第一章 覇者の列席と世界の渦 4 遺された者たちと遠い誓い
ディックがユマの力を求める前、『世界の渦』の深部に降りたときから、ユマはすでにその違和感に気がついていた。
宙に浮かぶ、隙間のある金属の球体のようなもの。その中に納められている椅子に座った少女は――赤髪の少年とエルフの女性を攻撃したあと、その魂をある感情で揺らがせていた。
それは、詫びているような。
本意ではない攻撃。マキナと名乗った少女の話を聞いている間に、彼女がある人物のことを口にするたびに、感情を押し殺していることにユマは気づいた。
マキナという少女にとって、盟主という人物が何者なのか。それもまた、魂の波動を感じ取れるユマを前にして隠せることではなかった。
ユマは歌をマキナに聞かせ、彼女の魂を覆う心の殻を開き――そして、自分の精神体をマキナの中へと送り込んだ。
ユマが見ている風景は、マキナの心象風景。今もディックたちと戦っている彼女とは、別の側面――マキナの本質とも言える魂の一側面と、ユマは邂逅しようとしていた。
無機質な白い部屋。扉と窓だけがあり、窓から差し込んだ光の中に、色素の薄い髪をした幼い少女の姿がある。
彼女の前に置かれているものは、彼女の身体よりも大きな水晶球。そこに映し出されているものを、ユマは後ろから見る。
それは、膨大な量の文字の羅列だった。
世界の歴史、これまで記録されている全ての物事。魔法についての知識――そして。
数人を残して地上から消えた『遺された民』の記録。
「……こんな……こんなに、酷いことが……」
ユマは涙をこぼす。精神体であっても流れる涙は、魔力の粒に変わって消えていく。
マキナは振り向かずに、小さな声で文字を読み上げながら、水晶球を見つめ続けている。
この世界で一度は繁栄を極めた『遺された民』は、さらにその魔法文明を発達させようとしていた。
しかし、浮遊島――天上の神の国を思わせるそれを作り上げたとき、『遺された民』の指導者は一種の全能感を得た。
自分たちの力で、人工の神を作ることができるのではないか。
その計画の中で作り出された、神たる者の力の源。それが『擬神核』だった。
しかし浮遊島クヴァリスの動力源として使用され、クヴァリスが空に浮き上がり――十数年後に、その日は訪れた。
異空の神の、襲来である。
空の裂け目から現れたというそれは決まった形を持たず、初めは脅威として認識されなかった。一部のクヴァリスの民が異変に気づいたときには、すでに異空の神はその思惑を果たしていた。
『神の住まう城』として力を蓄えていたクヴァリスは、その力を世界を滅ぼすために解き放った。『神の使者』となるはずだった神級兵装、そして竜翼兵たちは、その力を全て破壊に向けた。
標的となったのは、クヴァリス以外の浮遊島の民。それは神を作ろうとした者たち、その同族を異空の神が敵と認識しているという事実を示していた。
しかし浮遊島ベルサリスを落とし、なお地上の民を駆逐するかに思われたクヴァリスは、それ以上の攻撃を行わなかった。
神を目指した者たちを滅ぼしたことで、その目的を果たしたというかのように。
世界は滅びを免れた。異空の神がこの世界を脅かしたこと、その事実すら忘れて、人々は二千年の時を過ごした。
だが、忘れることのできていない者がいた。不老不死の肉体を持つ『遺された民』の生き残り――ヒューゴーという名の男。
彼はクヴァリスではなく、滅ぼされた浮遊島の出身だった。地に落とされ、それでも生きながらえた彼は、ただ一つの目的を果たすために動き続けた。
全ての『遺された民』が、リムセリットのように魔法や戦闘に長けているわけではない。ヒューゴーは学士であり、見知らぬ地上で生きていくだけでも難しいことだった。
それでも彼は、ただ一つの目的のために生き続けた。異空の神の脅威はいずれまた訪れると確信し、二度目が訪れれば、この世界に人間が生きていた形跡は残らず消されるだろうと考えていたのだ。
だがヒューゴーは『世界の渦』を拠点とし、これから動き出すという矢先に――肉体と精神の均衡を崩すという形で、訪れないはずの寿命を迎えた。
ヒューゴーは死の間際に、自分の意志を継ぐ者を育てるために残り少ない正気でいられる時間を費やした。
そうして生まれたのが、ヒューゴーの血を引く娘、マキナだった。
『覇者の列席』は、肉体を持たない『盟主』と、その娘――『列席の眼』によって率いられた組織だった。
マキナが『列席の眼』となってから、およそ五年。ディックたちが『魔王討伐隊』として魔王国エルセインに赴いた頃、『列席』を構成する人員は現在とほぼ変わらない数まで増え、カインを始めとする列席上位者の序列もできあがっていた。
『……私たちはこの世界において、強者といえる力を持たない』
『しかしマキナよ……弱者であった私は、強者に抗うための道具を手に入れた。それゆえに、そなたに力を与えられる』
『それこそが私の作り上げた神級兵装……「魔神具」。不滅の金属で造られた巨人の鎧』
『それはそなたを守る力を持つだけではなく、もう一つの唯一無二の力を持つ』
『世界の端に根を広げた霊脈を通じ、力を集める能力……一度使用すれば世界の魔力均衡が変化する。それゆえに、使う者は力の『器』として優れていなければならない』
マキナは魔神具の力を起動し、膨大な魔力の器となるという役目を与えられていた。
マキナの心象風景――幼い彼女が学び続けているその姿は、彼女の記憶でもあり、今も心のどこかにある彼女の姿だとユマは思った。
「……お父様と一緒に、異空の神を倒す。それが、マキナさんにとって一番大切なことなのですね」
「そう。私はそのために生まれた。そのために生きることしかできない」
後ろにいるユマを振り返らずに、マキナは言う。
今の答えこそがマキナの迷いを示している。ユマは胸を痛め、両手を胸に当てる。
「この世に生まれてくる全ての命は、自らが望むように生きること……そして、幸福を享受する義務を持っています」
「……義務ではない。それは権利と言うべきところ」
「……はい。しかしアルベインの神の教えでは、そうなっているのです」
マキナは振り返る。ユマは微笑み、そして言葉を続けた。
「マキナさんのお父様は、自分の手で思いを果たしたかったのですね。そのために、少し急いでしまった……」
「……敵は、姿が見えない存在。ただ悪意だけがそこにある」
「はい……それは、この世界全体に向けられてもおかしくないものです。私たちも、『列席』の皆さんも、この世界を守りたくて戦っている。マキナさんも、お父様も」
「私は……盟主様の意志に、従うだけ。盟主様に敵対することは、絶対にできない……っ」
ずっと感情を表さなかったマキナの声が、初めて震えた。
ユマはそれでも微笑みを絶やさない。マキナの心のありようを、彼女は全てありのままに受け止めていた。
「……私にとっても、お父様とお母様は大切な存在です。二人のためになら、どんなことだってできるでしょう」
「……私と、あなたは同じじゃない」
「そうかもしれません。でも、お父様が大切だという気持ちは同じはずです」
「私は……盟主様に『列席の眼』としての役割を与えられただけ。盟主様と私は、あなたたちのような繋がりを持たない。それは、必要……」
必要のないもの。そうマキナが言い終える前に、ユマは屈み込み、幼い姿のマキナを抱きしめていた。
「必要ないなんて、思っていないはずです。あなたにとって、お父様がどんな存在なのかは、あなたの魂が教えてくれています」
「魂……そんなもの、見えるわけ……」
「いいえ。それが私には見えるからこそ、『魔王討伐隊』の一員に選ばれたんです」
マキナはユマから離れようと伸ばした手を止める。
――マキナの魂を、ユマの身体から流れ込んでくる温かいものが包み込んでいる。
魂に触れられるということを、マキナは拒絶するのが当然のことだと思う――しかし、ユマがそうしてくることを、マキナは拒むことができなかった。
それはユマもまた、魂の全てを晒しているからだ。
ユマはただマキナを案じていて、伝わってくる魂の波動には一点の曇りもない。
「マキナさんはお父様のために、自分を犠牲にしようとしています。けれど……それを、お父様が望んでいたとは、私には思えないんです」
「……お父様は、私に『魔神具』を託した。お父様が操られてしまった今、私にできることは……『魔神具』の力を解放して、異空の神を消し去ること」
「けれどあなたの心は、それを完全に受け入れられていない。いけないことと分かっていましたが、あなたの記憶を見せてもらいました……あなたは『魔神具』の器として育てられた。けれど『魔神具』は、あなたの身を守るための、お父様の贈り物でもあったはずです」
「……っ」
マキナは反論できない。苦しそうに吐息をつくだけで、ユマの言葉を聞いている。
「スオウさんとミカドさんは、あなたと一緒に戦うために戻ってきたんです。その二人を遠ざけようとして、あなたは……」
「……二人は『列席』のために尽くしてくれた。他の皆も……でも、みんな……」
「皆さんはまだ、マキナさんと一緒に戦おうとしてくれています。マキナさんのお父様が敵に操られてしまっていることを知れば、動揺はあると思います……ですが、マキナさんのお父様を倒さなければならないという考えにはなりません」
「どうして……そんなふうに言えるの……?」
「操られてしまった人に罪はありません。もし私の大切な仲間が操られてしまっても、私はこの歌で、アルベインの神の身元に連れ戻す覚悟ですが」
ユマの言葉に、マキナは目を見開く――そして。
その瞳に涙が浮かび、頬を伝い落ちていく。
心象風景の中で流す涙は、本物の涙と変わらず、同じ時に流れる。腕に飛び込んできたマキナを抱きとめ、ユマもまた涙を流した。
「お父様は、ずっと苦しんで……復讐のために、身体を無くしてもこの世界に留まって……でも、してはいけないことをしてしまった。列席の第一位……私たちの目的に共感してくれたカインの身体を借りて、自分で『異空の神』を倒そうとして……私は、それを止められなかった。『擬神核』に触れることは危険だと分かっていたのに」
「……では、ヒューゴーさんは、カインさんの身体に宿っているのですね。その上で『異空の神』に干渉を受けてしまった……」
マキナは頷きを返す。ユマは彼女の背中を撫でながら、彼女が落ち着くのを待って問いかけた。
「人よりも永い時を生きること、身体を無くしてしまうこと。それは、魂に安らぎを得ることができないということでもあります」
「……それでも、私は……お父様の言葉を、もう一度聞きたい」
ヒューゴー、そして彼を支配した『異空の神』を滅ぼすために『魔神具』を使うということは、マキナにとって父を殺めることを意味する。
「お父様の心は、ずっと二千年前に囚われたまま。『異空の神』を倒すことができたら、ようやく解放される……この世界で生きることの、苦しみから」
「……さぞ、お辛かったことでしょう。お父様のことを、ずっと見ていられたマキナさんが、そのように思うのは」
「私は『列席』に座ってくれた仲間を裏切った……そんな言葉をもらう権利なんてない」
ユマは一度身体を離す。心象風景の中にいるマキナは、五歳前後の幼い少女の姿だった。
「子が親を思う気持ちが何にも勝るとき、隣人はそれを見守るものです。スオウさんもミカドさんも、マキナさんを憎んではいません」
「それは……ただ、二人に甘えているだけ……何も説明せずに、二人に無理を強いて、今のことも許せだなんて……」
「私が許します。許すことが、全てを明るい方向に向かわせると信じるからです」
マキナの頬にもう一度涙が伝う。少女の頭を優しく撫でながら、ユマは続けた。
「ヒューゴーさんを、止めましょう。彼の願いが、その方向を歪められてしまわないように」
「……っ、……」
マキナはユマの胸に頭を預け、声もなく泣いた。
感情を心の奥に閉じ込めてきた少女の声なき声は、ユマの魂を震わせ、彼女もまた涙を流した。
そしてユマは神に祈る――これから始まる戦いが、悲劇で終わることのないようにと。
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試し読みは以上です。
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『魔王討伐したあと、目立ちたくないのでギルドマスターになった 9』
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