羽ばたいて行こうとする私に、貴様何の用だ。
「私は…フェリシア様が無実だと確信しております! 共に貴女の汚名を返上しましょう!」
あ、いえ、盛り上がっているところ悪いんですけど、マジでそういうのいいんで。
これがゲームの一場面なら一枚絵スチルが手に入りそうな真剣な表情で朝日をバックに訴えかけて来るエヴァン君。朝焼けに透ける柔らかそうな茶髪が綺麗で、真っ直ぐな強い意志を感じるキリッとした緑色の瞳は美しく、なのに顔立ちはまだ年齢故に可愛らしさを残しつつも男らしくて格好良い。しかし私の内心のせいでかなり間抜けな図に成り下がっている。かわいそう。
「エヴァン様、それは貴方の買いかぶりですわ。私は確かに殿下に近付くリリアナ様に嫉妬に駆られ我を失い、取り返しのつかない事を致しました…。これは、その罰。それを受け入れる事こそが、私に残された殿下への唯一の罪滅ぼしなのです」
はい、この程度の口から出まかせは、俺様殿下がやらかした事に巻き込まれ両親から叱咤折檻されないように日々培ってきた私には余裕です。悔いるような苦笑もオプションにつけちゃう。
「フェリシア様、そんなにも…殿下の事が…っ」
「ええ…一生に一度の恋でしたわ」
淡く涙を浮かべ、憂うように空を見上げた。あー朝焼け眩しいわー。
私が大嫌いな俺様殿下をあくまで好きだった設定にしている事には理由がある。本来、私の今の立ち位置はリリちゃんが立つはずの場所だった。そこに主人公役の私が立つ事で望まないシナリオ変化が生まれ、望まない結末になる危険性を想定したのだ。
エヴァン君はレディロ主人公に一目惚れ設定だ。という事は、ここで私がボロを出し間違ってエヴァン君ルートに入ってしまうと、もしかしてもしかしたらエヴァン君の好意という名の刃によりリリちゃんの優しい噓が暴かれて私の汚名が返上されてしまい、私はスワローズ家へと再度迎え入れられてしまうかもしれない。
ダメ。そんなのダメ絶対。殿下から逃げられ王妃となる道から外れられても、公爵家と貴族としての重圧がリターンなんて無理。我が儘でも無理。
だから、ここで間違っても救済の如き孔明の罠、エヴァン君ルートに入らないよう私は注意を払わなければならない。
それにあたり、俺様殿下の事まだ好きよって言い訳が都合良いかなってそれだけの理由で殿下を好きなふりをさせてもらっている。セス様、貴様の事は微塵も好きじゃないけど名前だけ借りるね。
「…もう行かなくては。旅立ちはやはり朝に限りますわ。エヴァン様、最後に私に会いに来てくださりありがとうございました。貴方は優しい、私の友でした」
涙目の笑顔で、遠回しにお前恋愛対象じゃねぇからと木っ端微塵にエヴァン君の恋心をぶち砕いた私は、凜とした顔でつかつかとエヴァン君の隣を通り過ぎる。
ちなみに私とエヴァン君は実際のところあんまり話した事も無いので、本心で友達なのかと聞かれたなら曖昧に微笑みながらも同級生ですと答える。
ああでもエヴァン君、私エヴァン君のハッピーエンドルートで初めて主人公のお願いを振り切ってキスしてもう誰にも渡さないって抱き締めた君に悶え転がったよ。でもノーマルエンドルートで俺様殿下と婚約破棄にはなったけどエヴァン君に恋愛感情は芽生えず、お友達で居ましょと笑顔で言ったヒロインに逆らえず苦笑いで仰せのままにって言うエヴァン君も好き。バッドエンドルートで大怪我を負ったヒロインに、俺が守れなかったせいでって勝手に責任感じて泣きながら独り善がりに消えるエヴァン君も好きだったし。つまりは君の全部が好きだった。だって大好きなゲームのキャラクターだし。つまり君だけが好きなわけでは全然ないんだけど。
「っフェリシア様…!」
私の見た目演技は完璧だったはずなのに、まさか私の心の中のエヴァン君好きよという邪念でも聞こえてしまったのか、エヴァン君が慟哭するように私を呼び止めた。
私はそれに驚き、びくりと足を止めてしまう。しまった。ち、違うんだよ、エヴァン君。君の事は確かにキャラクターとして好きだったけど、それはあくまで博愛な意味で、ミーハーなファン的感情で、ぶっちゃけ本気で恋愛するとしたら家の事とか貴族の事とか置いておいたとしても、君の愛重いしその…ちょっと、さ……。
「今は俺を好きじゃなくてもいいから! だから! 俺の手を取ってください! 俺は…っ俺は貴女が好きなんだ! 俺を選んでください…! そうしたら貴女を連れて逃げる! 二人でなら平民でだって幸せになれる! いえ、幸せにしますから…!」
後ろから聞こえる情熱的告白。
でも平民というものの評価が低過ぎてそもそも私の前提と違うので戸惑います。二人じゃなくても平民になれる事が既に私の幸せで、私もう今世の人生で今一番幸せピースいぇいいぇいな心情なんです。
「…ごめんなさい。私の事は、忘れて」
よって私は悲痛な声で、けれど内心では歯牙にもかけずあっさりと断り、今度こそエヴァン君のもとから走り去った。
なんという時間の無駄な強制最終イベント。さすがに悪役じゃなく主人公役という事か。
いや、時間の無駄なんてさすがに言っちゃいけないよね。ごめんねエヴァン君。君、ほぼ一目惚れでここまで重くなれるぐらい恋愛免疫無いみたいだから、きっとまた大恋愛出来るよ。私も平民ライフをエンジョイしながら応援しているからね。がーんばっ!
● ● ●
私が平民になってから、何だかんだあっという間に一ヶ月が過ぎた。望んだ暮らしを手に入れた後、私は意外とこんなものかなんて失望する事微塵もなく、毎日この幸せを神に感謝しながら平民ライフを送っている。
前世の日本で暮らしていた私は平民でそれを当然と思っていたんだけど…こうして貴族から平民に戻る経験をすると、なんと得難い幸せだったのかと実感する。
日々生きる為の最低限の食べ物に困り帰る家もなく寒さに震える貧民や、戦争により傷つき傷つけられ傷つけて生きる人々に比べれば、どちらも同じとんでもない幸福とは言えるだろう。けど、不幸比べに何の意味があるのか。人から見て幸せに見えるかなんて私からすれば至極どうでもいい。私は私が少しでも幸福になれる未来を選んだだけだ。
…それは噓の上に成り立っているけど、でも恐らく俺様殿下と婚約したはずのリリちゃんは幸せなはずだ。俺様殿下だってレディロ主人公なら未だしも、演技していないと実は根本的に性格が合わない私よりリリちゃんの方がいいだろう。両親は私に失望しただろうけど、元々冷めた関係だしあんなクズの両親の幸せの為に私は犠牲になりたくない。一応今世の親だし変に恨まれたくもないから不幸にまではしたくなかったけど。エヴァン君には可哀想な事をした。でも私がエヴァン君ルートを選ばなければ結局彼は失恋となるんだし、仕方ないと諦めて欲しい。
誰も特別不幸にならない結末、これも一つのハッピーエンドだと私は思う。
「フィーちゃんは本当に楽しそうに働くねぇ」
私の現在のお勤め先である、パン屋の店主ミシェルさんがにこにこと私を見ながら言った。私は笑い返す。
ちなみにフィーちゃんというのは愛称で呼ばれているわけではない。スワローズ家から追放された私は親からもらった名前を名乗る訳にもいかないので、前の名前からそう遠くなく呼ばれても反応出来るようになんて安易な理由でフィー・クロウと現在は名乗っているのだ。
平民は地域にもよるけどファミリーネームが無いのが一般的なのでファーストネームだけにするか迷ったけど、平民の事は調べまくっていたとはいえ、町に馴染む前な来たばかりの私はどうやっても貴族らしさが出かねない。それならいっそ、ファミリーネームでちょっと訳ありなんじゃという匂いを出しながらも健気に頑張っている方が上手く暮らして行けると考えた。
「お仕事、本当に楽しいんですもん」
「お金の為に若い娘でも働くのは珍しくないけど、こんな意欲的な子滅多に居ないよ。あんた雇って良かった」
「そう言って頂けて私も光栄です」
仕事自体も人間関係もこの通り至って良好だ。しかもその日余ったパンももらえる。なんて最高の職場なのか。町に一つだけあったパン屋さんを訪ねたら即日採用してもらえたなんて、今世の私の運はもしかしたら相当いいのかもしれない。前世が酷かった分、神様がサービスしてくれたのかも。
「でもあんた、ちょっと太ったけど大丈夫かい? 毎日あんな量のパン持ち帰って…どうせ廃棄だしそりゃ構わないんだけど、まさか全部一人で…」
「…し、幸せ太りなんです! 大丈夫、今はまだちょっと浮かれちゃっているだけで、すぐテンションも体重も戻ります! 戻しますから!」
私は冷や汗をかきながら必死に言い訳した。ちょっとでも太ればがみがみ言って来る世話係やら嫌みを零す仕立屋やらが居ないから油断していたかもしれない。今日からダイエットしよ…。
「そうそう、フィーちゃんはせっかく別嬪さんなんだから体型管理は気をつけんだよ。最初フィーちゃんを雇った時はあんまりにも綺麗な髪やら手やら仕種やらで、どこぞの貴族のご令嬢に見えたもんだよ」
「そ、そうなんですかー」
冷や汗が増した。そんなどうしようもない所からボロが出ていたとは。今更この話をされたのは、やっぱり私のファミリーネーム訳有り臭効果だったんだろうか。
ああでもそういえば、長かった腰までのロングヘアーを邪魔だし誰にも咎められないしとがっつりショートに切った時、オーバーなぐらいもったいないって言われたっけ。
「ま、ご令嬢がこんな町のパン屋で幸せそうに働けるはず無いさね!」
「ですよねぇ」
世間の一般常識が味方してくれているお陰で一応誤魔化せてはいるようだ。すみません、噓吐いて。でも私が実は元貴族の公爵令嬢なんて真実を言っても誰も得しないと思うんです。噓は時として真実より幸せなんです。リリちゃんの噓のお陰で現在進行系で幸せな今の私のように。
こうして話が一段落したところで店のドアが開く音が聞こえた。私はさっと店員の顔となり、笑顔でドアの方に身体を向ける。
「いらっしゃいま!……せー」
そこに居た二人の護衛を後ろに伴った人物は、私のよくよく知るお方だった。
「此処にフェリシア・スワローズ嬢は居るか」
いいえそんな人は居ません。お引き取りください。…とは、色んな意味で言えない。
平民の暮らす町には見た目も存在感も何もかもが似つかわしくない目の前の人物、名前をニコラス・キャボット。彼はレディロの攻略キャラの一人である、通称ニカ様だ。
「…ああ、失礼。髪を短くされているから一見ではわからなかった。久方ぶりだな、フェリシア嬢」
ニカ様は、透き通るような銀髪に鋭く切れ長のアイスブルーの瞳を持っていて、美麗で冷たい印象と只者では無いオーラが半端ない。そのお姿だけでキャラクター属性を推測するならクールな俺様キャラだろうか。でもレディロの俺様枠にはあの俺様殿下セス様が居る。ついでにクール枠にも別の人が。そして先刻の発言の通り、ニカ様は自分の非を素直に認め謝罪出来るお方だ。俺様殿下あの野郎とは違うんですよ。
さて、それは置いておいてそんなニカ様と私の関係だが…ニカ様は、なんとあの俺様殿下セス様の腹違いの兄上様だ。要するに一月前までは婚約者の兄で良くしてもらっていた。ニカ様は俺様殿下より先に生まれはしたけど陛下と側室との間のお子だったから、陛下と王妃との間の子の俺様殿下より王位継承権の順位は低い。そしてそもそも自分が王になる気もない。天才なその頭脳で国や王となる弟を支えたいと真摯に思う、出来たお方だ。格好良い。
…でも、何で今更ニカ様が私に会いに来た? うん? 嫌な予感しかしないよ?
「ニコラス様、お話でしたらお伺いしますがその前に、現在の私の名はフィー・クロウです。それに平民ですので、呼び捨てで結構ですよ」
「…フェリシア嬢、君が名を捨てる必要は無い」
「ニコラス様、私の名は、フィー・クロウなのです。どうかご理解ください」
「…わかった。君の意を汲み今だけはフィーと呼ぼう。だが代わりに、君も以前のように私の事はもっと気安く呼んでくれ」
「かしこまりました。ご理解ありがとうございます、ニカ様」
深く一礼した私は、顔を下へ向けている間だけ表情を曇らせた。私への名を捨てる必要が無いとの発言から推察するニカ様の用事が、本当に悪い予感しかしない。
とはいえ平民の私が、たとえ以前の身分だったとしても、ニカ様程の身分のお方を追い返すなんて無礼な真似を出来るはずがない。個人的にもニカ様には今までお世話になったし、ニカ様良い人だし…。
私は溜め息を吐きたいのを押し止め、渋々ミシェルさんに歩み寄った。
「ミシェルさん、自分勝手なお願いで非常に申し訳ありませんが、彼と話して来てもよろしいでしょうか…?」
「ああ、何やら込み入った事情がありそうだし、相手はお貴族様みたいだしね。行ってきな」
「私情で仕事に穴を空ける事、本当に申し訳ありません。ありがとうございます」
勤務一ヶ月で早くも仕事に穴を空けるなんて胃が痛い。そしてニカ様の話の内容も想像するだけで胃が痛い。
私は心苦しく思いながらもニカ様の居る方へと戻った。
「お待たせ致しました」
「いや、急に押しかけて此方こそすまないな」
王族でありながら、現在平民な私の暮らしや人間関係にも配慮出来るニカ様の人間性素敵。だったら来んなよと思うのは我が儘だってわかっていますよ。
ちなみにどうしたってぐらい私がニカ様を褒め称えるのは、個人的に今までお世話になったからというより、ニカ様がたぶんレディロでの一番人気なキャラクターだからという理由の方が比重は大きい。他ファンの大絶賛に流されているのは否めない。私は俺様殿下以外の皆平等に好きだからね。
「場所を移そうか。…未婚の女性と馬車の中で、というのはまずいかな?」
紳士誠実なニカ様らしくない場所の提案に少し驚いたけど、思えば此処は城下町の端の中でもさらに端っこにある。つまりわりと田舎。こんな所で人目を忍んだ話が出来る場所もそうそう無いんだろう。
別に未婚なのはどうでもいいし、紳士誠実なニカ様が私を突然襲う訳もないし、別に構いません…と言おうと思った。けれど、一文字目のかの口をし声を発する前に止める事に成功した。
──冷静によく考えろ、フィー。レディロをお前は何周した? ニカ様ルートを何度熟した? その中に、馬車の中で誤って事故チューするというイベントがあっただろうが…!
まさかとは思うが、シナリオ終了後なのに突然のニカ様ルート突入なんて御免だ! 事故チューとはつまり事故! いつでも起こり得る…! そこからうっかりニカ様ルートに入ってしまう危険性は無きにしもあらず…!
「ニカ様、実はすぐそこに私の今の家がございます。平民の家ですので手狭とはいえ、馬車よりはお寛ぎ頂けるかと」
「…それは、しかし未婚の女性の家となると馬車より問題だと思うが」
「大丈夫です。平民の私がニカ様にどんな意味でも手を出せば、如何なる理由があろうと情状酌量の余地無く即斬首に出来ましょう」
私は堂々と胸を張り、あえてニカ様の懸念とは真逆の事を言った。事故以外でニカ様がそんな事するなんてまったく心配していませんからね! 安心して!
ニカ様は少し困った顔をされたが、私に手を出す気はさらさら無いし早く話もしたいのだろう。結局私の家での話し合いを了承された。というわけで、ニカ様の護衛を後ろに二人引き連れながら現在の我が家に向かう。
…王族の護衛がたった二人だけでいいんだろうか? 私が心配する事じゃないだろうけどちょっと気になる。
まあそれは一旦置いておいて、少し情報を整理しよう。攻略対象キャラなのにニカ様が絶対に私に手を出さないという私のこの自信にはもちろん裏付けがある。レディロの中で俺様殿下セス様は俺様担当、エヴァン君はわんこ担当だ。ではニカ様の担当とは何か。それは…お色気お兄さん、だ。
私が再三繰り返していた紳士誠実に対して一見矛盾していそうだけど、別に矛盾はしていない。レディロは18禁ゲームじゃないからだ。要するに、キャラに許されるのはキスと半裸までなんだ。つまりお色気担当なフェロモンむんむんでありながら、ニカ様にはヒロインに手を出さない理由が必要となる。
そこでニカ様に付加された設定こそ、紳士誠実なのである! ニカ様はゲーム内で、紳士誠実故に婚約者の居るヒロインには事故チュー以外なんとキスすらしない! その代わり他にも事故で半裸イベントやら意味深イベントはある! そして紳士誠実故に女性の気持ちを尊重し、嫌がる事は絶対に強制しない! 俺様殿下に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいね!
そんな訳で、ニカ様と一緒に居ても事故にさえ気をつければ問題ないはずなんです。いっそレディロのニカ様ルートでの主人公みたいにこっちから好意示す振る舞いをしない限りは、弟の婚約者だったという時点で恋愛対象外な気がする。
こうして私は自分の足下・前方・横に後方たまに上、と全方位を注意し事故を起こす事なく家までニカ様をお連れする事に成功した。なんか私も護衛の一人みたいだったし、むしろ周りから見たら本物の護衛の人以上にわかりやすく周囲警戒していただろう。
ニカ様を我が家にお招きし一先ず椅子を勧めた後、私はしかし王族に出せるような飲み物も摘まめるものも平民の家にある訳も無い事に気付いた。むしろパンばかり食べているから我が家には冷蔵庫すらない。しかし何も出さないのも失礼極まりなく、安過ぎる紅茶の茶葉を見つめながらどうしたものかと数秒思案していた私に、ニカ様は察してくれたらしい。
「何も出さなくて結構だ。いきなり押しかけたのは此方だし、目的はフェリ…フィー、と話す事だけだからな」
空気の読める人って素晴らしい。あの俺様殿下と半分血が繫がっているなんて信じられない。あいつは読めないし読む気も無かった。
私はお言葉に甘え、大人しくテーブルを挟んでニカ様の座る前の椅子に腰を下ろした。護衛の人達は座って万が一の時の動きに遅れるといけないので、椅子を用意する必要はないだろう。椅子二つしかないし。
「さて、単刀直入にまず用件を言おう。私は君の冤罪を晴らし、フェリシア・スワローズとして帰って来て欲しいと思っている」
嫌です、やめて!
テーブルを両手でぶっ叩きそんな威嚇の大声を上げたいのを気合いで堪えて、私は貴族時代によくしていた淑女の穏やかな笑みを作った。
しかし言うべき事は言う。
「その必要はありません。私は、フィー・クロウとして生涯を送るつもりです」
冤罪どうこうはあえてとぼけなかった。たぶんニカ様が今更になってわざわざ私のもとまで来た理由は、証拠をきっちり揃えた上で私の返事だけを聞きに来たためだと思ったからだ。感情だけで冤罪に決まっていると言って来たエヴァン君よりも、王族であるニカ様の発言は責任が重い。でも俺様殿下が間違いを認めるのも問題だから、その辺どうする気なのかは聞いてみなきゃわからないけど。
だいたい、私と親しくしてくださっていたニカ様からあの後何も音沙汰が無いのは、気にしないようにしてはいたけど少しの寂しさ以上に違和感を禁じ得なかったんだよね。交友関係を全部抹殺する気で私の方から一切最後の挨拶さえしなかった事はとぼけるとして。
ニカ様には既に、あの件は私が何もやっていない事とリリちゃんが色々やった事がバレていると考えていい。つまり、ここからの私の言動により私とリリちゃんがこれまで通り幸せに生きられるかが決まる。責任重大だ。
ニカ様は私の答えが意外だったようで、眉間に皺を寄せた。
「何故だ。…そもそも、何故君は冤罪である事を主張しなかった」
おや。これは私の答えの下手さによっては話が大きく飛躍し国への反逆意志有りと思われかねないのでは? まあそう考えられなくもないもんね。リリちゃんの俺様殿下への大噓を私は否定せず肯定したんだし。
何とか殿下の為だったかつ、私が元の地位に戻されないような返答を捻り出さなくては。
「…リリアナ様の方が、殿下にお似合いになると思ったからです」
私は儚げに笑った。
…ふふん、どうだ! しかもこれ、噓は言っていない。内心では俺様殿下が大っ嫌いであいつの言動にピキピキ怒りを訴えるこめかみを無視して穏やかに微笑んで見せていただけの私と、奇特にも俺様殿下を心から愛し王妃になる事にも積極的なリリちゃん! どっちがお似合いかなんて言うまでもあるまい。むしろこの前提を聞いても私って答えた奴は壁に埋める!
「…それはまったく、ありえない話だ」
……。いえ、大丈夫ですニカ様。ニカ様は私の内心で提示した前提をご存知ない上でのその結論ですから、壁に埋めるなんて無礼は致しません。むしろしようと動いた三秒後には非力な私が護衛さんに殺されています。
「確かに、我が弟は間違いを犯した。君には謝罪で済む話ではない。だが、だからといってリリアナ・イノシー嬢がお似合いという程には酷くないはずだ。君を蹴落とす為最低の噓を吐いたリリアナ・イノシー嬢は誰よりも、王妃の資格が無い。冤罪で罪の無い次期王妃を陥れたような女が、良き王妃になどなれようはずが無い。それにフェリシア嬢以上の王妃適任者もこの国には居ない。リリアナ・イノシー嬢は経験も知識も所作も拙く、決定的に中身が愚かだ」
私の天使令嬢リリちゃんがボロクソ言われてる。酷い。
というか、ニカ様はそう仰いますけど私が現時点で一番に王妃適任者なのは仕方ない話ですからね。だって私、五歳から十年以上そういう教育を受けさせられて来たんだから。リリちゃんなんてまだたったの一ヶ月。それで私より上手くやれたとしたら天才どころの話じゃない。これからだよ、頑張れリリちゃん。
「私は、リリアナ様の性根はとても清らかでお美しい方だと思っております。あの件は例外…仕方なかった話なのです。何よりお二人は愛し合っておりますから…まだ殿下の王位継承までに時間はありますでしょう? きっと未来には力を合わせ、良い国を作り上げてくれると信じております」
「罪無き君を踏み台にし、何が良い国か」
もう私がいいって言ってるんだからいいでしょ!? しつこいな!
というか、ニカ様が私の冤罪を晴らしたいのは本当だろうけど、それを前提としてもどうにもリリちゃんの事を嫌い過ぎていないか? 自分が紳士誠実だから許せないの? だったら私も噓吐きまくっていますけど。
「お心遣いは嬉しく思いますが、私この生活を存外気に入っているのです。ですからご心配頂かなくても大丈夫で…あ、この事は殿下には秘密にしておいてくださいね? 罰になっていないと知られてしまうと、別のもっと重い罰を与えられてしまうかもしれませんから」
茶目っ気たっぷりに、だけど内心本当に危惧しているそれを軽く言ってこのお話はおしまい。ついでにこういうシナリオ終了後の私の平民ライフを脅かす事件もこれっきりにして頂きたい。
「…フィーは強情だな。わかった。だがまた来よう。君が苦しくなった時はいつでも言ってくれ。準備は整えておく」
「ふふ、次いらっしゃる時は私のお仕事がお休みの時にお願いしますね」
この時の私はこれからニカ様が週一というアホみたいなハイペースで会いに来ることなんて思いもよらなかったのであった。