起 安い矜持と甘い誘惑〈5〉
線でなく色でなく立体でなく。
連なる文字の中にのみ、存在する世界。
思考を沈めてようやく浮かび上がる、形而上に紡がれる、音、光、手触り、いのち。
まだどこにもないものを、どこでもない場所から取ってくる。
自分の頭に鞭を入れつつ、自分の頭を否定する。生まれた瞬間配られて、交換もきかない回路は今年をもって十七年もの、日々刺激を入力し未搭載の機能を取り込み思考錯誤の最適化を繰り返して繰り返して繰り返して尚、思いつまされるのは不出来さだ。
より優れた解釈があったに違いない。もっと見事な描写がないわけがない。たった数文字に費やす時間がお粗末すぎる、これを遺作にするつもりか?
生み出すほどに背負う罵声を、引きずったまま
明日木青葉にとって、執筆とは、創作とは何か? インタビューでも受けようものなら、返す答えは決まっている。
『生き恥の上塗り』。
僕の連ねることば、全角スペース一つの例外も無く、恥さらしに他ならない。
(……ああ。だからこそ)
不出来な打ち切り作家、ままならない三流が、それだけを唯一誇る。
僕は、恥さらしであることを恥じない。自らの恥部、不出来さにのたうちまわり、書くことに悩むことはあっても、見せることへの恐れだけは乗り切った。
どれだけ苦しもうと、受けなかろうと、端で笑われようと、未熟だろうと。
僕はまだ、次に自分が書く傑作を、信じている。
(――本当にさ。冗談じゃないスタート地点だよ)
誰にでもある
それは、明日木青葉の場合、自分が全然できないことを示すためだった。普通はこんなに書けないんだから、本一冊分もできちゃうのはすごいんだと……まったく、子供らしくもない、逆に相手を落ち込ませるような、何の解決にもなっていない励ましから。
(皮肉にもほどがあるだろ、なあ)
作品が売れていなかった時期の、早瀬桜之助。二冊目の本に受けた痛烈な批判に父が落ち込んでいるのを見て、画面の向こうの顔も知らない相手に文句をつけるつもりで、僕ははじめての文章を、作品ですらない書きなぐりを父に見せた。そして、早瀬桜之助は、次はもっと面白いものが書けるんだ、と怒鳴ったっけ。
(適当やっちゃってさあ。あいつもあいつで、適当言ってくれちゃってさあ)
何が、『新太郎には才能がある』だよ。
そんなもん、あれから探し続けてるのにどこにもない。軽率なこと言いやがって。
(でもさ、僕が言えた義理でもないよな。適当言ったのは、お互い様なんだから)
親が馬鹿にされてむかついた子と、がんばった子供を喜ばせたかった父。
そこだけは似たもの同士だ。作家というのが本質的に、ありえない夢物語を並べ立てるウソツキの商売であるのなら、僕らはきっと素質があった。
(――でもな、早瀬桜之助。僕は――)
あんたには、ならない。あんたが作品で訴えたことと、僕が訴えたいことは違う。
どうしようもなく逃げられなくて、読む手を止められなくて、傑作だと理解できても。
(あんたも、あんたの作品も。僕は嫌いだ、父さん――――!)
僕は、飢えで
父が遺した、誰もが感動の涙を流す傑作たちから、自分の世界を、守るように――。
「――あれ」
そうして、瞬きをしたら朝だった。
無我夢中に沈んだ時間が幻ではないのを、縦書きの画面下部にある
深呼吸して、差し込む陽に目を細める。思い出したように訴えてくる空腹と疲労感、一章の結びの一文を読み直しての高揚感が綯い交ぜになって身体の芯から突きあがる。
「……うはは」
ずっとずっと、書けなかったものが、書けた。勢いまかせのきらいがあるが、荒さも隙も最後までできあがってから直せばいい。
浮かれを胸のあたりで遊ばせ数秒、ノートパソコンを脇に抱えて立ち上がる。ぶっ倒れたいのは山々だが、まだ何も終わっちゃいない。今日は平日の登校日だし、そして、シャワーに着替えに朝食としゃれこむ前に、僕はまず、誰かを愛することになるのか確かめに行く。
「掌編でいいと言ったけど。掌編どころか短編、それどころか長編書き上げられてたら、どういう顔すりゃいいんだか」
張り裂けそうな心臓を自覚しながら廊下を歩く。徹夜の脳が緊張感からの逃避か、とりとめもないことを考える。考え次第では光栄だ。早すぎる死を悲しみ、もう次が存在しないのを惜しまれた大作家、早瀬桜之助のありえない新作を、初めて目にする読者になる。それが、別人の手が打ち出したものであろうと。
この感情を分類できない。
僕は今、挑む機会の永遠に失われたはずの相手に挑む。
「やあ、おはよう」
部屋の前で、襖越しに声をかける。向こうからの返事はなく、ただ、座布団が畳に擦れる音が聞こえた。
「時間は決めていなかったけれど、僕ができたならそこが終わりでいいだろう。むしろ悪いね、筆が遅くて待たせたよな。……入るよ」
おそろしかったからこそ、さも軽々というふうに笑って襖を開けた。ギロチンの刃を自ら落とす、死刑囚の気分だった。
「……………………………………………………………………………………ん、んん?」
そこには、想像だにしていなかった、広大な雪原があった。
入口から覗けるノートパソコンの液晶に映し出されているのは、タイトル署名冒頭一行――そこでぴったり、それ以上、前にも後ろにも進んでいない原稿だった。
「おかしいのよ」
机に突っ伏していたりやなの顔があがり、こちらを見る。
浮かぶ感情は無数のハテナ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに塗れた顔に色気は皆無で、世界の終わりを最前列で目撃しているみたいな絶望感がそれに拍車をかけている。
「あるのよあるの、ココにはあるの。頭の中には最高が! なのにね、こっちに取って出そうとすると最低になるわけ! ウソなのよ! こんな、こんなの、こんなことってなくない!? ぜーんぜん、わたしがわたしの物語書けないんですけどぉぉぉっ!?」
びゃー、と足元に、プライドゼロで縋りついてくる、昨夜『明日の予定は空けておいてね』とキメ顔でいった美女。
「……なあ。あの自信、何だったわけ?」
「何だも何もないわよぉ! わたし、出力は全部インスピあげた相手にやってもらってたけどさぁ、でも創るとこなんてずっと見てたし、みんなスラスラ作っちゃうしぃ、これ簡単にできるやつなんだーわたしにもできるわチョローって思うじゃなぁい!?」
「なめんな」
明かされたキメ顔の根拠が全創作者への冒涜すぎて、率直な四文字が出た。
襖を開ける前に覚えていた高揚と緊張が、そのまま脱力と落胆に裏返る。……同時に、抱いていた期待がむなしくなる。
早瀬桜之助の新作。そんなものはやはりもう、永遠にないのだ。
「――はい。じゃ、ま、こっちとしてもね、残念なんだけどもね、勝負はこれ、未提出の時間切れで終了ということで。以上。解散。おつかれさまでした」
「ひゃぶ!?」
「率直に言おうか? でてけ、不法侵入不審者妖精。ケーサツ呼ぶぞ、ケーサツ」
「ひゃぶぶぶぶぶぶ!? わ、わたし、ここのほかに行く先なんてないんですけどぉ! というかー、きみのことー、諦めたわけでもないんだけど、ナー! ……あっ!」
びしっと指差されるのは、僕が抱えているほうのノートパソコンだ。彼女はそれと、僕の間で、いやらしい目つきを往復させる。
「書いたの書いたのきみは書けたの!? だったら見てあげなくっちゃかわいそう! わたしが書かせた作品と違って、自分で書くやつは修正が必要だもんねー!」
「……ほら」
PCを奪い取ろうと狙う姿勢が怖く、座り込んで開いて見せる。書くのはからっきしだったが、こいつはこいつで見る目があるのはわかっている。
『においがする。とてもかすかだけど、早瀬桜之助のかおり。……へえ。きみ、あれになりたかったのね』
頭によぎる、心臓に刺された刃。家から追い出すにしたって、この棘が突き刺さったままでは据わりが悪い。彼女はキーパッドに指を流し(この妖精、何気に電子機器の扱いに慣れている)、僕が一夜を費やした渾身で最新の第一章を読み終え――言う。
「えっ、つまんな」
「はあぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
眉を寄せ気の毒そうに言われた一言に思わず叫んだ。
こいつおい、オブラートゼロで何言った? 覚悟しろよ、事と次第によっては僕、お布団直行泣き寝入りコースだが?
「よくできてるよ? 合う人には合うんだろうけど、わたしが求めてるのはコレジャナイっていうか……あっ、でもねでもでもね!」
「なぁに!? 今僕学校サボってふて寝したい気分なんだけどぉ!?」
「これくらいで良いんなら、わたしにも書けそうって思った! ありがとう!」
「どういたしまして! ……なわけあるかぁぁぁぁぁい!」
怒声をものともせず、クソ妖精は笑う。実に魅力的な笑顔だ。一秒前にほざいたのが最悪の言葉でなく、作家の矜持に真っ向挑んでくる相手じゃなかったら惚れてたよ。
「……きみのやりかたなら、わたしにも、書けそう……? ……うふ。うふふふ! それ、いいんじゃない!?」
「なになに何ですか死体蹴りかぁ!? 所詮明日木青葉なんぞ、まだまだ素人に毛が生えたみたいなもんだってぇ!?」
「そう! その、近いのがいいんだ!」
勢いよく頷き、名案とばかりにクソ妖精が指を回す。
「わたしができないのって、やりかたを知らないからでしょ!? だったら簡単、教えるの! きみが、わたしに、物語の創りかた!」
「は……えぇ!?」
「そうしたらちゃんと、取り出してあげる! ココにある最高の物語、きみが泣けちゃうわたしの世界! これを味わわずにポイなんて、もったいないんだから! というわけで延長戦ね延長戦、はい決まりー! みんなも言ってたわよ、『締め切りは伸ばしてもらうためにあるもんだ』って!」
知るか馬鹿、と喉元まできた言葉を声にできなかった、理由は二つ。
一つ。どうしても筆が進まず、目下、三ヶ月の締め切り延長を頂いている僕に、その言葉は無視できないほど耳に痛く。
そして、もう一つ。
「お願いお願いお願い! わたしも、書きたくて書けなくて悩んでるうちに思っちゃったの! ああ、この作品をちゃんと実際に読んでみたい、かたちにしなくちゃ!」
尊敬する先輩作家、大恩ある先生の言葉を、思い出す。
――いつか誰か、書きかたがわからんで困ってる、おまえの後輩に教えてやれ――
「~~~~~~~っ」
苦しい息が漏れる。さっきから気づいていたものに、目が向いてしまう。
道具を変えればどうにかなるかもとあがいたらしい、何かを書いたものの納得がいかなかったのだろう、くずかごに捨てられている書き損じの原稿用紙。
「自分で読みたい作品を、自分で書きたい……それ、言っちゃうか。聞かされちゃったなあ、聞かなきゃよかったこと」
そこにあるのは、自分でアピールもしなかった、確かな本気。
いいものをつくりたい、という作家の魂が、くしゃくしゃに丸められて溢れている。
その鈍い輝きに、人間と妖精の違いなど何の関係もありはしない。
「……僕もさあ。人に教えられるほど上等じゃないし、全然余裕もないのにさあ――」
それでも、求められたのは、他の誰でもない、明日木青葉だ。
頭を掻いて、期待と希望と気力にしか溢れていない目と視線を合わせる。
「――言っとくけど。僕の助言なんて、知れてるからな。基本をちょろっとくらいならアドバイスできるかもだけど、あんたが創りたいのは早瀬桜之助みたいな作品だろ? 知っての通り、僕はあの作風とは解釈違いだ。ろくな力になれないかもだぞ」
「そんなのないない! だってきみは、わたしが愛したいと思った相手なんだから!」
なんて珍妙な励ましか。僕は思わず笑ってしまい、計ったように腹が鳴る。
「じゃ、これから生徒になる相手への、最初のお願い。昨日作ってくれたごはん食べるんで、一緒に食卓囲んでよ。おにぎりくらい作るから、フリでもいいんでそっちも食べて。せっかく住むんなら、少しくらいは楽しくいこう。……えっと、りやな、さん」
「はーぁーい! ふふふふふ、これからよろしくね! 絶対ぜったい書き上げて、わたしを愛してもらうんだからね、センセー!」
常日頃、僕は思っている。
多くの文豪がそうであるように、奇人変人になりたいと。『ああいう人だからこそあんな人とは目の付けどころの違う傑作が生みだされるのだ』と感心されるような、人格・逸話をまといたいと。
……それが、どうしようもなく凡人でしかないからこその願望で涙ぐましい努力であることを、いやというほど知ったうえで。
なのに、まさか。僕自身が珍妙になれる前に、取り巻く状況のほうが奇妙奇天烈におかしくなるとは。妖精の生み出す傑作の、手伝いをするなんてことになるとは。
明日木青葉の