第二話 その4
買い物を終えた俺たちはようやく家に到着した。時刻は五時になろうとしているところで、これから流れで夕飯作りが始まるだろうと考えた俺は、普段通りソファで仮眠を取ろうと試みたのだが。
何やらガタガタゴソゴソとキッチンの方から聞こえる物音が少し騒がしい。
クッションを枕に、気休め程度になればと目だけを閉じていると顔に柔らかい感触が襲った。
「こら。制服のまま寝ないの。皺ついちゃうでしょ」
目を開けると、目の前には神崎の顔。そしてその手には枕になっているものと色違いのクッションがあった。リビングに神崎がいる、というのも新鮮だ。ドキドキするっちゃする。少しだけね。
「洗濯担当は俺だから気にする必要ないんだよ。この時間はいつも眠くなるからほっといてくれ」
そう言って再び視界を暗闇に包み込むとまた同じ感触が、同じ場所に襲った。
「……おい」
「暇だから構って」
「暇ってなんだよ。料理スキル見せるんだろうが」
「今そのために美玖ちゃんが頑張ってくれてる」
「……?」
意味ありげにキッチンの方を見やる神崎に疑問を持ち始めていた時だった。
「──あった。琴音さん、ありましたよー!」
キッチンから聞こえてきた美玖の声。神崎はそれに反応した。
「ごめんね、美玖ちゃん。探すの頼んじゃって!」
「いえいえ。私の方が収納場所については詳しいですから。ここに置いておきますね」
「うん、ありがとう!」
上体を起こしソファのひじ掛けの部分を支えにして様子を窺ってみると、キッチンの空いたスペースに紺色の布のようなものが置かれた。……なんだ、あれ?
「ふふ、それじゃあ篠宮の目を一瞬で覚ましてあげるよ。だからちょっと待ってて」
俺の肩をトントンと叩くと神崎は俺の元を離れキッチンへと向かう。
やり取りから考えるに、神崎はあの布を取りに行ったので間違いなさそうだ。これでようやく仮眠がとれる。
「──寝ちゃ駄目だよ、お兄ちゃん!」
ぺちぺちと威力がだいぶ抑えられたビンタが俺の頬を襲った。せめて起こし方統一して。
「いつもは黙認してるだろ。なんで今日は駄目なんだよ」
「ちょっと大事な話があるから」
「急に何。怖いんだけど」
美玖が纏う厳格な雰囲気に思わず上体を起こした。そういえばこっちも美玖に言っとかなきゃいけないことがあるな。
「ていうかお前、制服で買い物に行くなって何度も言ってるだろ。なんかあってからじゃ遅いんだぞ」
「わー、妹思いなお兄ちゃん。でもちょっと心配が過度かなー」
「その様子だと変える気はないのね……」
最近は何かと物騒なのに加え、義務教育の範疇である中学校では制服での外出に厳しい。それをこいつが理解していないことはないと思うのだが、何度注意しても直らないのだ。やっぱり反抗期なのかしら。
「実はね、この恰好で買い物してると近所の人とかスーパーの店員さんに『中学生なのに偉いね〜』って褒めてもらえるんだ〜!」
「……承認欲求をそんなところで満たすな」
こいつ、我が妹ながらほんと良い性格してるな。男子とか手玉に取ってない? 大丈夫?
そして、美玖がそうして自分の株を上げるとそのしわ寄せは兄の俺のところに来るのであった。具体的には「しっかり者の妹に全部お任せな最低兄貴」と近所で名が広まってしまい毎日の通学の度に白い目で見られるのだ。想像しただけで怖い。
こうなりかねないことをしてるとかある種の反抗とも見て取れるな。まあ美玖にそういった思惑はないだろうが。……ないよね?
「それでお兄ちゃん。休み明けテストの結果見せてくれない?」
「え、何のために?」
今までで一度も、俺の成績に興味など持ったことがないというのに。兄の魅力にやっと気づいたのかしら。
「いいから。夕飯抜きにするよ」
「それは反則だ。……ほら」
ポケットにしまっておいた短冊を美玖に手渡した。管理に気を遣っていないため、しわくちゃもいいところである。それよりもナチュラルに脅しをする妹が恐ろしい。成長をこういうところで感じるとか嫌だったんだけど。
「……ほんとに数学二十点だ」
「え、二十点なの?」
「なんで自分の点数なのに初見みたいなリアクションなの……?」
「どうせ悪いのはわかってたから詳しく見てないんだよ」
「じゃあ感想は?」
「ひどいな」
「美玖たち兄妹だったね」
「数学ができない点で?」
「……意見が同じでってことだよ」
ため息をつきながらも、美玖は俺の隣のスペースに上ると女の子座りでこちらに向き合った。だれがやっても可愛い座り方だよなこれ。女子には体育座りなんかよりこっちを普及させた方がいいと思います。あ、でもそれだと絶対領域の文化がなくなるか。……究極の選択だな。
「ねえ、お兄ちゃん」
「どうした?」
「こんな結果を取ってても、数学を勉強する気はないんだよね?」
「……余計なことを吹き込んだのはあいつだな?」
キッチンで何やら機嫌良さそうな様子でいる神崎の方を見やる。美玖が結果を見た時、自前の情報と照らし合わせている感じだったので少し気になっていたのだが、これでだいたい解決した。
「別に勉強するもしないのも結局はお兄ちゃん次第だから美玖からは何も言わないけどさ──」
「やっぱ俺ら兄妹だな!」
「反省の色が見られないのは別の問題だからお母さんに報告するね?」
「……何を言ってるのかな、美玖ちゃん」
一瞬で頂点まで高まったボルテージは急降下して地の底に。トップカーストなのに白けること言うなよ。
「具体的にはお小遣いを減らすように、だね。もしかしたらその分、美玖のが増えるかもしれないし〜」
「それだけはやめて! 俺のお財布事情さっき見ただろ⁉」
「口で言われてもな〜? やっぱり態度で示してもらわないと。反省の姿勢を」
「……今日の夜から勉強します」
「はあ……ラインで送ればお母さんも見てくれるか」
美玖がテーブルのスマホに手を伸ばす。
「実力行使はやめて!」
「じゃあいつ勉強始めるの?」
「……今でしょ」
「よろしい。まあ、死語だけど」
「お前が言わせたんだろうが……!」
既に我関せずとばかりにスマホをいじりだした美玖に悪態をつきながらも、渋々とダイニングに向かう。数学とは馬が合わないが、お金のためともなれば致し方あるまい。
今日のところはとりあえず、授業でやったところの復習でいいだろう。カバンから取り出した数学の教科書とノートをダイニングテーブルに広げた。
「──お、あれだけ言ってたのに結局勉強するんだ。えらいえらい」
席に着くと後ろから声をかけられた。恐らくそいつの顔はニコニコと、まるで俺をあざ笑うかのような表情になっているに違いない。意地でも振り向かないわ。
「……白々しい。お前が美玖にけしかけたんだろ」
時間的には多分俺が一人で本を物色している間。つまり二人が足りない材料を追加で購入している時だ。俺が油断した……というよりは神崎の知恵が働いたの方が正しい。首席の力をそんなとこで発揮すんな。
「まあね」
「勉強のくだりはこの家に来るための口実だったんじゃないのかよ」
「確かにそうだけど、誰もそれだけとは言ってないじゃん。彼氏の成績が不甲斐なさすぎて心配したっていうのも、少なからずあったの」
「……だから、日常会話に叙述トリック組み込むのやめてくれる?」
「自分も部室で似たようなことしてたくせに」
「……勉強の邪魔だからどこかに行ってくれ」
「うわ、塩対応だ〜。さっきから頑なに私のこと見てくれないし」
「お兄ちゃんサイテー」
大仰な言い方のせいで外野からもヤジをもらった。しかしそれも一瞬で収まる。それはそれで不気味さを感じていると、案の定であった。
「──今は特に見て欲しいんだけど」
「……!」
突然の耳元での囁きに、先ほどまで健在であった鋼鉄の意志が砕かれ思わず振り向いてしまう。そこには思っていた──よりも柔らかい笑顔を浮かべた神崎がいた。
「ふふ、どう? 美玖ちゃんとお揃いにしてみたんだ〜」
そしてご機嫌そうに頭にぶら下げたポニーテールを見せつけてきた。そしてフリフリと、それこそ尻尾のように揺らす。いつの間に移動したのか、美玖はキッチンで夕食作りの準備を始めているのだが、比較すると確かにお揃いに見える。まるで──。
「パチモン?」
「却下! はい、別の感想!」
別の別の……。
「……なんか髪が中途半端な長さなのが一番融通が利くよな」
「しみじみとした雰囲気で言う感想がそれなの⁉」
「長いと手入れめんどくさそうだし、短いとそうやってアレンジができないだろ」
「いや、女の子の私がそれをわからないわけないじゃん。そういうんじゃなくてさ……じゃあこの恰好は? 篠宮のお母さんが使ってたやつらしいんだけど」
「ああ……ほんとだ。あれエプロンだったのか。もちろん似合ってるぞ。ていうかモデルのお前に似合わないわけないだろ」
「ああああ! もうかゆい! 嬉しいっちゃ嬉しいけどこう……何とも言えないもどかしさが!」
まるでミュージカルの独白のように一人嘆く神崎の恰好はというと、俺と同様の制服の前面を覆い隠すように紺色のエプロンが装着されている。
控えめに言って「これから制服エプロンの時代始まるんじゃね?」なんて思うほどには絵になっているのだこれが。
個人的に裸エプロンよりも、制服エプロンの方が魅力的だと思う。脱げばいいってわけではないのだ。そこら辺はちゃんと慎みというものを持っていただきたい。
「仕方ないですよ、琴音さん。お兄ちゃんはこれが通常運転です。なんなら天変地異でも起きない限りその性質は変わりませんよ」
「俺は日本の電車か!」
「……うざ。早く勉強すれば?」
俺の的確かつ勢いあるツッコミに、相手にするまでもないと視線をすぐに手元に落とした美玖。君もやっぱり制服エプロンなのね。見慣れてるし、実の妹だから今更何とも思わんけど。
俺よりも母さん(というか両親)と太いパイプで繋がっている美玖に反抗するわけにいかないため、視線を教材に戻した。兄妹の勢力図おかしくない?
しかし嫌いと苦手のダブルパンチである数学がそううまくいくなんてことはなく、自然とペンを持つ手が止まる。
「──仕方ないな〜。そこは……この公式を当てはめて計算してみて」
隣に座った神崎がそれに気づき、数式の書かれた小さな紙を流してきた。え、まだ俺何も言ってないんだけど。ピッチを俯瞰してるの? イニエスタなの?
「…………こうか?」
「うん。合ってるよ。そしてその次の問題は──」
「待て待て。俺を舐めすぎだ。この公式を使えばいいんだろ?」
「いやいや、数学を舐めすぎでしょ。これは出た答えを使って……こう」
「うわ、出たよ応用問題の典型的パターン。だから大問の最後の問題とか問題文すら読みたくないんだよ」
「もう、解けないからって諦めるのは駄目だよ。ほら、次の問題も一緒に解いてあげるから」
優しさ溢れる物言いだが、拒否権はないと示すように次のページを開いたからねこの子。まるでスパルタよ、スパルタ。まだ寄り添ってくれるだけマシなのだろうが。
「料理スキルを見せるんじゃないのか?」
「もちろん。ただ、今は下準備を美玖ちゃんにやってもらってるの。けしかけた本人だから教えるなりして責任はとらないとね」
「それなら最初から妙な企みはするなよ」
「屁理屈言わない。あと、今日の授業の復習のついでに昨日のもやってね」
「畳みかけてきすぎだろ。言っとくがそこまでする気は──」
「昨日の授業で寝てたこと、美玖ちゃんに言っちゃうけど?」
「なぜかやる気が湧いてきました」
「ん。篠宮のそういうところは好きだよ」
今の「そういうところ」は素直とかいう可愛らしげなものではなく、言うことに従順だとかそういう末恐ろしい意味を孕んでいるに違いない。ここにいる女性陣怖い。まともなの俺だけじゃん。
「ちなみに終わるまで夕飯は抜きね」
ほら、すぐ食事を人質に取るもんこの子ら。