「開闢の乙女よ。今こそ誓約の刻──覚醒せよ!」
オレが恥ずかしさをこらえながら朗々と声を張り上げると、頑ななまでに閉ざされていた少女の両の瞳がパチリと大きく見開かれた。
「……聞こえる……運命の鐘の音が……」
「目覚ましは三十分前から鳴りっぱなしだ! あと五分したら家を出るからな」
目の前に時計をつきつけると、朔の人形めいた顔がわずかに引きつり、華奢な体がばさりと布団をはねのけた。
「四十秒で支度するわ」
「待て、着替えるのはオレが部屋を出てからにしろ!」
慌てて顔を背けたオレの視界の隅に、黒のネグリジェが勢いよく脱ぎ捨てられる。
「装備完了」
振り返ると、真新しいセーラー服に早着替えした朔が、窓から差し込む朝の光を浴びながら、上体をひねり、両手を交差させた謎の決めポーズをとっていた。
寝起きのはずなのに、絡まることなくサラサラと背中に流れる長い黒髪。
新雪のような白い肌、長いまつ毛に縁どられた澄んだ双眸、通った鼻梁、瑞々しい赤い唇……。
我が双子の姉、最上朔は、身内のひいき目抜きで、外見だけならどこか神秘性さえ漂わせるクール系美少女なのだが。
「ハッ、左手の包帯がほどけかかってる……!?」
「巻き直してる暇はないぞ。輪ゴムで留めとけ」
「笑止! 魔王ゾディアークの封印が輪ゴムで抑えきれるわけないでしょう!?」
残念なことに、コテコテの厨二病(重度)を患っていた。
念のため補足しておくと、厨二病とはアニメやゲームなどのフィクションの世界に没頭しすぎて、自分もその中の登場人物のように不思議な力や宿命を持っていると思い込んでいる状態のことである。タイプや諸説は色々あるけど、朔はそんな感じ。
自分は過去に世界を救った月の女神の生まれ変わりだとか、左手には魔王が封印されてるとかファンタジーな設定を作って、本人的にはすごくカッコいいと思っている台詞めいた話し方や、不自然な動作をしては悦に入っている。小学校の高学年くらいから発症して、もう高校生になるというのに未だに治る気配がなかった。
そしてオレ、最上壱星はそんな姉に呆れつつも、いつしかすっかり調教され、恥ずかしい言動に付き合わされる日々を余儀なくされている。
生まれた時から一緒だからか、オレが付いててやらなきゃって義務感みたいなのもあるけど、なんか朔には逆らえないんだよな……。
「壱星、いいわ。待たせたわね」
リビングダイニングで飲みかけだったコーヒーに口をつけていると、ほどなくして、水洗顔と高速歯磨きを終えた朔がすまし顔で現れた。
ちなみに包帯はマスキングテープで仮留めしたようだ。マステなら抑えられるのか、魔王。
「いつもながら準備早いな」
「戦場ではコンマ一秒の遅れが命取り……身に付けざるを得なかったスキルなのよ」
淡々と、しかしどこかドヤりながらそんなことを言う朔。
何が戦場だ、ギリギリまで寝ていたいという欲望が生み出したスキルだろ。
もたもたされるよりは有難いけど、朝の身支度が五分ってそれでいいのか、JK……。
「お腹すくし、一個だけ食べてけよ」
「ひょーはい(了解)」
オレが渡したおにぎりを頬張りながら頷いた朔だけど、直後、大きな瞳を見張ると、口をモグモグさせたまま二階へと階段を上がっていく。なんだ、忘れ物か?
「朔、もう出るぞー」
「今行く……!」
ドタバタと階段を下りてきた朔は、玄関で靴を履いていたオレに、「これを」と一冊の本を差し出した。
『ギャグ魂! イッカク君』……オレのお気に入りのギャグ漫画だ。
「星の導きで今日の運勢が最悪だと啓示されたのは双児宮……その護符となるものが『愛読書』だったの。身に着けておいて損はないわ」
そういえば、さっきテレビで『おはよう星占い』が流れてたっけ。
全然気にしてなかったけど、どうやらオレたちの双子座が最下位で、ラッキーアイテムが『愛読書』だったらしい。朔って、星占いめっちゃ好きだし、気にするんだよな……。
断るのも面倒だし、「さんきゅ」と受け取って、漫画を鞄に入れる。
二人とも外に出ると、ドアに鍵をかけた。
車庫の奥から出したそれぞれの自転車にまたがって、よし行くぞ、とペダルに足を掛けたところで「壱星」と動揺が滲む声で呼ばれた。
「私のブラックドラゴン……翼が折れてるわ……」
朔は自転車のことをブラックドラゴンだと妄想している。でも翼……? と首を傾げながらよく見ると、前輪のタイヤがぺしゃんこになっていた。
「パンクしてるのか!? でも今からバスじゃ間に合わないし……仕方ない、乗れ!」
二人乗り、ほんとはダメなことは知ってるけど、背に腹は替えられない。
さすがに高校入学初日から遅刻するわけにはいかないからな。
後ろの荷台に朔を座らせて、全力で自転車を漕いでいった。
「『おはよう星占い』も……侮れないな……!」
「壱星、もう息が上がってるの? 鍛錬が足りないわね」
「ここで降りるか、朔……?」
学ランの下のシャツがじんわりと汗に湿るのを感じつつ坂道を越えて、しばらくすると、桜並木の通りに入った。
晴天に満開のピンクが映えて、目にも鮮やか。
不意に、ビュウッと強い風が吹いて、舞い散る花弁があたりを包みこむ。
「綺麗……」
オレの腰に両腕を回した朔が、吐息交じりに囁く。
「桃源郷に迷い込んだかしら」
「桜だけどな」
この桜吹雪のトンネルを抜けたら異世界に繋がっているんじゃないか……とか。
そんな朔みたいな妄想をうっかりしてしまいそうなほど幻想的な風景だったけど、生憎ゆっくり見惚れてる余裕はなかった。
交通量は少なめだけど、車道の端を走っているので気を遣う。
何より遅刻するかどうかの瀬戸際だ。
前の信号は青。よし、このままスピードを落とさず突っ切ろう……そう思って、グイグイとペダルを漕いだ直後。
目の前にひょいっと子猫が飛び出してきて、慌ててブレーキをかけると同時に大きくハンドルを傾けた。猫は避けた、けど……っ!
「……!?」
「……痛っ、悪い朔、大丈──」
車体ごと勢いよく転倒してしまい、焦って顔を上げたすぐそこに。
キキーッとタイヤの軋む音とともに、迫りくる乗用車。
しまった、車道側に……!
逃げる暇も考える暇もなく、とっさにそばで倒れていた朔を抱き締める。
ドン、と大きな衝撃を受けて、全てが暗転した。
〇 〇 〇
次に意識が戻った時、真っ先に視界に飛び込んできたのは、両手を広げて天を仰ぐ、なぜか銀髪碧眼になった朔の姿。
服装もセーラー服じゃなくて、クラシックな雰囲気のワンピースだ。
腰には剣のようなものまで帯びている。
ん? コスプレ? どういう状況……?
まるで無実の罪で何十年も閉じ込められていた牢屋からついに脱獄した、有名な映画の主人公みたいなポーズで。
朔は興奮に頬を染めながら、万感の想いを込めるように、言葉を漏らした。
「還って……きたのね……!」
……??????