プロローグ
「あつ……」
俺――
なんで日本の夏はこんなにむしむしと暑いのだろうか。二十年くらい前はこんなに暑くなかったのに――と父さんと母さんが懐かしむように話しているのを聞いたことがある。
本当か? 毎日三十度を超すのが現代では当たり前なのに、昔は稀だったと?
誰かタイムスリップして確かめてきてくれ。俺はもう死にそうだ。
ノックダウン寸前の俺の周りではがやがやとクラスメイトたちが談笑で盛り上がっている。内容は同じ。
「夏休みどうする?」「再来週の花火大会とかどう?」「いいね予定あけとくわ」とどれもこれも来る夏休みに備えて、スケジュールを組んでいた。
特に再来週、近くの河川敷で開催される花火大会について盛り上がっているようだった。俺も去年行ったが、あれは一人で行くものじゃない。カップルとかで行くようなところだ。
それにしてもみんなはこの暑さを克服する薬でも飲んでいるのか? 現在、教室は窓を開けていても蒸し風呂状態でさらに窓際にいる俺は直射日光で体がミディアムに焼かれようとしている。
こんな状態で誰かと話す気になれず、気休め程度に服を扇いでささやかな風を送ることしかできない。
「死ぬ……」
黒板上の時計をちらりと視界に入れる。十二時半を指している。短縮授業後のホームルームが終わって五分が経っていた。
とりあえず立とう。窓際の席に座っているだけじゃ、死期を早めるだけだ。
俺はバッグを手に取り、よたよたと教室から廊下へと出る。
すぅ……とヒンヤリした風が頬に当たる。
日陰になっている廊下は教室とは違って冷たい風が流れている。ちょっと生き返った。
この調子なら目的の場所まですぐに行けそうだ。
夏休み前の短縮授業といえば、ある者は部活に勤しみ、ある者はバイトで汗をかき、ある者は家に帰って遊ぶ。
午後まるごと自由時間なのだから、好きなことをして過ごすのが普通だろう。
俺の場合は少し違う。
俺は涼しい廊下を歩き、熱された二階の渡り廊下を通り、ひんやりした階段を上って、北校舎三階の生徒会室へとたどり着いていた。
ここが目的の場所。市立北高等学校二年生の書記として毎日のように通っている生徒会室だ。
ノックせずに中へと入る。
「おはようございます」
扉を開けて正面――生徒会長席にはとある見知った人物が座っていた。
「おはよっ、有馬くん」
生徒会長――
あどけない無邪気な笑顔を俺に向けてくる。長いまつ毛に整った顔立ち、白い肌。肩まで伸ばした綺麗な髪をなびかせている。
彼女のことをこの学校で知らない人はいない。生徒のみならず、先生までも一目置く、パーフェクト生徒会長。
俺が尊敬する人だ。生徒会に入って、彼女の人望に惹かれた。誰からでも頼られ、運動部の助っ人と学校行事の仕切りも全てこなす。
まるで遥か彼方、天に輝く太陽みたいな人だ。
「なんだかゲッソリしてるけど、どうしたの?」
「一日中、窓際で日に焼かれたんです。あそこクーラーの真下だから最悪ですよ」
俺は入口近くの席に座り、バッグを下ろす。
生徒会室には役員用の席が四席と会長席が一席ある。役員用の席はそれぞれ向かい合わせになっている。現在の役員は俺と会長の律花を入れて四人なので、一席余っている。
「あははっ、暑いよねあそこ。あたしも窓際の席だからわかる~。あっ、そうだ」
と律花は床に置いていたバッグから水筒を取り出し、水筒の蓋にお茶を注ぐ。
「はいっ、氷いっぱい入れてるから冷たいよ~っ?」
俺の席まで歩いてきて、すっとお茶を差し出してくる。
「え……これって」
間接キスなのでは?
律花だってこの蓋を使ってお茶を飲んでいるはずだ。
「あれ? いらない? ほうじ茶嫌い?」
わかっていないのか、この人は。
しかしここで断ったら、それはそれで意味が出てしまう。
好意は無駄にできないし――。
などと迷っていると、
「あっ、忘れてた! あたしさっき購買でキンキンのスポドリ買ったんだった!」
スッとお茶を引っ込め、代わりに机に置いていたスポーツドリンクのペットボトルを差し出してくる。
「まだ蓋開けてないし、汗かいてるならこっちだよね!」
「あ……はい……そっすね」
俺の葛藤なんて律花は知る由もないだろう。
別に律花は俺をからかっているわけではない。純粋に俺を心配してスポーツドリンクがいいと判断したのだ。
(ホント、会長は……)
俺が逆の立場なら絶対に意識してしまうだろう。
受け取ったスポーツドリンクをぐっぐっと半分くらい飲んだところでふと思った。
「これ、飲んでよかったんですか? 律花会長が飲みたかったんじゃ……」
「いーのいーの。あたしより有馬くんの方が汗だくだったし、熱中症で倒れられたら大変だもんね」
「お礼はいつかしますよ」
「ありがと、お礼はコーラでいいよ」
「しっかり催促しますね――わかりました」
えへへ、と律花はペロッと舌を出す。そんな小悪魔的な笑顔を向けられたら何も言えなくなる。
――しかし何とも距離感の近い人だ。俺に対してだけでなく、他の生徒会役員のみんなや他の生徒たちにも似たような距離感で接しているのをよく見る。
しばらく一緒の生徒会で仕事をしているが、まだこの距離感に慣れない。フレンドリーすぎる、たまにボディタッチもしてくるし……俺みたいな陰キャがそんなことをされるとドギマギしてしまうこと請け合いだ。
だが、これが夏木瀬律花の魅力でもある。俺がこの生徒会に入った時、彼女に会って、衝撃を受けた。
この人の役に立ちたい。
この人に頼られたい。
そんな漠然とした憧れと尊敬を抱いた。
(そういえば……)
「副会長とみうはまだ来てないんですか?」
生徒会にはあと二人、役員がいる。律花と同じ三年で副会長の
いつもならすでに集合していて、一緒にお弁当を食べるはずなのだが、現在いない。まだ来ていないのか。
「二人は先に委員会会議に行ってるよ。有馬くんも荷物下ろしたら委員会会議に行ってくれる?」
そうだった。今日は各委員会の会議があり、生徒会の役員はそれぞれの内容を書き留めるためにも出席が義務付けられている。俺の当番は確か美化委員会。だがおかしい。
「会議って一時からでしたよね?」
まだ十二時三十三分。弁当を食べるくらいの余裕はあると思うが。
「あれ? 担任から聞いてない? 早まったって言ってたけど」
「え?」
そんなこと担任は何も言ってなかった。
「ごめんね、お昼は会議の後になっちゃうけど、大丈夫?」
「悪いのは担任なんで、後で文句言っときます」
そう言いながらも「ぐ~」と腹が鳴る。恥ずかしい。
「ごめんね、有馬くん」
「いえいえ……」
(腹減った……)
お腹をさすりながら、生徒会室を後にしようとすると、
「あっ、待って」
律花に呼び止められた。振り返ると律花がお弁当箱を持ってこちらに駆け寄ってくる。
「これ、一つ食べて」
「え」
律花がお弁当箱の蓋を開けると、中には小ぶりのおにぎりが四つ入っていた。
「いいんですか?」
「ぺこぺこのまま行かせられないよ。あたしは大丈夫だからどうぞどうぞ」
「ありがとうございます。じゃあ遠慮なく」
律花のお弁当箱からおにぎりを一つ取って、口に放り込む。うまい。自分で作った弁当の倍はうまい。
「めちゃくちゃおいしいです!」
これなら委員会会議も乗り切れそうだ。律花には感謝しかない。
「えへへ、元気出たならよかった。お仕事がんばって」
「行ってきます」
(先輩もお腹減ってるはずなのに……)
さらっと後輩の後押しをしてくれる律花。
(やっぱり敵わないな)
憧れの律花に対し、少々罪悪感を覚えつつも、俺は満足して生徒会室を後にした。
◇
(終わった……)
委員会会議――俺が行ったのは美化委員の夏休みの活動に関する会議だった。
思ったより内容が白熱した。原因は夏休みに河川敷で行われる花火大会後のゴミ拾いボランティアについてだった。出店回りだけをやるべきだという意見と、駅から河川敷までの範囲も入れるべきだという意見が衝突して、結局美化委員以外にもボランティアを募集して、広い範囲でやることになった。
おかげで書記である俺は議事録をまとめるので疲れてしまった。
(なんでうちの美化委員はあんなに意識高いんだか)
予定より十分押しの終了時間だった。さっきから腹が鳴りまくっている。おにぎり一個ではやはり俺のお腹は完全には満たされなかったようだ。
腹をさすりながら廊下を歩き、階段を下りようとすると――。
「ありがとうございます!」「助かります!」と、階段の踊り場から女子たちの声が聞こえてきた。誰かがその女子たちに囲まれているようだ。階段の上から、誰が囲まれているのか一目でわかった。
「いいんだよ。ボランティア部の申請は後で先生に通しておくから。他にも困ったことがあったら何でも聞いて聞いてね」
律花だった。どうやらボランティア部の夏休み活動の申請について相談を受けていたらしい。
(会長、あんなに頼られて大変だな)
女子たちから慕われているのが一目でわかる。
矢継ぎ早に質問を繰り出す女子たちに、律花は一人一人受け答えしているようだった。
「でも活動場所まで相談に乗ってもらって……なんだか申し訳ないですよ」
「気にしないで――でも駅前って人通り多いから、やる時は通行人の邪魔にならないようにね」
「はい! やっぱり会長に頼ってよかったです! ありがとうございました!」「ありがとうございました~!」
と女子たちは律花に頭を下げ、階段を下りて行く。
「ふぅ」
一息吐く律花に俺は近づき、
「お疲れ様です」
「あっ、有馬くん! 会議終わった?」
「はい滞りなく――あとで議事録をパソコンでまとめてプリントアウトしときますね」
「ありがと~助かるよ~」
ふぅ~。と律花が大きく息を吐く。
「さっきの女子たちは知り合い――じゃないですよね」
「違うよ。あたしが廊下の掲示板物をはがしてた時に相談に乗ってくれって言われて。話してたらどんどん増えちゃって」
律花は学校内でも生徒に頼られることが多い。生徒会長だからというのもあるが、律花自身の人望がそうさせているのだろう。
「人気者ですね」
「頼られて悪い気はしないけど、ぐいぐいくるんだよね」
「あはは」とやせ我慢するような笑みを浮かべていた。俺には頼られるという経験が浅いから気疲れする気持ちがわからない。でもあんなに周りから積極的に話しかけられたら、疲れもするか。
会長はまだ仕事中だし、俺がここにいても迷惑だろう。
「あんまり邪魔しても悪いですね。俺は先に生徒会室に行ってますね」
「お腹減ってるところ話し込んだら悪いね」
またあとで! と律花は階段を上って行ってしまう。
さすが会長だ、と思う。
生徒会長の仕事で忙しいのに、後輩たちの相談を受けてその上で疲れは一切見せようとしない。それなのに明るく振る舞ってみんなの憧れの中心にいる。
(でも……俺にはできないな)
あんな風には振る舞えない。きっとどこかで弱音を吐いてしまうし、頼られるような人間ではない。
それでもいい。俺は俺という人間を正しく認識している。俺は少しでも彼女の役に立って「ありがとう」と言われればそれで満足だ。
俺の青春はそれくらいが丁度いい。