プロローグ 『こんにちは異世界』


「――何処だ、ここ」

 何の前触れも無く突然目の前に現れた光景に、俺――かぶら武蔵むさしの思考はピタリと停止した。

 さっきまで俺が立っていた場所は、家の近所にある神社の参道だった筈だ。大学受験を控えていた俺はそこで合格祈願をして、家に帰ろうとしていたところだった……と思う。

「どういうことなの……なんで俺はこんな見知らぬ山の中に立ってるの……」

 いやマジでどういうことだよ、俺がいたのは街中にある小さな神社だぞ。それが鳥居をくぐった瞬間、突如鬱蒼とした木々が広がる空間になっている。全く以って意味が分からない。

「勉強疲れで夢でも見てんのか俺は? 明晰夢ってヤツ? もしくは神隠し的な何か?」

 自分の頬が引きつっているのを感じる。思った事を口にしなければ平静を装えないくらいに焦っている今の俺は、さぞ間抜けな表情を浮かべていることだろう。

「と、取り敢えず引き返す感じで――」

 震える声でそう呟きながら後ろを振り返る。しかし、そこには先程まで自分がいた神社は跡形も無く、同じような木々が生えている光景が広がっているだけだった。

「冗談だろオイ……いや、ガチで意味分かんねぇよ。荒唐無稽にも程が――」

 現実逃避をするため、俺の口から馬鹿みたいに独り言が垂れ流されていた、その時。

《グルルルルル……》

 木々をかき分ける音、パキパキと地面に落ちる枝を踏み砕く音、ズンッと地面を揺らす大きな音……そしてこれまで聞いた事のない重々しい唸り声のようなものが聞こえ、ハッとしてその方向へ視線を向けた。

「―――ッッ!!」

 音の正体を確認した瞬間、全身に鳥肌が立つと同時にぶわっと冷や汗が噴き出した。

「きょ、恐竜……?」

 そう、目の前に現れたのは図鑑や映画で見るような恐竜……正確にはティラノサウルスのような生物だった。

 四メートルは優に超えるであろう体高、こちらを見据える瞳孔が細く縦に伸びた金色の瞳。甲冑を思わせる重厚な頭部の外殻は口周りでそのまま大きなカミソリのような牙に発達しており、更にその内側からはライオンや虎といった猛獣とは比べものにならない太さと長さの無数の白い牙が覗く。

 全身は濃緑の外殻に覆われており、要所要所がまるで刃物や棘のように発達している。

 形こそティラノサウルスに似ているが、その姿は少なくとも俺の知っているものとは大きく乖離していた。

 ――ドラゴン。幻想の世界にのみ存在するその名称が、頭に過った。

 気が付けば、無意識にじりじりと距離を取るように後ろへと下がっていた。そんな俺の姿を金色の双眸が見据えた次の瞬間。

《ギャオオオオオオオオオオオオオン!!》

 ――耳をつんざく凄まじい咆哮が、辺り一帯に響き渡った。咆哮の衝撃で周囲の木々は悲鳴を上げ、ビリビリと空気の振動が俺の全身を包み込む。

 その瞬間に理解した……理解してしまった。

 今自分に起こっている現象と目の前の光景。これは紛れもない……現実だ!

 ヤツの咆哮が鳴りやんだ瞬間、俺は一目散に逃げだす。どうしてこんな事になっているんだとか、どうやって帰ろうかなんて呑気な考えは一瞬で脳から弾き出された。

「今やらなきゃいけないのは……逃げる事だな! ぬおおおおおおおおおおおおお!」

 後ろからズシンズシンと大地を震わせながら死の気配が迫る音が聞こえるが、絶対に振り向かない。振り向いている余裕なんてない!

「走れ、走れ、走れ!! 絶対止まるな馬鹿野郎、死ぬぞ!!」

 慣れない山中を我武者羅に駆けていく。学校帰りだったため服装は学ラン、靴はローファーだ。走りにくい事この上ない。

 だがそんな事は気にしていられない。足を止めた先に待っているのは確実に死だ。こんな場所で馬鹿デカいトカゲの餌になんてなりたくない。

 そこら中に生えている小さな木や草、不安定な足場に足をもつれさせながらも全力で斜面を駆け降りる。

 肺が苦しい、心臓が痛い。急激な運動で身体が悲鳴を上げる。痛みと恐怖で涙と鼻水が止まらない。きっと俺はとんでもない顔で走っているのだろう。

《グルオッ!》

「あっ!?」

 不意に鋭い唸り声が背後から聞こえた。次の瞬間、背中に大きな衝撃が走る。

「~~~~~~っ!!」

 一拍遅れてやってくる激痛。呼吸が一瞬止まり、身体は呆気なく宙を舞った。

 空と一緒に瞳に映った背後の光景を見て、トカゲが地面に頭を突っ込んで石や砂利を俺目がけて吹き飛ばしたのだと分かった。

「あっ、でっ……! チッキショウ、頭いいなコイツ!!」

 幸運にも死にはしなかったらしいが、受け身も取れないまま俺は斜面を前のめりに転がる。背中を中心にして全身に痛みが容赦なく駆け抜けていた時、突然視界が開けた。

 そこは先程までの木々が生い茂っている山中ではなく、ゴツゴツとした岩肌が広がる荒涼とした場所だった。

 急に風景が変わったことで一瞬思考が止まったが、すぐに痛みを押し殺して立ち上がる。その時、あるものを見つけた。

 むき出しになった岩肌の一角。そこに人一人が丁度通れるくらいの穴が開いていた。

 背後からバキバキと木々をなぎ倒す音と聞く者全てを震え上がらせる雄叫びが聞こえてくる。迷ってる暇は無い。

 俺は再び駆け出す。もう無理だ、止まれと悲鳴を上げる身体をガン無視して気合で痛みを堪えて我武者羅に走り、その穴を目指した。

「だっしゃあああああああ!」

 最後の力を振り絞って全力でその穴に駆け込む。その際に足を引っかけてゴロゴロと転がりながら穴の奥に吹っ飛んでいく羽目になったが、即座に身を起こして尻もちを搗きながらさらに奥へと後ずさった。

 次の瞬間、入り口からヤツが轟音と共に頭を突っ込んできた。ビキビキと岩が砕ける音がしたが、その巨躯が邪魔してどうやらそれ以上こちらには来られないようだ。

《グルルッ!》

 目の前でガチンガチンと顎が打ち鳴らされる。暫く同じ事を繰り返した後、これ以上は無駄だと判断したのか、ヤツは恨めしそうな視線を向けながら頭を引き抜いた。

 そうして穴の入り口付近を暫く歩き回った後、やがて足音を響かせながらゆっくりとヤツはどこかへと消えていった。

「ハッ、ハハハッ……」

 脅威が去ったことで、全身から力が抜ける。仰向けに倒れながら俺は――笑っていた。

 顔からは相変わらず涙と鼻水が流れていたが、それでも笑わずにはいられなかった。

 突然訳の分からない世界に放り込まれ、訳の分からない生き物に追いかけられた。喰われかけながらもなんとか逃げおおせた俺は、生き死にの狭間に身を置いていたにもかかわらず、不思議な高揚感に包まれていた。

 ――ああ、そうか。俺は今、全力で生きようとしていたんだ。

「いっ、でででででで!」

 窮地を脱した事で本来感じるべきレベルの激痛が脳を灼いた。俺は必死に歯を食いしばりながらも、自分の過去へと目をやる。

 思えば俺は、これまでの人生を漠然と過ごしていた気がする。適当な高校に進学して、家族や友人と過ごし、適当な大学に行き、適当に生きていく。

 そこに明確なビジョンなんてものは無くて、ただそうやって生きていくんだろうなと思っていた。

 だが、こうして未知の世界で命の危機に瀕した今なら分かる。今までの自分がどれだけ人生舐め腐っていたか、平和に生きていられる事がどれだけ素晴らしい事だったのかを。

 きっとこの世界は俺の日常があった場所よりもかなり過酷な世界だと思う。あんな化け物が跋扈しているくらいだ、きっと命の重さも住んでいた日本に比べれば驚くほど軽いのだろう。

「喰うか喰われるか、だな。多分俺は、この世界のヒエラルキーで言えば間違いなく最下層付近だ。少なくとも、今は……上等だよクソッタレ。やってやろうじゃねえか、強くなってやろうじゃねえか」

 そう、強くなればいい。強くなれば喰われない、喰らう側に回れる。生き残る事が……出来る。

 この時点で俺の中からはどうやったら元の世界に戻れるかだとか、何がどうしてこうなってしまったのかなんて考えは一先ず無くなっていた。明日より今日、未来より現在だ。

「……兎にも角にも身体鍛えねぇと。この貧弱な身体じゃお話にならねぇ。あぁ、あとは食料の確保……木の実でも魚でも、鼠でもいい。住居の確保にあとは――」

 息を整えながら為すべきことを自分に言い聞かせながら思考を奔らせる。幸いこの辺りはデカい山の中らしいので、素人考えだが食い物には困らないと思う。ただ、ある程度鍛え終わるまでは新鮮な肉類にはありつけなそうだ。そういう贅沢な食い物はあのバカデカトカゲ達の領分だと思う。

 だから、このまま山籠もりをして心身ともに鍛えていこう。弱いまま下山なんか無理だ。当然危険も伴うだろうが、むしろその方がいい。過酷な環境でなければ意味がない。

「ここにはさっき出くわしたみたいな大物……うん、ドラゴンと呼ぶか。少なくとも恐竜ではないな」

 そのドラゴンも住んでいるから、細心の注意は必要だろう。強くなる前にパックリいかれたら全てが無駄になる。


 ――そうして生きていく覚悟を決めた俺は生活を始める。その生活の中で何度も何度も死にかけながら山での暮らしを続け、気が付けば地球換算で十年の月日が経っていた――

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