Ⅳ/きけんちかづくな

 翌日の昼休み。

 退屈な授業をやり過ごし、ひと時の自由を満喫すべく生徒たちが席を立つ。

 それは和泉も例外ではない。

 この学校は弁当持参か、購買での購入になる。

 和泉は弁当派……というか、いつもお隣さんに持たされる派だ。高校生ながらバイトをして生活している身の上、昼食代が浮くのは素直にありがたい。

 その弁当の蓋を開けていると、ふとクラスメイトの女子が呼んだ。


「澄江くん。ちょっと来て!」

「え? 俺?」


 席を立って向かうと、廊下で何やら不穏な気配を感じる。


(あ、この感じは……)


 思った通り、その場では少し厄介なことが起こっている。


「……おまえら、何してんだ?」


 クラスメイトのとうが、可愛らしい女子に泣かされていたのだ。

 いや、比喩とかではない。先日、和泉に合コンを持ち掛けた佐藤が、めそめそ泣きながら何かを訴えている。


「い、和泉! おまえの部活の後輩だろ!? なんとかしてくれよ!?」

「ああ、やっぱりそんな感じか……」


 彼の前には、とある下級生の女子生徒がいた。


春日かすが


 下級生でありながら大人びた雰囲気を醸すのは、その端整な顔立ちがあってこそだろう。まあ簡単に言えば、どえらい美人なのである。


「おい、波留。うちのクラスの前で何やってんだ?」

「…………」


 和泉が呼びかけると、波留が振り返った。そして佐藤を、まるで痴漢でも見るかのような軽蔑のまなざしで睨んだ。


「この男が、下品な顔でいのりに近づこうとしてたのでお引き取り願っただけです」


 祈。

 その名前は、波留の後ろにいる女子生徒のことであった。

 フルネームはどうもと祈。同じく一年生で、波留の親友である。穏やかそうな女子であり、こっちもまた凄まじく可愛らしい容姿をしている。

 まだ新入生が入学して二週間足らずであるにもかかわらず、この二人のことは二年の間でも噂になることが多かった。何せ見てくれが抜群に飛び抜けている。

 天崎雨音や白菊白亜の二大恋愛強者メインヒロインがよく取り沙汰されるこの学園だが、それに勝るとも劣らないのではと密かに噂されている。

 そして誰が呼んだか、この二人には早くも妙なあだ名があった。


『天使ちゃんと、悪魔ちゃん』


 簡単な話である。

 天使のように可愛らしい堂本祈と、それを守るために噛み付いてくる悪魔のような春日波留を指す。

 祈はその容姿と話しやすさも相まって、男子生徒から言い寄られることが多い。そういうとき、決まって波留が割って入ってくるのである。そしてけっこう酷い罵倒を浴びせられて撃退される。すぐにその悪名は学園に広まってしまった。この状況も、おそらく合コンの失敗の傷を埋めようとした佐藤が、うかつにも猛犬注意の看板を見過ごして天使ちゃんに話しかけてしまったものと思われる。

 そして何の因果か、その二人と和泉は同じ部活に所属する間柄であった。

 憐れな佐藤が、和泉に縋りついてきた。


「なんとか言ってくれよ、和泉~っ!」

「いや、不用意に声かけたおまえが悪いだろ……」

「だって春の季節なのに一人の部屋が広くて寂しかったんだよ~っ!」

「そんな気軽な気持ちで手を出していい相手じゃないから。早く教室に戻れよ……」


 佐藤を教室に押し込むと、和泉はハアッと大きなため息を漏らした。

 そして今度は部活の後輩たちに声をかける。


「そんで、おまえらはここで何してるんだ? 一年は通らねえだろ」


 すると祈のほうが、周囲を幸福にしてしまいそうなほどの満面のスマイルを見せて返事をする。


「せんぱいに、今日の部活のこと聞きにきたんですけど~」

「あっ。そういえばまだ決めてなかったな。てか、それをわざわざ聞きにきたのか?」


 スマホで聞けばいいだろうに……とは、さすがに空気を読んで口にしなかった。部活の用事とはいえ、自分に会いにきた後輩にそんなことを言うほど野暮ではなかった。


「放課後の予定はどうだ?」

「わたし、今日は予定があって~」

「わかった。それじゃあ、今日は休みにするか」

「ありがとうございます~」


 ただ返事をしているだけなのに、やけに場が華やぐ少女であった。


「そうだ、祈。この前、教えてもらった本だけどさ」

「あっ。せんぱい、読んでくれましたか~?」

「まだ読めてないけど、本屋で見つけたから買って……」


 そんな感じで、いかにも同じ部活の先輩後輩らしい平和な会話を続けようとしたとき……。

 二人の間に、割り込むように立つ者がいた。

 波留である。

 和泉をじっと睨むと、静かな声音で威圧するかのように言う。


「センパイ。必要以上に、祈にデレデレしないでください」

「え? いや、普通に話してただけ……」

「もう用事は済んだはずです。……祈、行くよ」


 さっさと歩いていく波留を、慌てて祈が追いかける。


「ま、待ってよ波留~っ!」


 と、その波留が、ふと振り返った。

 そして侮蔑のまなざしで、舌打ちしながら吐き捨てる。


「──この色欲魔」


 ガーン、と和泉に雷が落ちるかのようなショックが奔った。

 がくりと膝をついて、その場に項垂れる。


「俺はただ、本を買ったって報告しただけなのに……っ!」


 この騒ぎに教室から顔を出した雨音が、妙な慈愛に満ちたまなざしで肩を叩いた。


「和泉っち、なんか大変だね……」

「……っすね」


 他の生徒たちも、かける言葉が見当たらないという様子であった。

 さすが悪魔ちゃん。

 もはや些細な購入報告すら逆鱗に触れる。触れるものみな傷つける有様に、その悪名はさらに高まることであろう。

 ……この時の波留の真意を知るものは、残念ながら誰もいなかった。


 💣💣💣 


 ──数日後の放課後。

 図書室の隣にある準備室である。

 たった六畳しかない空間に、司書が使用する机や、本棚などが並んでいる。そのため、実質的には三畳ほどしか自由にはできない。そこに三つの椅子を並べて、黙々と読書に勤しんでいる三人がいた。

 和泉。波留。祈。

 文芸部。

 いや、正しくは文芸同好会。部員が三名しかおらず、正式な部とは認められていない。そのために活動場所も極めて冷遇されていた。

 部の活動……といっても、当然ながら本を読むこと。あまりにも身もふたもない感じではあるが、実際にそうなのだからしょうがない。

 そもそもこの同好会は、今年、廃部になる予定であった。

 去年、卒業した先代のメンバーと和泉の仲がよく、その人の頼みで人数合わせに在籍していた部である。それが和泉のようなチャラめの男が、あまりに似合わない文芸同好会に在籍している理由であった。

 当然、和泉にとっては先輩たちが卒業してしまえば在籍する意味はない。読書自体は嫌いではないが、和泉は放課後にバイトをしているため、あまり部活動に時間をかけるつもりもなかった。少なくとも「先輩たちが守ってきた伝統を受け継ぐぞ!」みたいな熱血青春劇は予定していなかったのである。だって本読んでダベるだけだし。

 しかし今年、新入生の中でとびきり目立っていた波留と祈が入部してきてしまったのである。

 和泉はスマホで時間を確認した。


(今日はバイトだから、あと三十分で学校出ないとな……)


 同時に、二人の様子を窺ってみた。

 祈は真剣な様子で、ブックカバーのついた文庫を読み耽っている。

 そして波留は……なぜか本を読まずに、ずーっとスマホゲームをしているだけであった。すでに全部員の三分の一が、活動を拒否する状態である。部内崩壊の兆しはすぐそこに迫っていた。


(波留って本読まねえんだよなあ……)


 じゃあ、なぜ文芸同好会に?

 それは当然ながら、親友である祈のボディーガードであろう。その点に関しては、それほど深い疑問を抱いたことはなかった。

 和泉は手元のミステリー小説に再び目を落とした。派手な見た目にはあまりに似合わないチョイスだが、それに関しては趣味だからしょうがないのである。

 残りのページ数から見て、そろそろ佳境という様子である。主人公とヒロインの追及に、とうとう犯人が発覚しようという刹那──。


「犯人は妹ですよ」


 衝撃の言葉が、準備室を駆け巡った。

 和泉はとっさに、自分が読む本に目を落とした。登場人物に『妹』がいる。

 しかもけっこう怪しい立ち位置だ。殺された被害者の妹であり、現在は幸せな家庭を築いている。何より探偵に相談を持ち掛けたのは彼女自身である。しかし被害者の生前から、金銭に関わるトラブルがあったことが仄めかされていた。

 そして発言の主──自身の手元から目を離さずにいる波留を見た。平然とスマホゲームに興じている。


「ええ……っ!?」


 和泉は慌てて文脈を追っていく。そこから怒涛の新事実の発覚と、妹の被害者への異常な執着が見て取れて……。

 そして最後のページを読み終えると、和泉は文庫本をパタンと閉じた。


「犯人、違うじゃねえかあ⌇⌇⌇⌇っ!」


 和泉の雄叫びに、波留が鬱陶しそうに顔を上げた。


「当たり前でしょう。ミステリー小説の犯人をバラすようなルール違反はしませんよ。私はネトゲのチーターみたいな生き物が何より嫌いです」

「犯人じゃないってわかるのもそれはそれで嫌なんだよ! ミステリー読んでるときに、場外から変な疑心暗鬼を植え付けんな!」

「…………」


 波留はフッとほくそ笑んだ。


「部活動の時間に、後輩を放って読書に勤しんでいるから悪いんですよ」

「ここ文芸同好会なんだけど!?」


 必死のツッコミにも、波留は鼻で笑うだけであった。


「……はあ」


 それを見て、和泉は大きなため息をつく。波留の悪戯に振り回されるのはいつものことであった。

 しかし今回は少し考えて──和泉はにやりと口角を上げる。


 そしてその場で、波留のほうへとガガッと椅子を近づけた。


 この準備室は狭い。

 少し近づけば、触れるほどに接近する。正面から近づけば──それはまるで、小柄な波留を抱きしめるかのような体勢になってしまう。


「……っ!?」


 その突然の行動に、さすがの波留が狼狽えた。顔を赤く染めながら、慌てて両腕で顔をかばうようにする。


「な、何をするんですか!? と、とうとう本性を表しましたね!」

「…………」


 そんな波留の様子に、和泉は無感情なまなざしを向ける。

 同時に顔を近づけ──。


「──波留。おまえ、いつも俺のこと目の敵にしてるよな?」


 その言葉に、波留がどきりとした。


「祈に近づくな、とか言うけどよ。もしかして、俺に構ってほしくてそういうことしてるんじゃねえのか?」

「~~~~~~~~~~~~~っ!」


 波留の顔が、さらに真っ赤に染まっていく。

 そんな波留の様子に、和泉がにやりと笑った。そして顎に手を添えると、自身のほうへ唇を向けさせるようについと上に向ける。


「まったく、素直じゃねえな?」

「あ、あ……」


 波留が、思わずぎゅっと目をつむった瞬間──。


「──と、いうことで」

「え……?」


 突然、波留の身体は解放された。

 和泉は椅子を元の位置に戻しながら、両手を広げてヘラヘラと笑う。


「あのな、波留。前から言おうと思ってたんだけど、おまえの男子への態度は褒められたものじゃないぞ。世の中には変なやつも多いんだからな。逆上した上級生から、こうやって力ずくで襲われたらどうする?」

「…………」


 波留が目を丸くして、口元をぴくぴくと引きつらせている。

 対して和泉は、普段、ボロクソにされている相手に仕掛けたドッキリが成功してすごく満足そうであった。


「フハハハハ。まさか、本当に襲われると思ったか? いやあ、波留も普通の女子なんだなあ。ま、これに懲りたら、これからはミステリーのネタバレはやめて……」

「……さい」


 波留の漏らした言葉に、和泉が「ん?」と聞き返した。

 その瞬間──和泉の顔面に、文庫本が投げつけられた!


「セクハラ野郎!! 一度、死んでください!!」

「ぶはあああ……っ!?」


 和泉が椅子ごと転んでしまった隙に。

 完熟トマトのような顔になった波留が肩を怒らせながら、準備室を飛び出していった。


「は、波留~っ! 待ってよ~っ!」


 祈も慌てて荷物をまとめると、和泉にぺこりと頭を下げて追いかけて行った。


 ……一人になった準備室。


 和泉は起き上がると、その文庫本を拾い上げる。

(さ、さすがに茶化しすぎた……)

 てっきり途中で「は? なに気取ってるんですか?」みたいな返しがくると思っていたのだ。それがまんまと引っ掛かってくれたので、大人気なくやりすぎてしまった。

 いくら波留が大人びているとはいえ、やはりまだ入学したて。さすがにクラスメイトたちと同じノリを期待するのは無謀であった。


「明日、詫びにお菓子でも買ってくるか……んん?」


 その投げつけられた文庫本を見返した。


「あれ? これ、俺の本……じゃないよな?」


 さっきまで自分が読んでいたミステリー小説である。

 それがなぜか二冊、手元にあった。この準備室に、この文庫本はない。当然、自分が二冊持ち歩いているということもない。

 となると、片方は波留が投げつけてきたものだが……。


(波留のやつ、もしかして本当に読んでたのか?)


 となると波留、実はミステリー好き?

 ではなぜ、わざわざミステリーの矜持に反するようなことを?

 その答えがわからずに、和泉は唸った。


「う~ん……あいつがわからん……」


 誰もいなくなった文芸同好会。

 波留と出会ってから生まれた謎は、日々、さらに深まるばかりであった。


 💣💣💣 


 ……そんな和泉を置いて、先に学園を後にした波留と祈。

 駅への道すがら、祈が大げさにため息をついてみせた。


「も~。波留もやりすぎだよ。ミステリーのネタバレなんて、絶対にしちゃいけないことじゃん」


 しかし波留は、ツーンとそっぽを向くだけであった。

 そのいかにも頑なな態度に、祈が小悪魔チックな笑みを浮かべる。


「ほんとは、せんぱいが本に夢中で構ってほしかっただけのくせに~」

「……っ!?」


 波留の顔が、再び真っ赤に染まった。

 祈はニマニマしながら追撃する。


「せっかくせんぱいと話を合わせたくて、一週間かけて同じ本を読み切ったのにね~。あれじゃ本末転倒だよ~」

「だ、だってセンパイ、読むの遅すぎ。あれ読み切ったら帰ろうとしてたし」

「せんぱいはバイトあるんだからしょうがないよ~。また次の部活のときに話せばよかったじゃん」

「それじゃあ、別の持ってくる」

「なんでライブ感にこだわるかな~。後でもちゃんと話に乗ってくれるよ~」


 祈は親友の体たらくに、やれやれとため息をついた。


「せっかく運命の再会に恵まれたんだから、もっと素直になればいいのに~」

「…………」


 ──入学前のことである。

 まだ波留たちが中学三年生だった頃。

 二人で街に遊びに出ていたとき、ちょっと厄介な男たちに絡まれてしまった。いつものように波留が強気な態度で断ろうとしたのが、相手の癇に障ったらしい。

 少し恐い目に遭いそうになった際、助けてくれたのが和泉であった。

 毅然とした後ろ姿に、波留の胸は大きく高鳴ったのを覚えている。

 そのときのことを思い出しながら、波留は再び顔を真っ赤にして両手で顔を覆ってしまった。


「だってセンパイ、祈のこと好きだし!」

「なんでそうなるの~!?」

「最初、祈に『可愛い子猫ちゃん』って口説いてた!」

「せんぱい、そんなの誰にでも言ってるじゃん!?」

「私には言ってない!」

「それは波留が喧嘩腰だからだよ~っ!」


 ひどく頑なな親友の様子に、祈はがっくりと肩を落とした。


【春日波留】

 片思い歴『半年未満』。

 そんな波留の置かれたシチュエーションを、ある種のエンタメタイトルになぞらえて表現するとこんな感じだろうか。


『学園の天使ちゃん……の隣にいる悪魔ちゃんが、案外ちょろいことを俺だけが知っている』

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