一章 大迫祐樹 その1
《六月十四日金曜日》
先生は教科書の一文をそっくりそのまま黒板に書き写して、あまり見ないオレンジ色のチョークで線を引いた後、赤色で注訳を入れていく。
高校に入って一年と少し、流石に緊張感と無縁と言っていい午後の国語の時間は停滞した空気に眠気を連れて来た。
こんな眠気の襲う授業中、中学の頃の僕はよく学校にテロリストが来たならと妄想した。
あの頃の僕は自分が主人公だと信じていた。
運動はそれほど得意ではなかったけど勉強では一位だったし、周囲は僕を天才だと思い、自分自身もそうだと思っていた。
そんな僕の役割は作戦参謀。
「動くな、この学校は我々が占拠した」
突然、教室の前と後ろのドアから入ってくる武装したテロリスト二人。
本物の銃に教室は静まり返る。
「何もしなければ、命だけは助けてやろう」
普段はイキっている宇野も流石に青い顔で、小さく震える。
そんな中、僕はテロリストに見つからないようにクラスメイト全員にスマホでメッセージを送る。
やがて、テロリストの一人が仲間になにか合図をして教室を離れ、その時を待っていた僕は立ち上がる。
「あの」
「座れ、さもないと撃つぞ」
「少し訊きたいことがあるんです」
「こちらにはない」
「どうしてこの学校なんですか?」
「座れと言っている」
テロリストが銃口を僕に向けながら近づいてくる。
「今だ!」
僕の合図で、クラスでも屈指の武闘派の森と杉田が後ろからテロリストへと飛びかかる。
その隙に僕は銃を奪い、テロリストを降伏させる。
さあ、反攻作戦の開始だ。
直ぐに隣のクラスのテロリストが異変を察知してやって来るだろう。
それを迎え撃つための作戦は既に伝えてある…………。
そんな妄想。
今そんな妄想をするなら、僕の役割は教室の隅で震えるモブキャラだ。
作戦参謀なんてとんでもない。
この世界には確実に主人公側の特別な人間がいる。でも、それは僕じゃない。
それじゃ誰かと聞かれれば、直ぐに思い付くのはたった一人。
野球部の彼は一年の時から不動のレギュラーで、スポーツ推薦のチームメイトを差し置いてエースを張っている。今年の春、チームが甲子園に行けたことを彼の功績だと考える人も少なくない。マウンドに立てば球場の空気が変わり、全てのスポットライトが彼に集まっているようにさえ感じる。野球にそれほど詳しくない僕から見ても、明らかに他の選手とは一線を画する存在感とプレーで観衆を魅了する。ニュースでも度々取り上げられ、既にスカウトからいくつも声がかかっている。将来は確実にプロになるだろう。
その上で、彼は頭もいい。度々行われる定期テストや実力テストで彼が一位以外の順位を取っているのを見たことはない。この学校で一位をとり続けるのがどれ程凄まじいことか、僕には想像すらできない。
更に付け加えるように、彼はスタイルは元より顔もいい。モデルにスカウトされたなんて噂も、疑う方が無理なくらいのイケメンで、一挙手一投足がそのまま写真集になりそうな完璧さだ。まあ、実際噂ではなく事実だと確認も取れている。
これで性格が悪ければ僕みたいな凡人でも多少なりとも彼を見下せる可能性があったのに、残念なことに彼は性格までいい。誰に対しても一定の敬意を持ち、それでいて気さくに打ち解け、壁を作らない。
仮に、この学校にテロリストが来るのなら、目的は赤根凛空でみんなを率いてそれを解決するのも間違いなく彼だろう。
この高校に入るまで、僕はそんな人間が実在することを知らなかった。
自分は特別な人間だと信じていた。
県内屈指の進学校に合格した時、それが自分の特別さを証明しているように思えた。
結果はというと真逆で、ここでの僕の成績はちょうど真ん中くらい。
凡庸という言葉がよく似合う辺りに落ち着いた。
僕は特別な人間ではなく、普通の人間だった。そんな事実を否応なく噛み締めさせられた頃に出会ったのが赤根凛空で、彼は持て余すほどの特別さで僕の作った壁をたやすく打ち砕いた。それでも赤根凛空、「アカ」を嫌いになることができないのは、彼が驚くほどいい奴で僕のかけがえのない友達だからだろう。
そう、驚くべきことにこんなに特別なアカは、こんなに平凡な僕の友達だ。
鐘が鳴って長い授業がようやく終わる。
ホームルームが始まるまでの少しの間、ざわつき始める教室に、いつもの二人が僕の机の前へとやって来た。
「午後の国語は流石に眠くなるよな」
そう言いながら、そんな気配を微塵も感じさせない爽やかさの赤根凛空。
「へぇ完璧超人の凛空君でもそんなことあるんだ?」
そんなアカを軽く茶化すように可愛く笑う
どういうわけか、一年の頃から僕とアカ、そして月摘さんはよく一緒に居る。
「そんなに褒めても、なにも出ないぜ」
「否定しないのがアカらしいよ」
僕の言葉にアカはわざとらしく髪をかき上げて決めポーズさえ取る。それがこの上なく様になるから赤根凛空なのだろう。
初めの頃こそ、こんな二人と一緒にいる自分が場違いだと思っていた。
二人と仲良くなった切っ掛けはそれぞれ別だけど、どちらも僕みたいな凡庸な人間と釣り合う人間じゃない。
アカは言うまでもないけど、月摘さんも僕の主観で言ったらクラス一、いや学年一、もしかすると学校一可愛い女子で、二次元からそのまま抜け出して来たのではないかと時々思ったりする程だ。
そんな二人と一緒に居るのが僕みたいな平凡な人間でいいのかと色々思い悩んだこともあったけど今では程良い付属品なのだと納得している。
二人の間を取り持つモブキャラってところ。
「明日公開だよね?」
唐突に月摘さんが僕の机の上に両手をついて身を乗り出した。女子特有の甘い匂いが一緒に動いて僕を包み、軽く色の抜けた柔らかなボブヘアーが目の前で踊る。
「そう言えばそうだったな、サコは観に行くか?」
どういうわけか、と言ったけど一つだけ僕たちを確実に繋ぐものが存在する。
アニメだ。
主語がなくても通じるくらい、僕たちの会話の主題はアニメで占められている。現に今月摘さんが言ったのも劇場版アニメの話で、彼女がそれの公開を楽しみにしていたことを知っている。
「明日は特に予定ないし、行こうかな」
「ホント? じゃあ一緒に行こうよ!」
どちらかと言えばアニメの登場人物寄りの可愛さを持った月摘さんが机に手を置いたまま大きな目で僕を見る。思いがけない距離に、流石にドキッとした。
「いいね、アカも行くよね?」
月摘さんから視線を逸らす為にアカを見る。
こっちもアニメから出てきたのかと思う程のかっこよさなので、僕の視界は実質アニメだ。これが青春モノだとしたら、僕は当て馬にもならないだろう。
「明日は練習試合があるから俺はパスだな」
それほど残念そうでもなくアカは首を振った。
「それじゃ、日曜日にしようか?」
「いや、二人で行って来いよ」
アカの趣味を考えると少し外したタイプの映画だけど、いつもなら日程を調整して三人で行こうと言うところなのに珍しい。
「ホームルーム始めるぞ」
そんなことを考えていると教室に担任が気だるそうな雰囲気で入って来る。
「明日は二人でデートだね」
どこまで本気かわからない笑顔で、月摘さんはようやく僕の机から手を離した。
ホームルームが終わってざわめく教室は週末の開放感であふれている。
立ち上がり、僕もその開放感の中で帰り支度を済ませていると不意に肩を叩かれた。
「詳しいことは後で連絡するね」
僕が振り向くよりも速く、肩を叩いた月摘さんは甘い匂いだけを残し足早に教室を抜ける。あまりの速さに一瞬なにが起こったのかわからず、意識が追い付いた時には月摘さんの姿は教室から消えていた。
「月摘、速かったな」
後ろからの声に振り向くと、今度はちゃんとアカがいた。
「急ぎの用でもあったんじゃない、アカはこれから部活?」
「ああ、サコは図書委員会だろ?」
「うん」
「明日は頑張れよ」
「頑張るって、映画観に行くだけだから」
「デートだろ」
僕が反論する前に、アカは後ろ手を振りながら去って行った。
「デートって言ってもねぇ」
一年近く三人でいるが、月摘さんと二人だけで出掛けるのはそう言えば初めてだ。
「どうしました先輩?」
思いがけず声に出していたようで、隣で静かに本を読んでいた後輩の
基本暇な図書館には彼女と僕以外誰もいない。
「いや、ちょっと明日友達と出掛けることになってね」
「そうですか」
綺麗に切りそろえられた真っ黒な長髪を耳にかけて、八色
僕も八色もあまり話す方ではないので、僕たちが当番の時の図書館はとても静かだ。
僕も開いていた本を読み始めるけれど、内容があんまり入ってこない。
「女性と出掛けるのですか?」
声に顔を上げると、八色が僕の方を見ていた。
髪と揃えたような真っ黒な瞳が真っ直ぐに僕の目と合う。
「え、ああ、どうして?」
「デートとおっしゃっていたので」
吸い込まれそうな八色の目は動くことなく僕を見ている。表情も殆ど変わらないことも相まってまるで日本人形のようだ。
「そうだけど、冗談みたいなものだと思うよ、よく考えたら二人で出掛けるのが初めてだから、多分そういう表現をしたんだと」
「先輩はどう思っているのですか?」
「どうって、別に」
自分では割と平静を保って答えられたと思うけど、実際はデートなんて言葉をかなり意識してしまっている。
「そうですか」
納得したのか八色は再び読書へと戻り、また図書館は静寂に包まれる。
静寂の中で変に動転した気持ちを整理する。
三人で遊んでいる時は意識しないようにしているけれど、本来、月摘さんは僕なんかが友達でいられるような女子じゃない。可愛いし、気遣いができて、成績も彼女の方がいいし、感情豊かで、料理も上手い、その上アニメの話ができる。有り体に言ってしまえば、僕は彼女のことが好きなんだと思う。だけど僕なんかに好かれても彼女は困るだろう。なにせアカなんて魅力の塊が直ぐそこにいるのだから。
だから僕が明日のデートでできることは、アカの代わりにせめて月摘さんを不快にさせないことくらいだ。それがモブである僕の務めだろう。
少し惨めではあるが、そう思うことでなんとか、気持ちを落ち着かせた。
「なぁ八色」
「どうしました先輩?」
「デートの時になにか注意しないといけないこととかあるかな?」
「残念ながらそういう経験がないので、分かり兼ねます」
そういう八色の表情は変わらない。
「そっか」
「済みません」
「いや、こっちこそごめん」
こう言うと失礼かもしれないけど、僕と八色は結構似ていると思う。
本が好きということだけじゃなく、アカや月摘さんと仲良くなっていない頃、この高校に入学したての頃の僕と今の八色の雰囲気は似ている。
どことなく他人に対して壁を作って、自分を守ろうとしているところとか。
アカや月摘さんみたいに壁を壊してくれるような友達が八色にもできるといい。
余計なお世話かもしれないけれど、そう思った。
やがて静かな図書館にやがて下校のチャイムが鳴り響いて、閉館の時間となる。
特に言葉を交わすことなく、二人で手分けして閉館作業を終えて鍵を閉めた。
「お疲れ様でした」
「ああ、お疲れ」
挨拶を交わしていつも通り入り口で八色と別れる。
「先輩」
歩き出した僕を後ろから八色が呼び止めた。
「どうした?」
図書館の外で自分から話しかけるなんて、珍しい行動に振り返る。
「ハンカチは持って行った方がいいと思いますよ」
「ハンカチ?」
「先輩、持ち歩いてないですよね」
「え、ああ」
「それでは」
浅く頭を下げて、八色はそのまま歩き去る。
僕がハンカチを持ち歩いていないのは事実だけど、よくそんなことを覚えている。