プロローグ
「いよいよ明日ね、アッシュ! 待ちに待った儀式、楽しみよね!」
その日、心が躍るような蒼穹の空。眩しい昼下がり。
十六歳の少年アッシュは、幼馴染の少女シャルナから嬉しそうな声をかけられた。
「そうだな。いよいよ明日は『祝福の儀式』だ。ここまで何十何百回と想像したけど、今から胸が躍ってる」
祝福の儀式。それは神から力を授かる儀式のことだ。
古来より世界では、十六歳の誕生日になると女神から力を授かり、技能を得る。
その特殊な力のことを『
常識を超えた剣術や、超常的な怪力、それに傷を癒やす回復魔術など様々だ。
それを授かる日が、いよいよ十六歳になるアッシュたちにも迫っていた。
「ふふ、アッシュ、あなたは小さい頃から妄想ばかりしていたわよね」
緩やかな金髪をなびかせ、シャルナが懐かしそうに語る。
「強い騎士になってお姫様を助けるんだとか、聖剣で悪い魔道士を倒すとか――本当、子供っぽい夢だったわ」
「おいおい、いつまでもガキの話をするなよ。お前だって、夢の魔術を使って『毎日イケメンお兄さんにお姫様抱っこしてもらう』とか、大勢のお兄さんから『好きだよ❤ 好きだよ!』と言ってもらうとか、頭の悪い妄想して――」
「待って!? そういう黒い歴史は持ってないから! い、いえ、確かにわたしも昔は夢見がちだったけど! でも今はもう――」
「そうか? 今でも、たまにお前の家を通ると、『おにいさぁん、もーやだぁ』とか甘い声で一人芝居が聴こえるような……」
「きょ、今日はとてもいい天気ね! 洗濯物が捗りそう!」
恥ずかしそうに、頬を赤らめ誤魔化そうとする少女に、思わずアッシュは苦笑する。
シャルナは金髪に蒼の瞳の、美しい少女だ。
緩やかなその黄金色の髪は艷やかで光沢が眩しく、肌はきめ細かく白い。細身の体によく似合っていて、柔らかな体つきも相まって、可憐という言葉が相応しい。
武力を重んじるこの里において、彼女は長の娘として可愛がられている。
幼い頃から貞淑で気品があり、凛とした雰囲気は同世代の中で人気者だった。
中には告白して玉砕する男たちもいる。
その里一番の美麗な少女と、物心ついた頃からアッシュは一緒にいる。
生まれた日も場所も同じなのをきっかけに、時には川で水遊びをし、時には同じ寝床につき、時には着替え姿を見てしまったり、平和でのどかな日常を送っていた。
「それにしてもシャルナ、お前と同日に生まれて同日に儀式なんてな」
「本当ね。同じ誕生日だからこそ、こういう儀式も同時かもと思ったけど、驚きよね」
まだ少し頬が赤いまま、シャルナも同意する。
内心では、二人とも高揚していた。当然だ。幼い頃から夢見ていた
「さて、そろそろ家に戻ろうか。儀式に備えて体を清めておこう」
「そうね。――あ、一応言っておくけどアッシュ。禊を覗いたらお仕置きよ?」
「何を言ってるんだ、シャルナ。風呂を覗くのはいつもお前の方だろう?」
「なな、何を言っているのかしら!?」
「俺は知っているぞ。お前が時折、俺が風呂に入ってるの、覗いていることを」
「だ、だってあれはその……最近、あなたの腹筋とか、胸筋とか、凄くたくましくなってるから……」
「おい待て! 冗談で言っただけなのに本当なのか!? おい、いいか絶対に覗くなよ、絶対にだ!」
時に笑い、時にドン引きし、けれど互いに気持ちの良い気分を味わいながら、アッシュ達は夜の儀式に備えて帰路についていった。
けれど。
「……嘘、だろ……?」
数時間後。村の教会の儀式場の上で、アッシュは呆然としていた。
目の前には、神秘的な法衣をまとった神父。祝福の儀式のために女神からの加護の仲介を任された老人――ロス神父が痛ましそうな声音で語る。
「本当です、アッシュ。貴方には
「な、何かの間違いじゃないですか? 俺の誕生日がずれていて、
「いえ、残念ながらアッシュ。貴方が生まれた瞬間は私も見ています。そして、あなたはシャルナと十六年間、共に過ごしてきました。
「そ、そんな……っ」
愕然とアッシュは呟く。
『
アッシュは愕然と立ち尽くした。
数々の夢が、広がっているはずだった。剣術を磨いて竜を倒す。槍術を磨いて名声を得る、癒やしの力で人々に頼られる。そんな、様々な夢の未来があるはずだった。
けれど、目前にあるのは暗い未来だ。何の力も得られない不幸にアッシュは落ち込む。
「ひとまず、今日はもう帰りなさい。後日、改めて確認しましょう。心を強く持ちなさい、アッシュ。女神リュミエールさまは皆を見守って下さいますよ」
「……はい、神父さま、失礼します……」
教会を出るアッシュの声は、小さく震えていた。
「やったわ! アッシュ、わたし、『聖女の加護』を貰えたの! 最高位の
教会を出てすぐの平地で待っていたのは、幼なじみの少女の笑顔だった。
アッシュが暗い顔をして出てきたのを見て、眉をひそめる。
「ど、どうしたのよアッシュ? あなた、顔色が悪いわ? 儀式で疲れたの? まあ無理もないわ、儀式は体の魔力を活性化させるもの。たまに疲労に陥る人も――」
「そうじゃないんだ、シャルナ」
「え?」
「俺、儀式で、何の
「……え? そんな嘘、え……?」
始めは目を瞬かせたシャルナだが、、アッシュの声音の意味を理解し、青ざめていく。
「嘘、よね……? だってアッシュ、あなた――」
「本当だ。ロス神父さまから言われた。俺は、
「そんな……っ!」
「――く、ひゃ、ぎゃはははははははっ!」
直後、教会の裏から下卑た笑いが上がってきた。
「さすがはアッシュくん!」
「
「これで、日頃粋がっていたアッシュくんも見納めだな! 気分はどうだ、能無し?」
「――ダスト!」
アッシュは、唇を噛み締め罵倒する彼らを睨んだ。
ダスト、ガート、ベルズ。
彼らは里でアッシュらと武技を競っていた少年らだ。アッシュらのいる里では、武術を継承する事を重んじ、幼少期から修行することを義務としている。
その中で、アッシュとダストらは同年代で次期里長となるべく競っていたが――。
「日頃、俺は強くなるとか抜かしていたアッシュくん。どれほど強力な
「伝承で、百年前に現れた
「能無し! 希少な用無し!」
三人の少年、ダスト、ガート、ベルズが煽りに煽って嘲笑する。
「あなた達、やめて!」
シャルナがアッシュを庇うように前に出ると、ダストたちが鼻白む。
「どうしてそいつを庇う? シャルナ、お前、そんな無能とつるんでないで、俺らの所に来いよ。一緒に修行励もうぜ?」
「いい加減なこと言わないで! アッシュは手違いでこうなったのかもしれないわ! そうよ、ロス神父さまにもう一度頼み込めば――」
「手違いって何だ? 俺たちは教会の裏で聞いていた。『――アッシュ、残念ですが、あなたは
弾かれたように、シャルナがアッシュへと振り返る。当然、彼は何も言い返すことが出来ない。
「アッシュ……」
「武術では、同年代でそこそこだったアッシュくん! けれど
「将来は畑仕事しか出来ないんじゃね? はは、俺らが戦士として活躍している横で、鍬でも使って畑耕してるんだよ!」
「いい野菜が出来たら食わしてくれよな、能無しくん!」
ぎゃははっ! ぎゃははっとダスト達が煽ってくる。
「能無し!」「能無し!」「能無し!」「ひゃーははははははっ!」
笑う三人を前に、アッシュの自制心が崩れた。
「ふざけるな、貴様ら……っ」
「――っ、だめ、アッシュ! 待って!」
シャルナが叫んだが今さら止まれない。アッシュは腰に下げた鍛錬用の木刀を掲げ、三人のもとへ跳んだ。
それは、瞬速と言って差し支えない足運びだった。太刀筋も悪くない。
しかし儀式を終えて
「はいはい、『風魔術』!」
突如、ダストの前に現れた風の壁によって、アッシュはあっさりと弾き飛ばされた。
まるで木の葉のように、軽々を持ち上げられて地面に激突する。
「ぐっ、くううっ!?」
「おいおい弱っえーな! 今まで掟で、儀式を終えた者同士じゃねえと
「くっ……」
弾かれた体を起こし、再びダストの元へ駆けるアッシュ。
そこへ、三人組の別の一人、ガートが前に出て妨害に叫ぶ。
「ひゃっはーっ! 『天罰魔術』! 痺れな!」
アッシュの頭上に、荒々しく眩い雷が発生し、彼の脳天へ直撃した。
激しい雷撃がアッシュの体を突き抜け、全身を痛みと麻痺が覆い尽くす。
「ぐっ、ああああああああっ!」
敵意を持つ相手に対し、雷を落とす
「ひゃはははは! アッシュが地面に倒れて感電だよ! いいざまだ、最高だね!」
「き、貴様ら……っ」
痺れる体を何とか叱咤し、無理矢理に起き上がるアッシュ。
しかし、感電して身動きもままない彼に、三人目の少年ベルズが叫ぶ。
「まだ終わりじゃねえよ? ――ほら、『虚脱魔術』だアッシュ! 苦しめ!」
かざした手から、紫色の光が出る。その瞬間、アッシュの体が強い脱力感に襲われる。
虚脱魔術――相手に対し、強い脱力感を発生させる
もはやアッシュは幼少の子供よりも無力になった。
「――おや? 頑丈なアッシュくんはこれでもやれる顔をしているな?」
「すごいすごい! そんな君に、俺たちが夜の明けるまで遊んでやろう!」
「だめ! やめて!」
シャルナの悲鳴は届かない。アッシュが木刀を持って起き上がるが、その直後にダスト、ガート、ベルズたちが立て続けに
風魔術の
「ぐっ、うう……っ」
「やめて! やめなさい!」
さらに一撃を加えようとした時、シャルナが激怒の顔のまま間に飛び出した。
「アッシュが何をしたっていうの!? こんなのひどい、ひどすぎる! やめて!」
「おいおい何を言ってるんだシャルナ? これは可愛い遊びじゃねえか!」
「そうだよ、いつもの鍛錬と一緒だろ?」
「ひゃは! ただし片方は女神様に選ばれた英雄と、女神様に嫌われた能無しだがな!」
ぎゃははははっ! と、嘲る三人の少年たち。
シャルナは、彼らを睨んだ後に背後を振り返った。
「アッシュ、大丈夫? 待ってて、いまわたしが治し――」
「不要だ、このままでいい」
「アッシュ……!?」
「女神様に授かった力を、私刑にしか使えないクズどもに目に物見せてやる」
「――お? やるか? 俺たちは大歓迎だぜ?」
膨れ上がった敵意と悪意が、再びぶつかり合い、弾けかけたとき。
「――何をしているのです、貴方達っ!」
教会側から怒りの声が轟いた。
皆の指南役でもあり教会の主であるロス神父だ。法衣を翻し血相を変えて走ってくる。
「やべえ! 神父さまのお出ましだ!」
「さすがにマズいな、捕まれば小言の一時間や二時間は確実だ」
「退け! ここは逃げるぞ! ――じゃあな能無しアッシュくん! ぎゃははっ」
ダストたち三人が、神父が辿り着く前に退散していく。
風魔術も使用しての逃走だ。あっという間に姿が見えなくなる。
「くそ、あいつら……っ」
「アッシュ……っ」
「いったいどうしたのですアッシュ! その傷は……っ?」
ロス神父が困惑し、アッシュがそばの木により掛かる。
慌てて神父が回復魔術を使う。折れた木刀を握り締め、アッシュが地面を殴りつける。
土と泥まみれの顔。プライドなど粉々に砕かれた。残ったのは惨めな思いだった。
所々に血筋を流れていくアッシュ。そんな彼を、シャルナが半泣きで支えていた。
「――俺は、里を出ていく」
翌日。陽光がまだ地平線の彼方から出ようか否かという時間帯。
石と土造りで出来た家の前で、アッシュはシャルナにそう宣言していた。
「ま、待ってアッシュ! 出ていくって、一体どこへ――」
「行く先々で能無しだ何だなんて言われて、耐えられる訳がない。それに、ここに俺が残るとお前たちに迷惑がかかる。だから出ていく」
「待って! 急過ぎる、考え直して!」
シャルナは必死に叫ぶが彼が止まらない。アッシュは、ボロ布のような状態だった。
傷は癒えている。服も、体も、昨晩に神父が治癒してくれた。けれど、心は傷だらけだ。
自信は砕け、プライドは砕かれた。何もかもひび割れていた彼は、幼なじみの少女の前で平静を保つのも難しいほどだ。
――昨晩の騒ぎは、一瞬で里中に広まった。
正確にはダストたちが言いふらしていた。アッシュは
「俺を庇ってくれるシャルナやロス神父には感謝してる。だがこのままではお前たちまで蔑まされてしまう。知っているだろ? この里では武力こそ正義だ」
「急過ぎるわ! それに、
「間違いって、どんな間違いだ? 誤認もあり得ない。ロス神父さまは、これまで何千回も儀式を担ってきた。ミスなんかない。あの人に不手際はない」
「でも! 時間をかければ、きっと
「シャルナ」
びくりっと、少女は全身を強張らせた。小さく、けれど冷えた声音でアッシュは、
「お前は、『聖女の加護』と言う
シャルナが絶句する。何も生み出さない手を、アッシュは虚空に掲げる。
「風も、水も、炎も、何も、この手は生み出せない。それだけじゃない。誰かを守れる力もない。能無し――そう、俺は、お前とは違うんだ」
「で、でも……っ」
「構ってくれる事には感謝してる。でも、いまはそれが……辛いんだ」
「あ……」
シャルナは怯えたように震える。
小さい頃から一緒だった。河原で遊び、洞窟で迷って、森で走ってきた。
ずっと、同じ時を過ごしてきた。けれど運命の神は残酷で、もう彼女とは同じ道を進めない。それがアッシュは悔しい。何より悔しい。
シャルナは、言いたかった沢山の言葉を言いかけ、飲み込んだ。それ以上は、彼に負担をかけるから。たぶん、壊してしまうから。
「……行くあては、あるの?」
「一応は。隠者の黒森という場所へ向かってみる。あそこでしばらく過ごそうと思う」
隠者の黒森。百年前、まさに
「……わかったわ。わたしでは止められないわね……あなた、強情だから」
「それはお互いさまだろう? 大事にしていたぬいぐるみ壊したら、一ヶ月も口をきかなかったお嬢様」
「……それだけ軽口利けるなら大丈夫ね。もう、その軽口を聞けないのは寂しいけど」
「すまないな。けれど、俺といると被害が及ぶ」
「そんな事っ! わたしは! あなたが……あなたがいれば……っ」
言いかけて、アッシュが辛そうな顔を見せ、シャルナはそれ以上言えなかった。
やがて未練を断ち切るかのように、唇を噛みしめると小さく嘆息し、シャルナは言う。
「約束してアッシュ。必ずまた会うって」
「当然だろ。しばらく離れるだけだよ」
「ご飯、きちんと食べなさいよ。それと風邪はひかないように。規則正しい生活をね」
「おかんかよ……」
「ふふ……母さん心配なの、やんちゃな息子が旅立つって言うから」
「すまないな、本当に」
それ以上はシャルナが泣きそうだったので、固い声音でアッシュが謝った。
後ろ髪を引かれる思いのまま、目を瞑り、踵を返す。
「……じゃあな、シャルナ」
「アッシュ、待って。最後にこれを――」
シャルナは、長いスカート内側、太ももにくくりつけておいた剣を取り出した。
「持っていって。聖剣シルヴァルガ」
「……お前、それ今どこから取り出したよ……」
長いスカートの中に護身武具をしまっている事に、若干後ずさりつつ、アッシュは呆れた。シャルナは小さく笑う。
「昔魔物に襲われた後、神父さまに渡されたの。過保護よね、まったく。――本当は、もっと色々渡したいけど……」
「十分すぎる。俺にはもったいないくらいだ」
アッシュは、受け取った霊剣を軽く振るってみせる。
羽毛のように軽い。そして麗美だ。刀身が陽光を受け淡い水色に輝いている。
かつて魔物の王を倒した武器の一つだ。全力を出すには条件が必要なため今のアッシュには真の力を発揮出来ないだろうが、それでも有用な力となってくれるだろう。
「ありがとう。これをお前だと思って大事に扱う」
「……もう、またそういうこと言って」
シャルナは小さく笑った。その瞳が潤んでいる。一生会えないわけではない。けれどもう、今までの関係のままではいられない。そのもどかしさが、彼女の声を震わせる。
シャルナが、手を差し出した。アッシュがそれに応じる。
柔らかな手と、堅い剣豆ばかりの手が重なった。
何度も握りあったその手が、一瞬強く握られて、名残惜しそうに離される。
「――アッシュ、元気でね!」
「シャルナも。またいつか会おう」
聖剣シルヴァリガを下げ、アッシュは生まれ故郷を後にする。最後に一度だけシャルナの顔を振り返った。――幼なじみの少女は、ぽろぽろと涙をこぼしていた。