次の日も一緒にお昼を作り、エカテリーナとフローラはバスケットを抱えて雑談しながら、アレクセイの執務室へ向かっていた。
廊下のあちこちから、不思議なものを見るような視線が飛んでくる。思えば二人は、この魔法学園の女子の中で最も身分が高い三大公爵令嬢と、最も身分の低い庶民出身の男爵令嬢という、摩訶不思議な取り合わせなのだから。
のみならず、二人とも美少女だから、その点でも注目される。まあ一人は迫力ありすぎてすでに美女って感じなのだが、それだけに男子の注目は熱かったりするのだね。
「……ノヴァ公爵令嬢とは名ばかりの恥知らずか」
そんな声がふと耳に入り込んできて、エカテリーナは思わず顔をしかめた。
誰じゃ今の。
が、すぐそれどころではなくなった。
「やあ」
ひょこっ、と横の教室の、廊下側の窓から、夏空色の頭が現れたんである。
(ぎゃーっ! 皇子が出たー!)
思わずエカテリーナはドン引きする。あやうく後ずさりしかけたほどだ。いつの間にか皇子イコール破滅フラグ、くらいの認識になっていたらしい。
「で、殿下……ご機嫌よろしゅう」
「エカテリーナ・ユールノヴァ嬢、突然すまない。楽にして」
本来、スカートをちょっと上げて小腰を屈める正式なお辞儀をすべきところなのだが、大きなバスケットが邪魔で難しかった。それが解っていたらしく、ミハイルは気さくに言う。髪色だけでなく、笑顔も夏空のように明るくて、眩しいほどだ。
その言葉に甘えて、エカテリーナはただ頭を下げ、フローラもそれを真似た。
しかし皇子、今フルネームで呼んだよね?
「驚かせてすまない。僕もウラジーミルも、アレクセイからエカテリーナという妹がいると聞いていたんだ。入学式でアレクセイに手を振ったのを舞台袖から見て、君がその妹だと解った」
……お兄様、皇子と懇意なんですか。
でも考えてみれば当然か、身分が近くて年齢も近いんだから、そりゃ小さい頃から皇子の遊び相手というか話し相手として召し出されてるよね。
そして皇子、けっこう目ざといな!
しかしウラジーミルって誰。
と思ったら、ミハイルがちらりと廊下の先に目をやった。
その視線をたどると、薄い青紫色の髪をした男子生徒が佇んでいる。唇の端を皮肉っぽい笑みに歪めた、ちょっとぞくっとするような、凄いイケメン。
……になりそうな、高校生。
襟元の級章からして二年の上級生だろうけど、すべすべのほっぺがかわいいね。ビジュアル系バンドみたいな雰囲気がノーメイクであるんだから、凄いことは凄い美形だけど、痛い人にならないといいねー。
長めの前髪からのぞく瞳は、灰色がかった緑。
〝Green-eyed Monster〟
というフレーズがなぜか浮かんだ。シェイクスピア先生すいません。
とりあえず直感でわかる。さっき恥知らずとか言ったの、コイツだ。
「ウラジーミル、エカテリーナ嬢に用があるのか?」
ミハイルが声をかけると、ウラジーミルは「いえ」とだけ言って、踵を返して去った。いいのか皇子にその態度。
少しだけその背を見送り、ミハイルはあらためてエカテリーナに笑いかけた。
「昨日もバスケットを持って通って行ったから、気になっていたんだ。どこへ行くの?」
ん?
「はい……その……」
言葉に詰まったのは、さっきの変な奴が気になったせいでも、思いがけず皇子と会話することになったせいでもない。ミハイルの言葉が、前世の記憶を刺激したためだ。
(これ! ゲームのイベントだ!)
乙女ゲームで何度も通ったルート。ヒロインが自作のお昼を持って歩く姿に皇子が興味を持ち、話しかけてくる。
(なんだから、こっちじゃなくてヒロインに話しかけなきゃ! くそうさっきの変な奴、あんたのせいでゲームの流れがおかしなことに!)
と思った瞬間、エカテリーナはウラジーミルのせいばかりでもないことに気付いた。
身分の異なる二人の人間がいる場合、皇子であるミハイルは、身分が高いほうに話しかけるのがマナーなのだ。その二人との親しさやさまざまな条件で違ってくることはあるが、両方と初対面であるこの場合、彼はフローラに話しかけることは出来ない。
ああああ、自分の馬鹿!
いじめから守るためとはいえ、悪役令嬢がくっついてたらこのイベント、上手くいかなくなっちゃうだろ! すっかり忘れてた!
ええいしゃーない、とエカテリーナは腹をくくった。ここでヒロインの好感度を上げることは重要なのだ。
「兄が、学園の一室をお借りして執務をおこなっておりますの。そこへ、お昼を届けに参ります。……殿下、ご紹介いたしますわ」
エカテリーナは素早くフローラの腕を取った。
「こちらはフローラ・チェルニー男爵令嬢。お優しいお人柄で、お料理に堪能でいらっしゃいますの。兄のお昼に温かくて食べやすいものをと悩んでおりましたら、作り方をお教えくださいましたのよ」
慎ましやかに控えていたフローラは、思いがけず引っ張り出されて目を見張っている。大きな紫の瞳が際立って、これもまた可愛い。
どや、皇子! この子、かわええやろ!
思わずドヤ顔になるエカテリーナであった。
「君がチェルニー嬢か、噂は聞いているよ。優秀だそうだね」
そつなくミハイルは微笑む。
思えば皇子、いい人だなあ。声をかけてきたのはさっきの変な奴を牽制してくれるためみたいだし。この先なんて、正真正銘のロイヤルプリンス、高貴そのものの身分なのに、平民出身のヒロインとハッピーエンドがあり得るんだから。同じ世界に生まれ変わってみると、それがどれだけすごいことか解るよ。
「殿下、よろしければおひとつ召し上がりませんこと?」
「それは嬉しいな」
「フローラ様、殿下に差し上げてくださいまし。フローラ様がお作りになったもののほうがお上手ですもの」
「そんな、ユールノヴァ様もとてもお上手です……」
と言いつつ、フローラはおずおずとバスケットを開けて差し出す。
今日は焼きパン。パン生地にいろいろな具を挟んで焼いたものだ。かまどで焼くふっくらしたパンより、もちもちした食感になる。
バスケットからふわっと美味しそうな匂いが漂って、ミハイルは笑顔になった。
「ありがとう。いただくよ」
ひとつ取って、ぱくりと食べる。
「これは美味しい。チーズが入ってるね、いい焼き加減だ」
「お口に合って何よりです」
フローラがにっこり笑う。ミハイルは少し眩しそうな顔をした。
よし!
「そっちはまた別の味?」
「え?」
ミハイルがエカテリーナのバスケットに視線を移してきたので、少し驚く。この後、普通に食事もするんだろうに……でも食べ盛りの男子高校生の年頃なら、これくらいの食い気は普通なのかも。高校時代の同級生には、放課後お好み焼き屋に寄って家へ帰ったら晩御飯もおかわりまでするとか、毎日のようにやってる子もいた記憶が。
そういえば皇子もお兄様と同じく、乗馬やら剣術やら、甲冑着て戦えるレベルの脳筋な鍛え方をしているはずか。なら、お腹空いて当然だね。
「ベリーのジャムを入れて、甘くしたものがございましてよ」
「食べてみたい」
甘い笑顔で言われて苦笑する。同年代ならイチコロかもしれないが、おねーさん目線じゃ子犬にしか見えないのよ。ま、超絶きれいな子犬だけど。
「どうぞ、これですわ」
「ありがとう」
バスケットを開けると、さっそくひとつ取って食べ、嬉しそうな顔をした。甘党だろうか。
「これも美味しい。僕は好きだ」
「お気に召したなら光栄ですわ」
甘い物が嬉しいなんてお子様だねえ、とお姉さん気分で微笑むエカテリーナであった。
「呼び止めて済まなかった」
「お口汚しでございましたわ。殿下、ごきげんよろしゅう」
フローラと共に一礼し、エカテリーナは歩き出す。
なんとか、イベントクリア! ……だよね?
フローラが、ほうっ……と震える息を吐いた。
「ああ……びっくりしました。まさか私なんかが、皇子様とお話しできるなんて」
胸を押さえて、頰を上気させている姿はとても可愛らしい。
いらない邪魔者(自分)がくっついていたとはいえ、ちゃんと皇子に好感を抱かせることができたはず。たぶん。
そしてこの後、イベントでヒロインに危険が迫ると、皇子が駆け付けてくれたりする。はず。
「気さくなお方でございましたわね」
ああいうところも、お兄様よりモテるというか女子にウケるんだろうな。フローラちゃんも感激してるし、正直自分だって、前世の記憶がなかったらコロッといっちゃったかも、と思うくらいだ。そしてこじらせて悪役令嬢に……ぶるぶる。
まあ、好みにどストライクなのはやっぱりお兄様なんだけどね!
元祖型ツンデレ最高!
それにしても、教室の窓から「憧れの王子様」がひょっこり顔を出して手作りの食べ物をねだるって、すんごいベタな学園ラブコメ少女漫画シチュエーションだよなー。ま、そこがあの乙女ゲームの醍醐味っちゃ醍醐味だったけど。
エカテリーナの生い立ちがえらくハードモードだったから、乙女ゲームの世界と言いつつ、ゲームに出てこない人生とか歴史とかにちょっと圧倒されていた。ここもれっきとしたひとつの世界で、みんな生命を持っていて、はるか昔から続く歴史があって、たぶん地球は丸くて、太陽の周りを回ってて……なんて考えると軽く眩暈がしたりしてた。
なのに、やっぱりゲームの法則みたいなものは強力に存在してるんだなあ。
だから、破滅フラグも皇国滅亡フラグも、すぐそこにあるんだよ!
この世界で悪役令嬢の運命を背負って生きるからには、あらためて全力でフラグを折らねば!
思わず心でこぶしを握るエカテリーナであった。
だってお兄様に迷惑をかけるわけにいかないからね。お兄様の部下の皆さんだって、お兄様が突然平民に降格なんかされたらどんなに困るだろう。
ゲームの断罪の後って、ユールノヴァ公爵領はどんなことになっちゃったのか、想像すると恐ろしいわ。できる上司が突然いなくなる辛さ、社畜はわかりみ激しすぎて泣きそうです。
「ユールノヴァ様はさすがですね、堂々とお話しされていて」
「あら、わたくしも驚きましたことよ」
なんせうっかり後ずさりしそうになったくらいだからね……。
皇子は全然悪くないんだけど、自分を破滅させる(かもしれない)人と対面て心臓に悪いわ。早くこの子とラブモードになってくれたら、安心できると思うけど。……安心していいんだよね?
な、なんにせよ、フローラちゃんとミハイル皇子、お似合いだよ。フラグのことがなくたって、幸せになってくれたらこっちも嬉しいよ。
ベタな学園ラブコメ少女漫画とか言っちゃったけど、こーんな美少女と美少年なら目の保養。今のポジションて、映画みたいな初々しいラブロマンスを特等席で眺められる、ていうか手助けできる、お得感すらある立場だわ。二人ともいい子だもん、お姉さん張り切って応援しちゃうよ。
……あれ、でも、つい昨日、ヒロインと仲良くなる代わりに皇子には近づかない会話しない、とか心に決めたような。
応援するならそうもいかないぞ……。
なんか破滅フラグ対策が、グダグダになりつつあるような……。
だ、だってしょうがないし!
皇子のほうから来ちゃったんだから、シカトしてたら不敬罪とかで逆にヤバいやん!
対策再変更。悪役令嬢はヒロインと皇子を応援します!
「フローラ様は、きっとこれからも殿下とお話しする機会がありますわ。だって、学園で一番愛らしいご令嬢でいらっしゃるのですもの。殿下もさぞ関心を持たれたに違いありませんわよ」
「え、いえ、そんなことは。皇子様はきっと」
フローラは目を丸くして言いかける。が、エカテリーナにさえぎられた。
「ごめんなさいまし、ひとつだけ申し上げますわ。皇子様、とおっしゃると敬称が正しくないなどと言われてしまいますから、殿下と申し上げたほうがよろしゅうございましてよ。細かいことを言って、お気を悪くなさらないでくださいましね」
「そうなんですね、気をつけます。ありがとうございます」
唇を押さえてフローラは赤くなり、エカテリーナに励ますように微笑まれた。
それでフローラはもう何も言えなかったのだが、ひそかに思わずにはいられなかった。
(でも殿下が関心をお持ちなのは、誰がどう考えても、ユールノヴァ様のほうです。おきれいで、お優しくて、殿下と釣り合うほど高貴な身分の方で、以前からお兄様に話を聞いていて……こんなに理由があるのに、本気でわかっていらっしゃらないみたいなのが不思議で仕方ありません)
この世界は乙女ゲームの舞台で、自分は悪役令嬢キャラで、前世はアラサー社畜だったと、エカテリーナだけが知っている。
逆に言えば、他の誰一人として、そんなことは夢にも思うはずがない。
本人以外のすべての人間にとって、エカテリーナ・ユールノヴァは目を奪われるほどの美貌を持つ、皇国の貴族という貴族の中で最も高貴にして富裕な三大公爵家のご令嬢であり、病弱で世間知らずな十五歳の少女である。
フラグ折りと、不慣れな学園生活と、お兄様の健康管理、その他もろもろでいっぱいいっぱいのエカテリーナが、そのギャップに気付く日は来るのだろうか。
その日は当分、来そうにない。