極道さんはパパで愛妻家 佐倉 温


「ただいまぁ!」

 元気な声と共に、庭で遊んでいた史が廊下を走ってくる。ちょうど洗面所で畳んだタオルを片付け終えたところだった佐知は、手を洗いにやってきた史がすぐに立ち去っていこうとするのを、シャツを掴んで引き留めた。

「こーら。手洗いはちゃんとする約束だろう?」

「ちゃんとしたよ! さちもみてたでしょ⁉ ほら!」

「ほら、じゃない。ちゃちゃっと石鹸付けてぱぱっと洗っただけだろ? そういうのは洗ったって言わないの」

「えー……」

 不満そうにする史だが、こればっかりは医師として妥協はできない。

「いいか、史。手洗いはとても大事なんだぞ。色んな病気の予防になる。史がちゃんと手を洗うことで、史が病気になる可能性が減るし、パパや組員の皆だって、病気になる可能性が減らせるんだ」

「ぼくがちゃんとてをあらうだけで?」

「そうだぞ。……もちろん、皆で洗えばその分もっと可能性が減らせる。なあ、田中?」

 佐知と史のやり取りを横目に、鼻歌混じりで隣で手を洗って去っていこうとしていた組員の田中を見逃さず呼び止める。

「あ、は、はいっ! もちろんっすよ! 俺も今からもう一回手を洗おうと思ってたんすよ!」

 嘘を吐くな。どいつもこいつも、ちゃちゃっと洗えば済むと思っている。これは今度、組員を全員集めて根性を叩き直してやる必要があるなと佐知は密かに決めた。

「ほら、二人共、俺が教えてやるからもう一回手を洗い直し!」

「はーい!」

「はーい……」

 よい子のお返事の史と、何だか渋々な田中。対照的な二人にまずは手を濡らせと指示していると、そこへ賢吾がやってきた。

「お、何だ。何か楽しそうだな」

 帰るコールは受けていたので驚きはしないが、今日はいつもよりもかなり早いおかえりだ。補佐の伊勢崎が一緒じゃないところを見ると、先に自分だけ帰ってきたのかもしれない。後日伊勢崎にいやみを言われなければいいがと佐知が心配している間に、賢吾はごく自然に佐知の腰を引き寄せた。

「ただいま佐知、今日も愛してるぞ」

 気障な台詞と共に佐知の額にさらっとキスをして、佐知が攻撃をする前に離れる早業は流石である。恥ずかしさを感じる暇もない。

 佐知がちょっと唇を尖らせたのを目ざとく察してくくっと笑いながら、賢吾は洗面所で手をぱぱっと洗い、うがいをし、濡れた手でささっと髪をセットし直して――

「やり直し」

「ああ?」

「お前もやり直しだって言ってるんだよ」

「何だよ、口にして欲しかったのか?」

「それじゃない! 断じてそれじゃない!」

 額へのキスでは不満だったのかと、もう一度佐知を引き寄せてキスをしようとする賢吾の顔を、佐知はばしっと押し退ける。

「じゃあ何だよ」

 不満げな顔を見せる賢吾は、本気で分かっていないらしい。怒り心頭の佐知の代わりに、史が賢吾の腕をちょいちょいと引いた。

「あのねぱぱ、ちゃちゃっとでぱぱっとはだめなんだよ?」

「ちゃちゃっとでパパっと? 俺がどうしたんだよ」

「そのパパじゃない! あのなあ賢吾! 俺は仮にも医者だぞ? その医者の配偶者が……」

「聞いたかおい、配偶者だってよ」

 すぐそばにいた田中に嬉しそうに自慢する賢吾の肩を、鬼の形相をした佐知がグーで殴る。

「デレデレすんな、ぶっ飛ばすぞ!」

「殴ってから言うなよ」

 賢吾は痛そうに顔を顰めはしたが殴られてもびくともしなかったから、ただのポーズに違いない。自分のパンチ力の弱さが悔しい。

「お前が黙って聞かないからだろうが。いいか? 手洗いは病気の予防の基本だ。今まで自分の家族がそんないい加減な手の洗い方をしていただなんて、俺にはまったく受け入れられない」

 佐知は賢吾をきっと睨みつけ、「お前も二人と一緒に手を洗い直せ」と顎をしゃくった。

「分かった分かった。どうやって洗えばいいんだよ」

「まず手を濡らして石鹸を泡立てる」

「それ、さっきもやったよ?」

「やったな」

「やったっすよねえ」

「うるさい! 黙って最後まで聞きなさい!」

 先生モードに入った佐知に、三人が目配せをしながら口を噤んだ。何となく面倒臭いと思われている気がするが、そんなことは知ったことではない。

「いいか、俺が今から実際にやってみせるから。まずはこうして……石鹸を泡立てるだろ? それからこうして……手の平にもう片方の手の指先を当てて、こんな風に洗う。それが終わったら今度は……こうやって指を一本ずつ洗う」

「えー、いっぽんずつあらうのー?」

「当然だ。いいか史。見えないばい菌一つ絶対に逃がさない。それぐらいの気持ちで洗うんだぞ」

「顔が真剣すぎて、犯罪者が血の付いた手を洗い流してるようにしか見えねえぞ」

「あ、それ俺も思ったっす!」

 佐知は無言で賢吾の足に蹴りを入れる。

「いってっ!」

「次また余計なこと言ったら、ほんとにぶっ飛ばすからな」

 何が犯罪者だ。発想が極道なんだよ、お前らは。

「だから蹴ってから言うなよ!」

 佐知が蹴った膝を指差す賢吾をつんと無視して、佐知は史に向かって手洗い講座を続けた。

「こうやって全部の指を洗い終えたら、今度は指の間。手を握り合わせるようにして、こうしてごしごしと洗うだろ? それが終わったら、今度は手の甲と手のひら。……で、最後に手首から腕までをこうやって洗って……」

「え⁉ そんなとこまであらうの⁉」

「そんなとこまで洗うの」

 驚く史に断言して、佐知は最後まで手を洗い終えた。タオルを出して拭き、唖然とする三人を促す。

「ほら、三人共、俺の真似してやってみて」

「ええ……」

 思わず言葉を漏らしたのは田中だったが、すぐに佐知の鋭い視線に射抜かれて口を閉じた。

「賢吾はちゃんと分かってるよな?」

 佐知がにこっと笑ってみせると、賢吾は「こんな時ばっかり可愛い顔しやがって」とぼやいたが、渋々といった様子で手を濡らし始める。佐知は賢吾の耳元にこそっと囁いた。

「あの程度の手洗いしかしてない男に、二度と俺の体は触らせないからな」

「よし、きっちり洗おう。手洗いは大事だぞ、史」

 ここまで単純だと何だか腹が立ってくる。急にやる気を出した賢吾を睨んでから、佐知は先生の気持ちで三人の手洗いを見守ることにした。

「ええっと……こうやってあらって……こうでしょ……? それから……」

「おい史、ただ洗ってるのもつまらねえから歌でも歌おうぜ」

「うた? どんなの?」

「そうだなあ。こういうのはどうだ? 佐知はー今日もー可愛いー、でも時々うるさいー、だけどーそれでー機嫌が、直るなら安いもんだー」

「おい!」

「さーちー! 今日もうるさいけど、家族のためだよー、さーちー! 手さえ洗えばほら、笑ってくれーるー」

 満足げに歌い終えた賢吾が、両手を佐知にかざして見せてくる。

「どうよ? ぴかぴかだろ?」

「いやいや、それより何なんだよ今の歌――」

「さーちー! きょうもうるさいけど、かぞくのためだよぉ!」

「あ、ほら! 史が覚えちゃっただろうが!」

「いいじゃねえか。歌ってる間はちゃんと手を洗うだろ?」

「まあ、そうだけど……」

 史がこれでちゃんと手を洗ってくれるならいいか。そんな風に受け入れたことを、佐知はこの数日後、心底後悔することになるのである。

「さーちー! 今日もうるさいけど、家族のためだよー!」

「てめえら! 佐知を呼び捨てにしてんじゃねえぞ‼」

「お前のせいだろうが‼」

 賢吾の作った替え歌は東雲組で大流行りし、しばらくの間、洗面所でよく聴かれるようになったという。

 それからしばらくして、史が作った「ぱぱのうた」が流行り、その数年のちにまた史が作った新曲「伊勢崎さんは意地悪」は、その後十年歌われるヒット曲となるのである。



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