一章 邂逅。そして問題発生。 その1
人が死ぬときは一番大切なものを失ったときである。
ただし、それが自身の命とは限らない。
犯罪者。
この世の規則である法律を私利私欲のために破った弱き者。
罪を犯したと判断された場合は、限りある人生を犠牲にして償う。
場合によっては命を対価として支払わなければならない。
償いが終わろうとも前科者の烙印を押され、それは死後においても消えることはない。
そして、
最高のエンターテイナーとなっていた。
1.
深海のように淀んだ夜空。
壁表面にて時折月明かりを反射しているのは、液体修復材を蓄えた自己機能である『
ゆえに窓もなければ傷もない。
植物たちから技術を借りた建造物たちは、ただの異物に成り下がっていた。
「……」
そんなビル群の中で一際高い摩天楼の屋上に彼はいた。
闇に紛れるように段差に座り込んでいた彼を、雲の遮りを躱した月光が照らす。
無造作に逆立っている短髪は紅蓮から明るさだけを奪ったような赤で、背丈は世界平均より少し高いだろう。上下黒のTシャツとカーゴパンツというラフな様相を引き締めているのは腰回りのナイフベルトだった。計六個の黒革ストッカーは一か所を除いてすべて埋まっていた。
腰かけたまま空を仰ぐ。
目に映ったのは煌々と輝く、不気味なほどに美しい満月だった。
そう、あの忌々しい日と同じ――。
発砲音が闇夜を切り裂く。
真横を通る弾丸に身じろぎひとつせず、彼は心底面倒そうに正面を向いた。
「なんで勝てねぇんだよッッ!! どれだけ改造したと思ってんだッッ!」
血だらけのままコンクリートに這い蹲っている男が叫ぶ。金色の髪は血に汚れ、両腕の肌に走る竜らしき模様は原型を留めていなかった。手首から伸びる刃はいずれも半ばで折れており、右足に至っては皮膚が剥がれ落ちて内部の金属が露わになっていた。
「クソがッ! こんなはずじゃッ! まだ死ねねぇんだよ、ふざけんなよッッ!!」
気迫の籠った怒声にも、彼の氷のような表情が崩れることはなかった。
だが、
「これだ、これは
免罪符とばかりに掲げたものは一台の端末だった。
彼の目が細められる。比例するように男の口角が釣りあがっていく。
「お前の狙いは
「キーツ」
「ぐぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあああああッッ!?」
男を襲ったのは二発の弾丸だった。手もろとも撃ち抜かれた端末の残骸が、コンクリートの床を滑走する。
免罪符は消えた。
「まだ、死ねないか?」
「化け物があああああああッッ!」
血だらけの男は人間離れした速さで駆け出した。狙いは座した彼の首元。
欠けた刃が迫る。
逡巡もなく、一輪の紅の華が咲いた。
「……」
力なくその場に崩れ落ちた男を座したまま蹴り飛ばし、深々と喉に刺さった腕を引き抜いた。生暖かく、そして僅かな粘性をもった液体が腕を滴り落ちていく。今となっては親しみすら抱いている感覚だった。
『お疲れ様です』
骨を伝って少年の声が伝わる。接続していた無線機によるものだった。
『これで全員です。後始末はやっておきます』
「同族がいる」
『はい、手を回しておきます。支援元の指定などはありますか?』
腕を伝う紅い水を振り払うと、彼は空を再び仰いだ。
満月を捉えるのとほとんど同時、
――『最後の頼みだ』
思考を断ち切るように舌を強く打つ。
「今夜は気分が悪い。あとは任せる」
『わかりました。何かあればいつもの手筈で』
余韻も残さず通信が切れる。彼はかったるそうに立ち上がると、腰をおろしていた物言わぬ人の山と新たに足元に転がった亡骸を鼻で笑った。
お前たちはいつ死んだのか、と口の無い死人に訊くことは酷だろう。
ふと思い出したように屋上の一端に目を向ける。
「あ、あ……」
そこには一人の女性が震え縮こまっていた。
セミロングの藍色髪は暴れまわっており、幼げな顔は恐怖の色に染まりきっていた。スキニー気味のデニムと血汚れた白い無地のTシャツはサイズが不自然に合っておらず、他人に着させられた物だとわかる。首を一周している黒い拘束具が異質さを際立たせていた。
「あ、ああ……ッッ!」
女性が震えながらに構えたのは、一本の果物ナイフだった。
敵うはずがない。もちろんそんなことは彼女もわかっている。
だとしても彼女は刃を彼に向けたのだ。
それは、生きたいという意思。
彼の瞳の鋭さが増し、女性の顔の引き攣りもまた一段と強くなる。
見つめること数秒。
刃物など微塵も気にせず彼は女性に背を向けた。遅れて、出入口の扉から開閉に伴う音が鳴る。蛇が睨んでいては蛙も逃げられない。
『通信要請。情報屋』
休む暇はないらしい。耳の下を叩いて応答命令を機械へと送る。
「要件はなんだ」
『なんだとはなんだい。こっちは頼まれたからやってるっていうのに』
通信越しに深々とした溜息を聞く。
『アンタが日本を留守にしていた間に
たちまち彼の眉間に皺が寄る。
「ババアは他人に自分の素行をとやかく言われて嬉しいのか」
『本当にアンタは礼儀を知らない子だね。大体、アタシがババアならあの子もババアってことになるけど、文句ないね』
途端、辺りに闇が降りる。満月が雲に隠れたのだ。
同調したように、彼の顔から感情が抜け落ちていた。
通信相手にもそれは伝わったらしく、
『……あの子の話は悪かったね。ちょうど今夜が満月だからつい出ちまったよ』
怒りはなかった。なぜならお互いとも同類、過去に囚われた亡霊だからだ。
夜空を見上げ、忌々しい対象へと視線を向けた。もはや溜息すらでなかった。
『あれからもう三年も経つんだね』
「ああ、三年だ」
声音はただただ無機質だった。