序章 死に過ぎチュートリアル その1
幼い時から仮想世界は私のすぐ傍にあった。
少し大きめな機械の箱に、頭の半分を覆うギアと呼ばれる被り物。それさえあれば、この世界とは違う世界に飛びたてる。
特に、オフラインの格闘ゲームなんて最高だ。
古き良き、コマンド入力なんて必要もない。レバーもボタンもテンキーもそこにはなく、アーケードスティックもコントローラーも存在しない。あるのは相手AIと自分の身体だけだ。
煩わしい人間関係など気にもせず、荒廃した世界で、あるいは山岳地帯や森林地帯のステージでAIのキャラと殴り合う。
殴られる衝撃、蹴りつける感触、躱し、躱される焦燥感と勝敗に一喜一憂する感情。全てリアルで、自分の生を実感できた。
もちろん、厳密には創り物ということになるのだけれど、それでも仮想世界で遊ぶのは楽しかった。
——そう、現実世界を疎かにする程度には。
「なーに、この通知表。あんた、普段どんな風に学校で過ごしてるの?」
「え……」
刑事ドラマを垂れ流していたテレビから視線を変えると、目の前に不機嫌そうなお母さんが立っていた。手には氏名欄に『伊海田杏子』と書かれ広げられた通知表。
そこに並べられた数字はどれも平均より少し上で、取り立てて問題視するようなところは……あ。
「『——杏子さんはもう少し、特定の人と仲良くしましょう。誰かに話しかけるといいかもしれませんね』……なにこれ?」
どうやらお母さんが気になったのは、担任からの一言という項目らしい。まったく、私のクラスの担任にはデリカシーというものがない。
「あんた、高校の一学期が終わったけど学校に友達いるの? そう言えば学校の様子とか聞いたことがないんだけど」
「い、いるよ。よくご飯食べる子がいる」
「……そうなの? 本当に?」
「う、うん」
私の言葉を疑うようにジト目で見てくるお母さん。嘘は言っていない。ただその相手が学校の体育倉庫裏に棲み付いている猫というだけだ。人間じゃなくても、友達は友達だ。
「母さん知ってるんだからね。あんたがVRでオフラインの格闘ゲームばっかりしてること。そんなんじゃ友達なんてできないわよ?」
「そ、それは関係ないじゃん」
「そんなんだから身長伸びないのよ」
「そ、それはもっと関係ないじゃんっ!」
自分の低身長を棚に上げ、私に暴言を吐いてくるお母さん。たしかにVRゲームのやりすぎは、身体の成長を阻害するというデータも出ている。けど、私が高校一年生にもなって身長一四○センチメートルに満たないのは、どう考えても遺伝のせいだ。私もVRも悪くない。
「とにかく、あんたはしばらくVRゲームはやめなさい」
「えぇっ!」
なんという残酷な仕打ち。それは、私に「死ね」と言っているようなものだ。小学生の頃からVRに親しんでいるのだ。仮想世界のない現実世界なんて、私にとってなんの価値もない。過去には「現実世界はお勤め、仮想世界こそが現実」なる言葉も存在してるくらいだし。
「ちょ、ちょっと、そんな顔しないでちょうだい。母さんはあんたのことを思って——」
「私のことを思っているなら、どうしてそんな酷いことができるの? 本当は私のことなんて嫌いなんでしょ?」
私はこれでもあんまりわがままは言わない。VRゲームさえあれば、自分の人生に何の不満も持っていなかったからだ。
だからこそ、この暴挙はわがままを言ってでも阻止しなければならない。
「……はぁ、分かったわよ。あんたがそんなにムキになるのは珍しいし、VRゲームを禁止するのはやめます」
「本当? ありがとう、お母さん大好きーっ!」
嬉しくなってお母さんに抱き着こうとしたら、右掌を突き出されて止められた。
「へっ?」
「ただし、遊ぶならオンラインになさい。オフラインの格闘ゲームは許しません」
「えぇぇっ!」
それでは何の意味もない。
相手が人格をもたないAIだからこそ格闘ゲームは楽しめるのであって、中の人がいるキャラ相手に純粋な殴り合いなんて楽しめない。
相手だって私に負けたら悔しいだろうし、私だって勝ってしまったら気を遣ってしまう。きっと素直に喜べないと思う。
いや、ならオンラインでもモンスターを倒すRPG系はどうだろうか? それならモンスターはAIだろうし、中の人がいるプレイヤーとは別に戦う必要もない。なんならソロプレイでモンスターを狩りまくってもいい。
でもRPGはやったことがない。どういったゲームがあってどういった楽しみ方があるのか全くの未知数。なのでいまいち踏ん切りがつかない。
「なにもそんな真剣な顔にならなくても……」
お母さんが呆れたような声でそう言って来るけれど、これは私の仮想世界ライフを楽しむためにも重要な問題だ。素人は黙っていてもらいたい。
そんな風に考えていたら、背後のテレビが爆発した。
「——えっ?」
慌てて後ろを向くと、別にテレビが爆発したわけではなく、CMで爆発音が流れただけだった。集中している時にびっくりさせないで——あれ、これ……。
そこに映し出されていたのは、現実そのものに見える風景と様々な装備や衣装に身を包んだ人間や亜人。
臨場感ある戦闘シーンとプレイヤーたちの前に立ちはだかる多種多様なモンスター。なによりも動きが滑らかでゲームシステムの縛りを感じさせない。
まさにリアルなファンタジー世界が目の前に広がっていた。
「『八番目の大陸にて、君だけの年代記を創り出せっ!』 新VRMMORPG『エイス大陸クロニクル』近日正式サービス開始っ!」
「…………」
それは新しいVRMMORPGのサービス開始を告知するCMだった。初めてRPGのCMを見たけど、圧倒され惹きこまれてしまった。こんなに、こんなに楽しそうなゲームは見たことがない。
余韻に浸り終わった私は、背後のお母さんを勢いよく振り返った。
「私、あのゲームがやりたいっ!」
「……まぁ、オフラインの格闘ゲームよりはいいのかしら」
お母さんは眉間にしわを寄せた後、諦めたように許可してくれた。