第一話『照れさせられるちっちゃくてかわいい先輩と、喜ばせたい素直で不器用後輩』3

「それじゃあとりあえず発声練習をやってみよっか。教本があるから読んでみて」

「分かりました」

「あたしは他の仕事をしながら聞いてるから、何か分からないことがあったらいつでもいてくるんだぞ」

 そう言うと、先輩はくるりときびすかえして資料の整理を始めた。

 それを横目に、りゆうすけは発声練習を開始する。

「あっ、えっ、いっ、う、えっ、おっ、あっ、おっ……」

 発声練習は放送部員にとって基本となるものだ。

 専門的な声の出し方から、よく知られているような早口言葉まで。

 教本に載っているそれらを、滑舌に気を付けながら読み上げていく。

「かっ、けっ、きっ、くっ、けっ、こっ、かっ、こっ……かけけききくくけこかこ、かけきくけこかこ、かきくけこ……特許許可する東京特許許可局……」

 油断すると舌をみそうになる言葉の連続。

 と、そこで視界にあるものが入った。

「……ん、んんっ……」

「……」

「……む、む~……」

 何だか挙動不審な先輩の姿だった。

 放送室の隅にある戸棚の前で、右手を伸ばしながらウサギのようにぴょんぴょんと飛び跳ねている。

「……む~……ん~……あ、あと、ちょっと……っ……」

 たぶん棚の一番上にある資料を取りたいのだろう。

 だけど先輩のこころもとない身長(百五十センチ弱)では、背伸びをしてもジャンプをしても、あと僅かが届かない。

 一生懸命に飛び跳ねる度にふらふらと身体からだを揺らして、スカートの裾がぱたぱたと頼りなくはためいている。

 見るからに危なっかしい。

 このままでは転倒したりしてしまうのでは……と心配に思っていたら案の定、

「あっ……」

 先輩が体勢を崩した。

 宙をつかむようにして両手をわたわたと必死に動かした後、「わわわっ!」と声を上げてそのまま後ろにひっくり返る直前で──

「大丈夫ですか?」

「……っ……」

 駆け寄ってすんでのところで受け止めることに成功した。

 柔らかで軽やかな感触がりゆうすけの胸元にふわりと収まって、同時にかんきつるいのようなフローラルのようないい香りがふんわりと辺りを漂う。

 先輩の体勢を安定させて隣に立たせると、りゆうすけは戸棚の一番上にあった資料を手に取った。

「これですよね。どうぞ」

「……」

「先輩?」

「え? あ、う、うん、さんきゅ……」

 バツが悪そうに先輩が下を向いてお礼を言う。

「危ないので届かない時は言ってください。取りますから」

「……」

「先輩?」

「あ、うん、いちむらに頼めばすぐに取ってくれたっていうのは分かってるよ。いちむら、いいやつだし。でも……」

「?」

いちむらが一生懸命に練習してたから邪魔したくなくてさ。自分で取れるならそうした方がいいって思ったっていうか……」

 視線をらしながらもごもごとそんなことを口にする。

 先輩はこういう人なのだ。

 何だかんだで自分のことよりも他の人のことを第一に気にかけてくれている。

 その心遣いはりゆうすけにとってこの上なくうれしいものであって……思わずポンポンとその頭に手をやってしまいたい衝動に駆られるものの、心の中で自分の頰に鉄拳を入れてそれを抑えた。いくらかわいいとはいえ相手は先輩だ。立場はわきまえなければならない。

 代わりに、りゆうすけはこう口にしていた。

「そんなこと気にしないでください。高いところにあるものを取るくらい何でもないですから」

いちむら……」

「先輩のためならたとえ両手両足を骨折していたって、即座に駆け付けて取ってみせます」

「重いよ!?」

 そう口では言うものの、そこはかとなくうれしそうな表情が先輩の顔に浮かんでいることを、りゆうすけは見逃さなかった。

(……よし)

 これでツーアウトだ。

 心の中で再度ガッツポーズをする。

 先輩が喜んでくれた。

 うれしそうな顔をしてくれた。

 あと一回アウトを取れればスリーアウトチェンジ──すなわち

「ま、まあいいけど……それより練習はどう? うまくできないところとかない?」

 こほんとせきばらいをしながら先輩がそう尋ねてくる。

「そうですね。ここの滑舌がちょっと難しいかもしれません」

 そう答えると、先輩は待ってましたとばかりにうれしそうに身を乗り出した。

「お、じゃああたしが手本を見せてあげよっか? ほらほら、やっぱりこういうのは実際にできる人が目の前で実践した方が分かりやすいと思うんだよね」

「はい、ぜひお願いします」

「うん、任せといて!」

 ノリノリの様子でうれしそうにドンと自分の胸をたたきながら、先輩がすうっと息を吸う。

 そしてゆっくりと教本を読み始めた。


「生麦生米生卵、赤巻き紙青巻き紙黄巻き紙、今日のなまだらなままながつお──」


 響き渡る、声。

 さっきまでの鈴を鳴らしたようなかわいらしいものとは違う、どこまでもキレイで透明で、まるで水面にできた波紋がみやびやかな円を描いていくみたいに、りんとした響きが放送室の中に広がっていく。

 

 普段の素の先輩の声は、かわいらしい。

 発声用に張られた先輩の声は、美しい。

 それは本当に片方は天使で、片方は女神かというのがふさわしい天上の響きであって……

「先輩の声は本当にきれいですね。地上に舞い降りた女神みたいで、聞いているだけで心が洗われるような幸せな気持ちになってきます……」

 思わずりゆうすけが心の中の声を口に出してしまった次の瞬間。


「……っ……! と、隣の客はよく柿食う客にゃ……っ……!」


 女神がんだ。

 早口言葉のクライマックスのところで、盛大にんでしまった。

「……」

「……」

 沈黙。

 空手の師範が弟子に寸止めの見本を見せようとしたら失敗して見事に正拳突きを決めてしまった時のような何ともいえない微妙な空気が放送室の中を流れて、それに比例するように先輩の顔がでられたオマールエビみたいにみるみるうちにかーっと赤くなる。

 先輩が気まずい思いをしている。

 恥ずかしさに耐えかねている。

 ここは後輩として、先輩の笑顔を望む者として──フォローしなければ。

 だけどどう声をかけるのが正解だろう。

 野球部の練習中だったらこういう時にはドンマイと一言添えて肩をたたけば事足りるが、相手は細かいことを気にしない野生のゴリラみたいな体育会系野球部員じゃなくて、しっかりしているように見えて意外と打たれ弱い小動物みたいな先輩だ。

 三十秒ほど考えた後、りゆうすけは先輩の目をぐに見てこう言った。

「先輩」

「な、何……?」

「大丈夫です。俺、猫好きですから」

「……っ……」

 完璧なフォローのはずだった。

 失敗からそれとなく論点をズラして、なおかつ語尾が「にゃ」になってしまったことを好ましく思っていることを伝える、最適解のはずだった。

 だけど先輩は顔を真っ赤にさせたまま、スカートの裾をきゅっと握り締めながら全身をぷるぷるさせて、こう声を上げたのだった。


「そ、それはフォローじゃにゃい!」


 さりげなくまたんでいたのはともかくとして。

 ……どうも、失敗したみたいだった。

 ……ううん、先輩のツボは分からない……

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