第一話 その3
神崎は俺に渡したランチセットから二段弁当と水筒を取り出し、机に置いてからそう言ったものの、俺の方は包みが開かれ「はい」と箸を渡されたところでようやく現実味を帯びてきた。ええ……ほんとにやるのかよもとい、やらせるのかよ。
「お腹空いてるから早くしてよ」
「俺も空いてるんだけど」
「なら尚更だよ。ほら、食べさせないと食べれないよ?」
「……放棄の線は?」
「なし。だって篠宮が提案したことだもん」
「ですよね……」
あくまでも神崎は独り言を少々大きめのボリュームで発していただけ。体裁的には神崎の言ったように俺が提案したことになっているのだ。俺が二の足を踏むことを予測しての独り言とか超卑怯。俺の天使のような優しさを手玉に取りやがって。おかげで俺は育児中のお母様方と同じ状況に立たされてしまっている。……やるしかないか。
とりあえず弁当の蓋を開けると、卵焼きやポテトサラダを始めとする様々なおかずが目に飛び込んできた。腹に何も入っていない状態なので否応なしに食欲がそそられる。
「じゃあ、まずは卵焼きで」
「……はいよ」
渡された箸で卵焼きをつまんで神崎の口元に持っていく。それを言い出しっぺである神崎は何の躊躇もなしに咥え込んだ。自ら申し出たとはいえ、こいつに餌付けされることに対する人間としてのプライドはないのか。
「うん! 今日もよくできてる。あ、この卵焼きね……なんと私の手作りなの!」
「へー」
自然と弁当箱内にたたずむそれに視線が向かう。焼き目は程よくついており、形は崩れていない。素人目で見ても、よくできていることがわかる。
「そんなにじっくり見ちゃって……もしかして食べたいの?」
「いや、別にそういうわけじゃ」
「こういう時くらい素直になればいいじゃん。彼女の手作り料理が食べたいっていうのは、そうおかしくない願望だと思うよ」
「自分の弁当をまず食べたいっていうのも、そうおかしくない願望だよな? むしろ当然だよな?」
神崎は俺の言い分に耳を貸すことなく、いつの間に俺の手から抜き取っていた箸で卵焼きをピックアップ。空中に持ち上げていく。人の話を聞け。
「はい、あーん」
またも少しの躊躇いも見せずに、卵焼きを俺に近づけてきた。余計な文言が気になるが、口に入れて咀嚼するだけだ。人としての尊厳を一瞬なくすより、この状態がずっと続く方が不利益となる。ここは黙って指示に従おう。控えめに、けれど卵焼きが入るくらいの大きさに口を開いた。
しかし卵焼きは俺の口まであと一歩というところで急ターン。再び神崎の栄養となったのであった。
「──なーんて。ふふ、これちょっとやってみたかったんだよね〜」
「……よかったな。願いが叶って」
こういうやつだったことをたった今思い出した。こんな悪戯を平気でしてくるとか、一体どこら辺が天使に見えるのか。どっちかって言えば悪魔だろ悪魔。男の子の純情はもてあそぶものじゃありません!
「──むぐっ⁉」
「ちなみに食べても欲しかったよ?」
ため息をついた俺の口に最後の卵焼きを押し込んだ神崎は、にこりと楽しそうに笑った。悪魔と言っても小悪魔でした。よかったな、願いが叶って。俺の方は口が裂けそうになったから、出来れば手ずから食べたかったけど。……ていうか間接。
「どう?」
「どう……? いや、え、どう?」
自然とその艶めいた唇に目が向く。まさか感想を聞かれるとは思わなかった。この場合における紳士的な回答なんて、ジャパニーズの俺は持ち合わせてない。ヘルプ! グーグル先生ヘルプ! 内心で渦巻く焦りを隠しきれていなかったのか、答え探しに奔走する俺を前に神崎がくすっと笑って見せた。
「味だよ、味。ちゃんと美味しいかなって。それはそうと、なんだと思ったのかな〜?」
「……何でもねえよ」
絶対わかってるよこいつ。しばらく特定の箇所を眺め続けた俺が悪いんだけども。詰められた距離を椅子を引くことで元に戻しつつ、今度こそ質問に答えることにした。
「美味い。個人的な味覚だけど、甘さ控えめだから食べやすいな」
「そりゃそうだよ。いつ篠宮が食べてもいいように、そういう味付けにしてるんだから」
「なんで俺が主体なんだよ……」
「ふふ、料理上手な彼女でよかったね」
「自分で言っちゃうなら差し引きゼロだ」
「マイナス点高くない⁉ 要因と比例してないんだけど!」
「自画自賛するようなやつは陰で嫌われるからな。小中と、何度もそういうやつを見てきた」
「生々しい話はやめてよ⁉」
ボッチという立場上、誰もが俺を気にすることなく目の前でその場にいない自慢話の多いクラスメイトに対しての愚痴を吐いていた。誰が日陰者だ。しかしあれは人間不信になるくらいだった。お互いを嫌っているにもかかわらず、表ではにこにこと振舞い合ってんだぜ? 恐怖通り越して、いつ崩壊するのかのスリル感を勝手に味わってしまうレベル。若干エンジョイすんな。
「私は篠宮の前でしか、そういうのしないから大丈夫だもん」
「俺に嫌われる可能性はないのかよ」
「…………うそ」
俺の言葉に目の前の余裕そうな表情が一瞬にして崩れる。箸も落としそうになったのでその前に回収した。
「いや、冗談だって。俺は嫌いなやつの前で普通に振舞える程、器用なやつじゃない」
「そ、そうだよね。なんならどうでもいい人とも普通に接せてないもんね」
「……一言余計だ」
勢いとはいえ天然物の毒を吐くな。悪意が込められてないから余計たちが悪いわ。
繰り返し神崎の口元に弁当の中身を運んでいくこと二十分。ようやく神崎の食事が終わり弁当箱が机から片付いた。てか一時間あった昼休みがもう半分切ってんだけど。まだ俺の弁当食ってないのに。
「やっとだ……」
弁当を机に広げつつ、謎の達成感に浸る。当たり前のことが当たり前にできるっていうありがたさを人類は胸に刻んでおくべきだと思う。弁当で気づくとかスケールが小せえ。
「食べさせてあげようか?」
「やめとけ。沼に嵌るぞマジで。ていうかお前と違って俺は自分で食べられる」
「いや私も別に自分で食べられるんだけど⁉」
スッと隣の席から覗き込んできた神崎の提案を迷わず拒否する。餌付けは意外と時間がかかることを身をもって味わったがもう一つ。やり続けると優越感に嵌っていくから安易にしない方がいい。
「まあ、そういうことなら私は昼寝するから、篠宮は関係ないね」
「昼休み終わるくらいには起こすから好きにしてろ」
食事後は誰であれ眠くなるものだが、授業で眠らないことを意識しているあたりしっかり優等生だ。俺ならしっかり五時間目に寝るというのに。しっかりとは。
「──じゃあお言葉に甘えて」
そんな、まるで悪戯心に満ちた笑みがくっついていそうな声と共に左肩に重さが加わった。首筋をくすぐったさが襲う。
「……関係ないって言ってませんでした?」
「うん。篠宮が弁当を食べようと食べまいと関係なく、私は篠宮を枕にする。何一つこの状況に不可解な点はないと思うけど?」
「日常会話に叙述トリック組み込むのやめてくれない?」
わかるわけがない。きっとあの殺人事件が日常になってる小学生探偵でも騙されてんぞ。
「それにこのままだと食べにくいんだけど」
左腕の可動域が限られてしまっているため、弁当箱を持つことができない。肩組とかなら食えたんだけどな。神崎はそんなギャルみたいなキャラではないので、起こりうるはずがないが。
「じゃあ食べさせてもらう? 私としてはどっちでもいいけど」
「……わかったよ。もう俺は枕だ」
「それでよろしい」
降参とばかりに自らに自己暗示をかける。しかしそれはあくまでも俺に対してだけ。自分では羽毛のつもりでも、使用者にしてみれば人骨と凝り固まった筋肉でしかないのだ。
「少し硬い」
「ほっとけ。ストレス社会で凝りがほぐれないんだよ。ていうか嫌ならもう一脚あるから椅子でも使え」
「ううん。落ち着くからこれでいいよ」
「めんどくせえクレーマーだな。……これのどこが尽くしてくれそうに見えるんだか」
「何か言った?」
「いいや。独り言だ」
「ふふ、なんか似合ってるね」
「……喧嘩売ってんのか」
この会話を最後に部室には再び静寂が訪れたが、俺の耳元では寝息が聞こえていたためその限りではなかった。
結局弁当は、残して妹に怒られるのも嫌だし、お腹が空いていたこともあり放課後の文芸部室で一人で食べた。あれはあれで『孤独のグルメ』感が出るから好ましいよね。おかげで独り言スキルが高くなる。……使い道ねえ。