プロローグ 擦り切れた心の果て

『列席の眼』――マキナは、金属のサークレットをつけたまま、霊脈を通じて遥か遠くから伝えられるスオウとミカドの声に耳を傾けていた。

『アルベインの英雄は、俺たちよりも強かった。ディノ……ディック・シルバーは、列席の第二位を凌ぐ力を持っている。三位の俺が断定できることじゃねえがな」

『スオウと共に彼らの戦いに参加し、もう一つの世界はおそらく安定した。異空の神に操られた九頭竜については、討伐を確認している』

『この世界』と並列して存在するもう一つの世界は、『異空の神』の侵攻によって滅亡に瀕していた。

 それを食い止めるために、マキナはアルベインの英雄たち、そして彼らと接触したスオウとミカドを利用した。

「……私は、あなたたちに謝らなければならない」

『それをするべきは、ディックたちに対してだろう。俺もミカドも、盟主様の意志を絶対として動いてきた。一緒に向こうに送られたのは転空儀の座標合わせのためだろうが、全く問題ねえよ』

『もう一つの世界に飛んだとき、帰還できる可能性は極めて低いと割り切った。それでも私たちはこうして戻ってこられた。命を拾われた以上、私たちは積極的に彼らに敵対することも、列席に入るように説得することもできない。彼らは初めから、私たちが縛れるような存在ではなかったんだ』

 スオウとミカドは、アルベインの英雄――その中でも影の存在であったディックに対する畏敬を隠そうともしない。

 あるいは盟主ヒューゴーよりも、今の彼らにとって優先されるのは、命を救ったディックたちなのかもしれない。

 それは形あるものである限り、無理のないこととマキナは考える。

『俺たちは帰還するが、いずれディックたちが「世界の渦」に来るかもしれねえ。そのときは……』

 ――その時、霊脈を通じた念話が乱され、マキナはスオウの声を聞くことができなくなる。

『世界の渦』の一帯を通る霊脈。その魔力が全て、一点に集約され始めている――膨大な魔力が吸い上げられる先は、マキナのいる場所の遥か地下だった。

「盟主様……」

『覇者の列席』は盟主ヒューゴーと、その意志を代行するマキナの手によって『異空の神』を倒すために作られた。

 ヒューゴーはディックが『異空の神』を倒したと知ったとき、その力を賞賛した。いずれ滅びの危機に瀕するこの世界を救うための、唯一の希望であると。

 ディックたちをこの場に迎え、共に『異空の神』と戦う。マキナは、そうするべきだと考えていた。

 彼らを利用したマキナたちが許されるかは分からない。しかし、ディックたちは必ず『異空の神』と戦う決断をする――アルベインという国には、彼らが守るべきものが多くあるのだから。

 マキナにとって盟主が絶対であり、同時に守るべきものであるように。


 ――マキナよ。このような選択をする我を、愚かだと思うか。


 盟主の声が聞こえてくる。その声には、およそ感情というものは宿っていない。

 マキナに語りかけるとき、盟主の声はいつも穏やかだった。

 しかし、消えることのない無念は二千年の間に、盟主の魂を蝕んでいた。永遠に生きることを宿命づけられたのは『遺された民』の肉体のみで、魂は不朽のものではなく、人間と同じように年月を経れば擦り減り、感情の機微は失われていく。

『列席』に迎え入れた者の中には、マキナを『人形』のようだと言うものがいた。

 それに対して、マキナは何の感情も抱かなかった。それは彼女自身が、自分が人形そのものであることを肯定していたからだ――感情を失った盟主の血を引く娘として。

「盟主様のご意志に、私は最後まで従います」


 ――済まない。私は……として、そなたには……。


 盟主の声はかすれて、やがて聞こえなくなる。

 マキナがいつでも感じることのできた盟主の気配が、『世界の渦』を離れていく。

 スオウとミカドは霊脈の異常を感じ、おそらく帰還を始めている。霊脈を流れる魔力がある程度回復しなければ、マキナは『列席の眼』として世界の全てを見通すことはできない。

 見ることができなくても、この先に起こることは分かっている。

 あと少しだけ、ディックたちを待つことができたなら。

 マキナが模索しようとしたその可能性は、盟主には選択されなかった。

 マキナは想像する。霊脈を通して見た『彼』の姿を、自らの目で直接見た時のことを。

 マキナは金属のサークレットを外す。水色の長い髪が広がり、とうに感情の失われていたはずの彼女の瞳に、わずかな光が宿った。

「……ディック・シルバーに、宜しく伝えておきます。お父様」

 届くことのない呟きは、広大な薄闇に溶けて消えた。

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